● 次に 第2問です。

仏願の生起本末についてお聞きします 。

私のところへ 会員さんから「  こんな本が出ました。」と「なぜ生きる 2」が送られてきました。
 読んでゆくうちに 三願転入と 仏願の生起本末 のことが書かれ、そして
 「 つぎに、本書の主眼である、弥陀は18願の誓いを果たす(大悲の願船に乗せる)ために、どうされたかという「末」の開示に移ろう。 その「末」とは阿弥陀仏の方便願である 19・20願の二願である。」182P
 本当に驚きました。

 まさか、こんなところに 三願転入を 捻じ込んでくるとは思っていませんでした。
しかも、本にまで書いてくるとは。
 ああ とうとう ここまできたかーと思いました 。

増井先生は
「高森君は私より 4年後輩で 龍谷大学の1年生の彼を見て 彼なら仏教を聞く人だと思った。
 人間 死んだらどうなるかを 真剣に考えていたからだ 。
そこで 彼に色々と話をすると どんどん聞いてきて 求めるようになって、 夏休みの後には  救われたと 言うようになった。18歳の時だった。
 自信を持って 大きな声で 説法をするようにもなったんだよ。
 そりゃー その迫力は 他の人を圧倒していたね。
 遠くからでも 彼の叫びは 聞こえたよ。凄かったねー。
 沢山の人が 彼の話を 真剣に聞き求めたもん だ。
 しかし、彼は龍大では 仏教学を専科として、真宗学では なかったんだ。
 だから 彼の 真宗学の理解は 浅い。
深い 大事な ところが分かっていない。
それで、 宿善や 三願転入を あのような解釈をしてしまうんだよ。
大変なことを 言っとるなー」
と嘆かれました 。
 彼とは兄弟のような 仲だったーーと寂しく言われました 。

仏願の生起本末の末は 19、20願と聞かれたら もっと嘆かれるでしょう 。
しかし、2年前に お浄土へ 往かれました 。

 ○ し かるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
 「信心」といふは、すなはち 本願力回向の信心 なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。
「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。
これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(信巻

○ 「聞其名号」というは、本願の名号を聞くとのたまえるなり。
 「きく」というは、本願を聞きて疑う心なきを聞というなり。
 また「きく」というは、信心をあわわすみ法なり(一念多念証文)


 高森先生 貴方は これを、取り返しのつかない 読み方をして、とんでもないことを書きましたね 。
 私は これを知って 即 貴方に 間違っていますと 書きましたが 何の返事もありませんでした。
もう 一度言います。これで 正しいと思いますか 。
 私は知っている 僧侶の人達に「仏願の生起本末の末は 19、20願という人がありますが 、どう 思われますか」と聞くと、全員 「そんな話は 聞いたことがない、、誰ですかそんなこと言う人は。 真宗ではありません」とハッキリと 否定されます。

浄土真宗ではあり得ない 高森流 生起本末説ではありませんか 。

そうでないと言われるなら 以下の質問に答えて下さい 。

・ 阿弥陀様は 私達 凡夫が 六道を迷い続けていることを 悲しまれ、哀れに思われ 助けてやりたいと 大悲を起されました 。
なぜに 慈悲ある 三世諸仏さえ 見捨てるのか 調べられました 。
迷い、苦悩の原因を 一劫が 間 かけて 総て 見抜かれました 。
 捨てる 諸仏が 悪いのではない、捨てられて当然の私でした 。

罪悪深重 煩悩具足の 私は 欲や、怒り、愚痴で 地獄の 種を蒔かない 日はありません。
今、一息切れたら 後生は一大事 地獄で す。
堕ちるに 間違いないのが私、
これが 「 生起   」です 。
・ 凡夫にその迷いの根性を治せと言っても 無駄なことと知られて、この どうしょうも無い 断善根の 者を どうして 成仏させようかと考えられたのです 。
 その為に、阿弥陀様は 仏の座から降りて 法蔵比丘となり下がり 本願を建てて、その実現のため、永い 永いご修行のし直しを されたのです 。
 これが、五劫思惟の願、兆載永劫のご修行です 。
 願も行も自分が替わって成し遂げ、その全功徳を与えてやりたい、廻向して、救って見せると願われた。
 こんな願は 、かってなかった、三世の諸仏の想像を絶する願だから
「無上殊勝の願を建立し 稀有の大弘誓を超発せり」と親鸞聖人は絶賛されました。(  正信偈  )
「 弥陀 五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとえに 親鸞一人がためなりけり」と感泣されました 。

 誰も声の掛け手の無い私を、この弥陀が引け受けましょう と立ち上がって下さった 。
これが、「本」です 。
・そして 遂に、凡夫を往生成仏させる 南無阿弥陀仏になって下さったのです 。
往生して成仏するお浄土が完成したのです 。
「 助かるに 間違いない 」成就したのです 。
それは 十劫の昔であり、それ以来「 喚びづめ、立ちづめ、招きづめ」で
ここに弥陀がおるぞー、早く分かってくれー そのまま まかせよー、と待っておられるので
す。
南無阿弥陀仏の喚び声 一つで救われるのです。  音声法です 。

「  「南無」の言は「帰命なり」、「帰命」は本願招喚の勅命なり  」 ( 行巻  )
「 喚び声 」となって、救って下さいます 。
「 凡夫 そのまま、この弥陀にまかせよー、お前の後生は引き受けたー
 堕としはせぬぞー
心配するなー弥陀が ここにおるぞー」
の喚び声が、み心が  至り届くのです 。

「 重ねて誓うらく、名聞 十方に 聞こえんと」 ( 正信偈   )

「 正覚の大音 響流 十方」(  大経 )
喚んで下さる、音声法となって 至り 届くのです 。

 この 喚び声を、六字の心を、知らされたら本当だろう かの 疑心は無くなるのですよ 。

 蓮如上人も
「 阿弥陀如来の仰せられけるようは、
「末代の凡夫、罪はいかほど深くとも
 我を 一心 一向にたのまん衆生をば(南無) 必ずすくうべし(阿弥陀仏)」と、仰せられたるなり」             (御文章 4-9)

「 かるがゆえに、阿弥陀仏のむかし 法蔵比丘たりしとき、「衆生、仏に成らずば  我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚 すでに成じたまえしすがたこそ、今の、南無阿弥陀仏なりと、心得べし」   ( 御文章 4-8 )

南無阿弥陀仏を 聞く一つで 阿弥 陀様の願いが この身に 成就されるのです 。

 「 聞 即 信 」です 。疑心なしです 。

 これが 「 末 」です 。
 だから 南無阿弥陀仏の六字の心、大慈悲心を 知らされたら、「 其の名号を聞く」ことになり「仏願の生起本末」に、疑心、疑いが 無くなると親鸞聖人は教えておれます 。

これが 浄土真宗の「仏願の生起本末」です 。
中央仏教学院の教科書にも ハッキリと書かれています 。
これが 違うと言われるなら、
どうして、 仏願の生起本末の 末が 19願 20願ですか 根拠を示して下さい 。


○ 高森流、「   末 」説は真実信心が分っていない 。
「 本 」の 南無阿弥陀仏に救い摂られるには、南無阿弥陀仏 だけでは どうにもならぬ 。19願 20願の助けが 必要だ 。
と言うのが 高森先生 貴方の 「末」 という言い方、考えですよ。

南無阿弥陀仏 に救われるための「 方法論 」として 19願 20願が必要だ と 言っていることになります 。
・ では、貴方が阿弥陀仏に救われたとき、
19願が、20願がどんな 働きをしたのですか 。
 何度も 聞きますが 貴方の 「 三願転入の信心 」 は どんな信心か 聞かせて下さい  。

・また、「 夢の中で 親鸞聖人から 回向された」とは 何を どのように 回向されたのですか 。
聞かせて下さい。
三願転入と 同じですか 。違うのですか 。 聞かせて下さい 。

親鸞聖人は 何と 仰ったのですか 。
「 雑行もやらないと 助からんぞ  。」
と仰いましたか 。
 何を、お聞きしたのですか。
回向されたのか。

 聞かせて下さい 。

○ 高森流 「 末 」説 は 日本語に なってない  。

・「生起本末を聞きて 疑心あること無し」
「末」も 疑心 あること無しです 。

19願 20願の人は 18願 南無阿弥陀仏を疑っている人ですよ 。
「   末 」へ19願、20願を 入れると「疑心あることなし」の文章にならなくなります 。

 「  うちの店には 国産牛だけですよ」、と言って こっそり オーストラリア産の肉を売っていたら、問題になります  。
混ぜて 売っていたからです。 この頃 よくあります 。
「 疑心あること無し」の「  末  」にどうして「 疑心の 19、20願」が 入ってくるの
ですか。と聞いているのです 。
 日本語、大丈夫ですか 。


○ 何でも かんでも 三願転入と言っているから、こんな 浄土真宗の イロハの「 仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし」
まで 正しく読めなくなってしまうのです 。

ここまで ひどいのは もはや 理解力でなく 私は 信心だと思います 。

 ○「顕正」の  常に虎の説法と まるっきり違う 。

「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の 本願に当る浄土宗とは違って、
十八願の願意である、信心正因称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
ーー未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて(十九、二十願)、信心を得る方法に称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。
故に教家は常に虎の説法(十八願)をしなけらばならないである。」124P

教えが 完全に ブレまくり、前と今と言う事が 違う。
矛盾が あるのに、ない顔をして 皆が忘れるのを 待っているのではありませんか  。

○ 親鸞会の 御名号 御本尊の理由

親鸞会では 「御名号 御本尊」でなければ 絶対に助からないと強調して言います。
では「南無阿弥陀仏」の心が分かっている人は どれだけあるでしょうか。
私は講師部の時、説法原稿を36部・作り、2000回以上 話をしましたが
作っていないのが 3つあります 。
それは
 「 阿弥陀仏の本願、18願文  」
 「 18願 成就文  」
 「 南無阿弥陀仏のご名号について 」

「ここは、高森先生から聴聞すべきところで、我々のような者に 説けるところではない  。」
ということでした 。
だから、40年、50年の先輩 講師からも 聞いたことがありません 。
  誰か、この 3種の原稿を持っていますか。話しできますか。

なぜ 御名号御本尊なのかー

1 親鸞聖人がなされたからだ 。
2 蓮如上人が ご名号がいいと言われたからだ 。
3 「 無上甚深の功徳利益の広大なること その極まりなし」とあるからだ 。

会員さんの御名号御本尊の根拠は この3つ程でしょう。

○  善知識の教えられる 南無阿弥陀仏の心とは

・「 信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり  」( 御文章5-5)

・「 この故に、一切の聖教というも、ただ 南無阿弥陀仏の六字を信じせしめんが為なり」
           (  御文章 5-9 )
・「 されば、この 南無阿弥陀仏の体は「われらを阿弥陀仏の助けたまえる支証のために、
御名を この南無阿弥陀仏の六字に現したまえるなり」と聞こえたり  」   (  御文章 3-5 )

・( 願行具足)
「 それ、南無阿弥陀仏と申すは、如何なる意そなれば、まず「南無」という二字は、
帰命と発願回向との二の意なり。
また「南無」というは願なり、「阿弥陀仏」というは 行なり。
 されば 雑行、雑善を投げ捨てて、専修専念に 弥陀如来をたのみ 奉りて、
「助けたまえ」と思う帰命の一念起きる時、かたじけなくも遍照の光明を放ちて、
行者を摂取したも うなり。
 この心、すなわて 阿弥陀仏の 四の字の意なり、又 発願回向の意なり。
 これによりて、「南無阿弥陀仏」という六字は、偏に 我等が往生すべき 他力信心の
 謂れをあらわしたまえる 御名なりと見えたり」                                ( 御文章 3-6 )

・  ここで、最も 大事なことは「 南無と帰命する心」は 我々に無く 「南無の心、信ずる心、たのむ心、まかせる心」までご用意して下さって、ご回向下さることです 。
だから  阿弥陀仏ではなく、南無阿弥陀仏なのです 。
ここまで、阿弥陀仏は 成就なされたのです 。

六字の心を 他力回向の信心と 明らかにされたのが 親鸞聖人ではありませんか。

「 たのませて、たのまれたもう弥陀なれば
              たのむ心も われとおこらじ  」
「 わたしゃ あなたにたのまれて 助かって    くれよとたのまれて
    ご恩うれしや  南無阿弥陀仏 」
        と詠った妙好人がいます 。

どこを 読んでも 19願、20願の話は 全く 出てきません 。


○ 高森先生と 他の先生の違いとはーーー

私は親鸞会を退会して 善知識を求め、増井先生を始め、この9年間に10名近くの先生より 聴聞しましたが、共通して、高森先生と違うことがあります。
10名ほどの先生の 話しされることは「南無阿弥陀仏・阿弥陀様のみ心」が中心です 。
 親鸞聖人のお言葉や仏語を話しされるのは 六字の心を より深く知ってもらうのが目的です 。
例えて言うと、月が南無阿弥陀仏で 教え、お聖教 の言葉は 月を指差す 指です 。

ところが 高森先生は 親鸞聖人の お言葉、根拠を話しすることが中心、目的です 。
月そのものの 話しをしないで、指ばかりの 話しと 言うことです 。
 ここが 全く違うところです 。それは聞けば すぐ感じます 。

 親鸞聖人は
「難思の弘誓は 難度海を度する大船  」
                                   ( 教行信証  )
「帰命無量寿如来ーー」    (  正信偈  )

「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせてーー」
             (  歎異抄 ) 阿弥陀仏、阿弥陀仏、阿弥陀仏であることが 分ります。

南無阿弥陀仏のお働き、心を分ってもらいたいから、書かれたのです 。

高森先生は大きな 根拠ボードに お聖教の言葉を出して それを アシスタントを使って
説明してゆかれる。説明です。

すると 皆さん 分かったように思い、今日は聴聞したぞという気分になるだけで、
南無阿弥陀仏のみ心は依然として分かりません。
それは、指の説明で 指し示す、月ではないからです 。

 南無阿弥陀仏の月の 話が出来ないのです 。

「 じっくりと、今日は  阿弥陀仏と 南無阿弥陀仏について 話をしよう」と言われたことがありますか。
そんな、ご法話テープありますか 。
だから、講師部も 原稿が作れないのです。

お聖教の言葉 を説明するだけだから、血の通わない、やる せないお慈悲を感じることなない話しになってしまうのです 。
十劫以来 「 喚びづめ、立ちづま、招きづめで 待っていて下さる」と 知っている会員さんがどれほどありますか。
「 光に向かって 進ませて頂きまーす」とやっている 。   進むんじゃない、迎えに来ておられることを知らない 。

 「 助ける弥陀が 手を下げて まかせてくれよの 仰せとは ホンに今まで 知らなんだ」
この 血のしたたる 六字の心が 親鸞会にはない 。
だから、救われる人もないのではないでしょうか 。

 高森先生の 話の 最大の欠点は 自ら南無阿弥陀仏のみ心を 話しできなことです 。
 救われた 腹 一杯を 自らの言葉で 話し出来ない、しないことです。
 また、 親鸞聖人は阿弥陀様に 照らし出された 浅ましい 恐ろしい、冷たい 我利我利の醜い自己の相を いたるところに 懺悔し 告白なされています 。
ところが 高森先生の話には それがありません 。
 照らされ 知らされた 「お目当ての機 」の 話がありません 。
「 無条件で服従」を求めておきながら、私はこん な、お粗末千万の 恥ずかしい 愚かな 無慈悲な 人間です と 言うと格好がつかず、誰も 言うことを聞かないと、 恐れているからですか。
ならば そんな 「 傲慢なこと」 は 取り下げるべきと思います。如何でしょうか。

だから、お聖教に 頼り、お聖教の説明で済ましてしまうのです。これなら心配ありません。
ずーっと 何十年 こればかりです 。

ですから、何十年 聴聞しようと 仏語を沢山 覚えても 誰も 南無阿弥陀仏が 分らないのです 。

法話後の「信心の沙汰」も 信心の体である 南無阿弥陀仏の話は出ず、 法話の復習にすぎず、また 支部長は 教学的な質問に 答えるだけで、今 暗い後生のことを 真剣に 聞く人も 答える人も 無かったと、退会した人から 幾度と聞きました。
19願や 20願の話ししか してないから 当然です 。

○ 改めて聞きます 。

どうして、 仏願の生起本末の 末が 19願 20願ですか 根拠を示して下 さい  。

一体 高森先生は 夢の中で親鸞聖人より 何を 回向されたのですか。
 聞かずにおれないのです。
貴方の 「信心」について 是非、教えて下さい お願いします。
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●  次に 第3問 です 。
「 若不生者の誓いゆえ  信楽まことにとき 到り
一念慶喜 する人は 往生必ず 定まりぬ」 浄土和讚

 この 御和讃は お勤めの六首の一つですから 40年間で何回も 聞きました。

「 阿弥陀仏の本願 18願は  すべての人を 絶対の幸福に 必ず救うのだ  」

「 若不生者の 生は 現在 信楽の心に生まれさせるという ことだ、信楽だ、
絶対の幸福だ、大安心、大満足の日本晴れの心に 生まれることだ」と
 何十回と聞きました。

「 阿弥陀仏は現在只今 救って下される、死んだらお助けなんか 医者でも言わない。
 後ろの大きな河を渡す力があるなら、どうして 前の 小さな川が渡れないのか 」
と たとえでも 言われました 。
アニメ 第2部の 善慧房との「体失、不体失の諍論」をそのまま、そうなのだと ずーっと 40年間 信じていました。

●  ところが、真宗学の深い 増井先生より
「 それは違う、生は往生成仏を誓われたんだよ 。  信楽とは その本願まことを 疑いなく 信ずる心だよ 。
これは 頂きものの心、他力回向の信心だよ」 」と聞き 耳を疑いました

「   尊号真像銘文 」 に親鸞聖人は
「 若不生者 不取正覚」というは、「 若不生者  」はもし生まれずはというみことなり。
「不取正覚」は仏に成らじと誓ひためへるみのりなり。
このこころは、すなはち 至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり」
ハッキリと、信楽と往生の関係が書かれています。生は 往生です。

● 「 信楽、絶対の幸福に 若し生まれさせることが 出来なかったら 正覚を取らない」 とは とんでもない解釈 間違いで はありませんか  。

○ 親鸞聖人は 阿弥陀仏の18願を
 「 本願を信じ 念仏申せば 仏に成るべし」
 「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にして さとりをば ひらくと ならいひ
候ふぞ」とこそ、故聖人の仰せに候ひしか 」        (  歎異抄 15章 )

ともに、信心、信楽と 往生成仏のことを 教えておられます  。

○  阿弥陀仏が 本願を 建てられた目的は 煩悩具足の凡夫を 往生成仏させて
六道迷いの世界から  救い摂ること以外に ありません。

無常の命のこの世を 「絶対の幸福」 に しばらく喜ばせることではありません 。
「 後生の一大事  」、出て行く先は どこか、ここの 決着をつけて 下さるのです 。

・ 高森先生も かって「いつでも 安全に降りる 空港があるから、飛行機の乗客は 安心して 飲んだり 食べたり 楽しむことができる。
 もし それが 無かったら パニックになる」と言われたことがありますね。

又、こんな話もされました。
「 アメリカとの戦争中 『ミッドウエー海戦 』があった。
日本海軍の作戦情報が アメリカに解読され 空母4隻を沈められてしまった。
戦って帰って見ると 降りる 空母が無い、このときの 日本のパイロットの気持ちは どんなであろうか。
やがて、燃料が尽きて 海に落ちていった。」

まともな 話だと思います 。

私はこの話で、往生成仏は大事なことだなと 段々 思うようになりました  。

ところがこれもしばらくで、やがて「 大悲の願船に乗ることが大事だ、丸太、板切れでない 」
 という話になり、 三願転入になってゆきました。
高森先生の 話は コロコロ 変わり通しで、大変な迷惑です  。

最近 ようやく「 若不生者の生は 往生成仏のことだ」 と訂正したと聞きました。
「信楽だ」とも言われていると聞きました。

重大な問題です、どちらですか 。
お聞きします 。


○ 間違ったご和讃の 影響

大野市出身の 女性講師が 福井市の かって学生部であった Y君を顕正しようと 福井市で会いました 。
 お互いに 久しぶりで お元気でしたかーとやっていましたが、その後 仏法の話になり
Y君が 女性講師に 「ところで 信心決定されましたか」と聞いたら」「ハイ 7,8年ほど前にしました。」
「 信心決定って どんなも のですか」と聞くと「 ハイ、絶対の幸福になりました 。大安心、大満足の 日本晴れの心です」 何度 聞いても 同じことしか言わないので、おかしいなーと思ったそうです。

Y君が、「私の白道」を読んで 再開しました、その時 聞いた話です 。

阿弥陀仏に救われたら 阿弥陀仏のみ心が 知らされてくるということです 。

 私たちにはもともと如来を信じる能力(真実を真実と認知し、受け容れる能力)がないといわれているのです。
その信ずる能力がないはずの私が、いま本願を聞いて疑いなく受け容れる  という事実が厳然として存在している。
そのことに対する、深い感動を表された言葉なのです。それは ありえないことが在っているのであって、それは  まったく  「  本願の不可思議が しからしめた  」しか いいようのない事実である  ということを知らそうとされている文章です。
その不可思議力を説明されるのが、如来が成就された信楽が私のうえに実現しているという本願力回向の教説だったのです。



7,8年もたっていれば、信後の聴聞もして 尚更 深く知らされます 。
ところが それが言えず 自分の心が こうなった、ああなったしか 言えない 。
 しかも、自分の言葉ではなく、親鸞会で使われる信後の言葉だけだから おかしいと 見破られるのです 。
 他にも 3名 自称信心決定 していると言う 講師がいますが 、高森先生はご存知ですか 。
「 講師部は 19願の入り口にも入っとらん」筈の講師がどうしてそんな ことを言うのですか 。
 嘘なら、重罪と思います。詐欺罪です。

「 善をしないと信仰は進まない」と言いながら、支部長、講師が嘘を平気で言ってるのは もう崩壊してるも、同じではありませんか 。

会員が増えるなら、黙認するのですか、お聞きします 。

 ・40年近くの ベテラン講師でさえ 他力信心のこととなると こうです 。
 これ 皆 高森先生の指示に従い 活動中心に 動き回っ てきた 講師部の実態です。
教学聖典の仏語を沢山 覚えていても、中身は カラなのです 。
 嘘だと思われるなら 「顕正」68Pの
「 自力計度の心は 一念開発 信心決定の一念に、南無回向の機によってなくなる」と
 書いてあります。

講師部 全員に これは どうゆうことか「 筆記試験」をしてみて下さい。実態がハッキリしますよ。
 私は 18歳からこの「顕正」を読んでいましたが、講師部の時 ここが 一番 分かりませんでした。

○ 南無阿弥陀仏を知らない=他力の信心を 知らない=教えてないのです=教えられない。

こう書くと スッキリしますが、言いすぎでしょうか 。

○  会員さんこそ 善知識でした。

 私は講師部を 退部してまもなく 元嶋田支部の 酒井さんが ガンでもう 動けないと
知り、見舞いに行きました 。
30年間で 高森先生の御法話を 3000回以上聴聞し、心臓にペースメーカーを入れた身体で 海外聴聞にも行かれました。 80歳でした 。
会費も 7等で 家1軒以上の 財施をして 福井県でも 1、2の聞法の人でした。
月 2回のペー スで 見舞いに行って 仏法の話をしました 。
 しかし、体のことで、1時間ほどが 話す限度です。
半年ほどして、「 自分はもう聴聞に行けない、活動も出来ん、もう宿善を積むことが
出来なくなった、どうしょー」と言われました。
 「三願転入、宿善まかせ」を 聞いて その通り やってきたから 深刻な悩みでした 。 そのうち「阿弥陀さんが 分らんようになってきた、私みたいな者は助からん、私は 宿善の薄い者や、後生の一大事が分らん、今死ぬと思えない、地獄行きの 悪人と思わん 。
こんな者 どーしょうもない、どうしたらい いんですかー」と ポロポロと大粒の涙を 流されました 。
 私は 困惑しました。
こんなになっているのに 後生の一大事に 驚きが立たないとは、もう言葉では、
どう しようもないと 思ったのです。
親鸞会的な 受け止めかたです 。

「 高森先生すみませんー、高森先生 すみませんー もっと真剣に求めればよかったー-。
すみませんー」と又 泣かれた。

その 姿を見て 私は おかしいと思うように なりました 。
 酒井さんは 真面目に 貴方の 言われる通りに 30年間求めていました。
「 ワシは真実を 説き切っている、→聞き切らないのは 皆さんの責任です」の言葉を 真受けにして、
助からないのは 私が悪い、私の宿善が薄い、求め方が悪い、真剣でない、完全に服従していない、無常、罪悪の取りつめが 甘いなど
全部 自己責任にしてしまうのです 。
講師部も、幹部も 真面目な人ほど それが強いです 。

助からない 理由を全部 並べて 自己反省して、泣いている 。

これが、親鸞会会員 全ての 臨終の姿と思いました 。
自分も そうなると。

・ その時 私は 思わず 「 念仏 称えましょう」と言い放ちました 。
初めてです、人に 念仏を勧めたことは。
「 えっ 念仏称えて いいんですか」と聞かれました 。
「 いいです、称えましょう」と言い切りました
なぜ、こうなったのか 当時の私には分りませんでした 。
酒井さんの 大きな涙を見て ぱっと出た言葉で、後は二人で 泣きながら 念仏を称えていました 。
阿弥陀様の 我が名を称えよ、呼べよの ご念力だったのです 。
しかし、 悲しいかな それさえ分りません 。

人生かけて、時間と お金と 労力、気力を詰みこんで、最後にこうなる。
おかしい、平生業成の教えなのに おかしい 調べてみようと思いました 。

 それまで見たこともない インターネットで 親鸞会サイトを検索して見ると うじゃうじゃ 書かれてあり、驚きました 。

そして、華光会や他のことを知ることになりました。
 ここは「私の白道」に書きました 。

 酒井さんの あの涙がなかったら 私は今でも 会員として求めていたと思います 。
「 あんたも こうなるよ」と教え て下さった 酒井さんは 私の善知識です 。
酒井さん有難うございました、貴方のご恩は 今も忘れません。


○ それにしても。

1問  ・ 講師部にも救われた者の無い 三願転入の遠い、遠い道 死ぬまで求道の 幻の道、貴方自身も 言わない 不思議な 道のり

2問  ・ 最も大事な 仏願の生起本末の 末を間違える 考考えられないこと。

3問  ・ 18願の 若不生者の 生を 正しく読めない 教学と、信心への疑問
余りにも、ひどすぎは しませんか。

これで 「ワシは 真実を 説き切っている、聞き切らないんのは 君たちの責任だ」と、本気で言えるでしょうか 。


18願文、成就文、教行信証の 最重要 根拠を 正しく 読めない 話せない 。
高森先生は もはや 善知識ではなく、親鸞会は  「浄土真宗ではない」と私は 断言しますが 、それでも 間違っているでしょうか 。
 教えて下さい 。お聞きします 。