シリーズ第三十二回目。
 
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日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略 深田匠(P530~P541)
 
日本の国家戦略(二)戦争の大義とプロパガンダ

 戦後の戦勝国史観(=日本の自虐史観)では、日独伊を「ファシズム国家」、連合国側を「民主国家」と決め付けて、「第二次大戦は民主主義とファシズムの戦いだ」などとする噴飯ものの珍論が堂々と横行してきた。平成十六年一月十七日の大学入試センター試験「世界史」には、いまだに「(第二次大戦は)民主主義とファシズムの戦争」だという記述があった。まさに民主主義の敵である共産ソ連や典型的なファシズム政権であった中華民国(国民党政権)を「民主国家」群に分類するような馬鹿者に歴史を語る資格はない。第二次大戦とは、日独伊を中心とする「反共国家同盟」とルーズベルト米政権に英支ソを加えた「容共・共産国家連合」の対決に他ならなかった。「民主主義とファシズムの戦い」ではなく「反共主義と共産主義の戦い」であったからこそ、戦後反共に転じた米国が、長年に渡る米ソ冷戦そして現在の米中冷戦を代わりに戦わざるを得なくなったのである。そして日本の戦いが反共戦であったが故に、戦時中に日本共産党は日本敗戦工作に動き、戦後もこの戦争を「侵略だ、戦争犯罪だ」と悪しざまに罵るのだ。

 日本人はとかく善悪の区別をつけたがり、それもあって東京裁判史観が広まる土壌となったのだが、戦争に善悪など存在しない。外交の延長上の果てにある「国益の衝突」が戦争であり、交戦国がお互いに唱える善悪はプロパガンダに過ぎず、勝者が自らを善だと位置づけるだけのことである。先の大戦でもし仮に日独が勝利していれば、スターリンやルーズベルトは戦犯であり、原爆投下こそがホロコーストであり、東條英機は「植民地解放の英雄」となり、ヒトラーは「ユダヤの国際経済支配を打破したヒーロー」となっていたことであろう。

 日本への原爆投下が行われた直後、カトリックの総本山バチカン公会議はこれを「神と人類に反する罪である」と宣し、また一九五三年一月のホワイトハウスでの晩餐会でチャーチルはトルーマンに対し「我々二人が死んで天国の門の前に立った時に、聖ペトロ(天国の門番)から原爆使用の罪を問われたら閣下は何と弁明しますか」と質問している。チャーチルもまた自分とトルーマンが人道に反する罪、史上最悪の戦争犯罪を犯したことを自覚していたのである。しかし戦勝国となった米英では「原爆投下は戦争を終結させ被害をより少なく収めるために必要なことであった」として肯定する世論が大勢を占める。そして敗戦国日本はこれまで原爆投下に対しての公式な抗議は一度も行わず、また仮に今の状態の日本が抗議を行っても聞く耳は持ってもらえないことであろう。敗戦国の唱える善悪は黙殺され、結局チャーチルが怖れたのは「神の裁き」だけであった。

 このように世界は力による弱肉強食の原理で構築されており、また善悪の概念も国によって変わるのが当然である。金正日体制は日本やアメリカから見れば邪悪そのものだが、当の北朝鮮や中共から見れば日本やアメリカのほうが悪だとされている。現に北朝鮮の国営放送では、ブッシュの「悪の枢軸」発言に対して「真の悪の枢軸は、アメリカ、イスラエル、日本だ」と述べているが、このお人好しの平和ボケ日本が「悪」だと考えるのは、北朝鮮・中共・イスラム過激派以外には日本のマルクス主義者だけであろう。しかし仮定の話ながら、もし日米が中朝と戦争して敗戦したとすれば、小泉もブッシュも「侵略戦争を行った戦犯」となり、金正日と江沢民が「世界を救った英雄」になる。戦争の善悪とは所詮そんなものなのである。

 ベトナム戦争当時、日本のマスコミも左翼も口を揃えて「アメリカが悪い。アメリカさえ撤退すれば南北紛争は解決して平和が訪れる」と主張していた。しかしそれは正しかったのか。腐敗したゴ・ジン・ジェム政権とは違って、ズオン・バン・ミン大統領は温厚清廉な人物で善政を敷こうとしていた。そこに北部の労働党共産革命勢力がクーデターを起こし南侵を進め、共産軍に逆らう民衆を片っ端から虐殺していった。女や子供を含めた五千人を針金で縛り上げて全員殺害した「ユエの虐殺」を行ったのはベトナム共産軍ではなかったか。もし「アメリカ帝国主義の侵略戦争」であったのならば、なぜ「解放」直後に南ベトナム人口の一割強が祖国を捨てボートピープルとなって荒海へと逃げ出したのか。一割強といえば、日本に例えると一千三百万人が国を捨てるようなものだ。このボートピープルの姿を見て反戦女優J・フォンダは「私は間違っていた」と謝罪した。しかし日本の左翼やマスコミで過ちを認めた人間は一人もいない。

 アメリカがベトナム内戦に介入したのは、D・アチソンの有名なドミノ理論(一つのリンゴが腐ればドミノ倒しのように樽の中のリンゴ全てが腐る)に基く。これはべ平連など日本の共産主義者の側から見れば「ドミノ倒しで日本が共産主義化するのを邪魔した」と映るであろうし、私のような反共主義者から見れば「アジアという樽の中の別のリンゴ(日本)が腐るのを防ごうとした」とも映る。同じ一つの事象でもどちら側の価値観で見るかで、それは全く別のものとなる。立場が違えば戦争の評価は百八十度変わるのだ。従って「大義」は双方にあり、善悪の概念も双方異なる。一方が完全な悪で、もう一方が完全な善などというのは、水戸黄門とか仮面ライダーの世界だけだ。

 真珠湾攻撃において日本は、現地大使館の怠慢とミスのために、日本政府の指定時刻に宣戦布告が間に合わず開戦より五十五分遅れてしまい、そのためにルーズベルトの計略どおり「だまし討ち」だという反日プロパガンダに利用され、いまだにその誤解は国際社会に残り続けている。しかし実は日露戦争では、日本の宣戦布告は対露攻撃開始の二日後だったのである。ロシアは「不意打ちの不法行為だ」と日本を非難したが、日本は「再三の抗議を無視して、ロシアは撤兵せず逆に戦争準備を進めていたのであるから、宣戦布告の必要なき自衛行動である」という理由から、小村壽太郎外相は「ロシアのこの非難には公然と弁明するだけの価値もない」と声明し、英米もそれを支持している。五十五分の遅れが通用せずに丸二日の遅れが通用する、その違いの理由は一つ、「負けた戦争か、勝った戦争か」だけなのだ。戦争に負けるということは、戦勝国の戦時プロパガンダが戦後も生き続けるということなのだ。そしてそれは、真の善悪とは次元の違うものである。

 レーニンはこの日露戦争を「帝政ロシアによる日本への侵略」だと主張して革命を扇動していた。しかし第二次大戦終結直前、スターリンは中立条約を破っての日本侵攻時に「日露戦争において日本から受けた侵略に対する復讐だ」と宣言している。つまりこのように「侵略」の定義など、国家によって変わり、同じ国家でも体制によって変わり、さらにソ連の例のように同じ体制でも国家指導者の都合によって変わるという、実に都合のよいシロモノにすぎないのだ。善だの悪だの、侵略だの自衛だの、そんなものは戦勝国が勝手に決めてしまうものであり、戦争とは単なる「国益の衝突」以外の何ものでもなく、米国のイラク攻撃を「侵略だ」「大義がない」と主張する人々は私から見れば幼稚の極みでしかない。

 戦勝国史観ではナチスがユダヤ人六百万人を虐殺したとされているが、中共がウイグルやチベットを含めて国内で七千~八千万人を虐殺してきたことはギネスブックにまで載っている確かなことであり、桁が一桁違っている。私は人類史においては、ヒトラーやムッソリーニよりもスターリンや毛沢東のほうがはるかに凶悪非情な独裁者であり、本来「ホロコースト」の汚名を浴びるべきは数千万人もの自国民を殺してきたスターリンや毛沢東であると考える。しかし戦勝国であるか敗戦国であるかの違いが、戦後のレッテルを左右したのである。敗戦国であれば悪の権化の如く断罪され、しかしその一方で戦勝国であればその大量虐殺を非難されるどころか、自虐的な敗戦国から謝罪と莫大なODAをむしり取ることができるのだ。なお、戦後も生き続ける戦勝国の戦時プロパガンダが敗戦国を「悪の国」と位置付ける戦勝国史観の要となっているが、戦略プロパガンダ解析の研究を行ってきた私の結論から言えば、その戦時プロパガンダの九十%までが完全に捏造されたものである。日本の行ったプロパガンダは「鬼畜米英」といった類の単純なものばかりで、多少の誇張はあってもその民族性から捏造は行っていない。しかし日本以外の主要国は例外なく多くの「嘘」を捏造しており、戦後はその「嘘」をさらに誇張させて敗戦国の「悪魔化」イメージを増大させてきたのだ。

 ここで予備知識として理解しておいて頂きたいのは、欧米国家では「秘密」の分類がカバートとクランディスティンという二種類に分けられるということである。クランディスティンとは、秘密の存在そのものさえも秘密とされる国家最重要機密のことである。そしてカバートとは、カバー・ストーリー(偽装話)を捏造して真実を覆い隠すことを指す。戦時中の交戦国同士のプロパガンダは大半がこのカバートであり、戦勝国はそのプロパガンダを戦後世界に生き残らせるために、カバー・ストーリーで真実の歴史を覆ったのである。つまり戦勝国にとって歴史的真相の中の都合の悪い部分は、カバートに分類される「秘密」なのだ。従って南京で虐殺なんかが存在しなかったという「秘密」は、江沢民の「政治的決定」で三十万人以上の虐殺が有ったとするカバー・ストーリーで覆われ、そのカバー・ストーリーの証拠とするための写真偽造や偽証が多く捏造されてきたのである。

 例えば米国の歴史学者トーマス・E・マールが英国BSC(治安調整局)のファイルの中から発見した書簡では、英SOE(特殊作戦部)のE・マーシュウィッツが一九四一年十一月二十六日付で「私の部署ではカナダで『ドイツの大量虐殺行為』の撮影を行っていますから、簡単にしかも定期的に『残虐な写真』を提供可能です」とBSCに報告している。この種の「戦争犯罪」の捏造はドイツも行っていたが、結局戦後に生き残ったのは戦勝国のものだけなのである。要するに交戦中は士気を高めるために敵国の「悪」が次々と捏造され、それがそのまま戦後の歴史観として押しつけられてきたのである。この戦時プロパガンダの実体を解析すればする程に、一方が善(被害者)で一方が悪(加害者)と分類する白黒二分割論の愚かさ幼稚さをつくづく実感する。

 ヒトラーとナチスを「悪魔化」する戦時プロパガンダを戦後も展開しているのは、国際ユダヤ資本ネットワークだが、これも「ユダヤ人は悲劇の民族」というイメージを保つことで、パレスチナでの虐殺行為などを覆い隠し、イスラエルへの国際支援を集め、国際金融支配への批判を抑える戦略に基いている。例えば平成十一年十月十五日号の「週刊ポスト」が「長銀『われらが血税五兆円』を食うユダヤ資本人脈をついに掴んだ」との見出しの記事を記載したところ、ユダヤ民族の圧力団体であるサイモン・ヴィーゼンタール・センター(ヴィーゼンタール本人はイスラエル秘密情報局モサドのチーフでもある)が「こうした反ユダヤ主義の虚報は、ヒトラーがホロコーストを行うために用いた手法と同じだ」という抗議を出版社と同誌広告主企業全てに行っている。しかし前述のように長銀を喰いものにしたのはユダヤ資本のリップルウッド・ホールディングスであり、そのシナリオを描いたのはユダヤ資本に支えられる米民主党政権である。日本人がこの理不尽な長銀乗っ取りに怒りの声をあげるのは当然のことであり、誰がみても長銀問題とホロコーストは何の関係もない。しかしそこで無理にホロコーストにこじつけることで自分たちの悪どい金融侵略行為への批判を封殺し、ユダヤ民族の利益を守ろうとするために、このホロコーストを有効な圧力カードに用いているということなのだ。とにかくその中身が何であれユダヤを批判すれば、例外なく「ホロコースト」「ナチス」が突きつけられ、批判者は謝罪して沈黙するしかなくなるという仕組みだ。そのためにユダヤ民族が受けたとされる「惨禍」なるものは、大きければ大きいほど都合が良いわけである。しかしパレスチナ自治区における女性・子供も含めた虐殺などを見れば、この世に「悲劇の民族」だのといったものが存在しないことは明らかであろう。

 世界はプロパガンダで動いており、全てのプロパガンダは特定の勢力や国家・民族の利益のために存在し、そしてプロパガンダとは捏造と誇張と歪曲に満ちた白黒二元論であることが大半である。従って私に言わせれば、偽書『シオン賢者の議定書』を盲信する陰謀論者も馬鹿であれば、同じく偽書『アンネの日記』を読んで涙する人も馬鹿なお人好しである。かつてオウムは「ロスチャイルド、ロックフェラー、フリーメーソン、イルミナティ、三百人委員会、これが共謀してユダヤ世界統一政府をつくり世界を操っている」という陰謀論を主張していた。馬鹿馬鹿しい限りなのだが、日本では結構この種の「ユダヤ陰謀論」の本が多い。確かにユダヤ資本が国際金融経済に巨大な力を持っていて、グローバリズムを旗印に相当悪どいやり方をしていることも事実ながら、「ベニスの商人」で描かれるごとく金融業はユダヤ民族の伝統的な「正業」でもあるのだ。また各国有力者からなる国際結社フリーメーソンを始め様々な組織が水面下で国際的影響力を持ち、世界中で大小無数の謀略が常に繰り広げられていること自体は否定できない事実だが、あれもこれも何から何まで陰謀だとするのはコンスピラシー・セオリー(陰謀史観)といって妄想の域に入るものだ。現にアメリカでも、民主党こそユダヤ資本に支えられているが、共和党は(ごく一部の議員を除き)どちらかといえば反ユダヤ資本の立場である。また今後米国と覇を争うところの中共に対しては、ユダヤの「ホロコースト」カードも無力であろう。ちなみに私は人種や宗教の観点では反ユダヤではないが、「週刊ポスト」に加えられたような理不尽な圧力を看過することはできないし、ユダヤ資本が米民主党と事実上一体となってグローバリズムなる「管理下」に日本を置いてきたことは強く批判する。ともあれ結局のところユダヤ陰謀論もナチス悪魔化も全てプロパガンダに過ぎず、どちらか一方の政治宣伝を鵜呑みにしてはならないというのがリアリズム国際政治学の基本である。

 なおドイツはその地政学的な理由もあって戦勝国の戦時プロパガンダを全て受け容れることでしか、戦後の復興を果たすことはできなかった。それも一つの選択ではあろう。ドイツがどの道を選択しようが、我々日本人がドイツ民族の問題に関わる必要はないと考える。しかしかつては同盟国として共に戦い、日本との信義を守って自国に不利な対米宣戦を行い、神風特攻隊を「日本の英雄はキリスト教の聖人にも優る」(ヒトラー)と讃えたナチス政権について、日本人が戦勝国のプロパガンダそのままを受け売りして罵倒するような卑しいことも避けるべきだと感じるのだ。少なくとも当時のドイツは日本にとっての「悪」ではなかった。従って肯定も否定もする必要はなく、特定勢力の利益を目的とするプロパガンダに仕えることを拒むのが、日本人の自立した正しい立場ではないだろうか。我々が戦うべきは、対日弱体化戦略に基く中共の捏造プロパガンダなのである。ベトナム戦でもイラク戦でも同様なのだが、自国が当事国ではない戦争において、その善悪を一方的に決めつけて「善の側に立つ」という愚かな幼児的発想を日本はもう卒業するべきである。「反米・親米」論と同じく、現実の世界は白黒二分割できるほど単純なものではないのだ。

 大東亜戦争における戦勝国のプロパガンダについて、独立ビルマ初代首相バーモウは、「歴史的に見てアジアを白人の支配から解放するのにこれほど尽くした国(日本)はかつてなかった。同時にこれほど誤解された国もまたかつてなかった。それでも日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割はいかなることをもってしても、消し去ることはできない」と自伝に記している。戦勝諸国がつくったカバー・ストーリーは「日本がビルマを侵略した」というもので、頭のわるい日本人はそれを鵜呑みにして謝罪する。しかしカバー・ストーリーの下の真実の歴史は、「日本はビルマからイギリスを追い出し、ビルマ人の独立義勇軍(BIA)を育成してビルマ独立の基礎を築き、戦後ビルマ政府はBIAを指導した日本軍人たちに勲章を贈った」というものである。歴史というもの、とりわけ戦争に関する歴史というものは、真実の歴史とプロパガンダ(カバー・ストーリー)の二重構造になっているという視点を失ってはならない。なお戦争中の当事者が存命している間の時代は戦勝国のカバー・ストーリーが世界のスタンダードとなってしまうが、その次の時代に最終的にどちらの正義が生き残るかは、まさに歴史の女神が判定することだ。従って我々日本人が当時の日本の正義を叫び続けることは、次の時代のためにも必要なことなのである。

 さて戦前に日本に留学した経験のあるハーバード大学教授フランク・マグリンは、「我々(欧米人)は善と悪、神と人間、黒と白の二元論でつい考えてしまう。ところが日本人にとっては一つのことが同時に善でも悪でもある。日本人は生まれつき弁証法(筆者注……対立や矛盾する事象がより高い次元で一つに統合されること)の達人で、人間の存在自体が矛盾に満ちていることを知っている。いわば我々(欧米人)の論理は、物を入れる区分がきちんと付けられたスーツケースであり、日本人のそれは何もかも包んでしまう風呂敷包みのようなものだ」と喝破している。対立も矛盾も大きく包みこむ風呂敷包みの文明、まさにそれこそが日本の神道文明の真髄を見事に言い表している。しかしマグリンが出逢った日本人は「戦前の日本人」である。戦後の日教組教育を刷り込まれた日本人は伝統的日本文明に基く発想を忘れ、欧米式の白黒二元論でしか物事を考えられなくなった。戦勝国のプロパガンダ通りに「日独は悪、戦勝国は善」、「日本は加害者、中共は被害者」、「軍隊は悪、憲法は善」、戦勝国に都合の良いそんな馬鹿げた観念が戦後の空気を支配してきた。アメリカという国を「親米か、反米か」という二元論でしか考えられない人々も同様だ。これらの人々は全て「スーツケース」の論理で発想している。

 それではこの「風呂敷包み」の論理に立って、改めて戦争の「大義」について考察してみよう。私は前著で「戦争における大義というものは交戦国双方にある。何故ならば互いに相反する国益同士の衝突が戦争に至るからだ。そして双方にあるということは即ち無いにも等しい。どちらの国の大義を支持するかは、どちらの大義が日本の国益となるか次第だ」という主旨を述べた。ところが前著発売後しばらく経った頃から、野党やマスコミや反米言論人が「イラク戦争には大義がない」という大合唱を始め出した。産経新聞などがその傾向を批判して「大義云々ではなく日本の国益で判断せよ」と主張すると、今度は反米保守陣営から「大義を否定するということは、大東亜戦争の大義も否定することになる」という短絡的な反論が起こり、「反米だ、親米だ」というレッテル貼りが今だに続いている。私はこの「イラク戦争に大義がない」と主張する人々との間に、流行語を借りれば「バカの壁」を感じる。国家が違えば国益も異なり、政治体制も違い宗教観も異なり、文化慣習も違えば何から何まで違う中で、「大義」なるものが一つだと考えること自体が反リアリズムの幻想でしかない。

 例えばカトリックとプロテスタントは過去に何度も戦争して互いに殺し合った。マルティン・ルターが「信仰によってのみ人は神の前へと通じる」と主張したのに対し、カトリックは「それ以外の外面的儀礼によっても通じる」と反駁し、両者の違いは端的に言ってこれだけでしかない。日本人からみれば何ともくだらないことで戦争して殺し合ったものだと感じるが、両教徒にはそれぞれ殺し合うだけの「大義」があったということだ。そして例えば、それについて仏教徒が「カトリックが正しい」とか「プロテスタントが正しい」と決めつけることはできない。仏教徒の「大義」は仏教の中にしか存在しないからだ。つまり日本民族は日本の「大義」だけを「大義」とする権利が有り、アメリカやイラク双方の「大義」までを裁くとは神にでもなったつもりかと問いたい。

 大東亜戦争では有色民族を植民地から解放することは、当時唯一の有色民族の大国であった日本の国益にして大義であり、一方白人支配を永続させることが欧米諸国の国益にして大義であった。私たちは日本人であるのだから日本の大義の下に生きるのは当然なのだが、その大義が世界のスタンダードであるという固定観念を持つべきではないのだ。要するに世界の国の数だけ国益即ち大義は存在しており、イラク戦争におけるこの「大義」論争ほど馬鹿馬鹿しく幼稚なものはない。ところで「イラク戦争には大義がない」と主張している左翼陣営が、かつての大東亜戦争における日本の大義も否定しているという皮肉な状況は一体何を意味しているのであろうか。つまり「国の数だけ大義がある」ということを理解できずに「世界に大義は一つ」だと思い込んでいるために、東京裁判において戦勝国の掲げた大義だけが唯一の正しいものだと思ってしまうということだ。結局はこれもまた白黒二元論でしか判断できない幼稚さなのだ。加藤紘一や菅直人など「大義がない」と主張する人物は例外なく自虐史観の権化のような人間ばかりである。日本人のくせに日本の大義を共有できないような人間には、他国の大義を云々する資格など一切ない。

 さて明治維新以来、日本という国の掲げた大義とは、一九一八年(大正八年)の第一次大戦パリ講和条約における日本の提議案が全てを物語っている。十六ヵ国が参加した同会議で日本は「国際連盟規約に人種差別撤廃を規定せよ」と求めた。しかし米英など五ヵ国が反対し、米ウィルソン民主党大統領は「全会一致でない」という理由を強弁してこの提議案を否決、以って日本は武力によってその大義を実現せざるを得なくなったのである。人種差別の撤廃、人類の平等を世界のスタンダードルールとするためには、白人の植民地を解放しなければならないが、「話し合い」なんかで白人が既得権益を手放す筈がない。ましてや有色人種だと見下げていた日本の主張に耳を傾ける気もまったくない。白人列強国が全世界を武力で支配する中、極東の小さな有色民族の国ただ一国だけが人種平等の旗を人類史上初めて高く掲げ、そして虐げられた全植民地下の有色民族たちの「希望の星」となった。ここに日本が追い求め続けた大義がある。

 国の数だけ民族の数だけ大義は存在する。しかし日本にとっての大義とはただ一つしかない。その大義を掲げた大東亜戦争の後、日本が斬り拓いたその新しい世界秩序により、百十六ヵ国が独立し二十二億人の有色民族が白人支配から解放された。これらの独立国の中には、日本の大義を理解し「共有」してくれる国が少なからず存在する。私はここに一つの希望を見い出す。違う国の大義が完全に一致することはなくても「共有」は可能なのだ。それはアメリカの現在の戦争における大義を日本が「共有」することで、かつての戦争における日本の大義をアメリカが「共有」する可能性を示唆している。すなわちイラク戦争におけるアメリカの大義を同盟国として日本が認めること、それはアメリカとりわけ共和党政権が同盟国として大東亜戦争の日本の大義を追認する日の到来を早めることになる。私はそう確信している。そして実はアメリカにおいても、人種平等を唱えて黒人奴隷解放のために北軍を率いた「もう一つのアメリカ」、すなわち共和党勢力のその理念こそがまさに日本の大義とも符号するものである。

 米国との同盟関係を重んじて、左派マスコミの反米反戦の大合唱の中でイラク攻撃に支持を表明した小泉首相の判断は正しいものではあるが、本気で「アメリカの信頼に足る同盟国でありたい」と言うのであれば、「集団的自衛権行使の解釈変更」「非核三原則の撤廃」「日本海へのトマホーク配備」その他、首相の意志一つでやれることは多くある。なぜ言葉は勇ましいのに行動が伴わないのか、それは要するに小泉首相もまた自虐史観から脱していないからであろう。自虐史観に由来する妄想平和主義が、知らず知らずの内にブレーキをかけているのではないか。それ故に靖國参拝時には、村山談話を超える「謝罪談話」を発表し、「こんな談話を出すぐらいなら、いっそのこと参拝しないほうがよかった」と多くの遺族を落胆させたのだ。平壌宣言の謝罪文言にクレームを付けようとしなかったのも、小泉首相の根底に自虐史観があったものと判断するより他にない。二〇〇一年六月の訪米時に小泉首相がブッシュに対して「米国が日本を旧日本軍から解放してくれたという気持ちが強い」と述べたこと自体が、その東京裁判史観を証明したるものである。しかし前述のように、自国が戦った戦争を「善」とするのか「悪」とするのかは、その国自身が判断するべきことなのだ。多くの国民が生命を捧げた自国の戦争を後代の首相が「悪」と断じることは、祖国への背信だと言っでも過言ではない。戦争とは国益の衝突である以上、日本の戦いは「国益を妨げる障害」との戦い、つまり日本にとっての「悪」との戦いであったのだ。日本が「悪」であったのではない。日本にとっての「悪」と戦ったのだ。

 明治維新以来、日本の国益を阻害し続けたるもの、すなわち日本にとって「悪」と判断するべきものは、共産主義をおいて他にはない。確かに日本は、近現代の三回の戦争によって大中華覇権主義や白人植民地主義を打倒したが、前述のように大東亜戦争では共産主義の謀略に破れたのだ。日本のみならず米国も共産主義の謀略に破れ、第二次世界大戦はソ連と中共のみが利益を得る結果となった。これを教訓としたる共和党と日本が、アジアに残る最後の共産主義国たる中共と北朝鮮を打倒することによってのみ、真の「勝利」は得られるのであり、日本が新たな「戦勝国」となることだけが、日本がかつて敗戦によって失った「正義」の立場を取り戻してくれる。欧州を軍事力で制覇したナポレオンは何故に現在は「悪」とされず、ヒトラーは何故「悪」なのか。それはフランスが現在戦勝国の立場にあるからだ。前の戦争の結果によって生じた立場は、次の戦争の結果によって変わる。戦勝国による戦後秩序も歴史のカバー・ストーリーも、全て次の戦争の結果が打ち崩す。第二次世界大戦によって第一次大戦の勝敗が霧散したように、第二次大戦の結果による影響は、日本が当事国となる新たな戦争に勝利することで消えるのだ。

 白人植民地の解放と自存自衛の戦いという日本の「正義」は、戦勝国の主張する「正義」とは相反していたから、戦後日本は「悪」のレッテルを貼られた。すなわち日本と戦勝国との国益が相反していただけである。そして日本が負けた相手はアメリカだけであり、シナにも欧州にも負けていない。つまり、日本の「正義」とは、日米関係の変化の中でのみ甦りうるものなのである。英国の高名な歴史家H・ウェルズは「大東亜戦争は、植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界秩序の基礎を築いた」と述べているが、我が日本は昭和の大戦において世界秩序の基礎を築きつつも、名を捨てて実を結実させた結果となった。次はその世界秩序の再編をもって日本が名を取り戻すべきときなのだ。

 日本が失った名とは、すなわち国家の「名誉」である。タイのククリット・プラモード首相は「我々が白人と肩を並べて語れるようになったのは、誰のおかげか。大東亜戦争があったからではないのか」と語り、日本に感謝する「十二月八日」という一文を新聞に載せている。インドのラダ・クリシュナン大統領は「インドが独立できたのは、日本のおかげである。インドのみでなく、ベトナムもビルマもインドネシアも西欧の植民地はすべて、日本人が払った大きな犠牲によって独立することができたのだ」と述べ、ビルマ(現ミャンマー)のタキン・バセイン副首相も「我々はイギリス(ビルマの旧宗主国)から賠償金を取って、それを日本に支払うべきだ」と述べている。さらにインドネシアのモハメッド・ナチール首相は「アジアの希望は植民地体制の粉砕だった。大東亜戦争は、我々アジア人の戦争を日本が代表したものだ」と語り、シンガポールのゴー・チョクトン首相も「日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は打破され、アジア人は自分たちも西欧人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後十五年以内に、アジアの植民地は全て解放された」と述べている。

 日本は中共の「日本弱体化」謀略によって自ら自虐史観を喧伝し、卑屈な土下座外交を続けているが、大東亜戦争の当時をよく知るアジアのリーダーたちや有識者の多くは、日本が失った「名誉」を取り戻すことを望んでいるのだ。そしてその「名誉」とは、日本が「戦勝国」となり、日米が対等なパートナーとなる世界新秩序の中でのみ、取り戻すことができるものなのだ。すなわち共和党政権による日本の大義の「共有」こそが、日本が失った名を取り戻す唯一の道なのである。

 先の大戦の勝敗による世界秩序、日本に対する戦勝国のカバー・ストーリー、アメリカがつくった日本のこの「戦後体制」を一新する歴史的使命を負ったキーマン、最初に登場したキーマンとは実にブッシュその人であろう。ブッシュは米国大統領として初めて靖國参拝を希望した。それは日本の大義の「共有」への第一歩であった。しかし日本はこの第一のチャンスを自ら逃した。ブッシュが再選されれば第二のチャンスはやがて訪れるだろう。もし民主党政権に替われば、再び共和党政権の二番手のキーマンが登場する日まで「その日」は遠ざかることになる。しかし日本がイラク戦争を支持した事実は消えない。共和党は「借り」は必ず返す政党である。戦後六十年、ついに「正義の女神の秤」は動き始めたのだ。ブッシュ政権とはパール判事の予言した「虚偽からその仮面を剥ぎとる理性」に他ならず、イラク戦争とは日本民族にとって「暁」への扉を開ける大いなるプロローグであったのだ。

 さて、いよいよ次章ではイラク戦争以後の今後一世紀に渡る日本の中長期的使命、そして本書でこれまで述べてきた国内外あらゆる全ての現象の根源となる「原理」について述べる。日本は、アメリカは、中共は、世界は、有史以来の人類全ての歴史は、ただ一つのパワー・ポリティクスの「原理」に基いて動いている。その「原理」を知れば未来が視えてくる。それは今まで誰も語ることのなかったパワー・ポリティクスの未来学である。
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 『敗戦国日本はこれまで原爆投下に対しての公式な抗議は一度も行わず、また仮に今の状態の日本が抗議を行っても聞く耳は持ってもらえないことであろう。』とありました。しかし、広島の原爆投下後8月10日に、日本政府はスイス政府を通じて米国に抗議文を伝達している事は付け加えておきます。

天皇弥栄★彡