米国におけるプライバシー法の第一人者であるダニエル・J・ソロブ教授が2011年に書かれた“Nothing to Hide"が、6年経ってようやく日本語で読めるようになりました。


プライバシーなんていらない!?
ダニエル・J. ソロブ
勁草書房
2017-04-28



2011年当時の私といえばプライバシー研究に燃えていたころで、ソロブの著書も4冊すべて原書で読んでいました。ところが、本書の原書“Nothing to Hide"については、他の3冊とくらべてどうも文体が読みにくく、紹介されている個々の視点や事例は参考にしながらも主題を理解できている自信がなかったため、ブログに紹介記事を書けずじまいだったのを覚えています。原文に忠実に訳してくださっている今回の日本語訳を読んで、案の定、タイトル“Nothing to Hide(やましいことは何もない)"に込められた主題を理解できていなかったことが確認でき、あの時へんな記事をUPしなくてよかったなあ・・・と胸をなでおろしている次第です。

IMG_8505

政府が個人情報を収集・分析するとき、多くの人は「心配しない」と言う。「やましいことは何もない」と彼らは言い放つ。「政府による個人情報の収集・分析を心配すべきなのは誤ったことをしている場合に限られるし、その場合にはそれを秘密にしておく価値はない。」。(P23)
裁判所、立法者その他の者がプライバシーが何を意味するのかを理解することに失敗しているがゆえに、多くの場合、プライバシー問題を対抗利益と適切に衡量することができないでいる。
パーソナルデータの収集・使用により発生する問題を記述するために、多くの論者は、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に依拠したメタファーを用いる。オーウェルは、ビッグ・ブラザーと呼ばれる政府により統治された凄惨な全体主義的社会を描く。ビッグ・ブラザーは、執拗に市民を監視し厳しい規律を要求する。このオーウェルのメタファーは、(禁止や社会的コントロールのような)監視の害悪に焦点を当て、市民に対する政府の監視を記述する傾向にある。しかし、コンピュータのデータベースで収集されるデータの大半は、(略)他人がこの情報を知ったとしても、人々は抑圧されたり、困惑したりしないと常にはいいきれなくとも、多くの場合にはそうであろう。
違うメタファーのほうが、よりよくその問題を捉えている。フランツ・カフカの『審判』である。カフカの小説は、逮捕された男に焦点を当てるが、なぜ捕まったのかの情報は与えられない。彼は必死になって何が彼の逮捕をもたらしたのか、彼にふりかかろうとしているのが何であるかを解明しようと試みる。秘密裁判所の組織が彼に関する事件記録を保有しており、彼を操作していることは分かるが、彼はそれ以上知ることはできない。(略)カフカの作品に描かれたメタファーにより描写される問題は、監視により引き起こされる問題とは異なる種類のものである。それらは、しばしば禁止をもたらさない。それは情報収集ではなく、データの貯蔵、使用、分析といった情報処理の問題である。それは、人々と近代国家の組織との間の力関係に影響する。その問題は、孤立感や無力感を生み出して人々を苛立たせるだけではなく、人々がその生活に関する重大な判断を行う組織との間で有する関係性の種類を変更することにより社会的構造にも影響を与える。
法的・政策的解決は、オーウェルの作品のメタファー(監視)の下のにある問題にあまりにもフォーカスし過ぎており、カフカの作品の問題(情報処理)に適切に対処できてない。実際にはデータベースと監視は異なる問題であるのに、論者たちが、データベースにより引き起こされる問題を監視の問題として把握しようとすることに、難点がある。(P28-29)
やましいことは何もない論のより深刻な問題は、近視眼的に、秘匿の一形態としてプライバシーを見ることにある。(略)プライバシー問題には、オーウェル的なものだけではなく、カフカ的なものも含まれるのである。政府の情報収集の問題【はっしー注:原文ママ。こちら原書P27の応当部分を確認したところ、“Government information-gathering programs”とあり、“problem”(政府の情報収集“の問題”)と“program”(政府の情報収集“プログラム”)を誤訳しているように思われます。】は、人々が隠したい情報が暴かれなかったとしても、問題性を秘めている。『審判』において、問題は行動の抑制ではなく、裁判所の組織がパーソナルデータを使用したり、主人公に対してその手続きを認識し、参加することを否定したりすることにより生み出される、息の詰まるような無力さや脆弱性である。その害悪は官僚主義的なもの――無頓着、誤謬、濫用、失望、透明性及び説明責任の欠如である。(P30)

プライバシーの「監視」の側面だけを捉えてしまうと、テロなどから国家・国民の安全を確保する必要性に鑑みれば政府に対してそれぐらいの個人の不自由は許容すべきだ、などと安易に考えてしまいがち。しかし、監視・収集後に行われる情報処理においてコントロールを失うことの怖さにも思いをはせるべきであると。

プライバシーの利益衡量にあたって重要な前提となるこのポイントを認識した上で初めて、
・憲法修正4条
・傍受法
・保存通信法
・ペンレジスター法
といった憲法・制定法で保障されているかのように見えて実は抜け穴だらけとなっているプライバシー権の具体的な弱点が、グサグサと突き刺さってきます。第19章(P222)には、「政府がテロリストらしき者のプロファイルを作り、それをもとに乗客が空港で特別な審査を受け、飛行機に乗る機会を拒否されたら」という例え話が出てきているのですが、実際に2017年1月にアメリカでこれに近いことが現実に行われたことを考えても、まさにソロブの懸念は的中しており、プライバシーに関する制定法すらない日本においては、まったく他人事とは言えないだろうことが実感できます。

また、翻訳書のお楽しみの一つが、その書籍のエッセンスを要約してもらえる訳者あとがき。訳者のおひとりである大島義則先生は、本書の解説にとどまらず、“Understanding Privacy”(日本語訳『プライバシーの新理論』)の内容をも簡潔にまとめてくださっており、この部分も価値の高いものとなっています。


本書のプライバシー論は、基本的には政府対国民という視点で書かれているものの、これを企業とユーザーに置き換えても、考えさせられる論点は少なくありません。個人情報の取扱いについて、ユーザーからプライバシーポリシーへの同意を得るタイミングは最初の情報取得の場面一度きりでよいのか?情報処理の場面において企業が追加的に同意を取る/承服できないユーザーが取り扱いを拒否できるタイミングをどのように設けるべきか?継続的サービスにおいて、ユーザーが取り扱いを拒否した場合の対応はどうあるべきか(メンバーシップから退出してもらうしかないのか)?そんなことを改めて考えさせられます。