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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



 『星を追う子ども』で少しレトロな香りのするジュブナイル風ファンタジーへとジャンプした新海誠。そのジャンプが必ずしもすべてうまくいったわけではないが、あれから5年経ち『君の名は。』という新たなジャンプへとつなげるためには重要なステップだったであろうことをこの前のレビュー記事では確認した。その5年間の狭間、2013年に「新緑の季節限定」という前振りで公開された中篇作品が『言の葉の庭』という作品だった。15歳の高校一年生タカオが、27歳の謎の女性ユキノに雨の日の新宿御苑で出会い、惹かれていく。究極的にはそれだけにすぎないというシンプルな筋立てを、しかしながらいままでの新海作品には見られなかったような新鮮なキャラクターで身を結んでいく。これまで新海作品に登場した新宿という場所そのものを中心的な舞台に据えながら、恋の手前のような感情の揺さぶりがあまりにも美しい緑の風景と合わせて描かれていくのだ。

 さてここではタカオではなくユキノの造形から掘り下げてみようと思う。27歳であるユキノは、15歳のタカオにとって「世界の秘密そのものみたいに思える」存在として表現される。「学校、バイト、家事、学校、バイト、家事」の繰り返しであるタカオにとって、仕事(バイトとは異なる)や社会というものとの接点をはっきりと持っているであろう27歳の大人は、ちょうど一回りという歳の差以上に大きく、届かない存在に映る。少し年上の魅力的な女性というモチーフは必ずしも珍しくはなくて、たとえば『雲のむこう、約束の場所』には拓也の所属している研究所の先輩研究員であるマキさんがいるし、『秒速5センチメートル』には花苗の姉や貴樹の社会人時代の元恋人である水野理沙などがいる。今回新しいのは彼女たちのような年齢を生きるキャラクターが主人公の前に登場してくることだろう。

 一つはあえて距離を作ることにある。距離というのは『ほしのこえ』でデビューして以降一貫して新海が取り組んできたテーマであって、物理的な距離であったり心理的な距離であったり、あるいは時間的な距離が男女を隔てていくことで切なさを演出してきた。『雲のむこう』の場合は擬似的な三角関係のような距離もあるし、『秒速』の場合は過去の痛みを引きずる自分自身のリアリティと向き合わねばならないという心の距離が映画の第三章で提示される。『言の葉の庭』の場合はこうした距離の描き方とはかなり違っていて、二人が新宿御苑で会うということ、それが繰り返されることで見かけ上は距離が近づいているようにも見える。靴の採寸をするためにユキノの裸足を計測するシーンがその距離の近さを象徴するハイライトとも言えるわけだが、しかしながら雨が降っている間にしか会えない、という時間の残酷さも現として存在する。『秒速』の第一章では雪が主人公に立ちはだかったわけだが、自然現象を用いて男女の間の距離を演出するという作法ももはやおなじみと言っていい。そして今回の場合、梅雨という季節を前景化して描写することで、おなじみの作法をさらに洗練させていると言えるだろう。

 話を戻そう。その上で二人の間に生まれる距離は覆すことのできない12歳という年齢差だ。これはただの時間の差を意味するのではなく、最初に少し触れたように二人が所属している社会の差の途方もなさ、を表しているように思える。だからこそタカオは、ユキノを 「世界の秘密そのものみたいに思える」と感じるわけだが、歳の差が生み出すその魅力は同時にタカオにとってとうてい超えることのできない距離を意味しているのだ。このアンビバレンツがあるからこそ、終盤の二人のやりとりにつながっていくのだ。ユキノはタカオの好きという気持ちに真っ当から応えることができない。自分自身も自覚しているタカオへの感情をひた隠しながら、「ユキノ先生でしょ」というように、社会的な自分の立場を示すことしかできない。

 「手は届く距離にあるのか」というブログタイトルの問いに移ると、結論からいえばノーだ。二人の間には目に見えない心理的な距離と社会的な距離が厳然と立ちはだかっているからこそ、手は届かない。もちろん触れたり会話することはできるが、本当に欲しい物には手が届かない。では二人はあきらめるしかないのか? この映画が最後に示すのは、それもノーだということだ。タカオは最後の階段のシーンで、初めてユキノに対して思いをぶちまける。ソースを忘れてしまったけれど、一本で撮ったというここのセリフ回しは非常に見事で、入野自由という声優の凄みが伝わるシーンでもある。そうして文字通り、ここで一気に感情をぶちまけることで心理的な距離を社会的な距離を不意になくすことに成功しているのではないか。いや、確かに距離はあって、とりわけ社会的な距離は変わりようがない。けれども、距離の前であきらめてしまうことと、行動することは違う。シンプルではあるが、「行動すること」は『星を追う子ども』でも重要なファクターだったわけで、『言の葉の庭』でもまた行動する主人公が最後に登場するのは筋書きとしては悪くない。

 エピローグでタカオはこうつぶやく。「自分の足で歩けるようになったら、会いに行こう」と。これは社会的な距離が大きく変化したら、と言い換えることもできるはずだ。自分の足で歩く、ということは自立するということであり、自立するということは社会で一人の人間として生きていくことができる、ということだ。ユキノが故郷に帰ることで「学校の先生と生徒」という社会的な関係は消失してしまったが、「27歳の教師と15歳の高校生」という距離は変わらない。だからこれらが大きく変化したときに、特にタカオの側で変化したときに、ようやく二人はまた会えるのだろう。条件が違うので雑な比較になってしまうが、成長しても距離が変わるどころかどんどん深みにはまっていった貴樹とは違い、タカオの場合は自分で距離を克服することができる。それは立ちはだかる距離をどうにかしたい、と願う人たちにとって一種の希望にもなっているように見えるし、地理的な距離と時間的な距離と、さらには記憶の忘却という距離を克服しようとした『君の名は。』の瀧と三葉を思い起こすこともできるのではないかと思う次第だ。


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大きなものにまっすぐ立ち向かっていく ――『君の名は。』(日本、2016年)
新海誠と新宿




小説 言の葉の庭 (角川文庫)
新海 誠
KADOKAWA/メディアファクトリー
2016-02-25



言の葉の庭 Memories of Cinema
新海誠、コミックス・ウェーブ・フィルム
一迅社
2013-06-21




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