あなたの白道

元親鸞会講師・嶋田久義の遺言です。

2017年09月

 人間に生まれ難く 仏法は聞き難い


お釈迦さまの  有名な言葉に( 華厳経 )
「 人身 受け難し 今 すでに愛く
  仏法 聞き難し 今 すでに聞く
  この身 今生に 向かって 度せずんば
     いずれの生に 向かってか この身を度せん 」

・ 人間に生まれることは 大変に難しく
   その 人間に生まれたことを 喜びなさいよ
・ 仏法を聞くことは 更に難しく
  その仏法を 聞けたことを 感謝しなさいよ
・ 今こそ 仏法を聞いて 人間に生まれてきた    本当の目的を知って 本当の幸福者になりなさいよ。
 今以上の チャンスはありませんよ 」

このように 教えておられます。

 私も 、自分の身の上に  実際に 起きたことを通して、仏法が聞けるようになりました 。

では 私が どうして仏法が聞くようになったのか お話しします 。


○ 両親の満州開拓と 死線を越えて

 私の父は 富山県の貧しい農家の次男に生まれ、 母は 子沢山の 屋根瓦作り屋 の娘に生まれました 。
 戦前 、当時の日本は 活路を南方の 太平洋と 中国に求め、満州国を作り 20年間に 500万人の 日本人青年男女を 開拓団として入植させる計画でした  。

 満州は 「 日本の生命線  」と言われ  満州に行く女性たちは「  大陸の花嫁  」と持ち上げられました  。
 その 国策に乗せられて 両親は 西野尻村開拓団として 数十人の村人と共に 満州へ渡ったのです。 敗戦 3年前でした。
  苦労して開拓し、母は  男の子2人を 生み、未来も明るいと思っていた矢先、 夫が、風邪から 肺炎を起こし、3日後 あっけなく 亡くなったのです 。
 この時の 母の、悲しみ、苦しみ 不安は 大変なことでした 。
 しばらくして、村の責任者が心配して 母に 再婚を勧め、父が選ばれました 。
  同じ村の顔見知りの母と  、子供2人を見て 可愛そうに思ったのか 父は引き受けてくれました 。
 
 ところが 昭和20年8月9日 長崎に原爆が落ちた日に 、満州の隣の ソ連が「  日ソ不可侵条約  」を 破って 、100万の大軍で攻めてきたのです 。
 満州 と開拓民 を守るはずの 「 日本の 関東軍 」はすでに 南方のアメリカとの 戦闘に兵を送り 満州はガラガラで 、ソ連軍の敵ではなく 逃げてしまいました 。

 父は 現地で「 根こそぎ動員 」招集を受け、わずか 47000人で ソ連と戦うことになったのです 。
  残された その他の開拓団民 22万人は 老人 女性 子供だけになりました 。
 ところが 兵には配る 銃もなく 50センチほどの 「  銃剣  」1本が渡されただけで、
これで、飛行機 戦車や 機関銃 100万のソ連と 戦えるはずがありません  。
 突撃して無駄死にするだけです。

 結局 、指揮官の判断で 「 現地解除 」の命令が 出ました。
 父が 村へ帰って見ると 皆 逃げ出して 誰一人いません  。
どこへ行ったかも分りません 。

この時、 父は、一人 安全に日本帰国の道を選ぶことも出来たはずですが、子供2人と逃げ回っている 母を捜すことにしたのです 。
  広い広い満州で、西野尻村開拓団の逃げた 足取りをさがすのは 非所に危険です 。
 日本人は 無理に開拓団として入ってきたため 先住の 中国人、満州人1500万人からも 、随分  恨まれ 、町の入り口には 日本人の 首を 5つも 6つも 針金で通して 見せしめに 吊るしてあるような状況だったのです 。

しかし、遂に 父は母の許へ たどり着きました。

 母は 父が 現地招集を受けた時 この世の別れと思っていました  。
 除隊されて 探してくるなど思っておらず、父の 誠意を、愛情を 感じました 。

 私は  無口だけど 実直な こんな 父が誇りです 。 好きです 。

 しかし、子供2人は 亡くなっていました 。
開拓団民は 27万人中 8万人が 犠牲になるほどの 悲惨さで、命がけの 大混乱の 逃避行だったのです 。
 殺害 集団自決 餓死 病気 死因はさまざまでした 。
 父は 腸チフスになり もう少しで死ぬところでしたが 熱を下げる為にミミズを そのまま呑んだそうです 。必死でした。


○ 帰国して 私が生まれた 。

 それから 両親は 何とか帰国船に乗り 日本に 帰ってきて 、 兄、私、妹  が、生まれました 。
   
 しかし 生まれたものの、私は内臓が弱く 母の乳の出でも弱かったため
「 このままでは 育ちませんよ、貰い乳をしないと 助かりません  」と医師から 言われました 。
 昭和24年頃には 「人工粉ミルク」など 貧しい家にはありませんでした 。
 80軒余りの  村から 3軒にお願いして、貰い乳の子育てが 始まりました 。

 帰国しても 、「 裕福でない本家 」から 少しの田はを分けてもらっただけでは 生活ができず、今のように働く仕事もありませんでした。
 そこで 両親は 資本のかからない 豆腐屋を 午前中にやり 昼から 田畑を耕していたのです 。
 そこへ 3時間ごとに 泣く私の貰い乳ですから どんなにか 苦労したと思います 。
 この子を死なせてなるものか、両親の愛情だけが 命だったのです 。
 
 お陰で 私は、命をとり止め 育ち始め 小学生になると 母は 「釈迦」「親鸞」の映画を  私達に見せてくれました 。
  小学校 5年の時は 村の寺の住職の引率で 京都の「 東本願寺本山 」の夏の「 子供大会 」に行かせてくれました 。
 また、村へ 浄土真宗の布教使が来て 説法があると 聞かせてくれました 。
 幼なくて 話の内容まで分りません 。
だた熱心に話しするのを聞くだけでした 。
「  地獄 極楽  」 のスライドを見たのも覚えています 。
 中学2年の時 風邪を引き 「 急性肝炎  」となり 小便がオレンジ ジュースのようで、
近くの 厚生病院に 緊急入院しました 。
6人部屋で 2ヶ月の入院中 2人が亡くなり 次は自分かと思うと 恐ろしい毎日で
早く 良くなることだけを願いました 。
この時 母は  吉川英治 の「 親鸞 」を 読むようにと 持って来てくれたので、読み出しました 。
 母は  何としても治してやりたいと、この病気には シジミ貝が良いと知って  近くの 小川から シジミ貝を採り 病院へ持ってきてくれたのです 。
 病院の 野菜味噌汁を 捨てて 鍋に シジミ貝 茶碗2杯分を入れて 煮だし 、その汁と 身を 三度三度 食べました  。
 すると 医師も驚くほど回復が早く 2ヶ月で退院できたのです 。

 母のお陰です、母ちゃん、有難う 。


○ なぜ 仏法  を勧めるのか

 後から母から聞きました 。
なぜ  仏法を子供に勧めるのか。

 母が 満州へ渡るとき 
祖母が「  お前は 可哀想や 。仏法の無い満州へ行くなんて  可哀想や 。」と 言ったそうです 。
 日本中が「  満州の花嫁  」と喜んでいるのに・・・。未来ある国へ出かけるのに・・・。どうして ?
 仏法聞けぬくらいのことで そんなに言うのか 祖母の心が理解できなかったそうです 。
 しかし、満州で 思いもよらぬ 地獄を見て 分った  と言いました 。

 明日のことは どうなるか 分らない 。
国と言えど 当てにならない 。
ウソばかりだった。
天皇陛下は神さまでは なかった。
日本は負けて300万以上の日本人が死んだ 。
 何より 人間の本性は 鬼だった 。
仕事があって、食べる物が十分あって 健康で 安全なら 礼儀を守って 仲良く暮らす 。
 しかし、自分が死ぬか、相手を殺すか、になったら、「  殺して 助かりたい 」、我が身 可愛いの 本性が出てくる  。

「 我が子 捨てるヤブはあっても 我が身を捨てるヤブは無い 」
 このことだけは本当や。最後は 「 我が身 可愛いだけの 我執や 」

 日本に帰って ご縁があって 親鸞さまの教えが聞けた時、 「  あー、自分が聞くべき 、救われる教えが ここにあった  」と 分って 、仕事と 子供を育てるのと 忙しかったが、聞き回ったよ 。
そして 3年ほどで 阿弥陀様に救われた。 だから聞かせたかったんだよ  。

 これで 母が、仏法を勧める 理由が 分りました 。

  祖母は、私が18歳の時 84歳で亡くなりました 。
 亡くなる3日前まで 寺にお詣りするほど 仏法 を 聞く人でした 。
 見舞いに家に行くと「 よー来てくれた  」と喜び 、「  人間の一生なんて速いぞー、 あっという間や。皆 置いてゆかにゃならん、全部や。ただ仏法だけが残る、南無阿弥陀仏だけが残る これだけや 。お前も聞けやー 」と言い切りました 。

 84年間の人生で 、南無阿弥陀仏だけが 宝やなんて どういうことだろうか 。
 その 答えを私が知るのは ずっと後でした。

この後 「 第2章   」に 書きます 。

 家業の豆腐屋は このころになると 町のスーパーマーケットに卸すようになり 安定しました。
 家を継ぐはずの兄が 東京の大学に行きたいと言い出し 両親は大変な中、兄の 希望を 聞きました 。
 そしたら 私に 跡継ぎの話が回って来たのです 。
 高校を卒業して 家に入って 5時から 両親と豆腐を作り 配達する日が始まりました 。
  

○ 我執 、そして 自分勝手な人生を選ぶ
    
 毎日 朝早くから働き 休みは 年に1日か2日ほどで 働き通しでした
 20歳の時 そんな私を 両親は 豆腐組合で 韓国の視察旅行  があるからと  行かせてくれました 。10名ほどの参加でした 。
 これが 私の人生の大転換になるとは知る由もありませんでした 。

 当時の韓国は 日本の植民地から 敗戦で解放されたものの 貧しく、何と 北朝鮮の半分の国力もなかったのです 。人口は2600万でした 。
 前年 ようやく「 日韓国交正常化 」が 朴大統領の指示で行われたばかりで、経済はこれからの国でした 。
 3泊4日の視察でしたが ソウルのどこの豆腐屋を見ても 昔ながらの手作業で 参考になるところは無く 町にビルも無く 若い失業者であふれていました 。
何の為に来たのか分りません 。
年配者は観光と割り切っていました 。
  
 帰国の前夜 韓国名物の 「  宴会  」が開かれました。
  食べ切れない料理、酒  、 若い芸者の踊りや 歌 。 田舎育ちの私には  竜宮城の 浦島太郎 状態です 。
 その時 私の横に座ったのが 彼女でした 。
眉は長く 目は二重で しっかりとした感じの人でした 。
 日本語の分る人から 彼女の身の上を聞きました 。
  お父さんが心臓の病気で薬代がかかり、お父さんを看病するお母さんも 身体も弱く、 弟は 軍隊に取られ 中学の弟と小学生の妹がいて 長女の 彼女が ここで働いて 家族を養っているということでした 。
 そんな 苦労を客に見せず 笑顔で 酒を注ぐ姿に 私は 同情というか、何とも 言えない気持ちになってしまったのです 。
  
 帰国してからも 彼女のことが 心から 消えません 。
 日中は仕事で 忘れていても 夕方になると、「  あー今頃 店に出ているだろうな  」 と思ってしまうのです 。
 会ったのが 6月なのに 10月になっても 11月になっても忘れられません 。
 このままでは 一生忘れられないと思い 
「  会いたい 。何とかしたい  。」と思うように
なりました  。
 しかし、ソウルの人口は200万人、 名前も住所も知らないのに。どうするのか。彼女を探すのは、野球場で 画鋲を探すより難しいことです 。
  手がかりは、二人で写したポロライド写真が1枚 だけです 。
  両親に言っても承諾される筈もありません 。

  やがて 我執の強い私は、 自分の気持ちを抑えきれず、両親の期待を裏切り  両親を 悲しませる道を選んでしまいました。

 12月8日 置手紙を書いて  配達を終わるとそのまま 汽車に乗って 家出をしてしまいました 。
 東京へ行き、兎に角 いい収入を得ようと
「  チリ紙交換 」の仕事を始めました 。
 当時でも 月に 15万円ほどになりました 。 因みに トラック運転手の月収は、6万円 ほどでした 。
 6ヶ月ほどで お金を貯めて いよいよソウルへ飛びました 。

 1年前のホテルに泊まり 日本語の分るタクシー運転手に事情を話して 協力を頼みました 。「 探せたら 報酬を払う 」と言うと 喜んで応じました 。
 運転手は 二人で写した ポロライド写真を ソウル中の宴会をする店に 見せ回り、遂に 2日目に ホテルに 彼女を 連れてきてくれたのです 。

 ホテルには 日本語の分る 50代の女性従業員がいたので 通訳を頼み、彼女に 私が ソウルに 来た気持ち を打ち明けました 。
 すると 彼女は 私を 疑い 怪しく思い 、そんなバカなと笑い始めたのです 。
 仕事柄 男の下心を知っているから ウソとしか思えないのです 。
 「 騙されないわ 」という顔で 帰って行きました  。帰りに  「  明日も会いたい 」と、お金を少し渡すと、次の日も 来ました。
 また 話し合いです 。しかし 心は通じません 。
 3日目になっても 同じで 警戒をしています。
当然 このことは家族に話して 注意するように言われている筈です 。
 4日目の話の途中で 彼女の表情が変わり 「家族に会って下さい」と 言ったのです 。
実家は 古い小さな家で お母さん、弟 妹が 迎えてくれました 。
お父さんは 亡くなっていました 。
 「  信用してもいい  」と思ってもらえたことが分り、交際を申し込み 承諾を 得ました 。
「 やったー。願いが通じた 。」この時の嬉しさは 天にも昇る気持ちでした 。
持っていったお金を全部 渡し 、日本へ帰り 毎日仕事に励み 生活費を送り、次の年も ソウルへ行きました 。
もう 家族になった気持ちでした 。
付き合って 2年半、もうそろそろと思って 
「  結婚をしたい 。日本に来てほしい 」と 手紙を出しました 。当然 受け入れると思い込んでいました  。
 ところが 「 気持ちは分りますが、病弱の母と 弟妹を残して 私は日本へ行けません 。それより 国の政策で 私財化調整の税金が来ました 。いつもより 多く送って頂けませんか  」と書いてあったのです 。
 それを読んだ 私の血は 逆流しました 。
 「 俺が お前のために どれほどの苦労をしていると思っているのか 。 それなのに 来れない お金を欲しいとは なんという女だー馬鹿に するなー  」 
可愛さ余って 憎さ100倍 。目の前に居たら 首を 絞めて いたと思います  。
 腹が立って 仕事が出来ず ヤル気が失せました 。
  やがて 怒りが収まると、気づきました。
「 彼女は 初めから 家族を守るために 働いていたのだ 。 私が勝手に熱を 上げただけで 彼女の言うことは 間違ってはいない 。彼女は親孝行娘であり、弟妹思いの 優しい姉さんなのだ 」と。
 2年半ぐらい生活を 助けてもらったと言って 家族を捨てるような 薄情者では、なかったのだ。
  俺こそ 自分の欲の為に 親兄弟を 捨てたでないか 。
それで 彼女を 恨む資格があるのか 。
馬鹿は自分でないか 。
 俺の愛情など 独りよがり、自分の欲の変形にすぎない。
 本当の愛情なら 、彼女の境遇を理解して結婚出来なくても 仕送りを続けられるはずだ 。
それが出来ない 。
絶対に自分の思い通りにならないと 分ると すーっと気持ち が引いてゆく 。
この どうしょうもない薄情な思い 。これが私の 鬼の心でした 。
相手の態度次第で 「愛が 憎しみに 変わる心 」しか無い 私でした 。
変わらぬ 真の 愛情など 持ってはいないのです。 自惚れていました 。
   
「  凡夫というは 
無明煩悩 我らが身に 満ち満ちて 
欲も多く 怒り   腹立ち 嫉み  妬む 心   多くひまなくして、
臨終の一念まで 留まらず 消えず絶えず 」
                                                     親鸞聖人

 これは 私のことだ。私こそ仏法を聞かねばならない 愚か者 と思いました  。


○ 裏切らないものは 何か 。有るのか 。


 同じ頃 、松本さんという 仕事の同僚が ガス自殺をしました 。33歳でした 。

 松本さんは 、仕事が終わって、家に帰ろうとして トラックに跳ねられました 。
1週間ほど 生死をさ迷い 一命を取 り止めましたが 頭を強く打ち 視界が 極端に 狭くなっていました 。
跳ねたトラック運転手は 22歳で 任意保険はかけていない 個人トラックのため 保証もたかが知れています 。
 半年ほどして 医師に、「 このまま目が見えなくなる 」と告げられたのです 。
 奥さんは 自宅で 一人で 床屋をしていましたが 、3歳と1歳の男の子があり 大変でした 。
 病状を知り 奥さんと喧嘩して 実家へ帰した時 ガス自殺をしました 。
 奥さんから 亡くなったと 連絡があり、「何で死ぬのや 子供も残して 。無責任だ 」 と半ば腹を立て 出かけました 。
 奥さんから 私に遺書があると渡され 読みました 。
    
「 嶋ちゃん 働きたい  。でも働けない 生きてゆけない 。 政治も 医学も助けて くれない 。 何で生きるか それも分らない 。 もう 生きていけない 。」
心の叫びを聞きました 。
私は 泣きました 。
こんなに 苦しんでいたのに 気づかず 自分のことばかり考えて 励まさず 、自殺と聞いて バカなことをすると 批判的に見ていたことを 謝り泣きました  。
 自分が 同じ立場になったら どう思うか 。
目も見えず 身体も元のように動かず 奥さんに働いてもらい、夫として 親としての 役目も果たせず 一生 暗闇の生活を 送るのに、 何の生きる希 望があるのか、光があるのか 、生きる意味があるのか  。
居ないほうが まだましではないかーーー死のうと考えたのです  。
 死にたくないのに 、死ぬほど 希望がない 。一人ぼっちの人生に泣いて いたのです 。
誰も分ってくれない 孤独地獄の人生に 絶望したのです。

「 火宅 無常の世界は よろずのこと 皆もって 空ごと たわごと まことなきに ただ念仏のみぞ まことにて おわします   」
    
またも 親鸞聖人のお言葉が身にしみました 。

諸行無常  ー  いつ何が起きて 今の幸福はどうなるやら 分りません 。
本当に 信じられるもの 、 頼りになるものは 実は 人生に無いのです 。
あって欲しいと 願いながら生きているだけです 。
 だから 正月の初詣の願かけに 国民の半分以上が 行くのは 不安だからです 。
 しかし 願ってもどうにもならないのが 現実です 。
 生 老 病 死苦は 逃れられません 。
日本は 自殺者 3万 人近く 、自殺未遂は その10倍以上あり、自殺予備軍は  また その10倍以上 300万とも言われます 。
 平均寿命は世界一 。経済的にも いい方なのに  、それほど 人生には 苦しみが満ちているのです 。
  本当に 裏切らないものがあるのか?
  無常の世に  、魂の 一人旅に  、連れはあるのか?
 どんなに苦しくても 生きる意味はあるのか。それは何か 。

 この答えが 南無阿弥陀仏 念仏なのです 。

人間には、生まれ難い 。
  ーーー 歴史が 、両親の行動が 、何か 一つでも 違っていたら ・・・。
 また 愛情がなかったら ・・・。
私は この世に生を 受けることも 、育つこともできませんでした  。
生きているのが 不思議です 。
本当に 人身 受け難しです 。

 仏法 聞き 難し
 ーーー祖母や 母に育てられたおかげで  私は  仏法に近づき 、
  「  この世は無常であり、自己の本性に 真は無く、自己中心に生きているだけで 死の先も知らず  、ただ 恐れ 見ないように生きている。  危ない生き方をしている者  」 と知らされました 。
       
  私は ようやく 「  仏法聞けや  」の祖母 、母の勧めが 分ってきました。
「よし 今度こそ 聞かせて頂こう 」と決心したのは 23歳でした 。

 では その 仏法とは何か 南無阿弥陀仏とは何か 。
「  第2章  」へ入って 行きましょう 。

  「 あなたの 白道 」    
  
  元  ・     親鸞会 講師部       
  元 ・ 福井県 本部長

 現 ・ 中央仏教学院・通信 3期生

                嶋田 久義

 皆さん お久しぶりです 。 
 嶋田です。

 8年前に「 私の 白道 」を書かせて頂きました。

「  私の白道 」には、
「  親鸞会の教えの 間違い 」と、
「 本当の親鸞聖人の み教え 、南無阿弥陀仏の心  を 求めた 私の 体験手記  」
を書きました 。

 多くの方に 読んで頂き、 ご連絡も頂き、
ご法話会場でも お会いして、 共に 真の念仏者の道を 歩ませて頂き 本当に幸せでした 。

有難うございます。

本当に 「 書いて 良かった 。 」 と 心底 思いました。
  
 親鸞聖人の「 恩徳讃 」のご和讃が身にしみます。
    
  「 如来大悲の 恩徳は 身を粉にしても報ずべし
  師主知識の 恩徳も 骨を砕きても 謝すべし」

   そんな 私に 一大事が また起きました。

 昨年の 11月末 、ただの 風邪だと思い 、市販の薬を飲んでいても治らず、息苦しくなり 福井日赤病院へ 行くと
「 突発性 肺炎 」と診断され 即 入院。絶対安静 集中治療が 始まりました 。

  その時、私の肺は 半分しか機能しておらず、医師からは「  あと2日 遅れていたら 死んでいました  。」と言われました。

 45日で退院しましたが、 私は  突然、鼻へ 酸素チューブ を差込んで呼吸しないと、生きて行けない身体に なってしまったのです。
勿論 仕事も 全く 出来ません。
生活は 総て ベットの上だけです。
トイレも 自分で 歩いて行くことも 出来ず、ベッドの上です。
肉体的には 廃人同様です。

しかも その後 2度も 入退院を繰り返し、8月10日にも 夜中に 死ぬほど息苦しく 急救車で 日赤に 飛び込みました。
「 あと 30分か1時間 遅れていたら 死んでいました」と 医師から 言われるほど 悪化していました。
 集中治療室に5日間 寝かされ、個室に移されて、それから ずーっと 今も 入院中です。
  今回の 4度目の 入院で 臨終が 近いと 分ります。
 退院はもう無理で 今回の 入院で 最後を迎えるでしょう。
もう迫っています。
      
 そこで 最後の力を ふりしぼり 「 あなたの 白道  」を 書きました。
 今回 入院して 25日目で やっと パソ コンを 開くことが出来ました 。
嬉しくて 涙が出ました。また 書ける、最後まで書けると。
 ベッドの上で パソコンを 開き 打っては 横になり 打っては 横になり 書いているので中々 進みません 。
「  命の ある間に  書き上げたい 。」 
この思いだけでした 。

 昨年 11月に 入院してから 「 あなたの 白道 」 を書こうと思いました 。
 68年間 生きてきて どれほど 多くの方の ご恩を受けてきたことだろう。
 病室で 振り返って みると 何の 恩返しもしていないことに 呆れました 。
 親鸞会しか 見えていませんでした。
兄妹 子供 親戚  友達 知人 会社の同僚 同級生ーーーなどほったらかしです 。
このまま 死ぬのは  申し訳ない思いになりました  。

 「 他力の信を えんひとは
   仏恩 報ぜんためにとて
   如来二種の回向をば
             十方にひとしく 
    ひろむべし     」 親鸞聖人

 親鸞会だけに 偏っていました。
 十方にひとしく ひろむべしでした。
   
「 私の白道 」 は 親鸞会 の問題と 私の体験を 書きました 。
 今度の 「 あなたの 白道 」 は 2つの 内容です 。
     
 一つは 「 仏法に ご縁のあまり無い方に 聞いてもらいたい。」そのことを 考えて 書きました。
1章から3章は 「 浄土真宗の入門編 」です。
浄土真宗の正しい 教えですから 間違って聞いている方にも 読んでもらいたいです 。
   
妻は、1章から 3章を 本にして、私の 葬儀に 配る手配をしています 。
それで 結構 。本望です 。

  二つには 「  親鸞会の 間違い  」を  4章から 6章に 、「  私の白道  」より 深く 書きました  。
 未だ  そこが分らない方に  分ってもらいたい 心一つ  で 書きました 。

 5月から 書き始めて 何とか 間に合いました。

 どうか、読んで 下さい  。
こんな 嬉しいことはありません  。
   
 阿弥陀様 有難うございます

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏


( 目次 )

       

   第   1   章      仏教に 出会うまで 


   第   2  章   仏教 とは  


   第   3  章    聖道門仏教ーー悟り難い教え

                          浄土門仏教ーー真実の教え


●「  教行信証 」こそ「  あなたの白道  」です

           

( 真実 ) 

  信ずべきものーー救われる教え

       

・ 経 ーー 大無量寿経  本願・名号

・ 行 ーー 17願 南無阿弥陀仏の名号

・ 信 ーー 18願 他力 回向の 信心

・ 証 ーー 11願 浄土 へ 往生して 成仏

・ 真仏土 ー12・13願 

                           浄土は光明無 量、寿命無量


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( 方便 ) 

    捨てるべきものーー浄土へ往生できない


・  化身土ーー19・20願  

                          化土しか往けない

                          すぐ 成仏できない 



 第  4  章      会長への手紙

                                       質問 4つ

第   5  章  3名の 告白 手記


第   6   章   問題  の  まとめ


 会員 、特専部 、講師 の 皆さんへ 


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次回は、

「   第  1   章     仏教に出会うまで   」

を 掲載します。


 一人でも   多くの方に   読んで頂きたいので、このブログを読まれた方は、  友人や、知人の方に 紹介して頂けたら   有り難いです  。

 よろしく   お願い  いたします。

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