企業法務マンサバイバル

企業法務を中心とした法律に関する本・トピックのご紹介を通して、サバイバルな時代を生きるすべてのビジネスパーソンに貢献するブログ。

ローレンス・レッシグ

【本】『知財の正義』― アンチ・レッシグ

 
久しぶりに、アンダーラインを引き引き脳に汗をかきながらじっくりと本を読みました。こんなにもストレートにローレンス・レッシグを批判する人がいるんだなあと驚きながら。


知財の正義
ロバート・P. マージェス
勁草書房
2017-12-15



  • パブリックドメインから取り出した素材に個人が「労働」を付加して生まれたものが創作物である。
  • 創作物によって、フロー型の収入しか得られなかったところ、ストック型の収入を得ることが可能になり、これにより個人が生計を立て自律す(選択と行動の自由を得)ることが容易になる。これを制度化したものが知的財産権である。
  • 一方、知的財産権がパブリックドメインから生まれたものである以上、その知的財産権から得られる果実・収益は、社会が知的財産権に貢献した度合いに応じてパブリックドメインに還元すべきであり、還元されふたたびパブリック・ドメイン化したものから、またよりよい創作物を個人が労働によって生み出すサイクルが生まれる。
  • そのサイクルを生むための原初の「労働」にインセンティブを発生させるために、「労働」によって所有が認められる権利が国家による確かな強制力に裏打ちされる必要があり、だからこそ、現在の知的財産権制度の存在は正当化される。

以上について、ロックの占有理論/カントの個人主義/ロールズの財産の分配効果への関心をベースに、論証を試みた本。

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率直に言って、この論証の方法については、著者が根拠としている偉人達のもともとの著作や言説に明るくない私には、チェリーピッキングに過ぎないのでは?という疑問が拭えず(御高名な方なのでそういったことはないと思いますが)、素直に納得できたかと問われれば、Yesとは言い難いところがあります。

それでも、レッシグ以降のアフターインターネット知財の潮流、すなわち、「デジタル時代においては、制約をできるだけ取り除き、共創を促すべき」といったミニマリスト的政策こそ最良とする考えに対して真っ向から否定を試みる著者の凄みに、読んでいて押し負けそうになる場面が少なくありません。

デジタル時代の学者は「インターネットはすべてを変える」と説いてきた。(略)しかし、新たな配信技術によっても変わることがなかった1つの重要な事実がある。それは、創作物を生み出すには、依然として労力と(多くの場合には)個人の意志ないし人格の投影を必要としているという事実である。労力と個性が知的財産の本質なのであるから、創作物に対して財産権を認めることは、インターネット時代においても、依然として理に適っているのである。
この本質的な継続性に気づかない者は、創作物に関するゆるぎない真実を見落としている。技術至上主義の論調で書かれた書籍や記事を少し読めば、この点は明らかになる。ローレンス・レッシグの『CODE VERSION 2.0』、ジェシカ・リットマンの『デジタル著作権』、そして多くの類似の著作は、創作物を伝達する技術のこととなると、インターネットが存在する以前とそれ以後との間には急激な不連続性があると繰り返し強調する。彼らによれば、こうした変化の原動力は、知的財産分野の存在意義を解釈する際の支柱としても機能するという。その基本的な考えは単純である。創作物を広める技術が劇的に変化したのだから、この分野に関する私たちの考えも劇的に変わらなければならないというのである。これこそが、技術至上主義(technocentrism)という表現で私が言わんとしていることである。(P32)


上記引用部にも表れているように、極めて人間的な「(労力・個性・人格の表れとしての)労働」に強く知的財産権の源泉・根拠を求める著者マージェス。この論に立てば、本書では触れられていませんが、たとえばデータベースの著作物性を争う場合に保護されないとされてきたいわゆる「額に汗」についても、保護の対象とすべきものとなってしまいそうです。そうなのでしょうか。

今後私が知的財産について考えるたびに、脳裏をよぎり立ち返ることになる本になろうかと思います。
 

【本】『選択しないという選択』― Amazonダッシュボタンに利用規約の未来が見える

 
全体を通じて翻訳が硬めなところが気になるものの、法や契約・利用規約によってルールを作る法務パーソンであれば、レッシグの『CODE VERSION 2.0』とあわせて読んでおくべき一冊。





利用規約・約款は、たくさんの利用者を取引相手とする消費者取引には欠かせない契約文書です。ほとんどの利用者は、冒頭をちら見する程度で同意ボタンを押しますが、一部の人は、激しい嫌悪の対象としてこれを捉えます。利用規約の多くが企業に一方的に有利に見え、たとえ内容に納得できなくてもそのサービスを利用する以上同意するしかない、という点にあるのでしょう。

その嫌悪レベルが許容ラインを越えると、こんな事件に発展することもあります。

消費者団体、ドコモを提訴 同意なく約款変更「不当」 (日本経済新聞)
利用者の同意なく携帯電話サービスの約款を変更できるのは不当だとして、さいたま市の消費者団体が25日、NTTドコモに約款を変更できる条項の使用差し止めを求める訴訟を東京地裁に起こした。
原告のNPO法人「埼玉消費者被害をなくす会」によると、2015年にそれまで無料だった請求書の発行手数料が原則1通100円となったことをきっかけに提訴した。

約款を変更した目的は何だったのか?NTTドコモの2014年7月14日付報道発表資料を読んでみました。口座振替、クレジットカード、請求書の3つの支払い方法のうち、口座振替またはクレジットカード払いを選択していた利用者に対しては、ドコモに対し書面送付を積極的に要求した場合には50円の追加費用を請求(電子交付なら無料化)し、請求書払いを選択していた利用者については、支払い方法自体を(口座振替またはクレジットカード払いに)変更しない限り、自動的に毎月100円を請求するという方法に変えたようです。これによって、利用者が請求書払いを選択する以上は、サービス料とは別に100円を支払うしか選択の余地がないことなりました。

それまで3つの支払い方法を認めてきたドコモとしては、口座振替またはクレジットカード払いをデフォルト・ルールとし、過去請求書払いを選択してきた利用者をそちらに誘導したかったのかもしれません。有償サービスでありしかも生活インフラである携帯電話の料金請求において、そのような不利益変更が許されるのか?この点が論点となりそうです。


さて、少し話は逸れましたが、このように世の中から嫌悪の対象とされがちなデフォルト・ルールも、一定の範囲で許容する実益があるのではないか。著者サンスティーンは、本書全編を通じてきわめて楽観的に、力強く擁護します。

個別化したデフォルト・ルールは多くの領域で今後の流れとなっていく。多様な人々が情報にもとづいて判断した選択についての大量の情報が利用できるようになるに伴い、個別化が大幅に進むのは避けられないだろう。来たるべき波はすでに動き出している。それが重大なリスクを生むであろうことを誰も疑うべきではない。プライバシー、学習、自己の能力開発の重要性――そして多くの状況で能動的選択を要求することの必要性を私は力説してきた。しかしおおいに楽観視する理由がある。時間は貴重である。おそらくほかの何よりも貴重であり、もっと時間があればもっと自由になり、より多くの能動的選択ができるようになる。場合によっては、選ばないことが最善の選択である。個別化したデフォルト・ルールは、われわれがよりシンプルに、より健康的に、そしてより長く生きられるようにしてくれるだけでなく、もっと自由になれると約束してくれる。(P221)

ビッグデータの力を借りて、デフォルト・ルールを適切に個別化することができる時代になれば、人間はさらなる時間と自由を手に入れることができる。もしそのデフォルトルールが受け入れられないなら、利用者は「選択しないという選択」をすればいい。不適切なサービス・企業は自然淘汰され、適切なデフォルト・ルールだけが残っていくのだ。そうサンスティーンは述べます。


デフォルト・ルールを適切に個別化するための手法として、サンスティーンは、ビッグデータの活用を前提としています。データのプライバシー性もさることながら、その提供するモノやサービスを選択の性質に配慮して、何をどの程度個別化していくのかが重要なポイントです。AmazonやWalmartが取り組む「予測ショッピング」システムを題材にこの考え方を整理した第7章は、利用規約・約款を取り扱う企業法務パーソンにとって参考になることでしょう。

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左上の欄の項目は、選択にかかる判断のコストが小さく、関連する選択はコストではなく利益となる。このような場合、予測ショッピングを選ぶ理由はほとんどない。能動的選択が重要となる。一方、右上の欄は難しい選択がかかわる――しかし多くの人にとって、こうした判断を下すことは利益となる。この場合、予測ショッピングは楽しみを奪うので望まない人が多い。
左下の欄は予測ショッピングに最適である。このような買い物は楽しくないからだ。しかし選択のコストは小さいので、急いで自動化する必要性はない。自動化する価値があるかどうかは、関連する時間を節約することで大きな利益があるかどうかによる(略)。予測ショッピングにとっては右下の欄が最も重要である。この場合、選択することは面白くも楽しくもなく、また選択が難しいので、自動化することに実質的な価値がある。予測ショッピングが正確で簡単になれば、自動購入を支持する有力な論拠となるだろう。予測ショッピングが本当の利益をもたらせるのはこの状況である。(P197-198)

さて、この表の左下の欄をもう一度ご覧ください。選択することが面白くも楽しくもない × 簡単もしくは自動的な“予測ショッピングに最適”なものの例として、歯磨きなどの家庭用品が挙げられています。これを見て、Amazonが最近始めた「Amazonダッシュボタン」のことを思い浮かべた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

Amazon Dash Button
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完全自動化とはせずにシンプルなボタンを押させる形を採用してはいますが、これぞまさに、顧客と商品の特性に合わせたかたちでデフォルト・ルールを個別化し、利用者がほぼ無意識に同意して(させられて)いるボタンそのものと言えるでしょう。「個別化したデフォルト・ルール」なる利用規約・約款の未来は、こんなかたちですでに実現されているのです。

【本】CODE VERSION 2.0 ― リーガル・テクノロジスト

 
会社の表彰イベントがあり、そこでテクノロジストMVPという賞をいただきました。

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本来は法務部門が評価をいただくような賞ではなく、現場でモノを作り出す技術者の方々にこそ与えられるべき賞だと思うのですが、「法律を使って仕事をするのもテクノロジーの一つ」というのがその選評。


まさに、私が会社の中で施策を考える中でその拠り所としているのが、ローレンス・レッシグの『CODE』にあるこの考え方でした。問題提起のきっかけは「法律」だとしても、決して法律だけで会社の内外の事象をとらえたり制約を加えたりするのではなく、多面的にバランスをとりながら、いろいろな解決手段を用いて、目指すゴールに導くという考え方です。


CODE VERSION 2.0
ローレンス・レッシグ
翔泳社
2007-12-20



法、社会、市場、アーキテクチャ。そしてこの点の「規制」はこの四つの制約条件の合計になる。どれか一つでも変えたら、全体の規制が変わる。ある制約条件はほかのものを強化する。あるいはそれが対立することもある。だから「技術変化は(中略)規範の変化をもたらす(かもしれない)」し、その逆もある。でも完全な見方は、これらをまとめて考えるものだ。

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テクノロジーは規範や法律を無意味にしてしまえるし、それを支援することもできる。ある制約条件は、ほかの制約を可能にする。あるいは不可能にしてしまうかもしれない。制約は、機能はちがうけれど、一緒になって機能する。規範はコミュニティが課すレッテル貼りによって制約する。市場はそれが課す値段を通じて制約する。アーキテクチャは物理的な負担によって制約する。そして法律は、それが脅しに使う処罰を通じて制約する。
法、規範、市場、アーキテクチャは相互に働きあって、「ネティズン」が知る環境を作る。コード作者は、イーサン・カッチュが言うように、「建築家・アーキテクト」だ。
でも、こうした様式の間のバランスを「作って維持する」にはどうすればいいだろうか。組み立てを変えるツールとしてはどんなものがあるだろうか。実空間の価値観のブレンドを、どうすればサイバー空間に持ってこられるだろう。そしてそのブレンドを変えたいと思ったらどう変えればいいだろうか。


社内でレッシグ論を語ることなどもちろんないのですが、はからずもその思いを汲んでくださり、ズバリそれを評価していただいたことがとてもうれしいです。

そして、いつもそれに理解を示し協力してくださっている皆様に感謝しています。
 

【本】フリーカルチャーをつくるためのガイドブック ― 著作権はやがて“コミュニケーション受益権”へ

 
この本の紹介の前に、今日はまず自分の体験談からさせていただこうと思います。


フリーカルチャーをつくるためのガイドブック  クリエイティブ・コモンズによる創造の循環フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環
著者:ドミニク・チェン
販売元:フィルムアート社
(2012-05-25)
販売元:Amazon.co.jp




「音楽はパーツ」論


私は高校時代から、今もなお懲りずにバンドをやっています。グラインドというノイズあふれるジャンルの音楽でして、ほぼすべてオリジナル曲でこれまでに自主制作で2枚のアルバムをリリース、今月にも久しぶりに3枚目をリリースして、秋にはライブもやろうかと計画をしているところです。

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こういう話をすると、「なんでプロにならなかったの?」と聞かれます(実際skype英会話でフィリピン人講師に自己紹介するたびに毎日聞かれてます…)。もちろん聞いているほうもそんなに真剣に尋ねていらっしゃるわけではないでしょう(笑)が、当時は高校生〜大学生なりに音楽の道で飯を食うことを考えていたこともありました。しかし、その時にはすでに、これからはCDを作ってそれを売って飯を食うというのは成立しなくなるということを直感していました。

決定的だったのは、大学時代にビートルズのコピー以外禁止という超ストイックなビートルズバンドサークルに入って、160曲以上をひたすらコピーしたこと。ビートルズを聴くだけでなくそこまで演りつくすと、すべてのボップス・ロックが「ビートルズのあの曲のこの部分とこの部分の組み合わせ」という風に聞こえてくる病気にかかります。

そんな体験を通して私が当時思ったこと。

「バンド音楽というものは、楽器・音階・リズムという世界共通の仕組み・ルールで構成されている以上、ある一定の組み合わせのバリエーションでしかない。しかもその美味しいところはビートルズがすべてやり尽くしてしまっている。後に生まれたものはすべてそのコピーかアレンジほどの価値しかない。」

ちょっと暴論かもしれませんが(笑)、いずれにせよ、人のコピーやアレンジみたいに聞こえてしまうような“作品もどき”でお金を取れる時代は早晩終わるな、と確信していました。

そのうち、バンドメンバーがみな社会人になって忙しくなると、バンドは一人でできないので、今度は一人でできる音楽活動、DJに手を出します。DJがやることといえば、右側のターンテーブルと左側のターンテーブルで違う曲をかけてそれをヘッドホンで聞きリズムをあわせながら、ベストなタイミングで外のスピーカーに出力する音を切れ目なくつなぎ、別の曲のように仕立てながら、オーディエンスを楽しませること。

せっかく作曲者が曲のはじまりから終わりまでで一つの完成された作品を作っているのに、そのせっかくの作品を分解・解体し、“パーツ”として使うわけです。作曲者からするとなんたる失礼な行為という感じです。実際にDJやる前は、DJなんて楽器が弾けないやつが人の曲を使って負け惜しみでやっているお遊び、そうとしか思えませんでした。

しかし実際にやってみると、楽器・音階・リズムという“バーツ”から組み立てて音楽を作るのではなく、すでにある曲から“パーツ”を取り出し組み合わせてあたらしい音楽をつくる感覚が新鮮で、しかも楽器を引くよりも難しく、かつ音階やリズムをパクって別の曲のように装うよりもストレートに原曲を(パーツとして)使う点でよっぽど正しいことのように感じたのです。そして、この体験を通してこう思いました。

「自分の作品の一部がこんな風にパーツとして扱われだしたとき、そのパーツに払われるお金はさらに微々たるものになるだろう。そのとき、自分がその作品・パーツの制作者だったら、何に報いを求めるだろうか。それは著作権にもとづく対価請求権とは違うものなのではないか。」

丁度この頃、iPod/iTunesブームが到来し、アルバムというアーティストにとっての作品が解体されて1曲150円のパーツ単位で販売され、著作物のパーツ化・低価格化がさらに進むことは間違いのないものとなっていきます。そのあたりの著作権とDJのようなパーツ的創作活動との間のギャップに関する思いは、クリエイティブ・コモンズの提唱者の一人でもあるローレンス・レッシグが書いた『REMIX』の書評エントリにも書いています。


ゆっくりと、著作権を“コミュニケーション受益権”に変えていく


さて、この本の話題に戻りましょう。


フリーカルチャーをつくるためのガイドブック  クリエイティブ・コモンズによる創造の循環フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環
著者:ドミニク・チェン
販売元:フィルムアート社
(2012-05-25)
販売元:Amazon.co.jp



私がこの本を手にとった1つの理由は、法務パーソンにもかかわらず、クリエイティブ・コモンズの仕組みや、あの「CC:BY-NC」みたいなライセンス表記ルールがなかなか覚えられず、苦手意識があったから。思想としては共感していても、非商用のライセンスを規定する話なので仕事上の緊急性がないこともあり、後回しにしていました。この点については、他のどの本よりも柔らかく噛み砕いて説明してあったので、もし同じような苦手意識をもっている法務パーソンがいらっしゃれば、満足いただけるクオリティだと思います。

※上記記述について @taaaaaaaask さんよりtwでご指摘いただきましたので修正しました。わざわざ有り難うございました。

もう1つの理由が、先ほどのこの問い

「自分の作品の一部がこんな風にパーツとして扱われだしたとき、そのパーツに払われるお金はさらに微々たるものになるだろう。そのとき、自分がその作品・パーツの制作者だったら、何に報いを求めるだろうか。それは著作権にもとづく対価請求権とは違うものなのではないか。」

これに対する答えとして、私は代わりに著作者人格権をもっと強化することなのではないかという自論をぼんやりと持っていたのですが、クリエイティブ・コモンズはこの点をどう考えているのか。つまるところ、クリエイティブ・コモンズは何をゴールと設定しているのか?という点です。

これに対する答えは明快でした。

ある人は、別の作者の作品を自分の創作に組み込んで、まったく別の作品に仕上げることによってリスペクトを示すことができるでしょう。しかしできあがった新しい作品が、取り込んだ著作を素材として活かしきれているかについては、それを鑑賞する人によって印象が異なるでしょう。
これはひとえに他者の創造性を継承して新しい作品を生み出すという行為そのものがコミュニケーションとしてとらえられることを意味しています。そこには濃淡があり、表情があります。それがゆえに失敗もあり、成功もあります。絶対的な尺度で規定することはできず、受け手に応じて相対的に価値が変化するのです。
本や論文を書く際には必ず参考にした文献の情報を記載するように、ミュージシャンがカバーソングやリミックスを作る場合には対象となる曲を明示します。このことによって引用されたり参照されたりした原作者は自分の表現行為がどのような影響を与えたのかを知ることができます。それは原作者自身の趣向性や価値基準に沿うようなポジティブなものである場合もあれば、時としては原作者が好まないネガティブなものであったり、またはまったく予想もしなかった形に作り変えられる場合もあるでしょう。
しかし、コミュニケーションに常に誤解や失敗があるように、創造行為が自分が期待した反応を引き起こさなかったり批判を浴びたとしても、その事実は自分の次の創造行為をよりよくする材料になります。もちろん感情的であったり、ただ否定的なコメントはリスペクトにもとづいたフィードバックだとはいえませんが、ネガティブかつ建設的なフィードバックを返すことも作者の学習をうながすという意味で、有益な行為だと考えることができます。

創作の見返りはリスペクトだけでなく、学習までをも含んだものであるべきである。そのために必要なコミュニケーションを生む仕掛けがクリエイティブ・コモンズ・ライセンスだ、著者はそう述べています。

そしてもう一点、法務パーソンの関心事である「その時に著作権法はどうあるべきか?」について。

著作権の旧さや弊害を指摘し、それを乗り越える対症療法的な活動だけではなく、現代の技術や社会状況と照らし合わせながら、著作権がどうあるべきかという逓減や実験も同様に必要とされるでしょう。
筆者はクリエイティブ・コモンズは長期的な時間を要すると同時に、過渡期な運動であるととらえています。クリエイティブ・コモンズの最終的な目的は社会の中で透明な存在となり、クリエイティブ・コモンズという固有名について語る必要性がなくなったときに完遂されると考えています。

クリエイティブ・コモンズの活動家は、比較的おとなしい人が多いなあと思っていたのですが、著作権制度を性急に壊して新しい制度を無理矢理押し付けるのではなく、クリエイターとユーザーとの間にコミュニケーションを促すことで相互にメリットをもたらし、いずれはクリエイティブ・コモンズの概念すらなくすことがクリエイティブ・コモンズ・ライセンス制度の目指しているところなのだ(※)と聞いて、納得と共感を覚えました。

とはいえ、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの仕組みは法務パーソンからみてもちょっと複雑で、一般への浸透にはまだまだ時間がかかりそうなのも事実。著作権制度だって、明日あさって急になくせるようなものではない。それらを自覚した上で、あせらずにゆっくりと、芸術・創作のクリエイターとユーザーとの間にリスペクトとコミュニケーションを創発し、それによってクリエイターとユーザーの両者がさらに高みに登る世界を目指している、そんなクリエイティブ・コモンズを私も支持していきたいと思いました。
 

※この引用部については、著者のドミニク・チェンさんより、あくまで個人的見解でありCCコミュニティ全体の共通理解ではないとのコメントをツイッターでいただきましたので、念の為ここに追記させていただきます。コメントありがとうございました。
 

【本】REMIX ― 時代遅れの「ふぇあ・ゆーす」から「フェア・レギュレーション」な未来へ

このエントリで伝えたいこと

  • フェア・ユースという考え方ですらもはや時代遅れで、創作の自由の邪魔にしかならないというレッシグ教授の主張に賛同する。
  • 著作権法は、著作物に権利をまず発生させた後で利用を規制するという発想から、一部の著作物にしか利用制限を認めないという発想に転換していくだろうし、そうあるべきだ。

レッシグの出した結論「著作物の利用制限は無くしてしまえ」

決して内容は難しくないにもかかわらず、読み終わるまでに3通勤分も消費したのは、ドッグイアコンバージョンレート(感銘を受けたページの端を折ってブックマークしていく確率)が高すぎたのがその理由。

REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方


この本でレッシグ教授が述べている主張を私なりに解釈すると、
今の著作権法では、過去の著作物をリミックスして新しい創作をする自由がまったくない。リミックスという活動のほとんどが、過去の著作物には何の迷惑もかけないのに。
著作権法による利用制限は“無い状態”をデフォルトとして、一部の特別なものだけ利用制限を認める、そんな法律に変更すべきだ。
ということかと。

日本では、ようやく著作権法への「ふぇあ・ゆーす」規定の導入を目指して議論をはじめて、しかもそれすら頓挫している段階。そうこうしているうちに、ご本家アメリカのレッシグ教授はもうフェア・ユースでは足らないと公言しはじめているわけです。言うなれば、著作物に権利をまず発生させたその後で利用を規制するという“フェアユース(fair use)”な発想から、一部の著作物にしか利用制限を認めない“フェア・レギュレーション(fair regulation)”な発想に転換していくべきだ、と。

この本全編を通して、それ以外のことはほとんど言ってません。しかも、『CODE』で見せたアカデミックで先鋭的な論考を重ねて行くアプローチはほとんど見られず、自らの体験談を中心とした感情的・煽動的な文体。それはまるでITジャーナリストの本を読んでいるかのよう。

だから、レッシグ信奉者でありこの翻訳者である山形浩生さんも相当拍子抜けしたみたいで、
さて、この不肖の訳者は、これまでレッシグの端緒をすべて日本語に訳してきた。そしてこれまで、レッシグの展開する議論について、一切違和感を覚えたことはなかった。
しかし本書は・・・・・・本書の中心的な主張の一つは、ぼくにはピンとこない。
と、訳者でありながら内容に懐疑的な解説をつけているほど(笑)。

しかし私は、レッシグ教授の感情的・煽動的な今回のアプローチは意図的なものだと感じました。論理的なアプローチでは、リミックスの自由が生む創作のすばらしさは伝わらない、自由な創作のすばらしさが伝わらなければ法律を変えようという力は生まれないと考えて、敢えてこんなアプローチに振り切ったのでしょう。おかげ様ですっかり感化されて、昨今の著作権法改正問題、特にフェア・ユース問題に対して今イチ立ち位置を決めかねていた私の頭の中もクリアになりました。

最後に、レッシグ教授自らがこのテーマについて語ったプレゼンテーション映像を贈ります。これを見れば、この本で彼が伝えたいことは十分に伝わると思います。



そして、このプレゼンテーションが受け付けられなかったあなたは、「ふぇあ・ゆーす」な立ち位置な方なのかも知れません。
 

自由を謳歌するためには不完全性も必要だということを知っておくと、ネット上の匿名・実名論争で恥をかかずに済むかもねという話

 
自分の中の匿名・実名論争に引導を渡してくれた本がこれ。

CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー
CODE VERSION 2.0



匿名だの実名だの語り合う前に、読んでおいた方がいい本だと思います。読んでもなお匿名規制を主張する人は、ある意味相当勇気ある人かもしれません。


完全性担保が可能なネットで完全性を追求することの危険

以下『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』巻末の訳者あとがきから。
法律の規制は不完全だ。刑に服する覚悟さえあれば、法律に違反することはできる。その意味で、これまでの著作権やプライバシーの保護は不完全だった。でもその不完全さには価値がある。これまでは人の追跡が不完全にしかできないので匿名性が保証されていた。でも匿名で何かできることには価値がある。著作権には保護しきれない部分がある。やろうと思えば私的なコピーを作って友だちにあげることができるし、引用もできる。でもそういう保護の不完全さには価値がある。そしてこれまでの規制は、意識的にその不完全さを保護している部分と、物理的に保護しようがないから放置されていた部分がある。
でも、とレッシグは論じる。これまでの各種仕組みの不完全さは、憲法上の価値を保証する欠陥でもあった。だから、今後そうした憲法上の価値を保存したいなら、きちんと規制をかけて、その欠陥を敢えてシステムに作りこまなきゃならない!
多くのネットワーク自由論者は、政府規制を弱めることで自由が実現されると思っている。でもそうじゃない。自由は、政府が適切な規制をもうけ、各種のアカウンタビリティのシステムを確立したからこそ実現されているものだ。自由を守るためにこそ、人は適切な政府の規制を要求しなきゃいけない!そしてそのときの「自由」とは具体的にどういうことなのか、国民の間で議論して、腹を決めなきゃいけない!

レッシグ教授は、この本において世の中の「規制」というものが
・Law(法)
・Norm(規範)
・Market(市場)
・Architecture(構造)
の4つの要素によって成り立っていると分析し、その中でも特に法(Law)は、その他の3つの要素に介入して規制対象主体に対して間接的に規制をかけてしまうために、法律の作られ方には気をつけるべきであることを述べています。

そして、サイバー空間においてはArchitecture(構造)を決めるソフトウェアコードが全てをコントロールするのであり、法律がこのソフトウェアコードの決定に及ぼす影響には特に気をつけるべきであることを述べています。

ネット上の脅威がリアルの脅威とほぼ同じかそれ以上の影響力を持ちだした今。

リアルでは、Architecture(構造)を簡単にいじることができないので制御が難しくても、ネットでは、リアルのあなたと同定できるようにLaw(法)を変え=ネット本人確認法を作り、Architecture(構造)を変えて=ネットへの顕名入場認証を強化して、この脅威を制御することも可能でしょう。


ネットだけでなく、リアルでの自由をも放棄する勇気はあるか

それでは、匿名の発言が可能な今のネットの“欠陥”を放置するのか、それとも、匿名はやはり問題が多いから、ネットとリアルの人格を完璧に同定できるよう、Law(法)を変えてサイバー空間のArchitecture(構造)を設計し直させるべきか。

このネット上の匿名・実名論争は何度も繰り返されていますが、あなたがこの議論に終止符を打ちたいのであれば、質問をこう置き換えて自問自答してみることをおすすめします。

明日からあなたが住む国に、リアルでの匿名活動を一切認めないという規制ができるとしたら、あなたはこの国で暮らしていこうと思いますか?

私はもはやネットはリアルそのものだと思っているので、ネット上での匿名規制ができることは憲法上の自由を失うことに等しいと考えます。

あなたが「ネット上の匿名活動は規制すべきである」と声高に主張される際は、「自分自身のリアルにおける匿名活動の自由を捨ててもかまわない」という覚悟と勇気の持ち主であるかどうか、胸に手を当てて考えてからの方がいいでしょう。
 
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