kimagure読書メモ

紫陽花を捧げ持ちつつ小さくて冷たい君の頭蓋を思う松野志保)

5
 強烈なメッセージ性でもって何かを訴えてくるタイプの小説ではなくてむしろ淡々として静かな筆致なのだけど、ページを開いた途端に静かな奔流に取り込まれて目を離すことができなくなる。
すごい、こんな小説があっただなんて(直木賞候補作に、本屋大賞、映画化と無論作品自体を認知するには十分なのだけど、それでも読んでみたら驚いた)

 作品の中でも調律の比喩として料理の味について語られていたけど、この作品はその味付けが絶妙。あっさりとした口当たりでほっとするような味わいなのに箸を止められず夢中になってしまう。
その辺がすごい不思議なんですよね。ドキッとするような事件もハラハラとするような展開も少なく感じられるのにページをめくる手が早くなる。

 たぶんその大きな要因となっているのは視点人物である主人公の外村くん。
彼の視点を通じて読む側は物語に触れる訳で、彼の視点がフィルターになっている。上に事件がないって書いたけど実際にはそんなことはなくて懇意にしているお客さんの一人がピアノを弾けなくなってしまったりする。けれどそのフィルターを通されているからか、個人的にはだけど読んでいてそこまで苦しくならなかった。

 彼の視点が素直なんですよね。一見無味無臭で地味な人間に思われてしまいそうだけど、純真で正直。山の中で生まれ育ったからなのか性格ゆえなのか、他者に対して嫌味がない。
職場の中で関わる柳さんや秋野さんなど、傍目では分からない影を通り抜けてきた魅力を優しく開いてくれる優しい眼差し。
その彼が調律師として発見していった毎日のきらめきや喜びを、惜しげもなくこちらにも分け与えてくれる。
板鳥さんが教えてくれた原民喜の文章という、遥かな場所を目指すその眼の透明感よ。


 ピアノが、どこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう。

5
 若かりし頃に足を踏み入れた境界だったり、興味を持っていた時々風俗や友人のことについての私小説風な短編集なのだけど、その視点が実に独特で面白い。
俯瞰という言葉は高い所から見下ろすという意味だけど、この人の場合は水底を歩くような劣等生の立場から人生の悲哀をしみじみと眺めていて、まるで下から見上げるようなあるいは同じ高さから眺めるという形の俯瞰というような印象で。
作品の中ではおくびにも出さないし本人もいたってそのつもりはないのだろうけど、それはある意味他者への優しさから来るもののようにも思う。
同じような境遇へのシンパシーというか。

 エンターテイメントという職業には大成した者よりも、どこか能力が尖っていて失意の中で表舞台から去っていくような。
「サバ折り文ちゃん」の力士・出羽ヶ嶽文治郎、「砂漠に陽は落ちて」のジャズ歌手・二村定一、「月は東に日は西に」の野球選手・小暮力三、「スリー、フォー、ファイブ、テン」のボクサー・ピストン堀口の話とか。

有名人に限らず、他の話も思わずほうっとため息をつきたくなるような悲哀っぷりがとても良い。
充足する術をタップダンスに託すも果たせなかった友人、ドヤ街で知り合った親のない少女、戦時下の学校にいた教師、博打に嵌っていった同級生、バラックで商売をする親子。
朽ちていく他者への視線。

中でも一番好きなのは「門の外の青春」
戦時下の学校で、一緒にガリ版を刷っていたことにより停学処分を受けた友人の話。
同じ境遇に陥ったことで結びつきは更に強まる彼の分析が秀逸。
 私の接近で、彼が背負い込んだ一番大きなものは”笑う”ということではなかったか。”笑う”ことでバランスをとろうとする。それは戦争の最中に微妙な年齢を迎え、さらに父親を失い、すべてに不安定だった彼にとってきわめて魅力的な対処策だったろうが、そのかわりどんなことがあっても”笑い続け”なければならない。
空襲を受けてみんなが逃げ惑う中でも笑う姿勢を保とうとする姿はもはや痛ましいほどで。

この話の中でも一番琴線に触れた文書。一度教師になって釧路に渡った彼と再会した時の描写がこれ。
 釧路が僻地であるかどうかは関係ない。此奴は二度と他人に接近しなかったのだな、と思った。友人は私でこりていたのだろう。

と。「こりる」という表現で色川さんが悪影響すぎたから、というのはたぶん違っていると思っていて。なんというかもっと友人という交流そのものへの忌避感。

 今回読み返していて印象的だったのは、著者が胆嚢炎になって入院した顛末を描いた「たすけておくれ」
七転八倒する様子ではなく、淡々と治療を受けていったり処置を少し見誤った医者へのシンパシーだったりするんだけど、無頼の印象をイメージを振り撒く著者の無常観にも似た訴え。

助けて賜べやおん僧、である。そうして僧の存在も信じていない。助けてくれるものもなく、助かろうと思ってもいない。この世は自然の定理のみ。だから、そのことを思い出してはいけない。注意深く何も考えず、その地点をすり抜けて転げるように生き終わってしまわなければならない。それなのにひとつひとつつまずくような事柄がもちあがる。胆嚢に石ができただけでその泥沼にひきずりこまれる。助けて賜べやおん僧。命乞いではない。このはてしなさをのがれたい。

とか言いつつ、術後は性懲りもなくまた元の医者の方に行くのだけれど。


余談だけれど、個人的にすごく肌に合う文体というものがあって、例えば川上弘美とかがそうなんだけど、色川武大も案外そのカテゴリーに入るのかも、というのが最近の発見。

4
田舎というほどでもないような地方都市での生活に閉塞感を覚える女性主人公たちの連作短編。
作品の構造で面白いのが、章ごとに変わる主人公と共に、時間軸が段々とさかのぼっていくこと。
主人公たちとは少し距離を置いて、椎名一樹というキーパーソンが毎回出てくるのだけれど、必然彼の生きる時間軸も巻き戻っていく。

 まだ夢を見ることが自在な年ごろと、そこからいつしか失われてしまうことが確かにあることが順番に読んでいくと逆行していく時間の中で描き出されて。
だって序盤で、久しぶりに会うのも少し気詰まりだから素敵に思ってた男にも声をかけてみようとする二人とか、無為に年を重ねていく焦燥感から婚活を始める二人とかが、最後の章ではまだしたことのないセックスをいつ頃までにしようとか相談する女子高生になるんですよ。無論人物は違うけれど。
「チンコ使わないセックスとかないの?」みたいな馬鹿らしい会話までする弾けるような感性が、もう選択肢も新しい人を探す気力もないからこの人と結婚するんだろうなという諦念にすらいつしか変わって。

 そして随所に登場する椎名君。格好よくていつだってグループの中心にいて周りを盛り上げられて運動神経が良くて、楽しい雰囲気を作り出せるスペシャルな男の子。そんな高校生。
タイトルの『ここは退屈迎えに来て』とはほとんどの物語の中で彼に向けられた願望で、いわば彼の存在は彼女たちの夢を引き受ける舞台装置なんですよね。
でも、素敵な高校生だった彼すらも流れる時間の中で朽ちていって、田舎にいる凡庸な大人になっていってしまう。
作中で唯一彼に何の夢も託していない妹の朝子が椎名をどんな目で見ているかというと、「彼は最初にありあまる輝きを与えられて、ゆっくりとそれを失くしていってる」と。
彼女だけが新しい場所に分け入っていって、強気で足を踏み出していっているようにも思う。


 流れていく時間と、それに押し流されるようにして失われていくものの存在がひたすら辛い。
椎名君が素敵な男の子のままでいられる場所がどこかというと、中学校の同級生が見る夢の中だという。
「時よ止まれ、お前は美しい」ってね。


 映画の方も見てきました。
原作で時間がさかのぼっていくような物語をどうやって映像化するのかなーって思っていたら、時間軸を行きつ戻りつするような構成で、椎名君の高校時代の姿も描写されていくせいでなんというか、こちらの方がキラキラした若さが弾けるような学生時代とそれに郷愁を覚える現在という対比が効いている感じ。
桜庭一樹の『ばらばら死体の夜』で、ノスタルジアの語源はギリシャ語の「ノストス」(帰郷)と「アルゴス」(苦しい)を合わせたものらしいって読んだけど。

 ちょっと他の主人公たちと比べて立ち位置が異なる新保君がどうなるかも気にしてたけど、思いがけず登場する場面が多い役柄で嬉しかった。「地方都市のタラ・リピンスキー」の。

 それでね、主題歌をフジファブリックが歌うことは知っていたんだけれど、これも思いがけないサプライズが。
どうでもいい男の子といつものように寝た帰り道、振り絞るようにやがて慟哭するように口ずさむこのメロディーは。。。
フジファブリック「茜色の夕日」じゃないか!!!
物語の最終盤でも登場人物たちが、ささやくように零すように呻くように泣きわめくように歌うこの曲。
え、え、エモすぎるっ!!

まさか橋本愛が歌う茜色の夕日を聞くとは思わなかった。個人的にはこれだけでも観に行って良かったと思える素晴らしい演出。
その橋本愛だけど、白い端正な顔立ちというかなんか美しすぎて、東京で何者かになることが叶わないまま地元に戻ってきたっていうイメージはあんまりしないなあと。

4
あとがきに曰く
「ごく基本的な恋愛小説を書こうと思いました」

いやいやいや、よく言うよ(笑)
同性愛者の夫睦月と、アルコール中毒で情緒不安定な妻の笑子の恋愛感情のない結婚生活。
そこに夫の愛人である紺が交わる関係性。

お互いが欲して始まった生活ではないけれど、充分とも言える幸福がそこにはあって、けれども両親をはじめとした世間がそのままでいさせてはくれない息苦しさ。

「でも、どこかで現実と折りあいをつけなくちゃいけないんでしょう?」

「時間は流れていくし、人も流れていく。変わらずにはいられないんだよ」
「そんな風に相手を追いつめるんなら、睦月は笑子ちゃんと結婚なんかするべきじゃなかったんだよ」


海外では同性同士の結婚が認められていたりして、そういう理解が進めばいいなと思うけど、そうなったらなったで世間体を気にしたお見合いをすることもなくなって睦月と笑子が出会うこともなかったんだと思えば少し複雑な気持ち。

この歪な生活が二人にとっての最適解なのかと言ったら分からないけど、お互いが愛情を持っていて生活が続いていくことを望んでいるのは確か。
肉体関係を介さない愛情だけでつながっている生活は余りにも不安定に揺れていて、いつ破綻してしまうのか分からないけど、だからこそそれがきらきらひかって見えるのか。

あと、結婚祝いに紺から贈られたユッカエレファンティペスの鉢植えと、セザンヌの自画像とを笑子はまるで家族の一員のように扱っていてそれがとても愛しいような感じがして好き。


疑似家族って、なんだか好きなんですよね。浅い形でも深くつながろうとする意志の形みたいで。

4
鬼、ムジナ、天狗、龍、幽霊、座敷童。
人間と、人ならざる者たちとが関係することで生まれる境界の間で、人や人の感情といったものがなんたるものかが描き出されるような短編集で、これが大層面白かった。

「鬼の笛」
鬼から与えられた人形が意思を持とうとする直前、そのあまりの美しさに耐えられなくなった男が人形を壊してしまう場面からの、もう笛を吹くしかなくなるまでの急転は圧巻。
夕日に燃える山を地獄としか映らなくなってしまった男の混乱が、こちらにもその映像を見せるようで。
また自分の素性の一切を忘れてしまう最後は、なんとなく中島敦の「名人」を思わせるところがある。

「ムジナ和尚」
旧知の狐が人間のような考えをすることに慄いたムジナは、人間に化けることで人間を学ぼうとする。
この話も終盤の展開が劇的で大好き。
何よりもムジナを慕ってくれていた少女は病の床で、和尚の正体を知っていたことを告げつつ息を引き取る。
ムジナの中に渦巻いた熱い感情が、液体になって目から流れ落ちると共に、なぜムジナは人間が人間を埋葬するのかさえも悟るという。

「天つ姫」

自由に恋をすることが許されない立場に生まれた姫君と、恋をするという概念がない天狗に生まれた首領の交感。
姫は美しくなっていたのです。けれど、梁星にはその変化をどう形容すれば良いのかわかりませんでした。ただ、ますます月に似てきたと思うだけでした。

「真向きの龍」「青竹に庵る」「機尋」
立場は違ってもこれは3編とも、人が人として生まれてしまった以上どうしても諦めることのできないものがあることの話ではないかと思う。
だから、3編とも主人公は安寧な世界に移る誘いを断って、また元の自分の人生に戻ろうとする。
そういったものがあるからこそ、人として生きることは、ああ悪いだけじゃないよなって。

千早茜さんの作品を読んだのは『魚神』が最初だけど、個人的には彼女の書く作品はこういった幻想怪奇なものの方が惹かれるなあといった印象を深くしました。

この作品のどこが好きだったのかというと、兎にも角にもまず第一にその透明感のある絵柄が好きだった。
吹き抜けていく一陣の涼風のような。
でもその透明さのせいか、好きだったわりにどこか印象意外に確たるものを残さずに過ぎていってしまうような気がしていたけど、最終巻まで読んでみると最初からそうやって過ぎていくものを目指して書かれた物語なのかもしれないなんて思ったりする。

ネタバレを含みます。

ずっと不思議に思っていたことはこの作品のタイトル、『恋は雨上がりのように』について。
怪我によって部活を休むことになった主人公の橘あきら(17)は、気遣いをしてくれたファミレスの店長(45)に惹かれてアルバイトを始める。
そんな年齢差に隔たれた恋の物語。
1巻のその出会いの日、ファミレスを出たあきらが雨上がりの空を見上げる描写があって、感情の機微と雨上がりの組み合わせはあるけど、やはりつかの間の言うなれば雨宿りのような恋なのではないかとずっと感じていた。

そして最終巻の10巻。
雪の日自宅にやってきたあきらを招き入れる近藤が「なんだかこれきり 橘さんと会えなくなるような気がする。」
という非常にドキドキさせるシーンから始まるアパートの場面。
ここでわりと長い尺で挟まれる近藤の、もし自分が高校生で、橘あきらと同級生だったらどういったやり取りがあっただろうと思う空想。

雨宿りのような恋、というのはあくまであきらの視点から見た物語で、近藤の視点からは全く違ったものになるのではないか。
最終的にあきらはバイトを辞めて陸上部に復帰して、なおさら恋は雨宿りのようにつかの間の恋だったという印象を強くする。
「…今日のこと、俺 きっと一生忘れないんだろうな」
「橘さんは忘れたっていいんだ」
という、今まで降って湧いたようなあきらの好意をどうするべきか悩んでいた近藤の、憑き物が落ちたかのように晴れやかな台詞。
引き伸ばすことも十分に可能だったはずの関係を、大人として終わらせようと決めた近藤の。

恋っていうのはいわば一種の異常な興奮状態で、永続して続いていくものではない。
降りやまない雨がないことと同じで。
雨宿りのようにいつかは終わる恋。

タイトルが「ような」であったなら、それは雨宿りのような恋だけど、選ばれた言葉は「ように」
文章を補完するなら、恋は雨上がりのように、美しい印象を残して過ぎ去っていったのではないか。

あきらと橘だけではなく、あきら周辺で生まれた恋も描写してあるけれど、
あきらに恋をした同級生の吉澤、その吉澤に恋をしたバイト仲間の西田ユイ。そして大学生バイトの加瀬が抱く義理の姉への恋愛感情。
これら全ての恋が報われることなく物語は幕を閉じる。
やはり恋は雨上がりのように消えていくものと書かれた作品なのではないかなと思わせる。

そして、部活を休んだ後にまた走ることを選んだあきら同様、近藤は絶てずにいた文筆への想いを再燃させてまたペンを走らせるようになる。
恐らくこの作品のもう一つのテーマが停滞とリスタートで、そこにはたぶん抱いた感情の全ては決して無駄にならないんじゃないかということが書かれているのだと思う。
もう自分には何もない大人なんだと折に付けて思っていた近藤がまた執筆を再会したように、吉澤への想いが届かなかったユイが美容師になりたいとより強く願ったように、何をしたいのかと思う自分を自分に問うていけるならまた新しい景色が見えてくるはずだっていう。

ところで、あきらの強い眼差しに慄いたりなどする近藤に、田山花袋の『蒲団』を思い出した。
年若い女弟子の存在に揺らされる中年作家の心情。
「時雄はこの力ある一瞥に、意気地なく胸を躍らせた」なんていう文章は、ちょっと似てるよね。
でも、この作品で描かれた近藤は橘あきらのことを性欲の対象とはしないし、私物をくんくんしたりもしない。
ということで『恋は雨上がりのように』は、綺麗な田山花袋とするのはどうでしょう(笑)

映画を観に行こうかなー、とも思ったのだけど、上にも書いたようにでも自分がこの作品で一番好きなのは、この絵柄なんだよなーと思ったら結局足が向かなかった。

せっかくだからとファミレスでこの文章を書いているのだけど、ちょうど女子高生がアルバイトの面接を始めて、橘あきらよりも近藤に日々近づいていく自分は、眩しさを感じたりなどしている。
日々朽ちていく身体に、澱んでいく心が。
だからこそ、まだまだ17歳の子供でしかないあきらを元いた場所に戻れるように仕向けた近藤を人間として尊敬できる。
青く跳ぶことができた季節が過ぎ去ってしまって、もう戻ってこないことは寂しくて悲しいことだけど、でもそれが今自分がいる地点を否定する訳じゃないよね。

過ぎ去ってしまう感情に、身体の心の若さに、悲観的になりがちな物事を悲観させずに書ききったのがこの作品なのではないかなあと思います。

4
別れることになった不倫相手に腕を貰えるような世界の「くちなし」に、私たちの中には脳を刺激する虫がいるという「花虫」など。

綾瀬さん新しい作風で来たなーと思ったけど、読んでみたら完全に綾瀬さんの新境地だった。
身体の機能や社会の構成が変わったとしても、それでも傷つきつつ何かに手を伸ばさなくてはいられない私たちの。
最初は今ここにいる自分とその物語の差異が目につくけど、だからこそより一層登場人物たちが抱く愛憎が自分たちが持つものと変わらないことが際立つようで。

帯に書かれた文句。
「遠ざかるほど、愛に近づく」、それが全て。

一番好きな話はやはり表題作。
分離した腕を慈しむ描写に、悲しみに染まる妻を少しずつ分離していく不思議な夢。
夢を中で悲しみを作り出す醜い生き物を捕まえる描写は、とても美しいです。
悲しみの涙をぽたぽたと流す、醜い小さなトカゲがこの作品が自分の中にもいればと思うほど。

そして美しいといえば「愛のスカート」も外せない。
隣の部屋で着替える母と娘の華やぎ。

難民の子供の一夜を買う夫人の「薄布」
この話で圧巻だと思った部分は、お互いに軽蔑し合う関係の夫、夜中に帰宅した夫に既視感のある香りがよぎる場面の描写。

 自分がこんなに寒い場所にいたなんて知らなかった。寒い。寒い、のに、可笑しい。目隠しの布を外したみたいによく見える。しんしんと凍える荒野で、初めて夫に会った気がした。

ここの世界はこういうものなんだと気付いてしまった時の、視界の反転。

反転といえば変化した女は愛した男を頭から貪り喰う「けだものたち」
その設定だけでも素晴らしいけど、物語の帰結がね。
お互いに満たされていて変化とは無縁だった夫婦の愛は、娘が変化したことによってその形を変えていく。

読み終わってみて、自分の中にある欠落を埋めようと、何かを求めずにはいられない私たちそのものに思いを馳せる。
そういう生き物だからだろうか。
私たちがこうやってでしか生きられない世界だろうか。

3
大学の友人が本を出しました。すごい!!


通称「恋虫」と呼ばれる「感情性免疫不全症」にかかった人間は、他者への感染を防止するため駆除されてしまうという世界。

予防法も治療法も見つからないこの病は正式名称からHIVを連想させるからなのか、感染者を処分しなければいけない理由というものを、読んでいて埋めることができなかった。

また、「現在は日本でしか発生しない」という記述。
現在は、ということは諸外国からは既に根絶されてしまったということで、他の先進国なども駆除隊を組織するという手段をとったのだろうか。

個人的には設定だけが少し突出してしまっている印象だけど、でも物語としては面白かった。
駆除隊に入隊した女の子から始まる連作短編で、特に第2話から3話への展開がすごい好き。
 そして気づく。
 ああ、彼は、私のことが好きだったのか。
 『恋』をしていたのか。

とマッチングされた当時の恋人を振り返る女の子と、その男の子が彼女を思ううちに恋に罹患するまでが描かれた。。。

そして4話「幸せになれよ」といういわば呪いを打ち破るべく伸ばす手。

読む前は、なんというか伝わるかな。
あくまで恋愛感情、強く強く狂おしく相手を思うような感情は、今の自分からしたらこの世界に自然にある感情で、正しいもの是であるものという認識のまま読んでいて。
でもこの物語内では、恋虫に罹患せず結婚して子供を産んでという状況が正しいとされていて、登場人物たちが抱えた感情は本当に『恋虫』によってもたらされたものであるということも否定はできないんだと思うと、どこか少し怖くなった。
感情は、脳内の電気信号がつくるものである私たちは。


そして番外編の秋名。
また少し雰囲気が変わって、もっと強い心身の痛みが生じる暗さで、今後どんな景色を見せてくれるか楽しみに思った。

たまたま見た映画がとても印象深くて、どうしても引っかかるから不本意だけど記事に書く。
悪い意味で。

カルチャースクールのアマチュア劇団が大手楽団と間違えられて、屋久島の演奏会に呼ばれてしまうという物語。
ネタバレを含むよー。



勘違いから始まるドタバタをコメディー調に描くのかと思ったら、どうもそうでもなくて。
間違えてオファーを出したのは行政側の主人公で、それについてはまあ失態なんだけど。
間違えられるような名前を、あやかるつもりで付けてるのに、そのオファーを確認すらしないのはどうなのよって。
だって、縁もゆかりもないアマチュア劇団を招いて演奏会なんてしないじゃない、普通。

まあ、その起承は物語だから置いておくとしても。

不倫をしている主人公がそれをやめることにする、とかそういう展開もあるけど、言いたいことはそれじゃないのでここも置いておく。

結末を言ってしまうと、演奏をします。
演奏をして、逃げます。主人公の手引きで。
大きな舞台で演奏をしたいんだという団員の熱意に押し切られるような形にもなって。

ここが本当に理解できない。
いくら舞台で演奏をしたいという夢を持っていたからと言って、人の褌で相撲を取る以外の何物でもないのに。
それでいいのかなって、身の丈に全く合わない舞台に立つのって怖くないの。

あまつさえ、演奏したあとに「気持ち良かった」って、音楽は自己満足の手段でしかないのかと勘繰っちゃう。

自己満足のために道理にそぐわないことをしちゃうことに、劇団の人物たちは自覚的なんだけど、たぶん撮る方が緩い着地点を目指したせいで、そこがなあなあなんですよね。
つまらなかったとか、そういうレベルじゃなくて、ホラーみたいな狙って作られた訳でもない不快感が気持ち悪くて。
生理的に無理だとまで思える展開が、なんだか新鮮。

4
ピンクなタイトルと柔らかくガーリーな表紙イラストからイメージされるような生やさしさからかけ離れた、少女たちが置かれた圧倒的な現実。
今ついたばかりの傷から、まだ温かな血が流れたままでいるような鮮烈な痛み。

置かれている境遇がもう既に辛いんだけど、彼女たちが信じていた風景も容易に壊れてしまうものであったり、そうだとしても自分でその景色を作り上げるしか他に生きていく術がなかったりして、それがもう大変つらい。

中でもやはり印象的なのは、養護教諭とその生徒たちの交わりを描く「春眠」
自傷する子たちを、そういうものなんだと突き放したように淡々と接する彼女に向けられた
「私、先生がいつ助けてくれるんだろうって、ずっと待ってるんですけど」の言葉。
見ようとすれば気付けたものだったのだろうか。
そして美しい少年は、痛んだ翼で発っていく。

そこからの、自傷する少女側を描く「モンタージュ」
「春眠」で語られたその後の顛末も、養護教員の彼女に対する少女も、もうどこにも救いがなくてつらい。
けれど、それでも。
私が私であることを誰が証明できる?
誰の言った言葉なのかやっぱり判らないけれど、まず、それを証明するのは私でありたい。



読み終えてから、ここに出てくるのはちゃんとした少女時代を送ることを許されなかった少女たちばかりなんだと思うと、タイトルの「官能と少女」がより一層染みた。

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