8月14日をもって、特別展「いぬいとみこ ----ながいながいおはなしをみんなに---」は無事に幕を閉じました。
みなさまのご支援・ご協力、ほんとうにありがとうございました。

6月24日、開幕前日の内覧会で、初めて文化館の外壁いっぱいのポスターを見たときの感動が、そのまま少しも変わることなく続いた7週間でした。

そして最終日、夏の夕暮れの蝉しぐれのなか、さいごにまたそのポスターを見あげ、こんどは限りない感謝の気もちでいっぱいになりました。
いぬいとみこ先生、松永ふみ子先生のまいた種が確実に実を結んでいること、そしてその実から新たに生まれた種がふたたびまかれていることを実感した7週間でもありました。

午後6時、終了合図の「蛍の光」が流れるなかで、私が最後に目にしたパネルは、「ムーシカ文庫の世話人」というタイトルの一枚でした。
そこには、このような、きのしたあつこさんの文章と、いぬい先生が編纂した『松永ふみ子さんの思い出』の表紙写真がありました。

【…文庫を運営していくうえで、ある困難が生じたとき、私はこの問題にこれほど神経と時間を消耗しなければならないのなら、文庫の仕事などいっそ「もうやめてしまおう」と思ったのです。ところがそう思ったとき、私の頭に真先にうかんだのは、お話を聴いているときの、そして本を読んでいる時の、子どもたちの「あの顔」「この顔」でした。
 一人一人の子どもの顔が、私に文庫の仕事をやめることを思いとどまらせたのです。「この子たちが来ているかぎり、私はやめたくない。この子たちの世界がどこまで広がって行くのか、できるかぎり見届けたい。そしてもっと多くの子どもに出会いたい」という「欲」が、その時初めて私の中に湧き起ってきました。あらためて私は、文庫の子どもたちの存在が私の中で占めている重さを知らされたのです】

改めてこの一文を読んだとき、涙があふれて止まりませんでした。
いぬい先生がひらいた文庫で、このような世話人の方々の手でまもられてきた私たち。みんな幸せなおとなになった、ということを、いぬい先生には見届けていただけませんでしたが、きのしたさんはじめ多くのムーシカに関わった方々、そしていぬい先生に導かれた児童文学者たちにご覧いただけたこの企画展は、まさに「賜物」だったのだと思います。


“第一章 文学者いぬいとみこ”のコーナーの最後のパネルの最後の一行は、はからずも、いぬい先生自身がモデルと言われる『山んばと空飛ぶ白い馬』の一節でした。


「林のなかを歩いているのは、キリノさんひとりきりでした」


黒姫の山をひとりぼっちで歩くいぬい先生の姿が目に浮かぶようでちょっとせつない気もちになりましたが、それだけに、続く第二章が“ムーシカ文庫 子どもたちのふるさと”と題されているのは嬉しいことでした。私たちみんな、いぬい先生の子どもだったんですね。いつも多くの世話人と千人の子どもたち、そして何より素晴らしい親族に囲まれていたいぬい先生は、けっして「ひとり」ではなかったのだと思います。


このような日が来るとは、と、初めは奇跡のように思えた展覧会でしたが、いぬい先生の書かれた長編が現代児童文学の礎となっていることを知り、先生の終えの住処であった練馬区の文化館でその業績を再評価されたことは、むしろ運命だったのかもしれません。
いぬい先生の文学と、ムーシカ文庫の軌跡に光を当ててくださったのが、もう40代になる最後の文庫生たちよりもずっと若い、32歳の学芸員であったことはさらなる大きな恵みであり、希望です。

ぜひ3年後のねりま文庫連50周年、6年後のいぬい先生没後20年、さらには8年後の
生誕100年までつなげていただきたいと願うばかりです。

ご来場くださったみなさま、お暑い中、お忙しい中、そして遠方より、ほんとうにありがとうございました。

ムーシカ卒業生、そしてロールパン文庫のみんな、ありがとう!
みなさんのおかげで、私も「ひとり」ではありませんでした。

次回は私より若い文庫卒業生の手に委ねたいと思います。みなさま、どうぞよろしく
お願いいたします。


最高に幸せな7週間でした。
私個人の反省点は多々ありましたが、出会った方はみな良い方で、良いことばかりの7週間でした。こんなにやることがたくさんあり、いろんなことがたくさん起こったのに、一度も嫌な思いをすることがなかったことは、奇跡でしょうか、運命でしょうか。

きっと、まかれた種が良い種だったからですね。

これからも、日本の、そして世界中の子どもたちがおはなしの本を読める世界でありますように。


                        感謝をこめて
                        2016年8月15日

                                 小松原宏子


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