アルファブロガーが書評済みの本をこのブログでご紹介する意味があるのかというご批判は重々承知の上で、しかしこの本はその評判どおり、それこそ100回読む価値のある本だと思いました。


20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)
著者:古賀 史健
販売元:講談社
(2012-01-26)
販売元:Amazon.co.jp


今発売中の「ビジネス法務」1月号寄稿記事の最後に、法務パーソンへのブログのススメをうざったいほどに書きなぐらせて頂きましたが、今もしあなたが少しでも「来年はブログでも書いてみようかな」と思っていらっしゃるならば、是非この本を先に読まれることをお薦めします。この本の手法に従えば、月5万PVぐらいのブログを作るのは誰にでも可能でしょう。

さてあらためて、人は何のために書くのか。

それでもなお、「書く」というプロセスを通過した人間とそうでない人間とでは、対象についての理解度がまったく違うのだ。
自分はどんな人間なのか。自分はどこにいて、なにを思い、なにを大切にしているのか。その思いを誰に伝えたいのか。書かないことには「ぐるぐる」は晴れない。書くことで答えを探していこう。

これを読んで、「うん、そうそう。自分のために書くのだから、自分の好きなように書きたいことを書けばいいんだ。それで炎上するなら上等だ。」と考えるのは早合点です。最近そういう言説を目にすることが増えたような気がするのですが、それは一部において正しく、一部において間違っていると思います。ブログにせよ論文にせよ本にせよ、クローズドな日記と違うオープンな場で書く以上は、書きたいことを書く上で前提となる、守らなければならないことがひとつあるからです。

日常にあふれる“元ネタ”を編集することによって、あるいは頭のなかの“元ネタ”を編集することによって、文章が完成する。
つまり、文章の入り口には“元ネタの編集”という作業があるのだ。

作文や小論文の授業、また文章術を説く多くの本では、ここで“元ネタ”と呼んでいるもののことを“素材”や”題材”といった言葉で説明する。「作文の題材は日常から探しましょう」とか「文章の素材を集めましょう」などなど、である。
しかし、ぼくの感覚からすると「素材を集める」とか「題材を探す」とか言っている時点で、もう間違っている。こんな抽象的なアドバイスを受けたって、余計に混乱するだけだろう。
なぜか?
素材も題材も、探す必要はないのだ。
問題は「なにを書くか?」ではなく、「なにを書かないか?」なのだ。

書くべきものは、日常のなかにたくさん転がっているし、頭のなかにうんざりするほど溢れ返っている。書くべきものが見当たらないのは、素材が足りないのではない。むしろ“元ネタ”が多すぎるせいで、見えなくなっているのだ。
必要なのは、素材や題材を峻別する「なにを書かないか?」という問いかけである。
書くべき素材や題材を探しまわるのは、もうやめよう。「なにを書かないか?」という視点に立って、すでにある“元ネタ”を編集していくのだ。

あえて書かないという分別。あなたが書く必要がないことを書いてしまうことで発生するノイズは、あなたの良さや本当に伝えたいことまでをも見えなくしてしまう。そこを我慢できるか。捨てられるか。


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ニュースや炎上ネタでPVを稼ぐのと、伝えたいことがそぎ落とされた状態で伝えたい人に伝わるのと、どちらを選択すべきか?このブログを書く私も、世の中にごまんとあるニュースや時事ネタをすべて取り上げて注目を集めたい衝動に駆られることがありますが、単なる関心領域からさらに絞り込んだ自分の仕事・アイデンティティに関わるネタだけに絞り込むことの難しさと日々戦っているところです(その結果ボツとなり、ブログエディタ上で下書き状態となっている投稿が死屍累々…)。読みやすい・分かりやすい文章に仕上げるテクニック論はもちろんのこと、その前提となるネタの取“捨”選択作業、特に「捨てる」ことこそが重要という奥義までをあわせて述べているところにこそ、この本の価値があります。

そしてその作業は同時に、人生の取“捨”選択をも迫る作業となるのでしょう。厳しいですが。