スマホ・ウェブを舞台にしたエンターテインメントビジネスの世界に移って8ヶ月が経ちました。今は主にオンラインゲームビジネスに携わりながら、コンテンツビジネスと知的財産についてのこれまでの考えを改めざるを得ない体験・経験をさせてもらっています。この連休も、これまでの仕事を振り返ったり最近の経験を踏まえた新しい本の執筆をしたりしながら、それについて断続的に考えていました。業界の先輩方からすれば何を今さらということかと思いますが、現段階で思っていることを書いてみます。

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オンラインゲームは現実世界と切り離された価値に課金するビジネス


これまでのウェブビジネスの発展と浸透の歴史を課金モデルの観点から分解すると、以下の3段階にわけられるのではと私は考えています。

  1. 現実世界で必要な物の受発注・配送手続をウェブ上で効率的に提供し、物の価値に手数料をのせて課金する(EC、音楽・映像ファイルDL、オンライン証券)
  2. 現実世界を生きるのに役立つ情報をパッケージ化してウェブ上で提供し、情報パッケージの価値交換に手数料をのせて課金する(オークション、メルマガ、SNS)
  3. ウェブ上でのみ存在する世界を運営し、その世界への参加料を課金する(オンラインゲーム)

まだネットでお金を払うことが当たり前ではなかった時代、そこでビジネスを成立させようと思うと、物の価値にサービスの価値を化体させて(物の値段にその手数料を紛れ込ませて)課金するしかありませんでした。しかしそれはまだウェブに親しみのない一般人にも受け入れやすく、Amazonを中心にあっという間になくてはならない存在に成長し、ウェブサービスは便利なもの・お金を払ってもいい対象となりました。

次に、物の流通ではなく情報の流通・交換に対して課金するウェブサービスが台頭してきます。とはいえ情報一つ一つには値段がつけにくいことから、何らかのパッケージに包んで「仮想的な物」として受け渡しされるケースがほとんどであり、そのパッケージに知的財産権という権利をちらつかせつつサービスの価値を化体させて(パッケージの権利の値段にその手数料を紛れ込ませて)、課金しているというのが正確なところ。パッケージのあり方として一番わかりやすいのがまぐまぐのような有料メルマガメディアですが、ヤフオクなども「◯◯という製品を中古で売りたい・買いたい人がどこにいるか」ということを検索できかつ取引を成立させるところまでをパッケージとして情報提供していると考えれば、この分類に入れてよいと思います。SNSも、いまはFacebookをはじめ広告モデルのビジネスにとどまっていますが、いずれ中に居る人をパッケージして情報商材化していくサービスが増えてくるでしょう。昔ながらの人材紹介・結婚紹介・デーティングサービスがまさにそうであるように。

これらと大きく質を異にするのが、3のオンラインゲームです。特に、1・2との決定的な違いとして、現実世界で役立つ「物」や「情報」とは切り離され、完全にウェブ上でしか価値のないアイテムやその世界を味わうプレイ時間に対してお金が支払われているという点です。そこでしか会わない人たちとの間で、手に入れた仮想アイテムの希少さや仮想モンスターとの戦いという経験を純粋に分かち合って楽しんでいます(もちろん、オンラインゲームの中にはカードのビジュアルの美しさを商材にしているものも少なくなく、そのようなゲームは2の情報流通手数料ビジネスと大差がありませんが)。手数料ビジネスではないので、利益率が比較的高いのも特徴と言えます。なお、誤解のないように付言すれば、オンラインゲームは今あたらしく始まったビジネスではありません。私自身が1997年当時にウルティマオンラインにハマっていたように、昔から存在していたビジネスです。1・2の普及があったからこそ(有償のウェブサービスに慣れたからこそ)、3にお金を支払うという行為が一般ユーザーに認知され抵抗なく浸透しはじめた、ということのなのでしょう。

ゲームが提供する価値は「居場所」


さて、今オンラインゲームが普及しマネタイズに成功しつつあるのは、単にウェブサービスにお金を払うということに抵抗がなくなったから、という理由だけなのでしょうか?

昨年から、この疑問に答えようとする「ソシャゲービジネス本」が何冊も出版されていますが、ゲーム業界の先輩であり高校の先輩でもあるしおにく(@sionic4029)さんから教えて頂いたこの本は、「居場所の提供とそれによる心理的価値」という側面からそれを説く、骨太な経済学の学術書です。


人はなぜ形のないものを買うのか人はなぜ形のないものを買うのか [単行本]
著者:野島 美保
出版:エヌティティ出版
(2008-09-29)

インターネット上でも、人々は居場所を求めている。毎日アクセスしてほっとできる場所、様々な人との交流、わくわくする高揚感、現実とは違う人格を作り上げる楽しさ。居場所とは人と人とが集まるコミュニティに、ユーザーの心理的価値がプラスされた状況を指す。「ここに属している」という帰属意識が満足や癒しにつながっている状況である。
このような心理的価値がビジネスの対象として重要になりつつあることを、Pine&Gilmore(1999)は次のように説明している。
「大半の親にとって、子どもをディズニーワールドに連れて行くのは、そこでのイベントそのもののためではなく、そこで共有する経験をその後何ヶ月後、あるいは何年も家族の会話として残したいためである(Pine&Gilmore 1999. 邦訳P43)」
ディズニーワールドの強さは、思い出という心理的価値の演出にあるのである。

この本を読む気がおきなくても、この本の内容を著者野島先生自身が噛み砕いて説明してくださっている以下の記事は、ウェブサービスに携わる方なら一読の価値があるのではないかと思います。しかも2008年時点でこれを見通されていたのですから、本当に恐れ入ります。

「人はなぜゲーム内アイテムにお金を払うのか」 デジタルジェネレーションが生んだ新しい経済価値について,成蹊大学の野島美保氏にあれこれ聞いてみた(4Gamer.net)

野島氏:
 そうですね。これは大枠の話からになってしまうのですが,私としては,今後のコミュニティについては,「情報」から「活動」にポイントがシフトしていくのではないかと考えているんです。

4Gamer:
 と言いますと?

野島氏:
 これまでのコミュニティ論というと,どちらかといえば,コミュニケーションの対象となる「情報」が注目されていましたよね。Amazonの書評,アットコスメのクチコミ,オークションサイトの網羅性など,コミュニケーションするからには,何かしら有益な情報があり,有益な情報があるからこそ人が集まるのだという理屈です。

4Gamer:
 そうですね。

野島氏:
 しかし,ここ最近出てきたネットワークサービス,例えば,mixiだとかニコニコ動画,Twitterなどを見ていると,決して有益な情報ばかりではないと思うんですよね。むしろ,他愛のないおしゃべり,どうでも良いような情報が,ネット上には溢れている。

4Gamer:
 以前より言われていますし,確かに感じますね。

野島氏:
 ええ。つまり,話の内容(情報)自体に価値があるのではなく,会話という行為,コミュニティでの活動自体に価値があるのではないかと思うんですよね。私の言う「居場所」というのは,そうした問題意識から生まれたキーワードなのです。

4Gamer:
 なるほど。

野島氏:
 そういう視点でオンラインゲームというものを捉えてみると,オンラインゲームにおけるゲームプレイというのは,先ほども話したような「情報」ではなく,「一緒に冒険をした」「一緒に戦った」という,“体験”であり“活動”ですよね。単なる情報交換から,体験や行動を伴ったより奥深い,リアリティのあるものになっている。
 オンラインゲームは,ネットビジネスでは数少ない有料化が成功している例だと思いますが,なぜ有料でも人が遊び続けるのかといえば,そうした経験価値を提供できているためではないでしょうか。’

つまり、ウェブにお金を払うことに慣れたという点以上に、私たちは現実世界と切り離されたウェブという仮想空間での経験や滞在に大きな価値を感じられるようになってきた、ということだと思います。

ゲームとメディアの共通点と違い


「価値ある居場所がコミュニケーションによって作られるのであれば、情報パッケージを交換するブログメディアやSNSとさしたる違いはないではないか」というご意見もあろうかと思います。ごもっともですが、やはり違いはあるのではないかと思います。たとえば、メディア論の古典ともいうべきこの本では、メディアとゲームの共通点と違いがこのように述べられています。


メディア論―人間の拡張の諸相メディア論―人間の拡張の諸相 [単行本]
著者:マーシャル マクルーハン
出版:みすず書房
(1987-07)

ゲームは大衆芸術であり、文化の主だった動きあるいは行為(アクション)にたいする集団的ないし社会的反応(リアクション)である。ゲームは組織と同じく、社会的人間および国家の拡張であって、その点、技術が動物組織の拡張であるのと軌を一にする。ゲームもテクノロジーも、ともに、すべての社会集団につきまとう専門分化的活動から生じるストレスのための「反対刺激剤」ないしは調整法なのである。
ゲームは、それをおこなう人間が一時的に操り人形となることに同意してはじめて作動する機械である。個人主義的な西洋人にとって社会への「適応」は、多分に集合的要請に個人が屈服するという性格を帯びている。われわれのゲームは、この種の適応をわれわれに教えると同時に、それからの解放を与える糸口として役立つ。競技の結果が不確かなことは、ゲームの規則と手続きが機械のように厳しいことへの合理的な言い訳となる。
ゲームは情報メディアと同じように、個人または集団の拡張である。それが集団または個人に及ぼす効果は、それほど拡張されていない集団または個人のその部分の構成をし直すことにある。芸術作品は、受容者に与える効果を離れては、存在も機能もしない。そして芸術は、ゲームとか大衆芸術、さらには伝達の各種メディアと同じように、みずからが前提としている事柄を共同社会に押しつけて、それが新しい関係と姿勢をそなえるように変容させる力をもっている。
芸術はゲームと同様に、いわば経験の翻訳者である。ある状況ですでに感じたり見たりしたものが、思いがけなく新しい素材を介して与えられる。同様に、ゲームは身近な経験を新しい形態に移しかえて、事物の色あせくすんだ側面に思いがけない光沢をよみがえらせる。
ゲームは、われわれ個人ではなく社会の拡張であること、またゲームはコミュニケーションのメディアであること、この二点はいまや明らかになったはずだ。もし最後に「ゲームはマス・メディアか」と問われれば、答えは「イエス」でなければならない。ゲームとは、共同社会生活の何らかの重要なパターンに多くの人びとが同時に参加できるように、いろんな状況を工夫してつくり出したものである。

現代において、特にマスメディアと言われるものの多くは、現実世界の権威や発言力のある人が幅を利かせ、自分の解釈を押し付けるところになってしまっています。SNSによってそれは変わったかといえば、結局のところ有名人アカウントの影響力は大きく、さして変わらないように見える現状があります。

これに対しゲームは、現実世界の権威や発言力に影響されない世界の中で、努力・テクニックに加えて運によってもその世界で幸せになれるチャンスがあるというある種の“公平性”のもとで、幸せや満足を経験できるところに特徴があります。オンラインゲームに対しては、「ガチャで射幸心をあおっている」「形のないものに金をつぎ込ませて儲けている」との批判がいまだにありますが、ユーザーに現実世界では味わえない幸せを“実感”してもらい満足を与える世界を運営する商売と、ギャンブルのように現実世界で役立つお金をちらつかせて射幸心をあおり胴元だけが損をしない商売とは、ちょっと違う気がします。それが理解できない人は、ウェブサービスへの期待や価値観が1や2にとどまっている人なのかもしれません。

「情報経済」から「経験経済」への進化


話がそれました。主題に戻りますと、私はこの業界に入るまで、オンラインゲームビジネスとは、ゲームコンテンツという情報材を著作権を中心とした知的財産権の力を借りてパッケージ化し、ウェブを通じて流通・販売するビジネスであると捉えていました。しかしそれは大きな間違いで、現実とは切り離された別の経験ができるもう一つの世界を運営し、そこに参加する楽しみをユーザーに提供するディズニーワールド型サービスビジネスなのだと、この8ヶ月あまりの経験を経てようやく整理が出来た次第です。

物をウェブを利用して流通させ課金するサービス=物交換経済から、情報材をパッケージして交換することに課金するサービス=情報経済へというウェブサービスの普及と浸透の段階を経て、上記に引用したインタビュー記事で野島先生がまさに語られている「情報経済」から「経験経済」へと進化しようとしている瞬間なのだろうと、仕事を通じて感じているところであり、情報材の交換にとどまらない「デジタルな居場所の経験経済」を実現するビジネスを、どんな法律を使って守り育てていくかという考え方にシフトしています。