法務パーソンが音楽著作権処理の実務に携わると、業界の現実や慣習が著作権法の建前どおりになってないことがあまりにも多すぎて、イライラします。といっても、法律が現実や慣習にあわせてキレイに改正されるチャンスは、そうそう巡ってくるものではありません。
こんな状況がいつまで続くのやらと重たい気分になるのですが、そのイライラの原因を具体例をもって解きほぐし、法務パーソンの精神の健康を支えてくれるのがこの本。
英米法的「コピーライト」と大陸法的「著作権」との衝突
著者増田聡先生が指摘する、イライラの根本原因は、一言で言えばこれ。
著作権制度上の「楽曲の権利者」はその音楽の「作者」とは必ずしもイコールではない。(P154)
その理由と歴史的背景について、英米法上の“コピーライト”と大陸法の“著作権”制度の成り立ち、およびベルヌ条約の批准を目的として、混乱の最中で制定された日本の著作権法の成立の過程を、詳細に紐解きます。
コピーライトの原理はあくまでも「複製」に関わる経済的利権の配分や調整に発したものであり、情報複製産業の秩序維持と国家によるその統制との間で発展してきた法制度であって、「作者の権利」保護とは異なる理念に発したものである点だ。端的に言えば、コピーライトによって保護されるのは「(芸術)作品」の価値というよりも、作品の「商品」としての価値である。(P103)
「著作権」はコピーライトと異なり、保護の焦点は「作者」にある。作品は作者の人格の表現であり、故に作者が及ぼす作品への支配権は法的に正当化される。その作品から生じる経済的利益を作者が享受するのはもちろん、英米的コピーライトには見られない、作品の改変やその公表、あるいは氏名の表示・非表示などのコントロールを作者に与える「著作者人格権」(仏 droit moral)もまた原理的に当然認められることになる。後述するベルヌ条約に加盟することによって始まった日本の著作権制度も、法制度上この制度に分類される。(P104)
こうして大陸法を前提とした法律を作っておきながら、音楽の現場では、商業的な必要性から英米法的な著作権処理がなされ、法制度の例外として部分部分でこれを受け容れてきたという実態があります。法務パーソンとしてはここにイライラを感じるわけです。なんで法律と現実が綺麗に整合していないんだ!と。
広告音楽における大陸法的「著作権」の放棄事例
ここでいう法律と現実が綺麗に整合していない事例として、本書では、クラブ・ミュージックの現場と、広告と音楽のタイアップ・システムの2点を取り上げています。
個人的には、クラブ・ミュージックに関する指摘についても(弊ブログのこの記事やこの記事などで触れたこととの重なりも多く)頷くことばかりでしたが、弊ブログの読者層に本書を紹介するという意味では、広告音楽タイアップの事例のほうが親しみやすいでしょう。
広告音楽タイアップにおいて音楽提供サイドは、著作権制度が保証する経済的権利(広告における著作物使用料)を放棄し、迂回した形(プロモーション効果による楽曲のヒット)で音楽からの収益を期待する。この広告音楽タイアップの戦略は、法的な理念の上では「作者の権利」であったはずの著作権が、「出版権」「原盤権」という形に変換され、複雑な業界の力関係のなかで経済的なリソースを担保する利権となってやりとりされている現状を顕著に示している。広告音楽を、著作物使用料を期待できるビジネスの場として用いるか、あるいは楽曲のプロモーションの場として著作物使用料を免除するか、といった音楽提供サイドの戦略は、公益法人であるJASRACをもアクターとして巻き込みながら、複雑な業界諸アクター相互の力関係により媒介される。そこでの著作権制度は、うまく利用して経済的価値を生み出させるための装置である一方、JASRACの規定改定に見られるように、業界内の力関係を反映して変容していくものでもある。
先に概観したように、日本の著作権制度は大陸法的な「作者の権利」の保護という原理を機軸に成立しているとされる。がしかし、それはあくまでも法的なレベルでの理念であって、現実の音楽著作権ビジネスの実務においては、「出版権」「原盤権」という音楽産業のシステムにおいて慣習的に成立している利権を、さまざまな使用実態のなかでいかに効率的に活用していくかがポイントになることが見て取れる。(P151-152)
「現実」と「仮想(拡張)現実」の区別の崩壊
著者自身は、こういった現状については「肯定も否定もしない」「ただできることは(略)諸概念のささやかな交通整理を行うことであるにすぎない」と本書冒頭P8で宣言しています。それもあってか、本書はその末尾P206で、名和小太郎著『サイバースペースの著作権』を紹介しながら、こうおとなしめに締めくくられています。
名和小太郎は、今日の著作権制度における基本的原理を揺動させている諸原因を、大きく七つにまとめている(名和1996:174ー176)。
1 個人的制作から集団的制作への変容
2 既存の著作物を素材にする著作物の増加
3 ネットワークにおける著作物(どこの国の法律を適用するか)
4 コピー技術の発達によって、著作物使用の許諾権が行使し難くなる
5 市場をバイパスして流通する著作物の増加
6 伝統的著作物の諸カテゴリーを横断するようなデジタル著作物の増加(マルチメディア作品など)
7 「複製」と「公衆伝達」の区別の崩壊(インターネットなど)
古典的な著作権制度の基盤を危うくしているこれらの社会的変化は、その制度が依拠している原理、十九世紀的な作者概念のゆらぎの原因でもあり、その結果でもある、ということだ。
しかし、ビジネスに携わる者として、著作権制度についてこれだけの不安定な要素が見えている現状を看過できないのではないでしょうか。
そして私から付け加えるならば、2016年の今、ここにさらにもう一つの社会的変化がはじまりつつあるということを指摘しておきたいと思います。それは、
8 「現実」と「仮想(拡張)現実」の区別の崩壊(Virtual Realityなど)
です。
このVine動画内で実演されているのは、VR Chatというコミュニケーションプラットフォームです。VR技術の利用事例としては非常に単純なものですが、このような、ヘッドマウントディスプレイの中に広がる360度の「VRという別世界」の中で、他人のアバターがディスプレイやスピーカーでコンテンツを視聴している姿を私のアバターがヨコから垣間見る、というシチュエーションにおいて、
- 私以外のアバターが、「現実世界」の私の書籍を「VRという別世界」で“私的”に閲覧する
- 私以外のアバターが、「現実世界」の私のバンドの曲を「VRという別世界」で“私的”に演奏する
ブラウザ・アプリ時代のインターネットによって著作権制度が大きく揺らいだとはいえ、英米法・大陸法ともにパラダイムシフトと呼べるほどの変化には至らず、いわば小康状態が続いてきました。ここで次の技術であるVR技術がインターネットのプラットフォームになるかもしれないという未来が見えてきた今、その変化の加速度は一気に高まり、臨界点を迎えようとしているように思います。