著作権から「文化」を語られてもまったく理解ができないけれど、
「文化」から著作権を語ってもらうと理解できるんだ、ということが良く分かりました。

著作権とは何か―文化と創造のゆくえ



法への当てはめの前に、まず作品(著作物)を理解すること

最近テレビにネットにと多数露出され、飛ぶ鳥を落とす勢いのノリに乗っている弁護士のお一人、福井健策先生。

その福井先生が新刊「著作権の世紀」を出されたと聞いたので、早速買って読もうと思ったら、先生自らtwitterでこちらの本から読むことをお薦めされていたので、素直に従ってみました。

この本の全編を通して感じたこと。それは、ともすると法律家が著作権事件を語るときには裁判所の判断をもとに「この作品はここが模倣と解釈され・・・」と法律からその著作物の特徴を語るケースがほとんどなのに対し、

福井先生は、まず作品(著作物)について先生なりにじっくりと解釈した上で、著作権法に丁寧に当てはめて考えようとされている点です。本来そうあるべきではあるものの、他の先生にはなかなか感じられない特徴なのではと思います。

著作権を専門に数多く扱ってきた弁護士でありながら、経験則で判断するような雑な考え方ではなく、作品(著作物)や作家(著作者)に対し深い造詣と愛情をもってまず理解に努めようとする姿勢を強く感じます。


文化を育む法ならば、文化を否定しないための規定が必要だ

さらに、正直新書ということで気楽な気分で読みはじめていた私が、この本の3章と4章には相当影響を受けてしまう結果に。これは日本版フェアユース規定導入反対派の方は、是非一読すべき本かと。

それも、
「ほーら、だからフェアユースがないと実生活で困るでしょ?」
と安易に“ユーザーとしての窮屈さ”に訴えたり、
「権利者に正当な名誉や報酬が確保されないと、創作のインセンティブが湧かないからだめなんだ」
といたずらに“著作者の権利を声高に叫ぶ”ようなありきたりな主張ではなく、“文化を育むために著作権の厳格な利用制限がいかにそれを妨げる結果につながるか”というアプローチでの問題提起。

その問題提起の中心的題材となっているのが、パロディの問題です。

強烈・辛辣なパロディを作られたせいで、オリジナル作品のイメージが劇的に低下することはあり得ることだ。その場合、結局、売上は壊滅的な打撃を受けるじゃないか。これは、よくある模倣品よりもよほど大きな迷惑になりかねない。
『プリティ・ウーマン』事件の連邦最高裁はこの点について「評価の低下」は著作権が問題にしている「市場での迷惑」とは違う、と述べました。
辛辣なパロディの結果、オリジナル作品の真価を人々がより理解するようになって人気が落ちるのはこれと同じことです。それは、正当な批評活動であって、社会にとってはむしろ有益でしょう。
批評行為を著作権を使って防止しようとするのは、言い換えれば批評活動を行うためにオリジナル作家の許可が必要だというのは、これはおかしい、ということです。

パロディは文化、しかし日本ではその文化であるパロディが文化を育むための法であるはずの著作権法によって行えないという矛盾。これには私も反論の言葉が見つかりません。

昔はあれだけ日本版フェアユース規定導入に抵抗があった私も、この本の前に正直相当揺らぎはじめています。