第 3章  ②
● ここまで 読まれて いかがですか 。
  疑問が 出てきましたか 。

①・ 六道輪廻すべき 者が 六字の功徳で 往生成仏できるなど 不思議です 。

自因自果 の道理に 反して 他因自果の ように思えます 。

② ・ 阿弥陀様の 全功徳を どうして 六字の名号に収まるのか 。
収められたのですか、理解出来ません 。

③・ 南無阿弥陀仏と 阿弥陀様は 音声仏と成って 喚んで 助けて下さい ますが 、喚ぶだけで 聞くだけで どうして 救われるのか 分りません 。
全功徳が 聞くだけで どうして 私のものになるのですか 分りません  。

真面目に聞けば 以上のような 疑問が出てきます 。
 私も そうでした 。

では このことについての話をします 。

○ ① の疑問について。

他因自果ではないか

この世でも、親は子供の ために 一生懸命に 働き、その全財産を 子供に 渡します。
子供の幸せを願う 親心 です 。
苦労したのは親 、もらうのは子供 、おかしいと言う人は有りません 。
あなたは 親から 財産相続すると言われたら 他因自果だから 受け取りませんと 言いますか 。
親の 心からの 願いでも 拒否しますか 。
だれも しませんね 。
ご恩を思い 感謝して 有り難く 頂きます 。阿弥陀様も 同じです 。

・ 四つとせー よくよくお慈悲を 聞いてみりゃ
 助ける 弥陀が 手を下げて まかせてくれよの 仰せとは ホンに 今まで 知らなんだ

受け取ってくれよと 差し出して おられるのです 待っておられます 。
遠慮せずに 南無阿弥陀仏を 頂いて下さい 。大慶喜されます 。
 あー分ってくれた 。受けてくれたー
と喜ばれます

○ ② の疑問に ついて

阿弥陀様の 全功徳を どうして 六字の名号にされたのですか

現代の科学的技術は 発展して 特に 集積回路は すごいです 。
スマートホンの 中に どれほどの 機能がつまっているか 私などは 、
その 少ししか 知りません。使いません。
100年 前の 人に 機能の 説明をしても 誰も信じません 。
 電話で 遠くの人と話せる。メールが打てる 。テレビが見れる(動く画像など信じないと思います) 計算機になる  財布代わりになる カメラになるーーーなど 、
今 当たり前のことが 昔の人は 信じられません 。
3センチ 4センチの切手ほどの 集積回路・チップの中に 全世界の本が全部 収まるそうです 。
何百万、何千万冊あるか 知りませんが 内容が 入るのです 。
 小さく 小さく することが できます 。
100年後は どうなっているやら 想像できません 。
 人間でも 科学の力で、これだけの ことができます 。

「 大無慮寿経 」 下巻に お釈迦様は こう説法されました 。
・ 「 十方恒沙の諸仏如来 皆共に 無量寿仏の 威神功徳の 不可思議なるを 讃歎したもう 」
 ーーー大宇宙の 仏方が 全て 阿弥陀仏の 威神功徳・南無阿弥陀仏の 不思議な 力 働きを 讃歎・褒め称えている。

・ 「 若し (南無阿弥陀仏の功徳を)広説せば 百千万劫にも 窮め 尽くすこと 能わず 」

 ・ 南無阿弥陀仏の六字、 喚び声の仏様 となられたのは 私達に全功徳を回向 して 助ける ためです  。
五劫かかって 考えられた 究極の 救済方法なのです 。
称え易く 保ち易い 念仏です 。
全徳施名ーーー何と尊い お計らいでしょう。
三世の諸仏方も 不可思議な 功徳と 褒めたたて おられます 。

私達は、この世を生きることは、ある程度、理解し、判断出来ますが、 後生のことなど  全くわかりません。

「  南無阿弥陀仏  の おはたらき 」は、真理を覚られた仏方でさえ、口をそろえて 不思議と 褒めて おられます。 仏様でさえ 不思議なのです 。

お釈迦様も 百千万劫 かかっても その功徳は 説けないと 褒め称えておられます 。
そんな 仏様でさえ 不思議と言われる 南無波阿弥陀仏を  私達の 凡夫の智恵で 理解することは 不可能です 。

ストロー で 天を見ても 見えるのは ほんの 一部です 。
そんな 程度の 自分の智恵の限界を  わきまえずに 「  全部 知りたい   」など と思うのは 自惚れです。
 私も 先生から「 あんたは それほど 知恵者かね 偉いかね 」
 と言われて ハッと 気づいた 自惚れ屋でした 。

この不思議 は、不思議のままで 救われますから 全く 問題ありません 。


○ ③ の疑問につて
喚ぶだけで、聞くだけで どうして 阿弥陀様の 全財産が私のものに なるのですか。

南無阿弥陀仏は 阿弥陀様の 喚び声です 。常にはたらいて喚んで おられます 。
音声仏です 。

「 正覚の大音 響流 十方 」 です 。
「 我をたのめ 助ける 」の喚び声です 。
あなたの称えている お念仏が 阿弥陀様なのです 。
 もう 届いて いるのです 。
今 あなたの 口から出る 念仏がそれです。
遠い 西方浄土に 座っておられません 。
もう あなたの ところへ来ておられます 。
分ってくれよと、 念仏が出ているのです 。
自分で 称えているように 思いますが 、
阿弥陀様 が叫んでおられるのです 。

この 声を聞くとは、仏心 大慈悲心を 受け取るということです 。

阿弥陀様は
「 末代の凡夫 罪はいかほど 深くとも 我を 一心 一向に たのまん 衆生を 必ず 救うべし   」
と喚んで おられると 蓮如上人は 教えておられます 。

 何と喚んで おられるか よーく 聞いて下さい  。

「 たのめ たすける、 さーやるぞ 受け取れよ 」と仕上げて 下さっているから、六字の 全財産は 私のものとなるのです  。

「 信心を獲れ  」と 蓮如上人が 言われたのは   お前のために ご用意下さったものだから 、お前のものだから 、「 獲れ  」 と
言われました 。

テレビで、「  男女の出会いの企画の番組   」をやっていますが、最後に 男性が これと思う 女性の前に 進んで 手を差し出して
「  お願いします!  」と言います 。 すると 女性は 「 よろしく お願いします  」と言って カップル 誕生です。
男性の 呼びかけを聞いて 、男性の好意を知って ハイと返事したのです  。
心が 通じたのです  。

・ 広い田畑 や、大きな家を 相続させたいと思う親は 「 権利書 」 を用意して、 息子に「 お前に 相続させる 受け取ってくれ  」の 一言で 渡します  。
それを 聞いて 「 ハイ 分りました 有難うございます  」で、 全財産の相続 します 。
人間同士でも 難しくありません  。

十とせー 称える み名のそのままが
連れて 帰るぞ 待っている
間違わさぬの 仰せとは
ホンに 今まで 知らなんだー

「 聞 即 信 」の信心です 。
名号 六字に その はたらきが あるのです 。
込められた 仏心 大慈悲心を 頂くのです 。
聞くだけです  。

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● おさらいをします

少し 難しく なってきましたが 頑張って くださいね 。

○  親鸞聖人は 生涯 阿弥陀仏の本願、念仏を 教えてゆかれました  。

ー正信偈ー
「 帰命 無量寿如来
---親鸞 阿弥陀仏に 帰命いたします 。
 南無 不可思議光」
--ー阿弥陀仏に 南無いたいます 。

帰命・南無
ーーーおまかせいたします。信順無疑 です 。


○「 弥陀の 誓願 不思議に 助けまいらせて 往生をば とぐるなりと 信じて
念仏 申さんと おもいたつ こころのおこるとき すなわち 摂取不取の 利益に あずけしめ たもうなり 」(歎異鈔)

このように ご自身の 救いを 述べておられます  。
親鸞聖人は 生涯 十数種の お聖教を書き残しておられます  。
その中で 最も 心血を注がれたのが、
「 教行信証 」です 。
教行信証  は、
「 教 行 信 証 真仏土 化身土 」の六巻 から成っています。

○  真実ーーー報土往生して 即 成仏する 真実の願、教え 。

・ 経  大無量寿経 本願・念仏が説かれています

・ 行  十七願 (諸仏称名の願) 南無阿弥陀仏・名号

・ 信  十八願 (至心信楽の願) 本願を信じ 念仏を申せば 成仏する

・ 証  十一願 (必至滅度の願) 往生し成仏する

・ 真仏土 十二願(光明無量の願)
      十三願 (寿命無量の願)

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○  方便ーーーー報土 往生できない  化土へ往生する 。
すぐ 成仏 出来ない 方便の願、教え 。

・ 化身土
十九願 (修諸功徳の願) 善をせよ 助ける
二十願 (植諸徳本の願)念仏せよ 助ける

● 方便の願だから 捨てよと教えられました

一番の 問題は 十八願を 疑っている人です 。
この 大罪が 分らない 人です 。

これで 六巻ですが 「  凡夫の往生成仏  」を 誓われたのは 、「   第十八 願  」です 。
その 十八願の 心を 五願(十七・十八・十一・十二・十三)に 開いて 教えられたのが 親鸞聖人です 。

また 十八願を 疑っている人を(十九・二十願 ) 厳しく、諌められたのも 親鸞聖人です 。
これは 後で 話をします  。


○  どうしたら 凡夫が 往生成仏  できるのか 。

 親鸞聖人は 「 教行信証 」の行巻の 「 正信念仏偈 」に 書かれています 。

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○ 本願名号正定業
ーーー 十七願の 諸仏称名の願、 名号成就の願で誓われた 南無阿弥陀仏は 正定業である往生成仏の願力がある 。

○ 至心信楽願之因
ーーー この念仏、この仏心、他力の信心を 回向して 本願を信じ 念仏する者は 成仏させる  。

若し 仏に出来ずば 正覚を取らない と誓われた 。 この 十八願が 因である 。

○ 定等覚証大涅槃
ーーー 、等覚に成り、大涅槃を証る、仏の証り をひらくことは

○必至滅度願成就
ーーー 十一願が成就しているからである 。
 往生する者は 成仏させるという願があるからだ  。

•  この 「経行信証」の 四法をもって 「私達は往生成仏ができる。救われる。」
と 親鸞聖人は 教えて下さいました 。

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● だから
「 念仏成仏 是 真宗 」というも 十七願成就の名号不思議の願力で 往生成仏出来ると教えられ 、
「 信心正因 称名報恩 」 と言っても 十七願成就の名号を 信受して 往生成仏できると 教えられたのですから 、
 どちらも同じ心です  。

共に 十八願の 心です 。

ですから 十八願を 「 念仏往生の願 」とも言われました  。

● 法然上人は 念仏で 教えられ
  親鸞聖人は 信心で 教えられましたが 、 念仏でも 教えておられます。
同じ心です 。

・ 源信僧都は
「極重の悪人 他の方便(教え)更になし 。 唯 弥陀を称すべし  (念仏せよ)  」

・ 法然上人は
念仏の一行です 。
「 ただ 往生極楽のためには 南無阿弥陀仏と申せば 疑い無く 、往生するぞ  と思いとりて 申すほかに  別の 仔細候わず」(一枚起請文)

と 言われました。

・ 『選択本願念仏集』の結論で
「 正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。 名を称すれば かならず生ずることを得。 仏の本願によるがゆゑなり。」

・ 親鸞聖人は 歎異抄に 念仏の信心で 教えておられます
「 親鸞におきては 「 ただ 念仏して弥陀に  たすけられまいるべし」と よき人(法然上人)の 仰せをこうむりて 信ずるほかに 別に 仔細なきなり   」

・『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を解説して
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す 御ことなりとしるべし。
正因といふは、浄土に生れて 仏にかならず成るたねと申すなり。

・『末灯鈔』には、
 「 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば  極楽へ迎へん と誓はせたまひたるを ふかく信じて となふるが めでたきことにて  候ふなり。」 と仰っています 。

 真実の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん 。 と誓はせたまひたるを ふかく信じたこと  」です。

正信偈には 信心で 教えておられます 。
「  生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす 。
 すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって  能入とす   。 」

蓮如上人はこれを
「 生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ 還ることは  疑情のあるによりてなり。また   寂静無為の浄土へ   いたることは信心のある  によりてなり。
されば『選択集』にいはく、
「   生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信を もつて能入とす  」といへる、このこころなり   」

法然上人は 念仏の一行を 勧められましたが 、その念仏は 疑いの無い 真実信心であったと 分ります 。

・ 蓮如上人は
「  されば 南無阿弥陀仏の六字の心は  一切衆生の報土に    往生すべきすがた なり 」    (後文章 5ー8 )
念仏を離れた 信心は 無いということです 。

「  十七願の 念仏  」と 「  十八願の 信心 」は セットなので

○ この 関係を 忘れないで 下さい 。

間違えて 聞いている人が 実に多いのです 。


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● もっと 詳しく 言います 。

難しいと 思われる方は  飛ばして 読んでください。

十八願の心 「 本願を信じて 」を知るには 「 本願の 至心  信楽  欲生我国  の三心 」を知らねばなりません  。

○ 親鸞聖人は 「 教行信証 」に この「 三心 」を詳しく書かれています 。

・「 この至心は すなはち これ至徳の尊号の体とするなり 」
 至心の体は名号ーーー至心とは真実心です 。南無阿弥陀仏です 。
「 我に任せよ 必ず救う」と喚びたもう真実心です 。

 救う働き 本願力が出来上がっていると言うことです 。

・「 すなはち 利他回向の 至心を もって信楽の体とするなり 」

信楽の体は至心ーーー南無阿弥陀仏を回向
されるから、名号に疑いの無い心です 。
仰せのままに、うち任せた心で、たのみに
なった心ですから 、疑蓋 雑わること無しともいいます 。
 疑い無しの 心です 。

・「すなはち 真実の 信楽をもって 欲生の体とするなり 」
 欲生の体は信楽ーーーー浄土に生まれられる
という 決定心で 信楽に収まっている心です。  お任せになった  ということは  、自分の方から 往生を願い求める心を起こす必要  はありません 。

これが 十八願に誓われた 三心であり、中心は 信楽です 。
これが 他力の信心の すがたです 。
この 三心は みな 南無阿弥陀仏の心です 。

これを 忘れては いけません 。

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●  ここを 読んで おられる方は 二通りあります 。

救われた 信後の方と まだの信前の方です 。

信前の方にも 三通りあると 私は思います 。

① まだ 聞き初めで よく分らない 。

大丈夫です このまま 重ねて聞いて下さい 分ってきます 。
「 合点ゆかずば 合点ゆくまで聞きなさい 聞けば 合点のゆく 教え」と言われています。実際そうです、
質問も ドンドン して下さい。

② 南無阿弥陀仏のいわれ 仏願の生起本末を 聞かねばならないのに とんでもない先生(悪知識)から 間違った 話しを聞いている 人です 。
そんな 先生が 実在しています 。
これは 重病です  救われません 。
西へ行かねばなあないのに、東へ向かっているようなものです 。
本人は これでいいと思い込んでいるので 間違いと気づくのには 大変な ことです 。

実は 私も これで 35年間も だまされ 迷いましたから 恐ろしいことです 。

ですから 、この 3章は ものすごく 神経を使い気を 張り詰めて書いています  。

絶対に 間違えてはいけないことだからです 。

③ 正しい先生から 南無阿弥陀仏の いわれ 生起本末を 聞いて  よく 合点していても 救われない人があります 。
私も そうでした 。
なぜ でしょうか 。

親鸞聖人のお言葉です 。

「 真仮を知らざるに よりて
ーーー本願に真実と方便があると 知らないから、区別を知らぬから

如来 広大の恩徳を 迷失す  」
ーーー阿弥陀様の  救いに  あえないのだ  。

真仮廃立 信疑決判 真実と方便 の区別が 出来ていないのが 原因です 。

真実を 素直に 受け入れない 心、 疑い心が原因です 。

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●  真仮廃立 信疑決判 真実と方便の区別が 出来ないとは どうゆうことか、疑い心とは何か を書きます 。

ここを 最も 問題にされたのが 親鸞聖人でした 。

そのために、教行信証の 「 化身土の巻 」を書かれました 。

○  真実 5巻ーー報土往生して 即 成仏する 真実の教え・願
     ・ 経  大無量寿経
     ・ 行  十七願
     ・ 信  十八願
     ・ 証  十一願
     ・ 真仏土 十二願
           十三願
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● ・ 化身土 ーーーーここです 。ここが 問題です 。

○ 十九願 (修諸功徳の願)
ーー 善をせよ 助ける という本願です 。

○ 二十願 (植諸徳本の願)
ーー 念仏せよ 助ける という本願です  。

なぜこの 二願  、方便( 仮 )では 「助からぬ」と言われ 「捨てよ」と言われるのでしょうか。
● 十九願は 善をして 助かりたいと 願う者を臨終に 迎えにいくと 誓われた願です 。

なぜ この願を 阿弥陀様は 建てられたのでしょうか 。
十八願の 誓いを信じらない 者でも 往生を願っている者を 哀れに 思われたからです 。
お慈悲な 阿弥陀様は 見捨てることが 出来ないからです 。
 ですから この十九の願は 阿弥陀様の 本心ではない、方便の 願と 親鸞聖人は 見抜かれました 。
 私達の心に 合わせて 随がって 建てられた 願と見られました 。
 「   随他意の願   」と言います  。
「  他  」とは   「  私達  」です  。

● 十八願は 阿弥陀様の 本心そのものの 願ですから 「   随自意の願  」と言います。 ご自身の心のままの願といことです 。

そこで 助けるとは 浄土、報土でなく 化土と言われる浄土の片田舎に 生まれるのです 。
 そこで 疑った 罪のため 五百歳 仏法も聞けず、仏も見れません  。
これが 「  化土往生  」です 。
善根功徳の出来た人は ここへ 往くのです 。

念仏往生の願 十八願  南無阿弥陀仏の 六字に 私を 往生成仏させる 不可思議な 功徳があると 思えない人です 。
十九願の人は そんな 上手い話は おかしいと思う、つまり  疑っている人です 。
おまかせできない 人です 。
だけど 後生が心配になるので 、目をつけたのが この十九願です 。
 因果の道理を信じて( 善因善果 自因自果 )で 善根 功徳を積み上げて 浄土に 生まれよう 助けてもらおう  とするのです 。
これなら 自分にも 出来る 助かると 思って ヤル 人です 。
 善いことすれば 善いところへ 往けると 思うのです 。
 これを 「  信罪福心 」 と言います 。
私達の 常識の心です 。
「 雑行 自力の心 」と言います 。
 私達は 皆 この心を もっています 。
 あなたもです 。
 しかし 親鸞聖人は これを やってるつもりでも、
「 悪性 さらに やめがたし
  心は 蛇 蠍のごとくなり
ーーー心は ヘビのよう 、サソリのようだ 。

  修善も 雑毒なるゆえに
ー--善も してやっているの 毒がある  。

 虚仮の行とぞ 名づけたる
ーーー清浄な 善でない 見せかけだ  。

「 虚仮 雑毒の善をもって
ーーーまことでない 善や 功徳で

 無量光明土に 生ぜんとと欲す
ーーー浄土へ生まれたいと願うが

 これ必ず 不可なり 」
ーーー絶対に 不可能だ、助からない 。

 バッサリと 斬り捨てて おられます 。

それは 親鸞聖人が 真実の善など出来ない 煩悩具足の人間と  知っておられるからです。

「 自力 諸善の人はみな 仏智の不思議を疑えば
 自業自得の 道理にて 七宝の獄にいりにける 」
七宝の獄とは  化土です 。

「 定散諸機 格別の 自力の ひるがえし
ーーー十九願の人よ  諸善をやめて

如来 利他 の信心に 回入せんと願うべし」
ーーー南無阿弥陀仏を 信じなさい、まかせなさい 。

「 仏智 疑う 罪深し
この心 思いしるならば
   悔ゆる心をむねとして
 仏智の不思議を たのむべし」

ーーー本願を疑う 罪の 深さ 恐ろしさ を知って、 早く、南無阿弥陀仏を信じなさい 。まかせなさい 。

と教えておられます 。
十九願 の  雑行を 捨てよ  です 。

● 二十願は 念仏を 称え それを 回向する者を   臨終に 迎えにゆく と誓われた 願いです 。

この願を 建てられた 阿弥陀様の 心は 十九願と  同じです  。
お慈悲です 。

ですから この二十の願も 阿弥陀様の 本心ではない 方便の 願と 親鸞聖人は 見抜かれました 。

私達の心に 合わせて 随がって 建てられた 願と見られました 。
 「   随他意の願  」と言います 。
  「  他  」とは  私達です  。

十九願と 同じく 、「  南無阿弥陀仏 一つで 救われる、 まかせよ 」 と聞いても 信じられずに 疑う人です 。
「 雑修 自力の 心 」と言います 。
 私達が もっている心です 。
そこで 十九願の 善より 比べものにならない 功徳の本である 念仏を 称え 、自分の 功徳として 阿弥陀様に さし向けて 助かろうとするのです 。
 阿弥陀様と 取り引きする 心です 。
自力の 念仏です 。

 「 本願の 嘉号( 念仏 )を もって おのが 善根とするが故に
 信を生ずること あたわず  仏智を さとらず 」

○ 自力の念仏では 浄土へ往って 仏になれないと 教えておられます  。

「 真実信心の称名は 弥陀回向の 法なれば、
 不回向と なずけてぞ 自力の称念 きらわるる   」

念仏は阿弥陀様から 回向されるもので こちらから 、 「   これで 助けて下さい   」と お願いしながら 称えて 自力回向する ものではありません 。


「 専修の人を ほむるには 千無一失とおしえたり
 雑修の人を きらうには 万不一生とのべたもう」

他力の念仏 ( 報謝の念仏)を 称えている人は 千人いても 全員 浄土往生出来る 。
自力の念仏の 人は   万人いても  ひとりも 浄土往生は出来ない 。

「 仏智不思議をうたがひて
      善本・徳本たのむひと
              ---自力の念仏を励む人は

    辺地懈慢にうまるれば
              ---化土に 生まれて

    大慈大悲はえざりけり   」
               ーーー法が聞けない 。


「 自力 称名の人はみな
  如来の 本願 信じぜねば
  疑う 罪の深きゆえ
  七宝の獄にぞ 入らしむる   」
             ーーー化土にしか往けません 。

蓮如上人は
   「 口に 称名念仏 ばかりを 称えたならば 極楽に 往生すべきように 皆 思えり 。
おおきに おぼつかないことなり 」と言われました  。

○ これで ハッキリ したことは 自力の善根功徳や  自力の念仏では 浄土へ往生して 成仏できないということです  。

その 原因は 共に 「 本願 念仏を  疑う  」    という罪です  。

皆さんは 疑うことの 罪の重さが分りますか 。
 疑う 位 どうして と思いますか 。

実に これこそ 過去無量劫から 私達が 流転輪廻してきた  根本原因なのです 。

正信偈に 書かれています 。
 「 生死輪転の家に還来することは、決するに疑情をもって   所止とす  。
       すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって  能入とす 。」

 蓮如上人はこれを
「 生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ 還ることは  、疑情のあるによりてなり。
 また寂静無為の浄土へ   いたることは信心のあるによりてなり。
 されば『選択集』 にいはく、
「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信を  もって能入とす  」といへる、このこころなり」

分られましたか 。

だから 親鸞聖人は 真仮廃立 信疑決判 を厳しく 教えられたのです  。

 疑い心を 本願疑惑 疑情 自力の迷情 不定の心 二心 とも言います 。

●  では 疑うことは どうして それほど 罪なのでしょうか  。
問題でしょうか  。

・ ここに 病気の 人がいます。 病気が進んで 亡くなると
 「 あの人は 病気で 死んだ 」と言います 。
 しかし 病院へ行かず 薬も 飲まなかったら
 「 あの人は 医者へ 行かなかったから 助からなかった 。 死んだ  。 」と言います 。

 私達は 悪業煩悩で 毎日 罪を造り その報いで 六道輪廻を  繰り返しています 。
病気だという 例えです 。
しかし、その 病気を 完全に 治す 薬が完成していて  それを 疑って 飲まなかったら その疑いが 原因で死にます 。

これと 同じで、 南無阿弥陀仏を 疑う罪とは このことす 。
阿弥陀様が 五劫 兆載永劫かかって 成就して下された 南無阿弥陀仏の ご苦労 お慈悲を 否定することだからです 。
疑うとは  まかせられない とは そうゆうことです 。

了解 出来ましたか 。

十九願・二十願の人は この、疑う人だから 善をしても 、念仏を 称えても 化土になるのです 。
 親鸞聖人は 法然上人の お弟子であった時 380余人の 同じ お弟子の 法友が いました  。
 ある時 親鸞聖人は 友達の 信心を 調べられました  。
すると 真実信心を 得ていた人は 4・5人で 、後の 人は 皆 十九願・二十願念仏の 人でした 。
 法然上人から 同じ 弥陀の本願 念仏を聞きながら 、 自力の心で 聞く人 ばかりであったということ です。
 それで 自力・他力の 区別 廃立を 示されたのです 。
 それほど 自力の心 疑い心は 私達の心であり 最も  恐ろしい心です 。


私は入院して こんな話しを 考えました。

息子が久しぶりに 里帰りしてくる 。
母親は 喜んで 息子の 好物を 腹一杯 食べさせてやりたいと、材料を 用意して 仕込み 心を込めて ご馳走を 用意した。

そこへ 息子が帰ってきて「 さーご馳走を 用意したから 、 食べなー」と言ったら
「 あーお腹が 減ったで 途中の コンビニで おにぎりと  カップラーメンを 食べたから もう いい 。食べたくない。  」
と言ったら どう思うでしょうか  。
 腹一杯食べて
「  あー美味しいかった。お母さんの 料理は
  日本一だ。御馳走さん  。」の 言葉を待っていたのに 、この 馬鹿息子は 親の心知らずの 親不幸者です 。

●  実は 親鸞聖人も 法然上人から 本願・念仏の 教えを  最初から 正しく 素直には 聞けなかったのです 。
疑われました。

 法然上人は 念仏の一行で 教えられました 。
 「 ただ 往生極楽のためには 南無阿弥陀仏と申せば 疑い無く 、 往生するぞと思いとりて 申すほかに 別の 仔細 候わず  」
                                            (一枚起請文)

「 正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。
名を称すれば かならず生ずることを得。
 仏の本願によるがゆゑなり  」

この お言葉だけ聞くと 念仏さえ 称えたらいいのかと思い 、また こんなこと位で 助かるのだろうかとも思います 。
称えながら 疑うことに なります 。
二十願の人です  。
親鸞聖人も 法友 と同じ 思いになられたことがあったのです 。

「 化身土の巻 」に こう 体験を書かれました  。
「 三願転入の文 」と言います 。

●「 十九願の諸善万行をやったが  すてた  。
   二十願の念仏もすてて 、十八願へ 入   った 」
 と書かれています  。

 「 愚禿釈の 鸞 雑行を すてて 本願(十八願)に帰す 」
  親鸞聖人 29歳 の時の ことでした 。

● ここで 気をつけなければ ならないのは 十九願(    雑行 )、二十願 (  雑修 )は あくまでも すてものいうことで 教えて おられます 。 「  廃  」 です 。
立つは ひらう 信ずべきもの 、十八願です 。

○  ところが 親鸞聖人が やられたから 自分達もやらねば助からない  。  十八願に救われる 条件のように 教えるとんでもない 人がいます 。

 気をつけて 下さい 「   捨てよ  」です 。

ですから 親鸞聖人の書かれた 十数種の お聖教の中に 十八願の救いにあうためには 十九願・二十願をやれという勧めは 一切ありません 。
 化土巻だけ 体験として 書かれました 。
ヤレでは 有りません 。 すてものとして 書かれました 。

 私は これで 間違った 知識から聞いて 35年間  迷わされましたから、念を 押しておきます 。

蓮如上人の 後文章 80通には 何十ヶ所も

 ● 「 雑往 雑修の 自力の心を 投げ捨てて 弥陀タノメ  」 と 書いて おられるのも このことです。

 「 身口意の乱れ 心をつくろい めでとうなして  浄土へ 往生せんと思うを 自力と申すなり」(末灯鈔)

○ そうすると 中には そうか 善もしなくていいのか、念仏も称えなくても いいのか あー楽だ と勘違いする人があります  。
 雑行・雑修では 往生成仏できない と言うことだけです 。
 日常生活で 善をしなければ 不幸になります 問題が起きてきます  。
常識です 。分りますね 。

○ 「  自力の念仏では往生成仏できません 。」
こう聞くと、信前の 念仏は 何にもならない 。  念仏は 信後の お礼、ご恩報謝の念仏に 限る 。信前の念仏は  無意味だと 念仏を教えない人が あります 。

こんな 極端な話は 気をつけて下さい 。
念仏のない 浄土真宗は 浄土真宗ではありません 。

 親鸞聖人 蓮如上人は 念仏称えるな 。信後まで 称えるなとは   教えておられません 。

 「 信心の人に 劣らじと
   疑心 自力の行者も
   如来大悲の恩を知り
   称名念仏 励むべし」

  「 定散自力の称名は
    果遂の誓いに帰してこそ
    教えざれども
    真如の門に転入す  」

「  阿弥陀様の やるせない 大慈悲心が  こめらられた 南無阿弥陀仏  」と 、
 聴聞して  「  生起本末  」を 聞けば 信前の人も 称えずにおれません  。
 まして 阿弥陀様の 喚び声が 今 私の 口から出る 念仏と聞けば 、南無阿弥陀仏に 信前も 信後のありません 。
生きた 阿弥陀様です  。
今 念仏となって はたらいておらるのです 。
 信仰が 進めば 念仏を称えるように なってきます  。
 信前の 念仏は 何にもならないと 称えないような人は 聞き間違いです 。

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