オリンピックのエンブレムが4作品に絞られましたが、皆さんはどうお思いなのでしょうか? 私は前回1964年の日の丸が最もカッコ良く、最も相応しいと思うのですが・・・・
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※誤字・脱字は出来るだけ修正していきます。
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そうだったのか 沖縄! ☆目次
 
九章 誇りある日本の歴史 
「沖縄戦」と「沖縄県祖国復帰」

全国の若者の命を賭して戦った「沖縄戦」 

 「沖縄戦」というと一般的に「沖縄の悲劇」というイメージがあります。確かに、沖縄戦は人類史上最大ともいえる激戦でした。戦死者には諸説ありますが、少なくても、日米双方で合計二〇万人以上もの方が戦死し、そのうち、沖縄県民の軍人軍属と非戦闘員合わせて一二万人以上の方が戦死しました。

 しかし、戦死したのは沖縄県民だけではありません。沖縄県外の四六都道府県出身の軍人の戦死者も六万六千人以上にのぼります。その中で最も戦死者が多い都道府県は、最も沖縄から離れている北海道です。また、六万六千人の中には当然、九州から沖縄に向かって飛び立っていった特攻隊員も含まれています。更に沖縄に建設された米軍飛行場に着陸し破壊活動を行った義烈空挺隊の隊員も含まれています。玉砕した愛媛県松山市の第二二連隊も含まれています。

 これらの事実を知ったならば、沖縄県民は「捨て石になった」などと言うことが出来ないどころか、北海道や愛媛県に足を向けて寝ることができなくなるはずです。しかし、沖縄の学校やマスコミでは、そのような事実を完全に無視し、「沖縄県民は本土防衛の捨て石とされた」と教え込んでいます。本当に沖縄を捨て石にするというのなら、何故特攻隊員は片道燃料だけを積んで沖縄に向かって飛んでいったのでしょうか? それは、日本の国土である沖縄県を守るため以外にはありえません。全国の若者が祖国防衛のために若き命を捧げて戦った沖縄戦は日本民族の存亡をかけて総力をあげて戦った本土決戦であり、沖縄は日本民族にとって聖地といっても過言でない地なのです。即ち、沖縄戦というのは、「沖縄の悲劇」ではなく、「沖縄が聖地となった日本の歴史」なのです。

沖縄戦の比類なき特徴 官軍民一体となっての祖国防衛の遂行

 次に、沖縄戦の特徴を確認してみたいと思います。書籍「鳴呼沖縄戦の学徒隊」の序文に沖縄戦の特徴が説明されていますので抜粋にて紹介させていただきます。
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金城 和彦著「鳴呼沖縄戦の学徒隊」序文より抜粋
 
 沖縄戦の比類なき特徴は、軍官民一体となっての祖国防衛戦の遂行であり、とりわけ健気な中学生や可憐な女学生を中核とする学徒隊が、正式に兵士や軍属(従軍看護婦)の任務に就いて、暴風雨の如き砲弾撃下、鬼神をも哭かせる悲壮な奮闘の末に、その大半の者がおしみても余りある若き生命を祖国に捧げたことである。

 沖縄戦のあまりにも多い尊い犠牲は、しかし、日本を存亡の危機の縁から救い出すことになった。以前の硫黄島での戦いと同様に、沖縄戦での自軍の損害の甚大に驚き、連合軍は、遠からず発動される予定の日本本土への全面的な侵攻作戦に、懸念と憂慮を深めた。スチムソン米陸軍長官は「死傷者百万人以上、必要兵力五百万」と予測して政府に警告した。まもなく、連合国がかねて意図していた日本の無条件降伏の実現は断念され、ポツダム宣言という形態での「有条件終戦」の提案が、日本に対して行われこうして講話への道が開かれた。
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 沖縄戦の特徴を説明するキーワードをあえて二つに絞り込むとするなら、「官軍民一体」と「学徒隊」の二つの言葉になるかと思います。つまり、学徒隊を含む沖縄県民が一丸となって祖国防衛戦を遂行したからこそ、米軍の計画や予想を覆して、三ヶ月もの長い間戦うことが出来たのです。そして、その戦いこそ米軍の本土上陸作戦を阻止し、米国から「有条件降伏」を引き出したのです。

日本海軍沖縄県軍司令官 大田実少将最後の打電

 このような沖縄県民の日本軍の作戦行動への献身的奉公を見ていた大田海軍司令官が自決前に海軍次官宛に送ったのが有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文です。口語訳を全文紹介致します。
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 電文現代語訳
昭和二〇年六月六日 二〇時一六分

 次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、三二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

 沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

 しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。

 看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。 

 これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

 沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけということです。沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
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沖縄戦の英霊の志を引き継いで実現した 沖縄県祖国復帰

 戦後この電文を見て心を動かされた戦後の政治家がいました。初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏(鹿児島三区選出)です。田村洋三氏著の書籍「沖縄県民斯ク戦ヘリ」に山中氏の発言が掲載されているので引用して紹介致します。
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「私が衆議院議員二期目の昭和三一年ごろと記憶していますが、防衛研修所戦史室に勤めていた軍隊時代の友人が、あの電文の写しを届けてくれました。驚きましたねえ。あの激戦を戦った将官の中に、県民にこれほど思いを馳せた人がいたのか、これこそ我々が引き継ぐべき沖縄問題の原点ではないか、と。それに引き換え、当時の本土の沖縄対策はどうだ。国内唯一の戦場になり、地獄の苦しみを味わった人々の血の叫びを、座してみているだけではないのか、と。」

 〜途中省略〜 

 大田中将の電文を読んで一層、沖縄への思いを募らせた山中さんは、その直後、第三次鳩山内閣の国会で首相に質問している。 

 「戦前からの国会をご存知の鳩山総理は、衆議院に沖縄県出身議員の議席があったのを知っておられるだろう。しかし、今、沖縄は米軍の占領下にあり、議席はない。最前列に沖縄県出身議員の空席をつくり、我々の復帰促進への反省材料にしてはどうか」 

 この発言はアメリカ大使館から国務省に打電され、翌年、山中さんが初めて渡米した時、問題にされた。

 「君は自民党員の筈だが、実は社会主義者かと聞くので、資本主義と自由主義経済の信奉者だが、沖縄問題に関しては愛国主義、民族主義だ。日本人として当たり前の事を叫んだまでだ、といってやりました。」

 その後、佐藤栄作蔵相の政務次官を務めた山中さんは、佐藤さんが三九年一一月、首相に就任すると、膝詰めで談じ込んだ。「戦後二〇年、歴代首相は誰一人、沖縄へ行っていません。あなたが行って『長い間苦労をかけたが、もう少し待ってくれ』と慰めて下さいと言ったんです。すると首相は『それをやれば、沖縄に内閣の命運を賭けることになるぞ』と言いました。県民が祖国に復帰できるか否かには、内閣の命運をかける価値がありますと言いますと、しばらく考えていたが『君が道案内しろ』といってくれました。」

 現職首相の初の沖縄訪問は四〇年八月一九日、遂に実現した。そして、その第一歩の那覇空港で、山中さん自身がびっくりすることが起きる。

 それは、佐藤首相が那覇空港に着くなり発表したステートメントの内容だった。大田中将が「県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ」と訴えたのに応えるかの如き、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」との、これまた歴史に残る明言である。

 「事前に何の相談もなかったので、びっくりしました。ああ、総理は遂に沖縄の本土復帰に政治生命を賭ける決心をしてくれたな、と嬉しかったですねえ」
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 今では、沖縄県の祖国復帰はあたかも自然に実現したもので、あたりまえのように捉えられています。しかし、山中貞則代議士の言葉を読むと決してそうではなかったことが見えてきます。日本の戦後体制はサンフランシスコ講和条約とそれと同時に発効した日米安全保障条約で決定し、米軍による沖縄占領はこれらの条約とセットとなっており、極めて動かしがたい政治体制となっていました。

 また、当時の自民党政治家も外務省もこれを肯定的にとらえ、この体制を変えようという人はほぼ皆無だったのです。つまり、沖縄の祖国日本への復帰をライフワークとする政治家がほとんどいなかったのです。その体制の打破のきっかけとなったのが、大田実中将の電文であり、それに動かされたのが山中貞則代議士だったのです。

佐藤栄作首相 戦後日本の首相として初めて沖縄を訪問

 現職総理大臣の沖縄訪問は終戦から二〇年目にして初めて実現しました。その理由は占領する側の立場にたって考えればすぐに解ります。総理大臣が沖縄を訪問した場合、「沖縄祖国復帰」を求める声が沖縄県民から上がることは火を見るより明らかです。そのため、米国が恒久的に沖縄を占領する方針である限り総理大臣の沖縄訪問を認めるわけにはいかないのです。在沖米軍が佐藤総理大臣の沖縄訪問を認めたということは、この時既に沖縄の日本への復帰を認めていたと考えられます。

 実は、第五章の「祖国との一体感を求めて行われた東京オリンピック沖縄聖火リレー」では、米軍統治下で自由に日章旗を掲げることが許可されていなかった中で、東京オリンピック聖火リレーでは沖縄中が日の丸で埋め尽くされた様子を描きましたが、それは佐藤総理の沖縄訪問のちょうど一年前の出来事だったのです。この時に、米軍の沖縄占領政策が恒久占領から沖縄を日本に返還して基地機能を維持する方針に転換したのではないかと考えられます。事実、佐藤総理大臣は沖縄訪問を前にして、米国のジョンソン大統領に沖縄返還を要求しており、沖縄でのスピーチは、沖縄祖国復帰の実現を前提としたものとなっています。

豹変した沖縄祖国復帰協議会

 このように、大田実中将の電文は戦後の政治家を動かし、佐藤総理大臣の沖縄訪問を実現させました。では、その後沖縄返還の実現はスムーズにいったのかというとそうではありません。沖縄の歴史は非常に複雑です。これまで、日の丸を掲揚して復帰運動の中心を担っていた沖縄県祖国復帰協議会が「基地反対」「日米安保破棄」の運動に豹変したのです。詳細は序章、第一章、二章、また歴史コラム①で述べておりますが、その豹変の裏には毛沢東の意思がみえます。

 一九六〇年に祖国復帰協議会を発足して始めた沖縄工作では、「愛国反米」運動を扇動して日米安保破棄を狙っていたのですが、米軍基地を残したまま沖縄を復帰させる佐藤総理大臣の沖縄返還交渉が始まったため「反日反米」扇動工作に切り替えたのが豹変の理由と考えられます。祖国復帰協議会の運動は一九七〇年六月一七日に日米間で沖縄返還協定が調印されてからは、沖縄返還協定批准阻止闘争と変貌し、激しいデモやストライキが行われるようになってきたのです。
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沖縄返還協定批准貫徹県民大会上京陳情団

 第一章等で述べているように一九七一年一〇月、豹変した沖縄県祖国復帰協議会の闘争により沖縄が復帰できる千載一遇のチャンスを失う危機を感じた沖縄の同志が「沖縄返還協定批准貫徹県民大会実行委員会」を立ち上げました。

 一〇月三一日に与儀公園で一〇〇〇名の大会を開き一一月三日には代表団八名で上京し、国会や政府に「沖縄県民の本心は全員が復帰を望んでいる」という事を涙ながらに魂のそこから伝え早期批准を要請しました。その結果、一一月一七日には自民党は大義を得て、沖縄返還協定の批准を強行採決で可決する事ができたのです。
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沖縄復帰記念式典での昭和天皇のおことば

 昭和四七年(一九七二年)五月一五日、ついに沖縄県の祖国復帰が実現しました。東京の日本武道館と那覇市民会館で同時に式典が開催されました。東京会場では、天皇皇后両陛下のご臨席を賜りお言葉を頂きました。
2016年04月10日23時28分53秒
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沖縄県祖国復帰式典にて昭和天皇より賜ったお言葉 (昭和四七年五月一五日 日本武道館)

「本日、多年の願望であつた沖縄の復帰が実現したことは、まことに喜びにたえません。このことは、沖縄県民をはじめわが国民のたゆまぬ努力と日米両国の友好関係に基づくものであり、深く多とするところであります。この機会に、さきの戦争中および戦後を通じ、沖縄県民の受けた大きな犠牲をいたみ、長い間の労苦を心からねぎらうとともに、今後全国民がさらに協力して、平和で豊かな沖縄県の建設と発展のために力を尽くすよう切に希望します。」
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誇りある日本の歴史 「沖縄戦」と「沖縄県祖国復帰」

 これまで見てきたように、大田実中将の電文が山中代議士を動かし、佐藤総理大臣を動かし、沖縄県祖国復帰を実現させました。その電文を打たせたのは、まぎれもなく、献身的に祖国に殉じた学徒隊を始めとする沖縄県民だったのです。

 「沖縄戦」は全国の若者の命を賭して戦った祖国防衛決戦であり、それは米軍本土上陸作戦を阻止し、米国から有条件終戦の提案を引き出した誇りある日本民族の歴史であり、沖縄が日本民族の聖地となった歴史でもありました。そして、その聖地である沖縄が日本に返ってきた「沖縄県祖国復帰」の実現も沖縄戦の英霊の志を引き継いで実現した政治的大事業であり、「誇りある日本の歴史」なのであります。

 沖縄県の祖国復帰を実現した五月一五日という日は、沖縄戦を戦った英霊と沖縄祖国復帰にご尽力された全ての方々に感謝を捧げるとともに、彼らの志をしっかりと引き継いで、「再び沖縄を他国に渡さない!」「必ず守り抜く!」ということを全国民で誓い合う日としたいと強く願っております。
(仲村 覚)
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すめらぎいやさか★彡