仏教は 仏に成る 成仏の教え 。

では どうすれば 成仏できるのでしょうか 。
   
○ 仏教 には大きく分けて 2つの 成仏法が 教えておあります。  
 1 聖道門ーー自力で修行して 成仏する 。
    
 2  浄土門ーー仏の願いに よって 成仏する  。

「 聖道門 」の教えとは 煩悩によって 悪業を 造り その報いを 受けるのだから 煩悩を 修行によって 滅してしまおうという教えです 。
・ 元々 我々には 「 仏性 」 があり それが、煩悩の汚れ、垢によって 迷っているにすぎない。
煩悩を滅する 修行をすれば それらは無くなり 成仏できる 。
仏も 浄土も 自分の心の中にあるのだ、それを 修行で 悟るのだ 。
 ーーーこれが根本的な考えです

唯心の弥陀 己心の浄土と言います
      
・ 悪因悪果 善因善果 自因自果 を 根幹とします 。
 ですから 仏教の 根本の教えは こうなります 。
 
七仏通戒偈ーーあらゆる仏の 共通の教えとは

 諸悪莫作ーーー諸々の悪を 作すなかれ  
 衆善奉行ーーーもろもろの 善を 奉行せよ
 自浄其意ーーー自ら 其の 意を 浄くする
 是諸仏教ーーー是れ 諸仏の教えなり

その 為に 250もの 「   戒律 」を作り 悪を抑えて 修行に励みます 。
戒律を守って修行する人だけを 僧といいます 。

一例として
 ・ 不殺生ーーーーー生きもの を殺さない
 ・ 不偸盗ーーーーー盗まない
 ・ 不淫 -----性行為をしない
 ・ 不妄語ーーーーーウソをつかない
 ・ 不飲酒ーーーーー酒を飲まない
 ・ 不蓄金銀宝ーーー財産を持たない
   
どうですか、このように 250戒もあります 。
ひとつを 完全に 実行するだけでも 大変なことです 。
 奈良 東大寺の中の 「 唐招提寺 」は 日本が 中国から 招いた「 鑑真和上」が 日本の僧に 戒律を 授けた寺です 。
それほど 聖道門の教えでは 戒を大事にします 。
  
○ また 
六度万行 諸善万行 善根功徳 ーーを求め
廃悪修善、悪を廃して、善を修め、善に励みます  。

・布施ーー施すーーー相手のことだけ思って 親切をする
・持戒ーー戒律を守るーーー250戒を守って 修行をする 。
 ・忍辱ーー忍耐するーーーどんなに苦しくても 耐えしのぶ
・精進ーー努力するーー-怠けず 油断せず 精一杯 努力する
・禅定ーー反省するーーー誤魔化さず 自惚れず 自己反省する
・智恵ーー仏の教えで 自己を見る

出家して これらを  生涯 実践するのが、聖道門の教えです 。

○ 聖道仏教は  「 易信難行 」と言われます。
因果の道理が基本ですから、教えを信じるのは 易いのですが、実行が 難しい のです 。
   
日本の 代表的な 聖道門の宗派です。
    奈良・東大寺ーー華厳宗ーーー聖武天皇
    奈良・興福寺ーー法相宗
  高野山ーー真言宗-ーーー空海
  比叡山ーー天台宗ーーー弘法
  永平寺ーー禅宗 ---道元

○ では これで 仏になれるのかというと、
 聖道門 自力の仏教には 問題が 三つ あります 。

(   1   )時期によって 結果が 変わるのです 。
    これを 三時  と 言います 。
   
・ 正法の時機ーーお釈迦様が亡くなられて 500年間。 教えを守り 修行するから 悟り がある 。

・ 像法の時機ーーその後 1000年間 。
  教えはあるが 、修行しても 悟るまでに至らない 。

・ 末法の時機ーーお釈迦様が亡くなられ  1500年後 末法に入る 。
 教えだけになる  。 修行する者も、悟る者も いない  。
         
日本では 平安末期から 鎌倉時代が末法の始まりです 。
 法然上人、親鸞聖人が お生まれになったころです 。
 時代は 平安の貴族社会から 鎌倉幕府の武家政治に変わり 、日本中、常に戦があり、また 蒙古襲来や  自然災害にも見舞われ  民衆は、「 末法が 到来した  」と 恐れました。
 このことを  親鸞聖人は 教えておられます 。
 「  釈迦の教法 ましませど
   修すべき 衆生なきゆえに
   さとり うるもの 末法に
  一人も あらじと 説きたまう 」 
    
( 2 )修行が 出来る僧だけの 法門です 。
 
出家して、戒律を守り 一生修行する人だけの教えです 。
在家の人の教えでは有りません 。
菩薩の道であり、堅固な精神力がないと出来ません 。

( 3 )成仏するのは 遠い未来であり 今生では有りません 。

52位の 仏覚まで 到るには 「三惣祇百大功」と 言われ 生死生死を 重ねて修行を続けなければ成りません 。

・( 法華経 )に お釈迦様が 弟子の 阿難に
「 修行すれば 百千万劫の後に 仏になれる」と予言して おられます。阿難は 飛び上がって 喜びました 。
 劫とは 仏教で教える期間で 大変な長さです 。
 40里(160キロメートル)四方の倉の 中に ケシの実を 入れて 100年に 1粒 取り出して 倉が空になる期間ですから 想像も出来ぬ 時間です 。
それほど 大変なことです 。
 
ですから 「  釈迦の前に 仏なし 釈迦の後に 仏なし  」と 言われ、 未だ 仏覚まで 悟った人はありません  。

・ お釈迦様 の次は 正法の時期の インドの高僧・龍樹菩薩が、41段まで 悟られました 。
 まして 現代は末法です 。誰もいません 。
    
  私は 福井市に住んでいますから 永平寺の禅僧を 時々見ます 。
 禅僧は 寺を継ぐには 永平寺で ある期間修行しなければ なりません。寺には 規則があり 集団生活では 守られていますが、
 休日になると 福井市に出てきて 焼肉店 すし屋に入って  食べるのを 見ました、何度も。。
 肉や 魚を食べることは 殺生になります 。
永平寺は 昔からの 肉抜きの 精進料理 であり 寺に入る前に 十分食べていた人にとっては 我慢できないということです 。
 これで 「 不殺生  」の 戒律は破られています。
 結婚もしていれば 「不淫---性行為をしない」も 破られています 。

末法に 戒律を守って 修行する人は 有っても稀ですね 。

750年前 親鸞聖人を 「   破戒坊主 堕落坊主 」と批判  攻撃した側が 今は  「破戒坊主    堕落坊主  」に成り下がっています。

これが 末法です 。
     
 ○ 法然上人は 比叡山・天台宗で 法華経の修行を 16歳から43歳まで まで 26年間されましたが、しかし、悟り難い法だと 断念されました 。

○  親鸞聖人も 9歳から 29歳まで 20年間 同じく 法華経を 修行されましたが 
「  生死 出るべき道ではなかった  」と、
比叡山の修行を 捨てられました 。
      
 お釈迦様の 説かれた仏法ですから、正法の時機に 修行が できると者であれば 、さとりに 近づくことはできます 。
 しかし 今は 末法 。
 煩悩にまみれた凡夫では、悪は造っても 真実の 善根 、功徳は積めない 。 とても  さとりどころでありません 。

蓮如上人も教えておられます 。
「 釈迦一代の説教なれば まことに是 殊勝の法なり 。
 もっとも 如説にこれを 修行せん人は 成仏得道すべきこと  更に疑いなし。
 しかるに 末代の このごろの衆生は、機根最劣にして 如説に 修行せん人 稀なる 時節なり 」 ご文章3-2
       、
○ これで 「  聖道門  」ーーー 自力の 修行で 成仏をしよう という教えで、私達が 仏になることなど、出来ないことが 分かられたと 思います。
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● では  

・浄土門
     ーーー「  仏の願い  」に よって成仏する。
 
とは どんな 教えでしょうか 。
       
○ 阿弥陀仏の 本願を聞いて 浄土に往生して 成仏する教えです 。
 
これを 詳しく お釈迦様が 説かれたのが「 大無量寿経 」です 。 

・「 それ 真実の 経を 顕らわさば 大無量寿経 是なり  」   親鸞聖人
      
 真実とは 何のことでしょうか 

○ この 経には 阿弥陀仏の本願、名号が 説かれています 。これが真実です  。

「 如来の本願を 説きて 経のと 宗致 とす
  すなはち  仏の名号をもって 経 宗致の体とするなり 」 親鸞聖人

○「 如来 世に 興出したもう ゆえんは 
 ただ 弥陀の 本願を 説くためであった 」
                            ーーー正信偈  親鸞聖人

お釈迦様が この世に現れて 仏教を 説かれた 目的は 、ただ 阿弥陀様の 本願 一つを 説かれるためでした  。
   
● では 「 大無量寿経 」の ご説法の ままを お伝えします  。

「 大無量寿経 」は  上巻、下巻の 二つあります 。

これからの 内容は 上巻です 。
「 はてしない昔に 世自在王仏と申し上げる仏様が 世に出られた 。
 その時 一人の国王があって 、世自在王仏の説法を聞き  深く感ずるところがあって  、王位を捨てて 修行者なり 法蔵と名乗った。
 法蔵は 生きとし生ける苦悩の衆生を救いたいという 願いをおこし、世自在王仏に その決意を訴えられた 。
     
 法蔵の訴えを聞かれた 世自在王仏は 「それは不可能に近い至難の業であるが そなたの決意が 不退転のものであるならば 必ず願いは
果たされるであろう」と激励し、法蔵の求めに応じて、諸仏の浄土を 現出して見せしめられた。
     
 法蔵は それらの浄土を くわしく観察し その中から善なるものを選び取り 粗悪なものを選び捨てて 未だかつて例のない勝れた浄土を画き「 人々をそこに生まれさせたい 。もしこの願いを実現することが 出来ねば 自分も仏になるまい  」という 願いを建て 
それを 成就するために 五劫という長い間 考え続け、ついに四十八願を建てられた 。
 しかし願いだけでは目的を達成することはできない 。
 法蔵菩薩は そのために 長い長い間 修行を積みました 。
そしてついにその目的を果たして、仏となられました 。
その名を阿弥陀仏といい それは今から十劫の昔でありました 」 と説かれています 。

 ここまでが 上巻の お釈迦様の ご説法です 。
 
これを 「 弥陀 成仏の因果 」と言います 。
 阿弥陀様が 法蔵菩薩から 阿弥陀仏と成られて 浄土を建立して、私達の 成仏すべき 全ての 条件を 完成されたと 説かれているのです 。

● 阿弥陀仏について お話しします 。

 阿弥陀というのはインドの言葉の 音写で
  「  限りの無い  量りの無い  」という意味です 。
何が限りないの かというと 光明と寿命が 限りないということです 。
 阿弥陀経の中に 釈尊が舎利佛という弟子に対して、
・ 「かの仏の光明無量にして十方の国を 照らすに障碍するところなし 。
 このゆえに号して阿弥陀とす 。
 また 舎利佛 かの仏の 寿命およびその人民 も無量無辺阿僧祇劫なり 。
ゆえに 阿弥陀仏と名づく」

と説かれているのがそれです 。

 光明無量というのは どこでも照らしているということ。
 寿命無量というのは いつでも照らしているということですから、
 空間的 時間的 無限を あらわしています。
いつでも どこでも照らしているということになれば 、この仏の光明に 照らされていない人は一人もありません 。
 あなたも 私も  この阿弥陀様の光明の中に すでに いるのです 。
 しかしそのように言うと、でも私たちはその光を見ることができないではないか  という疑問が出ると思います 。
 なぜ 見ることができないのか といえば 私たちの目は煩悩に おおわれているからです 。
 丁度 太陽はすべてのものを同じように照らしていても 目をふさいでいれば それを見ることが 出来ないのと同じです 。
  
 それを親鸞聖人は
「煩悩 眼を障へて見たてまつらずといへども 大悲 ものうきことなくして 常に 我 を照らしたまふといへり」と教えておられます。
 科学的実証主義に育てられてきた現代人は 目に見えないものはないものだと速断してしまいます 。
 けれども反省して見なければならないは  私たちの目はそれほど、よく見える目であるかどうかということです 。
 私たちは親の愛情や 人々の親切を見ることはできません 。
 しかし 目に 見えなくてもそういう人々の 愛情の中に生かされていることは間違いのない事実です 。
 だから こうして 生きておれるのです 。
     
さて「大無量寿経」や「阿弥陀経」には 法蔵菩薩が 阿弥陀仏と 成られたのは、 今から 十劫の昔であったと説かれています 。
     
親鸞 聖人も
・「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 
  法身の光輪 きはもなく 世の盲冥をてらすなり」
 と歌われるのですが、また別の和讃には
・ 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど  、
塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ 」
と歌われています  。
     
「塵点久遠劫よりもひさしき仏」というのは はじめのない昔からの仏、という意味です 。

これは どうゆうことでしょうか 。
      
十劫の昔に阿弥陀仏と成られたのか、 それより遠い昔から 阿弥陀仏あったとは 矛盾しているように聞こえます 。
 仏様に 法性法身の 仏様と 方便法身の仏様が おられるのです 。
その 間系を お話しします 。

・ 「 法性すなはち法身なり 法身は 色 もなし 形 もましまさず  。
 しかれば 心 もおよばれず 言葉も たえたり 。
この一如より 形 をあらわして 方便法身と申す御すがたを示して 法蔵比丘と 名のり たまひて 不可思議の大誓願を 起こし あらはれたまふ」
と 親鸞聖人は 述べておられます 。

 つまり 法性法身というのは私たちの見ること も考えることもできない絶対の真如の仏様です。
  その絶対の 世界から 私達 を救うために 法蔵菩薩となられて 願を 起こし 修行して 成仏せられたのが 阿弥陀仏です 。
 この仏様が 十劫成仏の 方便法身の 阿弥陀様です  。

 いいかえれば 
阿弥陀仏というのは本来 私達の認識を超えた不可思議ですから 「  法性法身   」です。
そのままでは 私達は 信ずることも 念ずることもできないので、その真如の仏様が  認識の出来る 法蔵菩薩 と名のり 修行して  方便法身の阿弥陀仏と成られたのです 。

 名号を「 方便法身の 尊号 」 と申します。
 絵像、木像の阿弥陀様を 「 方便法身の 尊像 」と申しあげるのは このことです 。
私達の 認識の出来る 仏様に 成って下さったのです 。

・「 仏心というは 大慈悲心 これなり 」

 六道迷いの 私達を ご覧になられた 真如、法性法身の阿弥陀様は 、「  助けてやりたい 」の 大慈悲を起こされますが、このままでは 助ける ことは 出来ません  。
私達との 因縁が無いのです 。
迷いの 衆生を助ける 仏に成りたいと、 仏の位、から 降りて 法蔵比丘と 成り下がられて 修行の し直しをされたのです 。
私達を救う 仏様に成って 下さったのです 。

 蓮如上人は ここを ご文章に教えられました。
  
「 ここに 弥陀如来と申すは 三世十方の諸仏の 本師 本仏なれば 、久遠実成の 古仏として 今の如き 諸仏に 捨てられたる 末代 不善の凡夫・五障 三従の 女人をば
 弥陀に限りて 「 われひとり 助けん 」という超世の 大願を 起こして 、われら 一切衆生を 平等に救わんと 誓いたまいて 無上の誓願 を起こして すでに 阿弥陀仏と 成りましけり 。 
 この 如来を 一筋に たのみたてまつらずば 末代の凡夫、極楽に往生する 道 一つも 二つも あるべからざるものなり 」

これで 分かられたでしょうか 。
人間世界で 例えていえば 「あの娘は いい子だなー」と思って好きになったとします 。
しかし 何もしなければ 想いは 届きません  通じません 。
 そこで 言葉をかけたり、ラブレターを書いたり プレゼントしたり 、デートに誘ったりの行動で 自分の 気持ちを 伝えます 。
見えないもの 触れないもの 聞こえないもの 心、気持ちですが 、伝えるには 表現します 。
それと 同じなのです 。
   
● それでは阿弥陀様は どのような願を建てられたのでしょうか 。

 四十八の願いがあります 。

  ・ 阿弥陀様が 光明無量(第十二願)寿命無量(第十三願)の仏となり、その名号を諸仏にほめさせ(第十七願)、西方に浄土を建立されて (第三十一.第三十二願)と願われるのも
 ひとえに衆生をその浄土に生まれさせたい、成仏させたいからです  。
 それが 第十八願です 。
だから 四十八願の 根本の本願は 十八願 なのです 。
「  大無量寿経 」は これを説かれたのです。
  本願と名号です  。
●  第  十八  願 ーー( 阿弥陀仏   )
   本願の中の王

「   設我得仏 ---ーー たといわれ仏を得たらんに
   十方衆生 ---ーー 十方の衆生を
  至心信楽欲生我国ーーー至心に 信楽して わが国に生ぜんと欲ひて
  乃至十念 ーーーーーー乃至 十念せん
  若不生者 不取正覚 ーもし生まれずば 正覚を取らじ
  唯除五逆 誹謗正法ーーただ 五逆と 誹謗正法とをば 除く
     分り易く 言います

  ○設我得仏ーーーー必ず 助けて見せる
   十方衆生 ーーー大宇宙の 人々よ
   至心信楽欲生我国ーー本願を信じて 
   乃至十念    ーー念仏を 申さば
   若不生者 不取正覚ーー仏に成る
              若し出来なければ 私も仏に成らない
   唯除五逆 誹謗正法ーーどんな 悪人でも

この中の「若し生れずば正覚を取らじ」という 誓いこそ 阿弥陀様の願の特長です 。

 「十方の衆生が浄土に生れることができなければ 自分は 覚り を開かない 。
  仏には成らない 」
と誓われ 衆生の往生と 自身の正覚とを 一体に誓われた 。この願こそ 阿弥陀様の 根本の願いをを 示すものです 。
 
それで  法然上人は「本願中の王」と言われ、
親鸞聖人は「選択本願」とか「本願」と言われました  。
 このような願い は他の仏に例のない 勝れた 願ですから「超世の願」とも呼ばれます 。
この誓願が成就して 法蔵菩薩は十劫の昔に阿弥陀仏となられました  。
その仏の名号を「 南無阿弥陀仏  」いいます 。
ですから親鸞聖人は しばしば「本願成就の名号」とか「誓いのみ名」といわれます 。
 
 そうすると 本願成就の 阿弥陀仏は遠く浄土の蓮台の上にじっと坐っておられる仏様 ではなくて その本願の 通りに はたらいている 仏様ということになります 。

  十八願は 
 「われを信じ  わが名を称える者を  必ず往生させる」 という誓いですから 、
 阿弥陀仏は「われを信じ わが名を称えよ」「 必ず往生させるぞ   」とはたらきつづけ
喚びずめ 立ちずめ 招きずめに あなたを 待っておられる 仏様なのです 。
 そういう仏様 であることが 「 南無阿弥陀仏  」という名号です  。
これをか全徳施名 といいます 。
仏の 功徳の すべてを 名にあらわした ということです 。
 全徳とは、五劫の間 本願を考えられ、兆載永劫が間 修行された 功徳の 総てということです 。
 これが 「 南無阿弥陀仏 」の 六字の中に 納まっているのです 。
    
 
● 南無阿弥陀仏 の名号 とは
 まず「 南無 」というのは 「 ナマス  」 という語の音写で 「   帰命 」と翻訳されます 。
 「  帰命 」というのは「 帰順勅命 」ということで「おおせにしたがう」「おおせにまかせる」という意味ですから「   信心 」のことになります  。
 「 阿弥陀仏 」というのは 
 すでに述べたように 光明無量の仏 、智慧慈悲円満の仏という意味ですから
「  南無阿彌陀仏 」というのは
「   智慧と慈悲を  完全にそなえた我に  まかせよ  」という意味になります  。
  
そのことを明らかにして下さったのが
親鸞聖人 の 南無阿弥陀仏 六字釈です 。

● 「南無の言は帰命なり  ここをもつて 帰命は本願招喚の勅命なり  。
  発願回向というは 如来すでに発願して 衆生の行を回施したまふの心なり  。
  即是其行 というはすなはち 選択本願これなり  」               教行信証行巻

 これは 「南無阿弥陀仏いうのは 阿弥陀仏が衆生を 救いたいという願をおこし 、仏の上にできあがった 功徳の すべてを衆生に与えたいという 心のこもった喚び声 である」ということになります  。
  一口に言えば「 南無せしめずにはおかない阿弥陀仏 」ということです 。
 南無阿弥陀仏 名号は 単なる仏の 呼び名ではなく 、まして無意味な呪文の言葉 でもなく     阿弥陀仏がその 功徳の 全てを 衆生に 与えたいと願われた、慈悲の心の現われ  である ということが 分ります 。
  阿弥陀仏は、本来 私たちの認識をこえた 絶対の真如というべきものでありました  。
 その 世界から、衆生との因縁 をもつために  法蔵菩薩に成って下さり 、 願と行を積んで覚りを 開かれた阿弥陀仏でありました 。
 しかしその阿弥陀仏も光明無量、寿命無量の仏ですから 煩悩におおわれた私の目では見ることのできない仏様です 。
 そこで その徳の 全てを 名として表現し 声となって喚んで下さるのが名号です 。
 名号とは仏の名前である と 共に 仏の名のりなのです 。全てであり 命です 。
 仏の方から全身全霊をあげて 喚びかけて下さる「 本願招喚の 勅命 」です 。
 
・ 名という字は 夕という字と口という字とが 一つになった字で 、夕方 になると暗いから 相手の顔がわからない そこで口で自分の名前を名のって 相手に 告げる という意味があります 。
・ 号という字も号令とか号叫という熟語でわかるように「大声をあげる」という字です 。
つまり 名号は 煩悩のために 仏様 を見ることが 出来ない この暗黒 の世界に向かって 仏が大声をあげて 自分の存在を 知らせようとされる名のりの声なのです 。

言葉は 人間に与えられた 宝物です。
人と人の 間は 言葉でつなぎます
仏様と 私とは 言葉で つながれています 。
阿弥陀様は 私のために 南無阿弥陀仏 という 言葉の 仏様に成られました 。
「 音声仏 」の 南無阿弥陀仏 。念仏です 。
耳から聞いて 今 ここで 生きてはたらく 音声法の 救いの 阿弥陀様です 。
  
絶対なる仏と  凡夫の私とが 交渉をもつ接点はただこの仏の喚び声を聞くという一点にしかありません。
こんな 救いの 方法を 五功かけて 考えて下さったのです 。
どうして 成仏出来る 全功徳を 与えたらいいのかです  。
 全徳施名ーーー他の仏には 絶対に 考えつかない 救済方法です 。
だから 十方 三世の 諸仏方は 驚き 褒め称えて 南無阿弥陀仏を 説いて  勧めて おられるのです 。 阿弥陀経には このことを  説かれています 。
 この名号のいわれを聞き  この名号を通して 私にかけられた 仏の願いを信ずるとき
「 われ 阿弥陀様 と共にあり  」という喜びと感謝の心が恵まれます 。

このように 読まれた方があります

「  われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 
   ぜひに 来いよの 弥陀の 喚び声 」

「 われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏
    連れて帰るの 弥陀の 喚び声 」
    
そのことを示されたのが「大無量寿経」の 「 下巻 」の 
「 十八願 成就文 」の お釈迦様の お言葉です 。
 本願は 阿弥陀様の 誓いの言葉  
    成就文は お釈迦様の 本願の説明のお言葉です 。
   
● 十八願 成就文ーー( お釈迦様 )
「 聞其名号 ーーーその名号を聞きて
  信心歓喜 ーー 信心歓喜せんこと
  乃至一念 ーーー乃至 一念せん
  至心回向 ーーー至心に 回向したまえり
  願生彼国 ーーー かの国に 生まれんと願ずれば
  即得往生 ーーーすなはち往生を得て  
  住不退転 」ーー不退転に住せん

○ 「 聞其名号 ---十七願 成就の 南無阿弥陀仏を聞いて、
                   
   信心歓喜 乃至一念ーーー信心歓喜、十八願では信楽であり 信受して、うち任せて
一念は、信心に 二心無しです 疑い心 無しです 。
     至心 回向 -----至心を回向せしめたまえり
  これは「  他力 回向の信心  」ということです 。
 私が起こす 自力の信心では ありません 。
  願生彼国 」-----彼の国 極楽に生まれんと願うのも 信心から 出てくる願いですから 他力です  。
自力の信心ではありません     

● 聞其名号 ---●仏願の生起 本末を聞いて 疑いの無いこと
     
「 聞というは 衆生 仏願の生起 本末を聞きて 疑心 あることなし    。
これを 聞というなり  。
信心というは すなわち 本願力回向の信心なり 」                        
                                              「教行信証信巻」

親鸞聖人は
「 聞くとは 名号・南無阿弥陀仏 を聞くことである  。
 名号を 聞くとは 阿弥陀様の 本願の いわれを聞くということです 。
 本願のいわれを聞くとは 生起 本末を聞くということです 。
 生起とは  そんな 本願をなぜ 起こされたのかを聞き 
本は何か、末は何かを聞いて  疑いの無くなったのが 聞くということだ  。
      
 これが 他力 回向の信心で ある 」 と 教えられました  。

蓮如上人もこのように 教えておられます 
「 信心獲得すというは 第十八の願を 心得るなり  。
 この 願を 心得るというは 南無阿弥陀仏の すがたを  心得るなり 」 
                                                    御文章

 南無阿弥陀仏の いわれ 生起・本・末を聞けと言われます 。
      
・仏法は 聴聞に極まる 聞け 聞けとは このことです 。


●●●●● あなたの 白道 ●●●●●

 これが 「 あなたの白道 」です 。
ーー南無阿弥陀仏です
                     回向の他力信心です

では 「 生起 本末 」を お話しします 。

● 生起 
 阿弥陀様が 私達、 十法衆生が 六道輪廻を繰り返して 苦しんでいるの ご覧になって 助けて やりたいと 大慈悲心を起こされ
法蔵菩薩となられました 。
 そして どうして この苦しみが 止まないのか その 理由を 調べられました  。
 実態 調べです。 一劫 かかられました 。
分ったことは 六道輪廻して 当然の 悪業煩悩の衆生と いうことでした 。
 因果の道理で 悪因悪果 当然でした 。
     
       
・「 さるべき 業縁の  もよおせば---恐ろしい 縁が来たならば
 如何なる 振る舞いも すべしーーー欲や 怒りや 愚痴で 何でもしてしまう 親鸞だ

・「 いずれの 行も 及び難ければーーー心からの 善の出来ない 親鸞は
  地獄は 一定 住みかぞかし 」ーーー地獄へ 堕ちて 当然である

・「 煩悩具足の 衆生は もとより 真実の心なし 清浄の 心なし
   濁悪 邪見の 故なり 」親鸞聖人

・「 悪業をば おそれながら すなわち 起こし
  善業をば あらませども 得ること あたわざる 凡夫なり」
              親鸞聖人

 煩悩の垢にまみれて 仏になれるような 清浄な心はなく ウソや 偽りで へつらいの心ばかりで 真実の心を持たない私です。
     
 こんな 悪性な 私達に 善をせよ 功徳を積め と言っても 無理です 。
 迷いから 迷いを 繰り返し 三悪道へ堕ちる 種まきしか出来ない者に、何を言っても 無駄と見抜かれたのです 。
自力では 絶対に 六道から離れられない 助からない者です 。
私が原因でありました 。
これを 「 生起 」と言います、

● 本   
 そこで 法蔵菩薩は こんな 私達を どうしたら 助ける ことが出来るかと お考えになたのです 。
 五劫が間 、衆生済度の方法を 思案されたのです、五劫思惟と言います  。
 そこで、ああせよ、こうせよ、ここまで 出来たら 助けてヤルと 言っても
無駄だから こんな 私達の罪業を 全部 自分が 引き受けて 、それに 勝る 功徳 善根を 積んで 助けてみせよう 。
 この功徳を 全部 与えて 救って見せようという 本願を 建てて下さったのです 。
 これを 「 本 」と言います 。

● 末
 この 願を 成就するために 兆載永劫という 、私達の 理解出来ない 長い間 六度万行 善根 功徳を励まれ 、
遂に 私を助ける 阿弥陀仏と 成られ お浄土が出来ました  。
今から 十劫の昔です  。
迷いの 私達が 浄土に生まれて 成仏するのに 必要な 条件を 全て ととのえた 南無阿弥陀仏の名号を 成就して 私達に回向されて
いるのです  。
   
蓮如上人 は ここを ご文章に教えておられます。
 
・「この 大功徳を一念に 弥陀を たのみ申す 我ら衆生に 回向まします
 故に 過去・未来・現在の 三世の 業障 一時に 罪消えて 正定聚 の 位 また 等正覚の位なんどに 定まるものなり 」
  
煩悩具足の凡夫が 往生成仏 出来る 南無阿弥陀仏を 成就されたのです 。
これが 「 末 」です  。
             
・「ここに 弥陀如来の 他力本願と申すは 今の世(末法)に於いて、かかる時の衆生を 旨(目的)と助け 救わんがために、五劫が間 これを思惟し
永劫が間 これを修行して 「 造悪不善の衆生を 仏に成さずば 我も 正覚 成らじ 」誓い 願を 立てましまして、その願 すでに成就して 阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)と 成らせたまえる仏なり 。
 末代 今の時の 衆生は この仏の 本願にすがりて 弥陀を深くたのみ
 たてまつらずば 成仏すると いうこと あるべからざることなり 」  
     
 それ以来 喚びずめ 立ちずめ 招きずめに あなたを待っておられます 。

・ これが 仏願の生起 本末 です 。

●  六字の喚び声
この真実心が私の聞かぬ心に至り届いて下さるのです 。不思議 不思議です 。

 これから阿弥陀仏のお心を記します
ーーー私に到り届いた南無阿弥陀仏の心です 。

「三世の諸仏に見捨てられたとは何と哀れなことだろう 可愛そうなことだろう 。
 煩悩具足の汝よ お前の後生は一大事だ 堕ちるぞーあぶないぞー。
 六道輪廻・、三悪道だ一息切れて 地獄で泣くお前が哀れで可愛そうで見捨てておけぬのだ 。
 悪人 凡夫のままで救うことは出来ぬものかと五劫の思案をしたのだ 。
 お前がお目当て 正客の本願なんだよ 。
本願を成就しようと 永い修行の末  、
 ついに十劫の昔 正覚を取ったぞー 
 助ける仏に成ったぞー
 もうに南無阿弥陀仏成ったぞー

  罪が重いと心配するな  。
  遠慮するな 。 怖れるな  。
    計ろうな(無条件)凡夫そのままでい 。      治らぬ根性そのままでかまわぬ  、 注文なしだ  。
 
お前の後生をこの弥陀にまかせよー  。
我をタノメー  。早く来い 。
 引き受けたー 。我が手の中に堕ちて来い(南無の心)

我が功徳を 全部お前に与えるぞ 。
 さあ受けとれよ 。
摂取不捨  絶対に何があっても捨てはせぬぞ 、堕としはせぬぞ 。
 我が浄土に往生させて 光明無量 寿命無量 のこの弥陀と同じ仏に成るのだ 。
それが我が願いなのだ 。分かってくれー 。
我は汝の親なるぞ   。汝は我の子なるぞ  。
 さーと南無阿弥陀仏呼んでくれー。
  (阿弥陀仏の心)
   
●  大悲の呼び声
    ああなつかしやこれ衆生
    汝は覚えがあるまいが
    塵点久遠の其のむかし
    法蔵菩薩でありしとき
    汝が地獄で泣く声が
    耳に響いて肝をつき
    可愛やフビンの一念に
    胸は張り裂く思いして
    たまりかねたぞこれ衆生
    汝が前途の一大事
    一時も捨ておくことならで
    世自在王のみ前にて
    衆生を救うてやりたいが
    いかがと相談申したら
    世自在王の仰せには
    三途に迷える悪衆生
    三世の諸仏の慈悲にもれ
    必堕無間と見はなされ
    救う見込みのない奴じゃ
    とても叶はぬ望みぞや
    やめてしまうがよかろうと
    仰せを聞いた其の時は
    百倍千倍まさる情
    かくまで諸仏が捨てたなら
    どこどこまでもどこまでも
    是非に助けてやりたいと
    重ねて相談申したら
    その時王の仰せには
    それ程助けてやりたくば
    四大の海の潮をば
    唯の一人でくみほして
    底の珍妙宝珠をば    
    力があらば悪凡夫
    助けらるるであろうぞと
    仰せられたる御一言
    聞いた其時や何よりも
    嬉かったぞこれ衆生
    汝が苦 しむ苦を抜いて
    楽をあたえてやりたさに 
    大磐石の上に座し
    汝は三塗に泣き叫ぶ
    汝の罪がふかき故
    五劫が間もかかったぞ
    諸苦毒中に身を沈め
    炎や氷の中に落ち
    苦しむ間さえ一念も
    汝を忘れたことはない
    可愛い可愛の念力で
    成就しあげた南無阿弥陀仏
    これが衆生とこの弥陀と
    切っても切れぬ親子ぞや
    汝が地獄に堕つるなら
    南無の二文字の首がとぶ
    首がとんでは一大事
              阿弥陀もともに地獄おち
    阿弥陀が浄土に居るからは
    汝を迷いの世にやおかぬ
    これこそ真の親子ぞよ
    若不生者の約束は
    口にかからぬ真実ぞ
    汝と別れて何んとしよう
    不取正覚で出来た身が
    汝を離れてなるものか
    因果ぼとけの弥陀じゃもの
    いやではあろうがこの弥陀を
    少しは不思議と思いくれ
    弥陀から衆生にたのむぞと
    おなさけづくしの御親切
    親子の相伝に何がある
    うそもまこともあらばこそ
    何もないぞよ南無阿弥陀仏
    あるからでるやらないじゃやら
    知らずに出てくる南無阿弥陀仏
    きじも鳴かずば撃たれまい
    汝か地獄で泣いた故
    誓願不思議で救われる
    さても尊や南無阿弥陀仏
    南南無阿弥陀仏 無阿弥陀仏

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● 「 念仏の 雄叫び 」 ( 法蔵館 )
      
       増井 悟朗

NHKの「 宗教の時間 」に出演されました。 大変 分りやすい 本です 。
お勧め 致します 。