久しぶりに、アンダーラインを引き引き脳に汗をかきながらじっくりと本を読みました。こんなにもストレートにローレンス・レッシグを批判する人がいるんだなあと驚きながら。


知財の正義
ロバート・P. マージェス
勁草書房
2017-12-15



  • パブリックドメインから取り出した素材に個人が「労働」を付加して生まれたものが創作物である。
  • 創作物によって、フロー型の収入しか得られなかったところ、ストック型の収入を得ることが可能になり、これにより個人が生計を立て自律す(選択と行動の自由を得)ることが容易になる。これを制度化したものが知的財産権である。
  • 一方、知的財産権がパブリックドメインから生まれたものである以上、その知的財産権から得られる果実・収益は、社会が知的財産権に貢献した度合いに応じてパブリックドメインに還元すべきであり、還元されふたたびパブリック・ドメイン化したものから、またよりよい創作物を個人が労働によって生み出すサイクルが生まれる。
  • そのサイクルを生むための原初の「労働」にインセンティブを発生させるために、「労働」によって所有が認められる権利が国家による確かな強制力に裏打ちされる必要があり、だからこそ、現在の知的財産権制度の存在は正当化される。

以上について、ロックの占有理論/カントの個人主義/ロールズの財産の分配効果への関心をベースに、論証を試みた本。

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率直に言って、この論証の方法については、著者が根拠としている偉人達のもともとの著作や言説に明るくない私には、チェリーピッキングに過ぎないのでは?という疑問が拭えず(御高名な方なのでそういったことはないと思いますが)、素直に納得できたかと問われれば、Yesとは言い難いところがあります。

それでも、レッシグ以降のアフターインターネット知財の潮流、すなわち、「デジタル時代においては、制約をできるだけ取り除き、共創を促すべき」といったミニマリスト的政策こそ最良とする考えに対して真っ向から否定を試みる著者の凄みに、読んでいて押し負けそうになる場面が少なくありません。

デジタル時代の学者は「インターネットはすべてを変える」と説いてきた。(略)しかし、新たな配信技術によっても変わることがなかった1つの重要な事実がある。それは、創作物を生み出すには、依然として労力と(多くの場合には)個人の意志ないし人格の投影を必要としているという事実である。労力と個性が知的財産の本質なのであるから、創作物に対して財産権を認めることは、インターネット時代においても、依然として理に適っているのである。
この本質的な継続性に気づかない者は、創作物に関するゆるぎない真実を見落としている。技術至上主義の論調で書かれた書籍や記事を少し読めば、この点は明らかになる。ローレンス・レッシグの『CODE VERSION 2.0』、ジェシカ・リットマンの『デジタル著作権』、そして多くの類似の著作は、創作物を伝達する技術のこととなると、インターネットが存在する以前とそれ以後との間には急激な不連続性があると繰り返し強調する。彼らによれば、こうした変化の原動力は、知的財産分野の存在意義を解釈する際の支柱としても機能するという。その基本的な考えは単純である。創作物を広める技術が劇的に変化したのだから、この分野に関する私たちの考えも劇的に変わらなければならないというのである。これこそが、技術至上主義(technocentrism)という表現で私が言わんとしていることである。(P32)


上記引用部にも表れているように、極めて人間的な「(労力・個性・人格の表れとしての)労働」に強く知的財産権の源泉・根拠を求める著者マージェス。この論に立てば、本書では触れられていませんが、たとえばデータベースの著作物性を争う場合に保護されないとされてきたいわゆる「額に汗」についても、保護の対象とすべきものとなってしまいそうです。そうなのでしょうか。

今後私が知的財産について考えるたびに、脳裏をよぎり立ち返ることになる本になろうかと思います。