kimagure読書メモ

紫陽花を捧げ持ちつつ小さくて冷たい君の頭蓋を思う松野志保)

凪良ゆう  神さまのビオトープ5

 交通事故で死んでしまったはずの夫・鹿野くんと暮らすうる波。
という設定だけを見て、川上弘美みたいなちょっととぼけた様子の本なのかなと読んでみたところ、なかなかにえげつない内容の作品でした。
夫がいないまま死んだようになって暮らしていくより、それがどれほど間違っていても狂っていても誰に理解されなくても実際に触れることができなくても、夫がいてくれる生活の方がいい。
 そして他者はその生活が、感情が間違ったものなのだと決めることが出来るのだろうかと。

 私たち人間が、まず不完全な心を持った不完全な存在だという諦念の上に立った、人類賛歌のような本。

 何かのせいで断絶された関係の中で、それでも自分の内面にある欲求に目を向けて手を伸ばそうとする4つの愛を描いた連作短編。
恐らく当人たちにとってそれを選ぶしかなかった、もしくは選択の余地すらなかった愛の。

 似たような立場でも絶対にされたくない共感もあれば、自分の立場を想えばこそしたくはなくても認めざるを得ない感情もあって、人のこころは様々だ。

 圧巻に思われたのは、現れた鹿野君を見たうる波がすぐさま決意をしてしまう第一話。
自覚してその幸福を選んだからには覚悟をするほかないという、明確な線引き。
「みんな、自分が見たい夢を見ればいいと思う。わたしはわたしの。千花ちゃんは千花ちゃんの。わたしはあなたの夢を否定しない。だから、わたしのことも放っておいて」

 愛したもののことでもう選べなくなるものに自覚的。またそうならざるを得ないのだろうし、自分の夢の強化のためにすり寄られるのは耐えられない。


 期待をすればその裏には絶望があって、時には誰からも理解されないという孤独や、行き違いによる傍から見ればどうしてそんなと思うような惜しい軋轢。
死んだ後のことはどうなるか分からないけど、死んでしまった方が生きることよりずっと楽なんじゃないかと思うこともあって。
 それでも夫に先立たれてしまったうる波さんが、夫の幽霊との生活を重ねる度に「生きていてほしかった」と願うから、読んでいる側に届くものがあって。そこがすごい。

 障壁のある恋をしている二人を見た後に、『ロミオとジュリエット』を引き合いに出す会話が好き。
もっと二人が大人になった頃に出会っていたなら、今なお読み継がれる作品は生まれていないだろうけど、それでも二人は死なずに済むねって。

鹿野くんも生きていてくれればよかったのに。
どんな絶望を抱えていてもいいから、生きていてくれればよかったのに。


 
 死んでしまった鹿野君とその妻のうる波さんの関係はもう発展していきようがないけど、だからこそ他の3話のどうにでも変化し得る愛が映えるのかも。
意中の相手と結ばれるかもしれないし、大切な相手にもう会えないのかもしれない。
それでも未来が残っていると。

梨木香歩  エンジェルエンジェルエンジェル5

次に読み返したら記事に書いてみようと思っていたものの、いざ読み返してもなんだか書き口が見当たらない。

 熱帯魚を飼い始めた中学生のコウコと、家族がコウコの家に預けられたさわこおばあちゃん。
熱帯魚を飼育する環境は、さわこの遠い女学生時代を呼び覚まし、悲劇的な殺戮に終わる。

 半覚醒のうたかたの淡いの中で、水槽のモーター音で女学生時代の人格に戻るさわこおばあちゃん。
面白いと思うのが、そのモーターの音で覚醒していることに本人も気づいていること。水槽を別の場所に移したらもうこうやって二人で話すことはできないかもしれない。
こういったお互い同意している不安定で危ういけど特別な関係ってわりと好き。

 熱帯魚の水槽に限らずペットを飼いたいという願望、なにか自分の手の内に生き物を飼いたいという願望は、知らず知らずのうちに神様に近い位置にあるのかもしれない。
ことに水槽というビオトープの、小さく区切られた世界にいたっては。

 愛おしく大事に思っていたからこそ憎くなってしまう気持ち。

 本富に、私たちの気分の、万華鏡のやうにころころと変はること。
と言っていた朗らかな少女が、仲よくなりたいと思っていた少女が傷つくことを願ってしまったせいで、自分が悪魔に魂を売り渡してしまったんだと思うまで。

 「おばあちゃんは、戦後本当に苦労なされたのよ」とコウコの母は言うけど、人生の最期で蘇ってきたのは女学生時代の悔恨。
避けることのできないどうしようもない苦痛なのではなく、あくまで自分がしてしまったからこそ辛くて苦しい、でも楽しかった時代の甘くて痛い記憶といったところだろうか。
結局もう二度と元に戻ることはなかった関係の。

 そして水槽に起こっていた事件の終末、自分を打ち滅ぼすように何度も何度も石を振り下ろすさわちゃんに向かってコウコが言った「もういいよ、さわちゃん、もういい」

 許してもらえるかどうなのかは相手が決めることに間違いはないけど、でも最後まで残ってしまうのは案外、自分で自分を許すことが出来るかということなのかも。

 神様が、お前たちをこういうふうに創ってしまって悪かったねえ、と言ってくれたなら、それはどんなにいいだろう。

この言葉で救われることはなくても、救われたような気持ちにはなれて、それがたぶん大事なこと。

「ごめんね、コウちゃん、ごめんね、コウちゃん」と泣き出すさわちゃんに、コウコは夜な夜なの会話で自分とさわちゃんが近しいんじゃないかと感じたことを踏まえて
「いいんだよ、さわちゃん、姉妹じゃないか」
と、冗談めかして返す。
この場面がすごく好き。




彩瀬まる 骨を彩る5

彩瀬さんの、ほら、こういうものなんだよ。って突き付けてくるような文の書き方がたまに物凄く怖ろしくて。でも決して嫌な印象ではなくて。
見えてくる景色にだからこそっていう説得力が増してくるような気もして。

 「指のたより」
十数年前に妻を亡くした津村は、夢に現れる妻の指がだんだん減っていくことに気付く。
妻が文字を書きためていたノートに遺っていた言葉も壮絶なんだけど、この話で一番そうなのかも知れないと合点がいったのは、夢の中で目にしていると思っていた妻の姿をもう思い出せないのだと気付いた場面。
寂しい余韻を残しつつそれでも美しいラスト。

 「古生代のバームロール」

まずタイトルに一目惚れ。物語の話形も人と人とが選んだ挙句についてしまった決別という形で好き。
悲劇的ではあるけど、それでも決着がついてしまったという救いがあるようにも思う。
 高校の恩師の葬儀に出席した光恵は、望まない形で再開したかつての友人に葬儀のことを伝える。

この子は友達だ、いつも一緒にいる玲子や美鈴とは違う、この子のこころの形を知っている。だから無事でいて欲しいと願うような友達だと思った。

だけれど否応なく流れていく時間は、私たちを押し流して関係すらも変えてしまう。
美しい決別というよりかは、やはり描き方なのだろうか。


 「ばらばら」

幼い頃に両親の離婚と再婚を経験している玲子は、自分の息子がいじめを受けていると知る。
タイトルのばらばらが再結成するように玲子が感じる様子に、一番好きな話かも。
自分というものを取り巻く世界は脈絡がなくてばらばらで、すぐにほどけてしまう。

 お父さん、と言ってみる。いつか終わると思っていたお芝居が終わらない。ばらばら、の、心もとなさが、終わらないよ。
からの、バスで乗り合わせた少女との偶然の再開、思いやりを持って接してくれていた継父との記憶。

ビーズの触れ合う音がする。ばらばらになって、跳ねて跳ねて、その先でまったく想定していなかったものと出会う。かちんと音を立て、一度触れ合って、離れる。

 「ハライソ」

ネットゲームで仲良くなった少女と細々と続く対話に、相談に。
自分が触れることを許してくれている相手の温み。

そして「やわらかい骨」
最初の話の主人公:津村の一人娘の小春が主人公。
小春と同じバスケ部にも入った転校生の葵は、学校の食事前にもお祈りをする。

「古生代のバームロール」と似ているようで違う別れ。
なんといっても中学生の彼女たちは、まだ自分の意志で物事を決めるということができなくて、そこが別れの要因として決定的に異なる。
私たちを取り巻く世界は、やっぱりどこでも脈絡がなくてどうしようもなく理不尽で。
家の格が低いから、告げ口を恐れてお祈りを欠かすことのできない子と、家の格があるから食事前のお祈りをしなくてもいい子。
とある宗教家さんが著書の中で「良い宗教とそうでない宗教の見分け方は、それにまつわることで人が離れていくなどの不具合があるか」みたいなことを言ってた(うろ覚えです)

憎む。なにも欠けていない。よくある。普通。そう言って、振り払いたかった。けれど、なかったことには出来ない。黒い飢餓も、葵がお祈りを止められないことも。否応なく骨へと染みた、色とりどりのものたち。

村田沙耶香  殺人出産5

『コンビニ人間』で芥川賞を受賞した村田沙耶香ですね。
彼女の作品はこれが最初に読んだ本。

子どもを10人産めば、1人を殺すことが許される「殺人出産システム」で人口を保つ世界。
あー、なんか聞いたことありそうな設定だなと思いつつ、読み終えた率直な感想はというと、そりゃあこの人なら芥川賞も取るでしょうよと。

他に収録されている短編も併せて、今現在過ごしている社会の理念からはまったく外れていて生理的に理解はできないように思うのだけれど、彼女の凄さはそういった相容れない視線(今の私たちの?)のことを常に意識してそれを作品にも落とし込んでいるところ。
そのおかげで、何を正しいと思い善いと思い美しいと思うのかという、人が抱える信仰についての物語として読ませられる。
絶えず変わっていく社会の中で、理念も倫理もまた変わっていく。

ああ、すごい。
誰かに勧めたい本なのかというと、それも少し違う気がするんだけど、この物語はたぶんきっと誰かを救うとさえ感じるほどの。

私と、高校卒業後すぐに「産み人」となった姉、それは正しくない世界ですと信念を言い募る同僚、この世界の未来に瞳を輝かせる小学生の従妹。システムによって産み、殺す人、殺される人、産まれる命。
万華鏡でもないしスノードームでもないし、群像でもないし、言うなればビオトープに近いかも。

その間に視界をよぎる昆虫たちがいて、虫は物語事態に直接関係はないのだけど、関係ないがゆえになぜそれが描かれるの?という妙にグロテスクな要素があって、それもまた一方では効果的。

私が、ほら、取って変わったでしょという蟻と従妹が最初自由研究の課題にしようとしていた昆虫食に、お菓子のモチーフにまでなって。
取って変わりこそすれ、昆虫は昆虫のままであるのにその扱いが変わるのは、人の視線が変わるから。


文字を選び取って、物語を紡いでいった指先のことを想わざるを得ない具合かな。

 私はふっと笑いそうになる。私たちはいつでも、手を伸ばして目の前の命を奪うことができる。殺人出産システムなんかができるずっと前から。

世界はいつも残酷です。残酷さの形が変わったというだけです。私にとっては優しい世界になった。誰かにとっては残酷な世界になった。それだけです」

あなたが信じる世界を信じたいなら、あなたが信じない世界を信じている人間を許すしかないわ」



決して正しいとは言えないけれど、でも醜悪ではないし、拒否はしたいけれど無邪気に否定することもできない。
今自分が生きている世界のことは?
そんな感じの世界でした。

佐藤哲也 シンドローム5

施川ユウキさんの漫画『バーナード嬢曰く。』の3巻でこの本のことが紹介されていて気になってました。

これはまた斬新な青春小説。
授業中の窓から目撃した隕石のような落下物。あれは何?正体は?
そこからじわじわと迫る危機というものに、主人公はほとんど気にも留めず頭の中にあるのは気になる女の子のことばかり。
しかもその感情の描き方が、ひたすらくどくて小難しくてめんどくせっ主人公めんどくせっとなること請け合いの。
でもそのめんどくさくてくどい精神病者が続いていくことが時々軽妙にも思えてきて、その描写が作品の魅力の根本にもなっているという不思議な本。

西村ツチカさんのあっさりした挿絵も文章に映えて良いです。

少し長めに一番好きな箇所の引用。

ぼくは久保田葉子が恐ろしいのだ、とぼくは頭の中で繰り返した。なぜ恐ろしいのか、ぼくはその理由を知っているような気がしたが、理由が置かれたその場所は精神の外周にあって暗い影に覆われていた。理由があるのは知っていたが、ぼくには理由が見えなかった。理由を見てはならない、とぼくは思った。理由は暗黒の領域に隠れているのだ、とぼくは思った。そこに入ってはならない、とぼくは自分に言い聞かせた。もし入れば、ぼくは非精神的な状態に放り込まれることになるだろう。非精神的な存在になり、現実と迷妄との区別を見失って、ばかげたことを始めることになるだろう。恋をするのだ、とぼくは思った。すでにしているのかもしれない、とぼくは思った。しかし、言うまでもなく恋とは迷妄の一種であり、どう好意的に考えても熱病以外の何かではない。それは非精神世界の王者であり、熱に浮かされた集団幻想に支えられて、あたかも人生の真実であるかのようにふるまっていたが、その正体はまったくの迷妄であり、膨れ上がった迷妄から生じる圧力であった。恋とは迷妄だ、とぼくは頭の中で繰り返した。恋とは迷妄にほかならないのだ、と僕は自分に言い聞かせた。ぼくは精神的な状態をたもつことで、この迷妄の圧力から守られていたが、もし久保田葉子がぼくに対して圧倒的な距離を取れば、そこに現れた圧倒的な空隙に迷妄が圧倒的な圧力でなだれ込んで、ぼくを非精神世界へ押し流すことになるだろう。静かにたゆたうときは終わり、見知らぬ場所に流されたぼくはあわてふためき、取るべき距離を見失うに違いない。ぼくは迷妄に呑み込まれて、恋を叫び始めることになるだろう。

言ってしまえば気になる女の子のことが好きというだけなのに、…めんどくせっ!迷妄だとか非精神だとか。
迷妄なんて単語をこの本で初めて目にしたような気がする。。
でも面白いなあと思うのは、認めようとはしていないわりに女の子に対する視線の先にあるものが恋で、自分がそこに落ち込みつつあるということを分かっているということ。
とても面白い文章です。

つまるところ主人公にとって日常が壊れてしまう恐怖なんて、気になる女の子が別のライバルにとられてしまう恐怖に比べるべきもないというスタンスなんですよ。
こうやって言葉を並べ立てて自分にさえも目くらましをしているけど、たぶんその女の子のことがそれほど好きで、世界よりもずっと大事なんだ。
って書くと急にロマンチックになるね。

エイリアンの姿を初めて目にしてようやく逃げた流れで主人公が女の子を映画に誘う場面があるんですけど、ウルトラマンティガにも同じような場面があったなあと。
こんな時になにをのんきな、っていうんじゃなくてこういう時だからこその「無事に帰ったあとの目的を作ろうね」っていう、関係性の中の時間が引き延ばされる感じがとても好き。

彩瀬まる 桜の下で待っている4

 旅行にまつわる物語なのかと思っていたら、血の繋がりがあるが故に縁のある場所について。
ついてまわるものは煩わしかったり望むものではなかったりするけど、思いがけず覗ける景色もある。

 両親に兄弟姉妹。どういった家族であっても、 全てを理解し合おうなんてことはどだい無理なことではある。
分からないままでいてしまうから家族が見せる別の人間としての顔の出現に驚いてしまったりするんだろう。家庭の中で母親でい続ける母が、友達と会った時に母でない顔をするような。

 印象的な話は、福島生まれの夫の実家に挨拶をしに行く「からたちの花」
東日本大震災の原発事故があって、今の状況などもちゃんと理解しておかないとと、言ってみれば少し身構えた格好で出向くんだけど、でもそこに住む人たちの優しさも笑顔も家庭内の人間関係のめんどくさい部分もちゃんと他と変わらずにあるんだって。
そういったものを全部、彩瀬さんは物語に抱き込んでいる。

「ハクモクレンが砕けるとき」
 生きることは残酷でどうしようもない。下級生の事故死を境に、あっと言う間に大事なものが奪われることに怯える少女は、親類の結婚式の為に岩手県の母の生家を訪れる。
 「苦しみしか汲み取れないとしたら、お前の目が悪いんだ。よく目を磨いておきなさい。ちょうど、明日はケンジに会いに行くんだろう。だったらいいぞ、よく習え」
「目がとてもよかった男だ。教師をしていた」

宮沢賢治記念館もぜひ行ってみたい場所ですね。

 生きること、誰かと生活していくことは苦しいことであるけど、でも苦しいだけのことではない。
不仲だった両親が醸し出す冷たい空気の家庭で、弟と寄り添って生きていた車内販売員の女性視点の表題作「桜の下で待っている」
 家庭を作った結末は、たしかに望むものではなかったかもしれない。けれど、まとう衣を厚くするだけではなく、脱いで、自分以外の人間に分け与えることを楽しんでみよう、彼方のものに手を伸ばし、新しい関係性を築いてみようと決めた瞬間が、あの人たちの人生のどこかにあったのだ。

この家族を作ろうという視点は名文ですね。

 そして春に咲く花々。
 ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」
は太宰の『女生徒』から。

 
「春さればまづさきくさの幸くあらば 後にも逢はむな恋そ我妹」柿本人麻呂

2016年 ベスト3

1位 『停電の夜に』 ジュンパ・ラヒリ
http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1816549.html


2位 『甘いお菓子は食べません』 田中兆子
http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1832405.html


3位 『愛の夢とか』 川上未映子

http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1824163.html


他に印象深かった本。
カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』 丹念に書かれた生活の描写で露わにされる世界の違和。
宮木あや子『官能と少女』 官能と言いつつ全く生易しさなんてない日常。
米澤穂信『さよなら妖精』 再読。悲劇的な結末の印象しかなかったけれど、それを上回る日常の一片一片のきらめき。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』 人間にとって最も辛いことは自分の行いを顧みてそれを間違いだったと認めること。だからこそ正しい方向に進んで行けるとも。
小栗虫太郎『黒死館殺人事件』 すごい。膨大な量の比喩や学術や知識を用いた推理のオンパレードに、何が語られているのか読んでも全く分からない。
ジョージ・オーウェル『一九八四年』 二分間憎悪、表情犯罪、思考警察、愛情省など圧倒的な魅力に満ちた言葉の数々。
ローリングス『小鹿物語』 再読。http://blog.livedoor.jp/buudyhalfmoon/archives/1445564.html
作品中最も美しいと感じた表現を終盤よりもむしろ冒頭に見つけた。



今年読んだ本は76冊。うち再読は24冊。

『シン・ゴジラ』は8回観に行きました。
何度見ても面白い映画です。

ちょっと毎日苦しくて死のうかなあとか思った時期もあったのですが、そうしなくて良かったとかとりあえず今のところは思ってます。
来年もどうぞよしなに。


 

田中兆子  甘いお菓子は食べません5

 タイトルとカバーイラストに惹かれて手に取ってみたのですが、大当たりを引きました。
 これが初の単行本ということですが、確かな文章力裏打ちさせた凄まじい力量を感じます。
40代女性6人が生きる人生の中の結婚や仕事や性だとか。

 帯に記された結川恵さんの書評がとても的確に思える。
「読む、というより、物語そのものがぐいぐいとこちら側に入り込んで来る。その迫力は小説が生きている証に違いない。」

そうそう、ぐいぐい迫ってくる様子がすごい。

 印象的な話は40台半ばの主人公がしようとした結婚を職場の同僚たちとする話。
「結婚について私たちが語ること、語らないこと」
何をおいても結婚をしたいという切実さはないけど、出会った相手の好意。
恋愛結婚はできないであろうと承知している容貌だからこそ、相手に求められることは確かな自負にもなって。

 愛していた夫から、もうセックスは終わりにしたいと告げられたビーズ作家の女性が、友達から会員制の組織のことを教えられる。
「花車」
夫のことを愛していて、夫からも変わらず愛されてはいるものの、「おつとめ」はもう終わらせたいと告げられる。
生活を支えるビーズ作家としての仕事も明るいけれど、それだけでは満たされないものがある。
欠損を抱えたままにしたくない。

 そしてなんといっても圧巻の一言だったのは「残欠」
毎日欠かさず一人息子のためにお菓子を手作りする専業主婦と、ママと距離を置きたがる中学生の息子にあーそういう子離れできないような話か、と思ったところ。
鮮やかに痛切に裏切られました。
色気も艶も全くなさそうな毎日は、アルコール依存症により息子と夫を手痛く手痛く傷つけ続けた過去から来ていると判明する。

 このあたりの描写がとても恐ろしい。
またアルコールに溺れる渦に引き込まれないよう、以前好きだったものを何もかも遠ざけるしかない毎日。
生き延びるためには、酒に手を出さずに済む毎日をひたすらこなしていくしかない毎日が悲壮な戦いで。

子供に幸せな生活を送らせたいとは思うが、それと生きていたいという欲が結びつかない。ほんとうはあまり生きていたくない。息子と同じくらい愛してしまった酒をやめてまで、生きる理由が見つからない。理由がないけれど、死なないから生きている。生きてしまっているからには、あの子を煩わせないように、酒を飲まないことだけを考えて一生懸命に生きる。生きることが嫌いなことと、一生懸命に生きることは、矛盾しない。

 そして依存期間中も紳士的な優しい態度を決して崩さず妻を支え続けた、あるいは依存関係にあった夫の浮気。
仕方のないことなんだと諦めつつも、たがが外れてした初めての訴え、嗚咽、そして慟哭。
死のうとした自分を引き留めたかつての息子のような慟哭。
もう一度生まれる。
そして慟哭の結果がどこに行きついたまでは語られない。

 もう文学の神髄を見た気すらします。秀逸の一言では足りない。 

「母にならなくていい」もそうだけど、埋まらないものに四苦八苦しつつもどうにかこうにか生きようとするんでしょう。 

岩本ナオ  金の国 水の国5

 このマンガがすごい!2017 オンナ編1位の作品です。
岩本ナオさんの『町でうわさの天狗の子』は大好きな作品だったのですが、ここ最近このマンガがすごいのランキングにちょっと懐疑的だったので、どんなものかなという感じで買いました。

 最高です。
物語として完璧なのではないかと思うほど。
古風な争いをしている二国間の政略偽装結婚から育まれる関係という王道展開を軸として、自分が生まれた国をこのまま守ってゆきたいという夢に、命を狙われる緊張感のあるやり取りに策略、芽生えた友情と、誰かを愛する気持ち。
もちろん万人にとって完璧なものなどはありえないのだろうけど、個人的にはあえてそう表現したい。

 好きな場面は水の国の橋の上でナヤンバルとサーラが鉢合わせる場面。
時間に追われるナヤンバルを送り出すサーラと使命のために道を急ぐナヤンバル、のちのちこのナヤンバルの決意が走馬灯のように蘇ってきたりもして
 そしてなんといっても、足場の不安定な近道を二人で行こうとする場面。

お嬢さんは二度と置いていかない
もし落ちるなら 一緒に落ちよう


 右大臣に役職を降りる賭けをムーンライトがもちかける場面も格好いいですね。
左大臣の衣装に、ポーズも様になっていて。

 展開を動かしていく、物語の肝になっているのは実はナヤンバルとサーラの互いを思いやる優しさなのだろう。

 Twitterでお友達になった三日月さんという方から、岩本ナオさんのトークショーで、完成した橋の名前はラスタバン大橋だということをお聞きしました。
作中で「妻や娘の名前を冠すれば家族思いという形容詞もつきますよ」というナヤンバルの提言が描かれているにも関わらずラスタバンの名前がついてるっていうことは、
結局ラスタバンは自分の名誉心を捨てられずにいたのか、もしくは完成を待たずに没した王様を称えた国民が付けたのか。
どちらでしょうね。 

夏時間の大人たち  中島哲也5

 映画監督の中島哲也さんが自身の映画を書き下ろしにした作品ですが、こちらの方の文字が織りなす世界が絶妙すぎて映画の印象が正直あまりない。

 読んだのは本の方が先。図書館で見つけたタイトルに惹かれて読んで、いたく気に入ってネットで古本を探した。
この本を知ってる方とかどれくらいいるのかなーっていうのが降って湧いた疑問。
フレーベル館出版です。


 逆上がりが出来ない小学4年生のたかし少年の世界を移りすぎていく幾つもの疑問符。
同じように逆上がりができないクラスの5人のうち一人、ツンとした美少女のことや友人のこと、両親のこと。
なんというか、この疑問に至るまでの心情の描き方が上手くて。
どこか抜けていて先生に怒られることが多いながらも、母親につられて夕方五時から再放送される『愛と欲望の谷間』というテレビドラマに熱中しているという少し変わった少年の、いずれ色々なことを悟っていくまでの前段階というか。

 そのプライドの高さ故、失敗する自分が許せないためずっと居残って逆上がりの練習をするトモコを見て、胸がドキッとする理由が分かった気がするという結末は、なんだか子供の頃の世界の完全さっぽくて。

 そして間に挟まれる父親と母親に残っている子供の頃の記憶。 
今起きている出来事の不安な様子は大人になっても消えないのだろうかと思うたかしもいて。そう、記憶を軸にした物語でもある。
この作品のうちで個人的に一番好きなのは、たかしの母親の記憶です。
ふとしたことが重なって病気で伏している自分の母親をヘビ女だと思い込み、食べられてしまうのじゃないかと恐怖する。

 二階を見あげながら、わたしは心の中でおかあさんに話しかけた。
おかあさん、ねえ、おかあさん、わたしはホントはおかあさんが大好きなのに、なんでおかあさんはヘビ女になっちゃったの?なんでおかあさんはわたしを食べるの?
 わたしは階段をひとつだけのぼった。おかあさんの泣き声が消えた。わたしは……わたしは、でもやっぱりこわくって、それ以上階段をのぼることはできなかった。それ以上おかあさんのそばに近よることはできなかった。

 それから二か月たって、わたしを食べることなく、おかあさんは死んだ。


 幼少期のかわいらしくも残酷な過ちとかさあ、旧家の階段の前でたかしの母が「おかあさん…」と呟くところとかさあ、姉と一緒にヘビ女だとはしゃいでたかしをくすぐる場面とかさあ。
 読んでいるこちらの胸を優しいタッチで引っ搔いていく。
 
 でも想像するに、ヘビ女という単語を母親の姉も出したっていうことは、子どもだったときに母をヘビ女だと思っていたんだということをたかしの母親は姉と話していたんだと思うんですよね。

 また現在、降る雨を眺めている母は憂鬱でも倦怠でも郷愁ですらなくて、言うならばアンニュイな。

 僕も肌の冷たいヘビ女になりたい。
記事検索
Recent Comments
  • ライブドアブログ