夢先案内人「おみ」の爽快ポジティブ日記

自称夢先案内人『おみ』が日常感じている事柄を超主観的に解説。ネガティブネタもど〜んと来い! …嘘。 ただの気まぐれカメコ日記だヌ〜ン!

オジサンたちは利権でしか動かないのです

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Canon EOS-M
Canon EF-M 18-55mm F3.5-5.6 IS STM
”鉄橋”

総工費2520億円ともいわれている新国立競技場こと”森喜朗古墳”計画の見直し検討に入ったそうな。
安保法案の衆院可決とおなじ日の発表とはずいぶんタイミングがよろしいようで。
愚民たちへの目くらまし的なやつでしょうか?
与党への印象悪化を少しでも緩和させようと?
まぁ安保法案自体が目くらましで、実はこの影に隠れてもっとヤバい法案が地味に成立しつつあるって話も聞きますが。

そもそもあんなチャリンコのヘルメットみたいなデザインいる?
旧国立競技場は形こそあんなアーティステックではなかったけど、数々のドラマティックな名シーンを生んだと思う。
それに人々にすごく愛されていたと思うし。
新国立競技場はスタートからイメージが悪すぎた。
外観なんて言ってみればただの箱なんだからどうでもいいんだ。
そんなことより重要なのは、中に入って観戦したときにいかに快適に観られるか、どれだけユーザビリティに優れているかなんだ。
たしかに世界中でテレビで観戦する人へのアピールはあのチャリンコヘルメットのような外観はキャッチーかもしれない。
でもおそらくこのまま進めば外観優先のコストダウンで中身は軽視されるだろう。
使い勝手の悪いものでは意味がない。
むしろ顧客心理としては入る前の外観で評価が上がるぶん、中身はさらにその上を行く作りでなければ感動しない。
いまさらのデザイン変更は海外からの信頼にかかわるなんてどんな利権があって言ってるのか知らんが、どうしてもこのデザインで行ってくれないと困る偉いオジサンたちもいるようだ。
もしもハンパなものを作って、海外から楽しみにきた外国人に外観は凄かったけど中身は普通だった、いやむしろイマイチだったなんて言われたらそれこそ日本国の名折れだ。
ぜんぜん”おもてなせてない”。
そうじゃなく「最初のデザインは斬新で期待してたけど、できたものは地味で普通で日本にはガッカリだったよ。でも中に入ってみたらとんでもない競技場だった!さすがジャパンテクノロジーだ!」と言わせるようなものがきっとできるに違いない。
あんな大金食いのキールアーチなんていらない。
そんな金があるなら中身に使うべきだ。
世界中の度肝を抜くエンターテイメントにできるはず。

安藤忠雄は素晴らしい建築家なのかもしれないけれど、政府と仕事で絡むとロクなことは言わなくなる。
一流のクリエイターも政府の手にかかればフツーのオジサンに成り下がるのだ。
だいたい東京五輪組織委理事に秋元康が就任してる時点で相当ヤバい。
彼はたしかに芸能界では才能を持った人だと思うし、僕もその仕事のやり方は好きで彼のビジネスマンとしての才覚に惚れている部分もあるけれど、もっと世界的な行事であるオリンピックにふさわしい人材はいなかったのかと思う。

まぁ会長が森喜朗っていうのが一番ブッ飛んでるんですけどね。

小さくまとまってない?

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Canon EOS-M
Canon EF-M 18-55mm F3.5-5.6 IS STM
”NOGIZAKA Sta. × Mai Shiraishi”

テレビを見ていたら、ナインティナインの岡村隆史さんが貯金の管理は全部父親がしている、と言っていた。
それに対し、周りの反応は『えぇー!』とか『キャー!』だった。
たしかにそれはマイノリティなのかもしれない。

普段生活をしているとこういった場面にはよく遭遇する。
マジョリティはいつも正しく、当たり前で平和である。
マイノリティは間違っていて、非常識で危険因子である。
本当にそうだろうか?
マジョリティに属することは安定であり、平和であることが幻想かもしれないという思考がないとなにかとてもマズいことがおきるんではないかと思うのだ。
この単純な思考に僕はとても恐怖を覚える。
世界各地で起きた、または起きている争いのほとんどはこうした他の考えを許容しないささいなズレから生じている。
中にはカルト的な許容を超える狂気もあろうが。

たとえばそれが生命を揺るがすような待ったなしの危険なことであったり、それによって周りの人間が著しい不利益を被るようなものなのなら、それを直ちに拒否したり場合によっては制圧しなくてはならないかもしれない。
しかし、たとえば文頭の話のようなものはまったく取るに足らないことであり、個人の勝手であり、それを周りの人間が否定したりしてはいけないのだ。
だいたい、マイノリティを否定したところであなたは別に強くも偉くもならない。
ただその単純な思考を世間に晒し、次はなにかの場面でマイノリティになったあなたを、あなたと同じ単純な思考回路を持ったマジョリティに否定されるのだ。
だからマジョリティであるはずのあなたは常に自分の意思とは関係なく、マジョリティが選んだ選択をしなければいけなくなる。
平和でラクであるはずのマジョリティは堅苦しく狭い世界だと感じないだろうか?
それともそれにすら気づかずにマジョリティを妄信するだろうか?
集団にいることでマインドコントロールされるほどつまらないものはないだろう。
それよりもマイノリティを認め、そういった奇抜な考え方を自身の生き方に取り入れた方が面白いと思うのだ。


チョコの奴隷

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Canon EOS-M
Canon EF-M 18-55mm F3.5-5.6 IS STM

今日だけはチョコの奴隷
振り回される僕だよ
君の想い 聞けるのなら
今ここで跪いてもいい
ちょっと甘くて ちょっとほろ苦い一日さ
その手伸ばして 男は叫ぶ
女王様 愛をください

━ チョコの奴隷/SKE48 ━

バレンタインデーの戦果はいかがでしたか?
ども、おみです。

最近、バレンタインデーに男性から女性に贈り物をしましょう。
むしろそっちのほうがいまの時代カッコイイですよ!的な空気に違和感を感じます。
もともと外国から入ってきたバレンタインデーですが、欧米では男女問わず贈り物をする日ですとか、バレンタインデーにチョコを送るのはチョコレート屋の策略だとかいろいろあるのですが、そもそもなぜ日本では女性から男性にチョコレートを送ることになったのかを考えてみたい。

日本には古来より男性から女性に声をかけるのがスタンダードであり、そこには日本人女性が世界に誇る”奥ゆかしさ”があるわけですが、男女平等が掲げられ女性の社会進出が当たり前の昨今、女性から告白をすることに恥じらいはすでにほぼ無いと思われますが、そこには奥ゆかしさというよりはやはり”男性から告白されたい”という本能的な願望から、女性からは告白しない(したくない)のがデフォルトになっているように思います。

が、しかし待てど暮らせどそうそう意中の男性から声がかかるわけもなく、かと言って女性から行ってしまうのはガッツいて見えるのではないか?自分の行動はマイノリティなのではないか?男、気づけよ馬鹿野郎!という葛藤の末に見出した答えがバレンタインデーであろうと。
そんな女性が世に溢れるうちになんらかの後押しがあれば良いのではないかと。
女性から告白する正当な理由さえあれば男性に引かれる心配もないし、むしろマジョリティな行動であるから日本人女性としての奥ゆかしさも守られるではないか。
その中に1%くらいは『女性から告白することによって男性の自尊心をキズつけるのではないか?』というやさしさも含まれていたらありがたいという妄想もしつつ。

たしかに最初はチョコレート業界の商業的な作戦だったかもしれないけれど、”この日は女性から愛の告白をする日です”という後ろ盾は1970年代よりバレンタインデーが爆発的な支持を受けた要因であると言える。
そこにはもともと海外では。。。というようなことはまったく関与する余地がない。
そもそも神道と仏教がシェアのほとんどを握っている日本にはまったく関係ない祝祭。
古事記より信仰されている神道が後に入ってきた仏教を寛大な心と解釈で受け入れたように、日本人は物事の良いところを認め、それを都合よくアレンジするのが得意な民族なのだ。

ということで、時代がかわり女性から男性に告白することが当たり前であり、男性から告白されることに少しもプレミアムを感じなくなったのなら、バレンタインデーには男性から女性に花束を!というよりも、我が日本国におけるバレンタインデーの役目はもはや終わったと考えるのが正しいだろう。

しかし個人的には年に1度、普段自分からはなかなか言えない女性がこの特別な日に握り締めたチョコが溶けんばかりの情熱と共にに告白をする、という行為は近代日本における新しくもその根底には実に日本人らしい文化であると感じ、今後とも日本の文化として受け継がれていってほしいものであると感じます。


P.S. チョコレート随時受け付けています。

報道はどうあるべきか

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SONY α-7
Canon EF100mm F2.8 MACRO
写真を撮っているとレンズ内に乱反射した光が浮き上がることがある。
この日は血のような彼岸花から白い鳥が飛び立った。

ども、おみです。

ISの日本人人質・殺害報道がありました。
有事の真っ只中に野党は政権批判に躍起になる。
総理の発言に問題があった、今回の対応は間違ったのでは?。。。
そんなことは僕にはわからないけれど、自分たちの利権はとりあえず置いておいてまずは与野党一丸となって人命を救うという気概はまったく感じられなかった。
まぁそれはいいとして。

小学校の教諭が授業でISに殺害された人質の写真を無修正で見せたことが問題になっている。
マスコミの基本スタンスはけしからんという論調のようだ。
僕が今朝ニュースを見ていると若くて可愛い女性アナウンサーが『これはいけませんね!』的な言葉を言いつつこのニュースを読んでいた。
僕はこの様子をみてゾッとした。
死体の写真を子供に見せた教諭にではない。このアナウンサーにだ。
報道は真実を伝え、それが良いか悪いかの議論は後でなされるべきだ。
しかしこのアナウンサーは最初に「このニュースは教諭が悪者です。なぜなら死体の写真を小学生に見せたからです」と言っているようなものだ。
伝える側が先入観を持たせるニュースは報道ではなく、もはやマインドコントロールに近い。
いつからアナウンサーは自分の感想を先に述べてからニュースを読むようになったのだろう?
朝の少ない時間にニュースの概要を手短に伝えるためにこれはこういうニュースですとテレビ局側の勝手な解釈を視聴者に植えつけたのだろうか。
プロの情報発信者として、報道にかけるプライドが伝わってこない。
アナウンサーはいつからタレント研究生になったのか。

この小学校の教諭がどんな授業を行ったかは実際に見ていないのでなんとも言えないし、たしかに死体の写真を使ったのは間違いだったのかもしれない。
授業の大筋は「どこまで真実を報道するか」を子供たちに議論させるというものだったと聞く。
前述のアナウンサーやテレビ局の制作スタッフたちより教諭の方がよっぽど報道後進国日本の重要な問題に斬り込んだように思う。
こうして今後ますます情報の量が増え、一瞬で真贋を判別して受け取るというスキル(情報リテラシー)が重要になるときに、小学生のうちから報道とはなにか?どう扱うのか。というようなことを教育することは非常に大切だと思う。
これだけネットが発達しているというのにテレビ局はいまだに報道を支配しているのは我々なんだから、我々が正しいんだ口出しするなという勘違い甚だしい終わったコンテンツの臭いがプンプンする姿勢はやがてネットに飲み込まれてしまうだろう。

シャッターを切る

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SONY α-7
Canon EF100mm F2.8 MACRO
”朽ちてゆくまで”

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 
花も花なれ 人も人なれ

━ 細川ガラシャ ━

写真に定跡などない。
盛大に咲き誇る花も、朽ちる花も、その一瞬を生きる。

名という魔力

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SONY α-7
SONY FE28-70mm F3.5-5.6 OSS
”かかしのいる風景”


名前・名称というのは凄い力を持っていて、気をつけないとその本質を見失ってしまう。
例えば草食男子だとか、腐女子なんていうのから援助交際やニートとかあらゆるものに名称があるワケですけど、名称が付いたとたんそれが正当化、メジャー化されるわけです。
バックカントリーなんかもそうですね。
○○世代なんていうのもあるわけで、今日はこういった名称の持つ力について考えてみたい。
ども、おみです。

○○世代という言い方がありまして、バブル世代だとかゆとり世代だとか。
これはなにかを語るときにだいたいこの世代の人たちの世代観はこうですよ、とか。
いまこのポジションの人たちはだいたいこの世代ですとかいうようにボヤっとなんとなくイメージしやすいように便宜上使ってることがあるのです。
もちろん全員が全員その枠にハマっているわけではない。
ゆとり世代は全員悠長に構えているかというとそんなことはなくて、当然ながらすでに起業してバンバン稼いでいる人がいればNPOなんかで世界中を駆け回ってる人もいる。
もちろんバブル世代だからといって全員がイケイケドンドンかというとそんなことはない。

ただ、○○世代という名称や考え方が間違っているかというとそうでもない気がする。
何故か?
時代が流れているからに他ならない。
時代とは何かといえばやはり社会、経済、などの情勢。
戦争なんかはその中でも最も影響を与えるかもしれない。
人間は環境によって感覚・世界観が形成されると思われるので、やはり戦争を経験したかどうかで分かれるし、好景気と不況では違う。
全共闘なんていう時代もあった。
例えばよく言われる”今の若いやつらは〜”という古代エジプト時代からあるとされている人類最高峰の名セリフですが、これは若いからとか年をとっているからではないのです。
時代が流れて情勢・環境の変化を経て○○世代と言われるような大きな流れの移り変わりの中で長きにわたり使われているセリフなのです(漢字検定協会には是非”今の若いやつらは〜”を永世流行語大賞として殿堂入りさせてほしいくらいです)。

そこで問題なのは、この非常に便利な名称を持ってして、全員こうであるというような考え方はありえない。
それは思考停止であるし。
だからといってこれを全て否定してしまうのももったいない。
そこのフレキシブルな考え方は絶対に必要で使う側も聞く側もそこは理解していて当然というスタンスでなければ話にならないわけです。

が、しかしこういった名称は名称だけが一人歩きすることが多く、文頭でも言った援助交際なんていうのもそれまでは売春と言われてとても差別的なイメージがあったのが、なにを面白くしようとしたのかおそらく週刊誌だと思いますけど”援助”という好意的な言葉と交際という素敵な言葉を掛け合わせて援助交際なんていうイメージアップを果たした結果、その違法行為があたかも正当化されたかのような錯覚を起こさせ、蔓延して今に至るワケです。
同じ類で言うと合法ドラッグなんてのもありますね。

そんなことでネット社会になり、顔の表情や声色でその思いの強弱や繊細なニュアンスが無くなった文字だけで会話している昨今。
こういった読解力や想像力を膨らませて読み取らなくてはいけなくて、それに必要なのは人間の根底にあるやさしさや思いやりといった類のごくごく当たり前な感覚をつかうことなのではないかなと。
そのトレーニングとなるのはやはりマンガ、ではなく小説などの文字と想像力だけで世界を作り出すコンテンツなんではないかなと。
最終的には去年あまり本読まなかったから今年こそはたくさん読もう!
という自分の2015年の抱負を述べて本日の記事を締めくくろうと思います。
ご精読ありがとうございました。

伝える難しさ

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SONY α-7
CANON EF70-200mm F2.8L IS USM
”光跡”

銀座ミキモトのクリスマスツリー。
クリスマス直前の夜は歩道に人が溢れていた。
みんなどうやって写真に切り取るのだろうか。。。
この写真はおそらくミキモトのツリーの写真としては”無し”だと思う。
こうやって僕の書いた文章もわかり憎いものなのだろうか。

今日は高校1年生に思いっきり勘違いされてしまった。
おそらく彼と同じように思っている人が多いのだろう。
僕としてはかなり激励していたつもりだったのだけど。
ネットコミュニティだけではないのだけど、生きていて一番マズいなと思うのは感情が動かないことだと思っている。
表面的な会話の中には感情の揺らぎが発生しない。
それは一見、心地良い空間に見えるのだけれど、そこには一切の感動がない。
肯定の中には否定が必要だし、否定の中にも肯定が必要で、そこには揺れ動く感情が必要不可欠のように考える。
ほら、言ってることわからないでしょ?

僕は道で風に吹かれた女のコの髪が金色の糸のように、繊細に輝いたことに感動できる人間でありたい。
そしてできればそれを誰かと共有したいと思うんだ。

大晦日

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SONY α-7
CANON EF50mm F1.4 USM
”Nogizaka #2”

ろくでなし子は逮捕されるのにダッチワイフをネタにした日本エレキテル連合はNHKの紅白歌合戦に出演しております。
ども、おみです。

日本エレキテル連合の顔真っ白に塗った役がダッチワイフだっていうのはわかっていて世の中に受け入れられてるんですよね?
気色悪くてしかたないんですよね、あれ。
日本人のわいせつのラインがまったくわからない。

まぁそれはさておき、大晦日です。
洗車したら風邪引きそうになりました。
なんとか持ちこたえてますが。
今年はどんな年だったかなぁと。
ライブ遠征も九州旅行も楽しかったな。
来年もいろんな場所に行きたい。
出会いもあれば別れもありましたか。
仕事はあまり良くなかったかな。
大して忙しくもないくせに忙しさにかまけてチャレンジが無かった。
来年はもっともっと勉強しなくては。
あ、そういえば占いの本よんだら来年はモテまくるらしいです。
で、モテすぎて本当に好きな人が誰だかわからなくなるくらいモテるそうです。
楽しみですね。

ではではみなさま今年も仲良くしてくれてありがとう。
来年もよろしくね!
。。。というようなことを明後日から年賀状書き始めます。
すみません!まだ全然書けてないんです!
ごめんなさい!
でもかならず書きます!

正論は正義か?

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SONY α-7
SIGMA 15-30mm F3.5-4.5 EX ASPHERICAL IF
”Nogizaka”

テラスハウスを見てるヤツの恋愛観は信用してません。
ども、おみです。


歴史マニアのサイトを眺めていてたらとても詳しく興味深い見識者のサイトを見つけたので読んでいた。
が、少し読み進めると戦国時代を扱ったドラマや映画の感想を書いているのだが、あれダメこれダメでたしかに言ってることは正しいのだろうけど、次第にそれが誤りを正すというより自分の知識をひけらかすだけの最近の流行言葉で言う”マウンティング”の匂いがしなくもない。

モノ作りには制約もあれば演出もある。
史実を追求することとエンターテイメントは別物で、歴史誤認という問題もたしかに重要ではあろうが彼の言ってることはあきらかに一般的な知識としてはオーバースペックであり、不必要であると思える。
それだけ文句いうのならあなたがドラマ撮ってみればと。
それで視聴率取れるのか?
彼は制作スタッフに歴史素人だと言ってるがあなたはドラマ制作素人だ。
要するにどっちもどっちだ。
あれは違うと意見するのは有意義だと思うが、あまりに攻撃的な書き方は読んでるこっちも嫌な気分になる。
あなたが散々言っている正しい歴史認識を広めるためには、もっと伝え方を考えたほうが良い。
今の状態ではただのヲタクの戯言。

彼だけではない。
特にツイッターではこういう類の発言は散見される。
僕も結構そういう発言はしていると反省するべきこともあるが、細かくどうでも良い重箱の隅をつつくように人の間違いばかり指摘する人が多い。
そういう人は自分から発信することは少ない傾向にある。
つまり常に受身で誰かが発信したものについて叩く。
何かを発信するエネルギーとリスクに比べたら、人の間違いを指摘することなんて大した作業ではない簡単なものだ。
発信するリスクを負ってみればそんなに攻撃的なことは言えない。


正論は正しい。けれどそれを武器にする奴は正しくない。

一所懸命

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SONY α-7
SIGMA 15-30mm F3.5-4.5 EX ASPHERICAL IF

クリスマスは辛島美登里のサイレント・イヴを聴きこみます。
ども、おみです。


ちょっと前に「死ぬ気で勉強すればだれでも東大に入れると思いますか?」という質問を街頭インタビューしていた。
ある早大生は「入れると思う。」と答えていた。
そして彼はこう付け足した『でも僕は死ぬ気で頑張ることができなかった』
人間死ぬ気でやればたいがいの事ができるように思う。
が、問題なのは”死ぬ気”で頑張れない弱い自分との戦いなのだ。

作詞家の秋元康さんが「夢は必ず叶う」と言った。
そして彼はこう付け足した『それがそのままのカタチで叶うかはわからないけど』
つまり秋元さんは例えばアイドルになりたいという夢が、アイドルになることで叶うかはわからないけど、そう強く思って行動すればヘアメイクや衣装さんなどスタッフになれるかもしれないし、プロデューサーになれるかもしれない。
そうやって死ぬ気で頑張っていれば他の選択肢が見えてくるかもしれないよ。と言っているのだと思う。

死ぬ気で頑張ったらなにかがあると信じて生きるしかない。
それはわかるんだけど、実際死ぬ気になるのは容易ではない。
足りてない。
まったく足りてないのだ。
一所懸命。一つの所に命を懸ける。
なんとも美しく力強い日本語です。

頑張らねば。
おみ
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