「twitterのリアルタイム性の高さと強力な伝播力が、コミュニケーションを変える」
「FacebookやLinkedinなどの普及によって、webの実名化が進み、組織が変わり、個人の働き方も変わる」

この本を読んだら、もうそんな台詞は恥ずかしくて口にできなくなるかも。
![社会は情報化の夢を見る---[新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望 (河出文庫)](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51sgo2CPdpL._SL160_.jpg)
著者:佐藤 俊樹
販売元:河出書房新社
(2010-09-03)
販売元:Amazon.co.jp
「情報化社会」とは何か ― 結局のところ、それは、技術予測の名を借りた未来社会への願望にほかならない。情報化社会論は五十年間、そうした願望を語ってきたのだ。
本当の問題は、それが技術の必然として語られている点にある。そうすることで「社会がこう変わるのだ」と人々を説得しようとする、というか、人々がそう説得されたがっている ― そのなかで最も重要なことが忘れられてしまうのである。
「社会がこうなってほしい」というのであれば、真正面から、自分自身の願望として、そう語ればよい。そちらの方向へ社会が変わることを私たちが望んでいるのなら、私たちはその方向を選択しているのである。ならば、そのことを正面から認め、その選択に責任を取れば良い。(略)自らの選択を技術のせいにすること ― その責任回避の姿勢こそが真の問題なのだ。
技術を使う時、私たちはその技術の使い方を選択している。つまり、それは技術の問題ではなく、社会の側の問題、私達自身の問題なのである。「技術がこうなるから社会がこう変わる」という言い方は、意識的にせよ無意識的にせよ、それを隠蔽してしまう。情報化社会論がどこかあやしげなのも、最終的には、そのためにほかならない。
一言で言えば、情報化社会論は社会のしくみの問題を技術の問題にすりかえているのだ。そこでは、「情報化」は社会のしくみを考えないための呪文になっている。その呪縛をふりほどいて、はじめて私たちは情報技術と社会のかかわりを本当に考えることができるのである。
私自身、特にFacebook・Linkedin等の技術の普及によって、個人が企業に隷属するような働き方が変わるんじゃないかと期待していた一人ですが、著者に言わせれば、それは自分が理想とする社会を実現させるための行動や努力を自分では何もせずに、他人が作った“技術”という幻想に甘えよう・もし社会がそうならなかったら自分のせいではなく「自分の理想を叶えないようなダサい技術を作った彼ら」のせいにしようとしていたのだと、この一節を読んで恥ずかしくなります。日頃アーリーアダプターを自認している方や、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』・津田大介氏の『Twitter社会論』等に感化されてしまった方(実際この2冊は本文中でも引用され批判の対象となっています)などは特に、この本を読んで受けるショックは大きいと思います。
とか言いながら、この週末も新しいSNS“Google+”の登場に、また心踊らされているのですが。