三池炭鉱跡をさぐる(5)〜旧三川電鉄変電所(サンデン)〜『NEW 山口英文法講義の実況中継 下』/山口俊治

2009年12月18日

『三島由紀夫と楯の会事件』/保阪正康5

三島由紀夫と楯の会事件 (角川文庫)

三島由紀夫と楯の会事件 (角川文庫)







〜もくじとあらすじ〜

文庫版のまえがき
 (1)楯の会事件は、じわじわと戦後社会の骨格に効いてくる事件。
 (2)戦後社会の骨格
  1.憲法 → しかし、これにより知的退廃が皮層化。
  2.生と死 → 人命の尊重という不文律
  3.物量・経済主義 → 伝統・文化の退廃
 (3)三島由紀夫は、この骨格に警鐘を鳴らし、行動を起こした。

三島由紀夫の檄文

序章 十年目の遺書
事件に参加できなかった楯の会二班の班長倉持清が、事件後受け取った自分宛と、他の隊員に宛てた三島由紀夫からの遺書を公開するに至った動機やそれまでの流れ。

三島由紀夫の遺書

第一章 「最後の一年は熱烈に待つた」
事件の概要
 (1)三島由紀夫と楯の会会員4名は、昭和45年11月25日午前11時に自衛隊総監益田兼利と面会。
 (2)益田を監禁し、三島の演説と自衛隊員を前庭に、残りの楯の会会員をバルコニーに集めろと要求し、受け入れられる。
 (3)午前11時55分頃、会員の森田らが檄文を巻き、正午に三島が演説。
 (4)総監室に戻った三島は割腹自殺、森田もそれに続く。
事件への対応
 (1)佐藤栄作首相、中曽根康弘防衛庁長官ら、政治指導者は「狂気」として反応=「高度経済成長社会の中で与党と野党が認めた社会倫理から外れたものは切り捨てるという発想」(p79)
 (2)新聞=民主主義を掲げて批判。
 (3)作家・評論家・学者=昭和元禄への警告とする者や諫死とするものなど様々だが、概して三島美学の完結と受け止める。

第二章 三島由紀夫と青年群像
三島の変貌
 (1)『英霊の声』を発表した昭和41年頃から「急速に、政治的領域の中に文学的・社会的活動をとけこませ始めた」(p94)
    → 自らの思想を語ることで具体的に行動していくことになる。昭和元禄の戦後日本に飽き飽きし、日常的怒りに。
 (2)この現世で、戦後の偽善に毒されておらず、肉体の鍛錬ができ、何よりも忠誠をシンボライズできる場として、自衛隊に注目することになる。
『論争ジャーナル』グループとの出会い
 (1)『論争ジャーナル』=中辻和彦と萬代清という2人の青年が興した民族派の雑誌(昭和42年1月創刊)
 (2)2人はツテを辿って三島と接触、その中で日本学生同盟の持丸博とも知り合う。
   → 三島は元来青年嫌いだったが、彼らとの対話を通じて青年に触発される。
 (3)三島は単独で昭和42年4月〜5月の45日間、本名で体験入隊する。
   → その後、「自衛隊を明確に「国軍」たる地位に置き、それにふさわしい精神教育を行なうと同時に、日本の自主防衛の明確な範囲をつくる」(p115)という考えを示す。しかし、まだ実現策には触れていない。
祖国防衛隊構想
 (1)国民自らが有事の際、国の歴史と伝統を守るために戦う民兵組織作りを想定し、研究。
   → 根には共産主義による間接侵略への対抗がある。
 (2)ここにおいて、具体化策が登場、三島はある種の配慮や世間への思惑を完全に拭い去る変貌を遂げている。
 (3)資金は自力で捻出することになり、その頃自衛隊将校山本舜勝との接触が始まる。
第一回体験入隊(昭和43年3月1日〜28日)
 (1)入隊の一週間前、三島は二・二六事件について、戦術的な誤りを指摘しながらも、もろい清純な美しさがあふれていると表現。
 (2)入隊後、学生たちの体力のなさ、考えの甘さに失望。
    → 以後、将校になりうる質のいい生徒を集めることに。
 (3)昭和43年5、6月頃から、三島は少しずつ特異な活動家へ転進を図っていく。
   例)共産勢力による天皇の利用を恐れ、文化概念としてて天皇の復活を促すため、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務」(p139)

第三章 「楯の会」の結成
楯の会結成
 (1)昭和43年は、まさに革命前夜といったような雰囲気で、右翼学生は孤立状態。
   → そんな彼らが三島に近づいた最大の要因は<天皇(制)護持>の強い信念を持っていたこと。
 (2)第2回目の体験入隊の後、議論を深めていく中で、「楯の会」と名称が決まる。
 (3)10月5日、楯の会の結成式…究極には軍人に準ずる行動を目的とした組織。
反革命宣言
 (1)昭和43年10月21日の国際反戦デーと新宿騒乱
   ・その前から三島と楯の会は自衛隊将校山本の指導を受けて、間接侵略に対する街頭訓練を行っていた。
  ・三島らはその実態を見て、騒乱後、12月にかけて「反革命宣言」と「反革命宣言補註」を作成(≒楯の会綱領)
 (2)反革命宣言発表(昭和44年2月号の『論争ジャーナル』にて)
   ・第1項・・・共産主義と行政権を凍結しようとする行動に反対する。
   ・第2項・・・護るべき日本の文化、歴史、伝統の最後の保持者として、過去に固執し、未来への予見的行動は一切拒否する。
   ・第3項・・・戦後民主主義の多数派尊重主義への嫌悪感。
   ・第4項・・・共産主義体制の言論の自由を保障していない政体への批判。
   ・第5項・・・あらゆる困難をものともせず、闘いの起点を明確にする。
    =戦後民主主義政治の欺瞞に対する怒りと全否定。
 (3)暴力の否定=思想や言論はいくら過激であろうと空論化 → 人を怠惰にし、非行動を免罪する。
 (4)思想がもてあそばれるような退廃的な時代が三島は許せなかった。
楯の会会員
 (1)寡黙で天性の凄みを持つタイプ 例)森田必勝
 (2)知を代弁しするタイプ 例)持丸博
東大安田講堂事件(昭和44年1月18日)
 (1)次々と投降する学生たちの姿を見て三島はひどく失望。
 (2)それと同時に、やはり左翼には「死を賭する」ほどの行動原理を持っていないことが分かり、安堵した。

第四章 邂逅、そして離別
離反の芽
 (1)第3回体験入隊(昭和44年3月1日〜29日)頃から、自衛隊内部でも体験入隊などに批判の声、不安の声があがる。
 (2)三島は、自衛隊内部との接触をはかっていくも、「自衛隊内部の官僚主義と、精神教育を怠って技術習得集団に堕ちこんだことに反感」(p197)
東大全共闘との対話(昭和44年5月12日)
 (1)肉体的暴力を論理化しようとするという共通点を見出しながらも、死を賭してまで政治的スローガンを守らない姿勢に失望。
 (2)対話集会で、これまで感性を嫌悪してきた三島が、天皇についての個人的な体験を語る → 持丸は呆然。
『論争ジャーナル』との別れ
 (1)『論争ジャーナル』の売れ行き不振で、中辻と萬代は、財界人と接触し資金援助してもらうことに。
 (2)これまで、寄付などを一切受け取ってないなった三島は、楯の会の名誉にかかわるとして、彼らに怒り、昭和44年8月、10人あまりの会員が去る。
    → 二・二六事件における青年将校に裏切られた北一輝を自分に投射。
学生長交代
 (1)楯の会専従となって会の運営を進めてほしい三島と、思想は錬磨すべきだが、社会人としての役割を果たしたいとする持丸との温度差も出てきた。
 (2)話し合いは決裂、持丸は会から去ることに。
 (3)二代目の学生長に森田必勝が選出される = ブレーキ役だった持丸が去ることで、三島は森田の気質(上記参照)に合わせていく事になる。
 (4)10・21国際反戦デーにおいて、前年とは異なる状況から、「敵」のだらしなさと自衛隊が出動しなかったことに深く失望。
   → 三島はの焦りは新たな目標を見出すことにつながる。
 (5)11月3日、楯の会一周年パレードで世間にその存在が知れ渡る。

第五章 公然と非公然の谷間
非公然活動の始まり
 (1)世間に見られる「楯の会」活動(=公然)と、体制に抵抗する密かな活動(=非公然)を同時に進める。
 (2)自衛隊将校山本舜勝との関係も次第に冷却化 = 自衛隊との同盟意識を断ち切る。
    → 三島と森田は密かに自衛隊に反旗を翻し、腰抜けの自衛隊を目覚めさせる独自の計画を練り始める。
 (3)一方で、日本の文化・伝統を抹殺する都合のいい自民党的な現行憲法を改正し、新しい憲法について研究し始める。
憲法改正への布石
 (1)三島は、国民精神の主体である祭祀的国家への方向を目指す憲法草案の検討を始める。
   → 「民主主義とは継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない」(p256)として、明治憲法を範としたものを目指す。
 (2)三島の論理は、現実と整合しなくなっているが、その限界を感じつつも、誰にも理解させない状態に仕立て上げた節がある。
 (3)そして、自らの気質で決着をつけるため、政治的アピールを含めて<死>を媒介に伝えることとした。 → 結果的に三島の動きは非公然化していく。
決起計画と最後の二ヶ月
 (1)言葉ではなく、決行あるのみとの考えの下、昭和45年5月以降計画が練られていく。
 (2)憲法草案の作成作業も続く(p273-275) → 完成したのは事件後の昭和46年2月。
 (3)6月頃から親しい人々と食事をもうけ、さりげなく別れを告げ、7月頃には行動の傾斜をうかがわせるような絶望的なニュアンスのエッセイを次々に書く。
   → と同時に、自らの事件が闇に葬られないように、世論対策も万全を期した。
 (4)11月25日、決起。

終章 「三島事件」か「楯の会事件」か
 (1)昭和46年2月28日(事件から96日目)、楯の会「解散宣言」
 (2)三島の檄文に見られる「正論」は結局、論として自衛隊機構を批判し、手段として自衛隊員の意識を撃とうとした。しかし、それが実らぬことも分かっており、だからこそ三島は絶望に満ちた調子で決起を訴えた。
 (3)三島の理想
   → <明治憲法下の社会>を視野に入れたもので、西洋風の立憲君主制をとりつつ、祭祀的天皇を含ませ、その天皇を自立したナショナリズムの中心に据えようとしていた。

補章 三十一年目の「事実」

三島由紀夫の辞世の歌


〜総評〜
長くなってしまいましたが、この本は私にとって衝撃とも言えるものでした。
昭和史、特に1970年前後の、空前の昭和元禄と、その反発・負の遺産としての学生運動や公害問題など、激動の時代が好きで、様々な文献にあたりました。

その中でも楯の会事件は興味はありつつも、「右翼思想にかぶれたナルシスト文学者のご乱心」程度の先入観を持ち続けていたのです。

しかし、この本を読んで、いかに三島が本気で、きちんとした理念をもって行動したかがよく分かりました。
楯の会事件は、その事件そのものより、その前の三島の言動を追うことにより、そのときの状況や彼の思想を理解しやすいものとなるのだなぁと感心しました。

三島由紀夫という男は、個人的に非常に生真面目で完璧主義者だったと思います。
それゆえ、自衛隊から希望を失ったときの落胆は、檄文に見られるもの以上だったのでしょう。

学生運動は、ある種のファッションのようで、参加していることがカッコいいと言う時代だった、とある本で読んだことがありましたが、それとは対照的に、三島や楯の会は、もはやアマチュア民兵とは言えぬほどの意識と身体的鍛錬で、思想を体現化していったということからも、その生真面目さは学生運動との対比でもよく分かります。

と同時に、三島はやはり文学者であったのだなぁということもこの本を読んで強く感じました。日本の美や礼節を強調する日本の文化や伝統をその書に込め、それらを守り抜こうとした楯の会の思想がひしひしと伝わりました。

終わりに近づき、三島が決起に向かっていく第五章は、読んでいて痛々しく、非常に辛かったです。

この本を読んで、三島由紀夫観が180度変わるといっても過言ではありません。
いや、むしろ三島が危惧していた、無機質でからっぽな、ナショナリズムのない経済的大国が現実のものになってしまっているということに、三島の先見性を感じることができます。

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