官僚答弁とはずばり正論であり、つまり故に反論できない仕組みになっているようです。そんな答えは聞きたくないと思ってもどうにも正論なだけにその答えの前で本音は失速していきます。本音とはおおむねアナザーサイドアンサーのような、あるいは例外のようなポジションです。建前はあらゆる性善説を都合の良いところだけパッチワークのように繋ぎ、ハッピーエンドに軟着陸します。そしてそれは、話し手の技量しだいでは巧みに本音風の表現や事例をちりばめるテクニックで妙に心地よい印象を後に残します。再三再四引き合いに出す「小さな親切運動」の気色悪さと同根の心地よさです。不良少年達を更生させ、友情を手に入れる、茶番劇を聞かされたりします。流した汗の量が精神的な成長と比例する「法則」を聞かされたりします。後でよくよく考えてみると完璧な人間を育成するというほぼ不可能な事を多数の人を相手に行うと言っているんだなと気がつきます。つまり、全てまさしく机上の空論だということです。見てくれも態度も悪い奴に活躍されると学校運営上都合が悪いようです。成果は常に正論の先に無いと論理破綻に陥るからだと感じます。ところが現実はそうではありません。器用な奴はそんな振りいくらだって出来るからです。大人の目をちょろまかす術ぐらい朝飯前の中学生は僕らの時代も居ました。あるいはそんな事は知ってはいても気づかない振りをしている大人が居る事も気づいていました。そこが例え中学校という狭い世界でも600人も生徒が居れば様々な人が当たり前にいるのです。それがまかり通ることを目の当たりにする場所でもあるのでしょう。事の詳細は端折りますが先日息子の通う中学校の校長先生と話してそう感じました。
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