ビショップ二足道

所謂バタイユなどが言うところの過剰なからだ。‥‥棒をもつサル

2012年05月

バラバラで、
しかし、同時に統一された世界。

もの。

状態。

こうしたことを思い続けて久しい。

実際の、世界。人間。からだ。は、どうなのか、
などと、思ってもみたりはします。

分裂者が、ぎりぎり、保っている、ねじれのバランス。
そういうものが、そこにはある。
と、そんな風に思っています。
今は。

かれこれ10年くらい前でしたか、
宇宙物理学者の、最新の宇宙論が、
宇宙とは、バラバラに出来上がっているが、
同時に統一されたものである。
的な、ことを耳にしたことがあり、
「えっ」、と、驚きでした。

コイルみてぇに巻かれた曼荼羅けぇ、などと、
またつい、呟いたりしちゃうのです。

舞踏は、小指を動かしただけで、「踊り」である。
このことを早く確立しなければならないだろう。
百歩譲って、手。
そうでないと、舞踏は人を困惑させるだけに留まり、
霧散するか終わる。
土方の暗黒舞踏に始まり、舞踏はその産声をあげて
から五十年を経ようとしている。

かねてよりずっと思ってきたことですが、
「料理」は、人間の表現行為のうちで最高位に属すると思います。

その営為と創作の歴史はただひたすら人の舌から口をくぐり抜け伝えられてきました。
焼く、煮る、蒸す。
また夥しい数の材料とその組み合わせ、
調味料などを考えるとただ驚異で呆然となります。
我々のいわゆる芸術表現など到底及ばない世界がそこにはある。
そんな風に思います。

そして、その何千年という時間の中で発案、考案されてきた、
途方も無い、料理という表現世界を、
我々は日々、何ひとつ考えもせずに、ただ「うまい」などと言って過ごしてきています。
人間はこうしたことを、日に三度、死の間際まで繰り返し続ける
のだと思います。

その人にしか分からない、
己のからだの中の劇場で、
皆、無意識のうちにただ、黙ってひたすら踊っているのだ。
そう私には見えます。

このところ、一年中蚊帳を吊って過ごそうかな、などとも思っているのですが、
少し疲れていて、
そこらの川っぺりか野っ原にでも首から頭を引っこ抜き、手も外してぶん投げて、からだを少し休ませてやりたいと思っています。

音もなくパタン、と・・・です。

木の影を描くことで、より木を感じさせる。

こうしたことをかっての長谷川等伯という人はやったそうです。
松林図屏風という有名なものらしいですが、私も画集ですが見たことがあります。

確かに松林は煙っていて、
靄か霞の中にボワーンと浮いたような感じで漂っているのですが、
その木の実在感といったものはより重厚さを増して迫ってくるものがありました。

最高傑作とされそれを凌駕するものは未だ出てきていないようです。

すべてを語るのは影。
そういうことだと思います。

しかし,思えば私にとっての舞踏は、

半分無意識的に、
そうしたことをからだに置き換え、
夏休みの昆虫採集や魚採りのように、
夜を徹して、
辺りかまわずその「影」といったものを捕まえに行っていたんだ、なぁ、
と、今さらながらに思います。

それは、現在もですから、死ぬまで続く終わりなき永遠の夏休みということです。

木は動きませんが、からだはちょっと捻れば表と裏、すぐ背中になれる動体なのでよりやっかいで複雑なものになるのです。

今まで舞踏はさまざまなものにヒントを得て、いろんなものを捕まえてきました。

病気の人の動きや表情、精神病者の分裂した意識と挙動、
死刑囚の歩行のイメージ化、老人、手ぼけ、
はたまた小鳥の神経を辿ったり、
挙げればきりがありません。

影というか裏、そういうことだと思います。

影、それも巨大な影の話をします。

かって、夕方、峠を越えてある村へ向かっていた時のことです。
山並みは夕闇に包まれ、ほんのあと二、三分で陽が落ち、あたりが完全に真っ暗になってしまう、その時、
からだがいきなり山のほうへすぅーと吸い寄せられ誰かにどこかへ連れ去られていってしまうという感覚を臨場しました。

その体験を二度味わいましたがもう一度目も場所は違いますが夕方でした。
この話を友人にしたところ、「わかる、わかる。俺もあったよ。」でした。

これは影とはいわないでしょうが、
影とはこうしたこととも何か人知れぬ深い関係があるのではないかと真剣に思ったりしています。

体感は今も残っています。

最近になりようやく、「肉体って肉でしょ。」

そういうことがやっと分かってきたような気がします。

とりあえず、まずは女の人はいっぱい男と寝るべきだし、男もいっぱい女と寝るべきなのです。セックスはおおいにするべきです。
かって、「人間滅亡的人生案内」で深沢七郎氏もそのことを、お互いがビフテキと思い、食いたいだけ食えばいいのだと仰っておられました。

私の友人から聞いた話ですが、ある夫婦は、覚せい剤かなにかを使い、一年中、朝から晩までセックスをし続けたそうです。
驚きです。
こうなるともう依存症で、ある種精神病に陥っているとは思いますが、事実だそうです。

こうした夫婦はそうはいないと思いますが、
肉と肉、粘膜と粘膜がせめぎ合い、からだがバラバラになって
闇に吸引されていくような、
この原初的感覚世界は、人の手に負えるようなものではありません。

出自も不明なただただ肉そのものの世界です。

まるで自分とは無関係に肉が勝手に意志をもっているかのような・・・。

死に至るセックスのエクスタシー。

こうしたことにバタイユ氏[私唱、バタやん]は生涯情熱を燃やしつづけたようですが、

セックスとは、私が思うに、
それは死といった対極の観念ではなく、
人がなにか別のからだに入れ替わっていくために用意された、
あるいは負わされた、
肉そのものの通過儀礼のように感じるのです。

あたかも普段着物を脱いだり着たりするかのように・・・。
また、季節ごとに衣をかえるかのように。

しかしまぁ、肉はたいへんな代物です。肉体とか言ったほうが楽かも知れませんね。

蛇足ですが、日本の老人ホームで、一番したいことはなにか、
というアンケートの結果がセックスだという話を聞きました。
確か70%だったと記憶してます。
男も女もです。

やはり,
人間の道を感じてしまいます。

昼間、全国のラブホテルはそうした御老人達でさぞかしごった返していることでしょう。

死ぬまで肉。

死体も肉。

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