『縄文の生活誌』(日本の歴史01)/岡村道雄『COMMERCE』/Paul A Davies

2010年05月30日

大宰府を巡る(2)(大宰府政庁跡・国分寺跡・国分尼寺跡)2

古代日本にとって九州は非常に重要な地でした。

首都こそおかれはしなかったものの、天皇家とも縁が深く、さらに当時の首都だった平城京や平安京に次ぐ都「大宰府」が置かれていたのです。

今回は、その古代日本の歴史と絡めながら、大宰府周辺の遺跡を紹介しようと思います。

しかし、まず、その話を進める前に、ここでいう古代日本とはいつからいつまでをさすのか、前置きしておこうと思います。

飛鳥時代(7世紀)
  → この記事におけるこの時代の登場人物:天智天皇(中大兄皇子)
奈良時代
  → この記事におけるこの時代の登場人物:聖武天皇
平安時代
  → この記事におけるこの時代の登場人物:菅原道真


大宰府を巡る(1)はこちらをご覧ください。


では、前回の続き、今回は大宰府政庁跡に向かいましょう。

大宰府政庁石碑大宰府政庁跡碑です。
中大兄皇子が守りたかった大宰府、またの名を「遠の朝廷」(とおのみかど)と言いました。
その役所(政庁)がこの地に置かれていたのです。現在は何の建物もありませんが。
ここは、九州地方を治めることはおろか、外国との貿易の窓口になっていた重要な役所だったのです。
第二の首都と言ってしまっても当たらずとも遠からず

現に、現在日本には中国地方と呼ばれる地方がありますが、
この「中」国というのは、奈良・京都と、大宰府の間(真ん中)にあるから、中国と呼ばれている、という説があるくらいです(別の説もありますが)。

大宰府政庁跡1
さて、この大宰府が「遠の朝廷」として実質的に機能していたのは、7世紀後半(つまり天智天皇がいた辺り)から奈良時代でした。
この写真は入口近辺です。


大宰府政庁復元図
ちなみに、復元模型がこちらです。
奥に見えるのが、実際政治が行われていた中心部にあたる、正殿です。
左右には脇殿と呼ばれる建物も置かれ、やはりかなり大きな規模の政庁だったのだなぁとの思いがわきあがります。

大宰府政庁跡3そしてこちらが、正殿跡
この政庁は、現在市民の広場として、多くの人に利用されています。なかなか緑に触れ合えない現代にあって、こういった活用もいいですよね


さてさて、この大宰府が重要な役目を負っていた奈良時代(710〜794年)、もっといえば中頃の聖武天皇の時代、彼は
「仏教の力によって国を安定させよう」と考えていました。

そこで国(現在の都道府県のような範囲)ごとに国分寺国分尼寺を建立するのです。
さらにそれら国分寺のいわば総本山として東大寺が建てられます。
東大寺と言えば、日本一の大きさを誇る、奈良の大仏が置かれている寺として有名ですよね。

もちろん、現在の福岡県の一部分、筑前国にも当然国分寺と国分尼寺が置かれていました。
しかも、両者ともに大宰府政庁の割と近くにあるんです。

国分尼寺跡何の写真だと思わないでくださいね(笑)
こちら、見る影もありませんが、国分尼寺跡です。「尼寺」とあるように、尼さんがいたお寺です。
そして、ここから300m東にいった辺りに国分寺があります。

国分寺跡
なんとこちらも跡地。。。
ここにはかつて国分寺があり、さらにもっといえば、塔が建っていた場所だそうです。

国分寺講堂跡少し北には国分寺の講堂跡がありました。
国分寺が建てられるのは741年以降ですが、この国分寺は750年前後には完成していたと予想されています。
う〜ん、当時の国分寺を見てみたかったなぁ〜


さて、平安時代に入ってももちろん大宰府は機能してはいましたが、奈良時代とは違って若干中央の政府の役人の左遷先となっていたのも事実。

大宰府の長官として最も有名な人物は、「学問の神様」との異名をもつ、菅原道真
彼は当時権勢を誇っていた藤原氏の策略により、ここ大宰府に左遷されました。

その左遷先で死を迎えますが、死後ほどなくして京の都では災害が頻発、天皇や左遷を画策した藤原氏など関係者が相次いで死去。
それを道真の祟りとして恐れた朝廷は、どうしたでしょう?

そう、答えは・・・菅原道真を神様にしたのです。

では、次回大宰府巡りの最終回は、神様菅原道真が鎮座している神社に行きます

(次回に続く)



c_eyes_modest at 20:05│Comments(0)TrackBack(0)  史跡 

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