● さて 十九願・二十願に 心をかけるべきではないと 分られたと 思います 。

ですから 浄土真宗 では これを 問題にしません 。
勧めません 。 説きません  。 当然です 。

その 上で 最も 大事なことを 話しします 。
ここからが 一番 難しい 難信のところに 入ります  。

浄土真宗の 人が 聞法者が 一番 泣かされる 苦しむところです  。

十九願 二十願に 向く心 思いを捨てても 実は 自力の心は  捨ててはいないのです 。

 今度は 十八願・南無阿弥陀仏・仏願の生起本末に 向いて 起きてくるのです  。

○  自力の心とは
疑い心・ 本願疑惑・ 疑情・ 自力の迷情・ 不定の心・ 二心 とも言います 。

阿弥陀様の 十八願・念仏を 疑う心は あるのです 。
 どんな 心かと言いますと、
 地獄 極楽は 本当に有るだろうか 。
 有っても 地獄へ行くと思えん。
 こんな 欲や怒りや 愚痴の多い 自分なんか助かるだろうか 。
 聞いても すぐ忘れる、こんな自分でも 助かるあろうか 。
 聞く一つで助かるなんて 本当だろうか  。
 この世で 正定聚 仏になるに決まる人、死ねばすぐ仏とは 信じられない 。本当だろうか 。まかせられない 。

自分はそうなりたい 。しかしどうしたら 信じられるのか 。
おまかせになれるのか 。
助かりたい 。  楽になりたい 。 安心したい。喜びたい  。
 信心決定 早くしたい 。
臨終までに 助かりたい 。

こんなに 求めているのに、苦しんでいるのに 、なぜ救われない  。
阿弥陀様は どこにおられるのか。
私は駄目なのか 。
あーどう聞いたらいいのか 。
どう思えばいいのか。
どうしたらいいのかーーーさっぱり分らない、誰か 教えてくれー。

ここへ 追い詰まります 。
どうですか 、あるでしょう 。

これは どんなに 頑張って 捨てようとしても 自分の力では  すてられません 。
丁度 自分の座っている 座布団は 自分で 持ち上げることが 出来ないの  と同じで 、
自力の心とは 自分そのものだからです 。

「  自力と いうは 我が身をたのみ 我がこころをたのむ 我が力を はげみ 我が善根を たのむ人なり (一念多念証文)」

○ 広島県の おかる同行は こう 泣いています 。
( 信前 )
「 こうにも 聞こえにゃ 聞かぬが ましか。 聞かにゃ 苦労は せまいといえど 、
 聞かにゃ 堕ちるし 聞きゃ苦労  。
今の 苦労が 先での楽と 気休め言えども 気がすまぬ  。
済まぬまんまと 済ますに かかりゃ、
雑修 自力と はねだされ 、どうして 他力に なるのじゃろ 」

 分りますか  。私も ここで 鉄壁に ぶち当たりました 。
 長い 短いはあっても 、皆 ここに 泣きます 困り果てます  。

ところが ( 信後 )、
 自力 さらばと いとまをやって 我しが 心と手たたきで
たった 一声 聞いたのが その 一声が 千人力
 四の五の言うたは 昔のことよ
 何も いわぬが こっちの もうけ
「 そのまま 来い 」の勅命に いかなる おかるも 頭が 下がる 。

と 変わってしまいました 。
どうなったの でしょうか。
なぜでしょうか 。

これが 南無阿弥陀仏の はたらき なのです。

「 円融 至徳 の嘉号( 南無阿弥陀仏)は
 疑いを 除き さとりを 得しむる 真理なり」
南無阿弥陀仏の 名号不思議を 信受したことを 信心決定と   いいます 。
十八願の 「 至心 信楽 欲生我国」 の三心を 前に 書きましたが その 中心は 信楽であり  疑いのない 心です。
 ここを 信心決定と 言います 。

疑いが 無くなる 。
何の疑いが 無くなるのか。

では 何が 信じられるかです 。


それは 機( 私の  本当のすがた)
    法(   阿弥陀様の お助け )です 。

この 二つが 同時に知らされます 。
疑いなくなるのです  。
 機法 二種一具の深信と 言います 。

「 深信というは すなわち これ 深く信ずる心なり 。
 また 二種あり。

(  機の 深信  )
  一には 決定して 深く自身は 現にこれ 罪悪生死の 凡夫 拡劫より このかた つねに没し つねに 流転して出離の縁 あることなしと 信ず

( 法の深信 )
  二つには 決定して 彼の 阿弥陀仏 四十八願、衆生を 摂受したまうこと 疑いなく 慮(おもんばかり)なく 彼の願力に 乗じて さだめて 往生を得と 信ず   」

「   機の深信  」というのは、
「  機   」すなわち わたしという人間のありのままのの すがたは、いつまでたっても迷いの世界から 出るべき 縁のない 罪悪生死の凡夫である、ということを 深く信じることです。
 言い換えると 自力では どれだけ 頑張っても とても浄土に 生まれる身ではないことが はっきりと 受け取られた といううことです 。

 「  法の深信  」とは  「  阿弥陀様の本願 」は そうゆう人間を救い摂って 下さることに 少しも 間違いないことを 深く信じることです。
 阿弥陀様の本願だけは 絶対間違いないと まかせきったと いうことです 。
 注意しなければ ならないのは 二つと言っても 「  信楽  」を 両面から 説明したものです 。
だから 二種一具と 言います 。

自分の力では どうにもならない この私が 阿弥陀様の本願によって 間違いなく 救われると 信じさせられる  ということです。

これが 浄土真宗の 他力信心のすがたです 。

名号 、南無阿弥陀仏の 不思議な はたらきです 。
そうなると、機は石に  たとえ 、法を船にたとえると  石は どんなに小さくても 水に 沈むのが 自性です 。
 しかし、どんなに 大きな石でも それを乗せて渡す 力のある船に 乗せれば 間違いなく 向こうの岸に 運ぶことが出来ます 。
船に乗せても 石が 沈むという 性質が 変わった わけではありません 。
 沈むという 自性をもったままで 船の力で運ばれるです 。
 それと同じように 罪悪深重の身のままで 大悲の願船に 乗せられて 間違いなく 浄土の 岸に到る と信じられるのです 。
凡夫が 凡夫のままで 救われる 。
それが 他力信心のなのです 。

なぜなら
「 弥陀の 本願には 老小 善悪の人を えらばれず 。
 ただ 信心を 要とすとしるべし 。
その 故は 罪悪深重  煩悩熾盛の 衆生を たすけんが ための 願にて まします  」 (歎異抄)

名号のいわれを 聞くとは 生起本末を 聞くことです 。
仏願の生起とは 罪悪深重の 私が、ここに いたからであり、
本末は その私を 救う 阿弥陀様であったということに 疑い なくなったことです 。

ですから 信楽を 「 絶対の幸福」 などと 意味不明な 説明をして 聞く人に 幻想 をもたせているのは 全く 教えが 分って
いない人の 妄言です 。
だまされないように しましょう 。


信じる心もない 、任せる心もない 、念仏も続かない、聞く心もない 、覚えたのも 知ったのも 称えたのも 喜んだのも、救われたい 助かりたいで 求め 聞いてきたのも 、

最後は  何もない 。
どうしょうもない  。
すがるものは何もない。
と、なりました 。
自力無効です 。
これが 南無の はたらきです 。

助かるつもりが 墜ちるものだったーと知らされます 。
阿弥陀様 どうにも なりませんーと 助かる望みが ぶち 切れたとき
「 そのままーまかせよ」
と私は 聞こえました  。
その 一声で おまかせになってしまいました 。
 不思議です 本当に不思議です 。

二種深信の 体験は 人それぞれです 。

説法中に 聞こえる ひともある 。
お勤めをしていて 徹底するするひともある 。
ご示談中に 聞く人もある 。
仏書を読んで 喚び声を聞くひともある 。
仕事中のひとも 運転中の人も 風呂に入っているとき 寝る前 起きた時
場所も 時間も 関係なく 阿弥陀様 油断なく あなたを 救おうと はたらいておられます。

今 ここで あなたに 南無阿弥陀仏と 喚んでおられる その お念仏が 何よりの 証拠です 。

「 たのませて たのまれたもう 弥陀なれば
  たのむ 心も われと おこらじ 」

信じる心も お与えです 。ここまでご用意されているのです 。

「 わたしゃ あなたに たのまれて
  助すかってくれよと たのまれて
   ご恩 嬉しや  南無阿弥陀仏 」

助けさせてくれ この弥陀に 助けさせてくれーと叫んで おられます 。

● よくぞ ここまで 読んで頂きました 。
  有難うございます 。
 文章 が下手で 仏語も 多く 分りづらかたっと 思います 。
 でも よく読んで頂きました 。

これから 先は 善き先生に 出会って 聴聞をしてくだされば こんな 幸福 ありません 本望です 。

● 肉体的 限界が 近くなってきました 。
 名残り惜しいですが お別れのようです 。

「 往生ほどの 一大事
 ただ 弥陀に まかえ まいらすべし 」
                             親鸞聖人

 仰せのままです  。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


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親鸞聖人のみ教えの 特長は いくつもあります 。

①  南無阿弥陀仏は 阿弥陀様の 召喚の声である 。
南無は 帰命 本願召喚の勅命なり 。
今 私を 喚んでおられる 音声仏である。
南無阿弥陀仏に 往生成仏すべき 全功徳、
全条件が 具足している 。備わっている。
聞かせて 与える 。

②  「 信心正因 称名報恩 」
 この 南無阿弥陀仏の 喚ぶ声が、仏心が、
  到り 届いて 信心と なる 。
 阿弥陀様から 頂く信心 、他力回向の信心です 。
全功徳が 回向されるから 往生成仏の 因 となる 。
「 信心正因 称名報恩 」を教えて下さいました 。
その 信心の 内容は 機法二種一具の深信です 。
仏願の生起本末を  まことと 信じる心です 。

③ ご本尊を ご名号にされました 。
  方便法身の尊号です 。
  「 我を たのめ 助ける 」
  喚ぶ声となって 助けてくださる 阿弥陀様であることを 示されました 。

④ この 六字の心 願力不思議で、 現在 正定聚 不退転 の位になり、もう迷いの 衆生ではなくなる 。
弥勒菩薩と肩を 並べる人であり、お釈迦様は 我がよき親友と仰られ 上上人、最勝人 と褒め称えられる人である 。
煩悩 もったまま 往生定まる人です。

平生業成の 救いである 。
決して 死んでからの お助けでは ありません。
現当二益 現在も 当来(後生)も助かる教えです 。

⑤ 往生即成仏
  一息切れて 死ぬと同時に 極楽へ往って生まれ 即 、仏に成るのです 。
極楽で 煩悩を滅して 修行して 段々 仏の覚りに 近づくのでなく  往生即成仏  です 。

⑥  還相回向として 迷いの世界に 還って 衆生を済度する 。
 成仏するということは 智恵と慈悲円満な 仏ですから  苦しむ人を放っておれません 。
 「 普賢の徳に 従うなり」 と 親鸞聖人は よく おっしゃています 。
衆生済度を 強調されました 。

⑦  真仮廃立 信疑決判 真実と方便の区別です  。

これを 最も力を入れて 教えられました 。
これが 教行信証の 「 化身土の巻」です 。

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このように 親鸞聖人の み教えは 深いのです 。
一人の 勝手な 解釈を 何十年も 聞いても 正しく 知ることは出来ません 。

ここまで 読まれて これまでの 間違い気づかれた方も 多いと思います 。
どうか 外に向かってください 。
「 光に向かって 進みます 」ではありません 。

「 光は 届いています 。
      気づかないだけです 。」

南無阿弥陀仏の 喚ぶ声となって 届いています。
善き 知識から 生起本末を 聞いて下さい 。


         南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏