ビショップ二足道

所謂バタイユなどが言うところの過剰なからだ。‥‥棒をもつサル

絵というと、私はラスコーの壁画を思ってしまいます。
これはいつからなのか、半ば癖のようなものになってます。
ラスコーは、写真でしか見たことがありませんが、あの黒い
牡牛やぼかしの入った馬などを見ると、いつも感嘆してしまい
ます。
たぶんピカソだと思いますが、実際の壁画を目にし、技術など
を超えて余りある世界に圧倒され、完全にノックアウトを食らった。
と、いったようなことをいつだったか、読んだ記憶があります。
ピカソ展は、絵と舞台装置など二回ほどでしたか、見たことがあり
あります。
嫌になるほど上手い。
わざと逸脱させた線とかタッチ、勢いの強弱、歪めた形、色彩。
それらすべてが、実に冷徹にコントロールされていて、気味悪いほど
のハーモニーを奏でている。そんな感じでした。
「ちっきしょう、いいなぁ。クソッ。」
でした。そのピカソをしても及びのつかない、それがラスコーの洞窟
に描かれた絵ということになります。初期人類の・・・。

私の好きな絵のひとつは、たとえば、茄子なら茄子が描かれてる
とします。
で、その茄子が、雲のように見えたり、壺とか女性の裸体のように
見えたり、また、八百屋で売られている茄子とは絶対に違う、なにか
別の世界に存在する生き物のように見えたり、・・・・・・・。
そういう、つまりはいろんなものに見える絵がすきです。

先日より「深海鮫」に、いろんなものに見える代表格として、マチスの
千夜一夜物語を飾っています。
私はマチスのファンで、十数年ほど前に展覧会にも行きました。
題名は忘れましたが裸婦の絵で、有名なものですが、五十回ぐらい
手を加え、描き直して、最終的な完成に至る絵の工程全部を明らか
にしたものが展示され貴重なものでした。
マチスを見てるといつも思うのですが、絵っていいなぁ、自分もああいう
風に描けたらなぁ、と、思ってしまうのです。
マチスの色でこの夏涼めるか、やってみます。

ふんにばあてれめ
れそおかにききば
とれめんぞ!!

コメントに書きましたが、二年ほど前、女の方から戴いた
手紙の文面です。
今、言葉について考えていて、ひきあいに出しました。
認識や意識の回路にかかわってくる、膨大なことですから
おいそれといくわけにはいかないでしょう。
が、しかし、からだのことでもあるので、ちょっと挑戦もいいのでは、
と思っています。
降ってくる。
入ってくる。
そういうことではないかと思います。

そのためには、きっと、季節や時期といったものがありそうにも
思えます。
古代の人は、夏に神が来る。
そう思ってたようです。
そろそろ私も準備しなくては、と思います。
ふんにばあてれめ、FUNNNIBAATEREME。

暗黒舞踏派から風さかしまへ。
風さかしまからマハ・バックル商会へ。
マハ・バックル商会からレタス・クラブへ。
レタス・クラブから・・・眼鏡店へ。
こうした言葉の流れとイメージ連鎖。時間。時代。
また、言葉をモノのように扱い、オブジェ化して、脈絡なくつづって
いく、かっての自動記述のこと。
「シュザンヌの硬い茎、無用さ、とくにオマール海老の教会つきの
風の木の村」。
などのことも。
「すべてを形容詞で書こうかと思っています。」
中西氏のこの考えとそれへの経緯。

まぁ、いっぱいドライブすることになるでしょうが、運転あやまりたく
ないな、と思ってます。
時々、「深海鮫」で紅茶とお菓子で休憩も必要でしょう。
ふんにばあてれめ王国への旅。
あるいは、恐るべき遊園地。
恐竜や得体の知れない怪獣にもたくさん会うと思ってます。

マホガニー調の書斎机が、喫茶「深海鮫」のテーブルとなって、
二十日くらい経ちました。
その存在感と、私の思いについてはちょっと触れておきました。
今ではかなり、というより、もうすっかり馴染んだ感じになってます。

佇まい。
要は、そうしたことなんだなぁ、と改めて感じ入ったりしています。
それは、もう長いこと、家具や調度品などと縁のない、なにか、
生き別れた生活のせいだったからでしょう。
部屋は、天井と壁と床だけ。
そうしたところへ、からだ一個、ゴロンと転がり入れた、そんな風
でしたから。

で、まぁ、そんなところへいきなりドーンと、マホガニー調が来たわけ
です。
前に、「置き、決め」と言ったのは、渾身の情だと思います。
ちょっと大袈裟かもしれませんが、新たな御神体をも運び入れた。
そんな心情だったのでしょう。

細かい傷やなにかと擦れあって、少し剥げ落ちたところに、
紙やすりをかけ、ウォルナットとメープルのニスを塗ってやりました。
そして、このマホガニーのある部屋の入り口の、古くて陽にやけ、
色落ちした床の一部もついでにニスをかけました。

窓を開け、山の空気を入れてニスを乾かしていると、
木肌は、次第に、水を得て蘇えり、息すら感じるようでした。
そして、机と床は、なにか
お互いサインをかわすかのように、絶妙な調和を醸し出してくるの
でした。
空気もより涼しくなった。
そう感じました。
また、光沢も落ち着きを増し・・。

旅。
なぜかこの言葉が浮かんできました。
なにか今、旅をしてるんじゃないかなぁ。それもずいぶんと長い旅。
で、今涼んでる。涼しさのなかに佇む私。
人間は普段、生活のなかでこんな感じの旅を始終しているんじゃないのかなぁ。
とも、思いました。
無意識に涼をとったり、木に水をやったり・・・
いろんなところへ出かけなくとも、旅はここ、身体の中。
どうなんでしょうか。
トンビが鳴いてます。山で。

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