callmexのblog

みなさん!こんにちは!もう70近い爺様ですが、日々、いろいろ感じたこと、疑問に思ったこと、不思議なこと、植物や音楽のこと等、音楽を挟みながら、皆さんに紹介できたらと思っております。その時その時の閃きで心に湧いたものを題材にしていこうと思っています。

心の赴くままに、今まで、そっとしておいた好奇心を働かせ、自分の人生を少し、振り返ることが出来たらいいなと思っています。自分の中で沸き起こる疑問を突き詰めていこうと思っています。よろしくお願いいたしますね。

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1948年、ナットはロス・アンジェルス近郊の白人富裕層向け高級住宅街の家を購入。ところが、KKKが正面玄関前の芝に燃えさかる十字架を立てた。こんな感じにされたなら、やはり、恐怖ですね。他にも色々あったのに。。。。よく乗り越えてきましたね。
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K.K.K アメリカの秘密結社、


最初の時点でのKKKは「黒人を懲らしめる」「躾け直す」という理屈で行動しており、必ずしも暴力行為を伴う訳ではないデモ活動などを基本としていました。だが次第に過激化しました。彼らは白装束で街を巡回し、彼らが独断で決めた時刻以外に、外出する黒人を鞭で叩いたり、夜中に「ナイトライダー」と呼ばれる馬に乗った団員が現れ、脅迫、暴行を加えるようになりました。更にこれに批判的な白人までもが時として暴力を振るわれ、投票権を行使しようとした黒人が殺害される事件まで発生しました。
1867年夏、KKKはナッシュビルで開催された大会の後に著しい成長を遂げ、この大会で指導者としてフォレスト(KKKはネイサン・ベッドフォード・フォレストによってテネシー州プラスキで設立された)が推薦され、直訳では「大魔導士」)」の称号を与えられました。

しかし暴力的傾向が強まっていくKKKに嫌気が差したフォレストは「当初の栄誉ある、また愛国的目的から外れ、大衆の安寧に貢献するよりも有害になっている」として、1869年にクランの解散を宣言し、また社会的義務を果たせる人物であればアフリカ系アメリカ人の社会進出にも賛同しました。だがメンバーの大半はその解散宣言に従わず活動を継続しました。
1871年には遂に政府から非合法のテロリスト集団と認定され、摘発が開始されました。このように、k・k・kも、その時期によっても、違ってきているようです。


1956年、アラバマでのコンサート中に、KKK系団体である北アラバマ市民評議会のメンバー3人がステージ上のコールを襲撃する事件が発生。(Little Girl」を歌っている時、襲撃されました。彼を襲ったのは「White Citizens' CounciL(白人至上主義暴徒)」のメンバーで彼を誘拐しようと計画。負傷しながらもそのステージは続けたそうですが、以後南部での演奏会は一切しなくなったということです。)

同じ1956年、キューバでコンサートを大成功させますが、コールはNational de Cuba Hotelへの宿泊を許可されませんでした。理由はホテルが人種隔離基準によって運営されていたから。

更に不条理なことに、アラバマ襲撃事件後、ナットは「私は理解できずにいます。私はいかなる(人種問題の)抗議運動にも参加していないし、人種隔離政策と戦う組織にも加入していない。それなのになぜ襲撃されなくてはならないのか?」との声明を発表。続けて「私は今回の事件を全て忘れ去ろうと思っている」と宣言します。そもそもナットはアラバマ生まれ。この声明は、黒人サイドからは猛反発を受けることになります。アラバマ州モンゴメリーと言えば、マーティン・ルーサー・キング牧師が主導する人種隔離座席を設けたバス乗車拒否運動が展開された地。

そもそも白人しか入場を許されないコンサートでナットはしばしば演奏していました。彼は「観客を人種で制限することには反対」との立場を堅持していましたが、同時に「私は政治家ではないし、一日にして状況を変えられるわけでもない」と明かしており、苦渋の選択ながらも白人のみ入場が許されたコンサートにも出演し続けていました。黒人たちからすれば、ナットは音楽的にも人種的にも魂を売った裏切り者と映った訳です。

ナットのこの声明に対し、黒人の団体が猛反発。コールが政治には無関心と発表したことについて、即座に痛烈な批判を向けた上、ナット・キング・コールがバス乗車ボイコット運動に寄付をしていること、そして北部の複数のホテルでコンサートを行ったにも関わらず人種的理由で給仕を拒否された件で訴訟を提起していることを明らかにしています。

更にはナットが育ったシカゴの新聞ディフェンダー紙は「彼が白人観客限定のコンサートに出演することは『顔に泥を塗る』」と書きました。そしてナットのレコードとコンサートのボイコット運動がはじまり、アムステルダム紙は「ナットを崇拝していた数千人のハーレムの黒人たちは、かつて彼がNAACP【全米黒人地位向上教会】に背を向けたのと同じように、ナットに背を向け始めた」と報道。アメリカン・ニグロ紙は「”ナットおじさん”【Uncle Nat】のレコードを聴くことは、彼の裏切り者の思考と偏狭な考えを支持することになる」と書きました。

黒人向け報道機関による批判に深く傷ついたナットは、「いかなるかたちでの人種隔離にも反対」と表明。他のエンターテイナーとともに人種隔離法のボイコットに参加NAACP【全米黒人地位向上教会】のデトロイト支部の永年会員として500ドルを支払ったことを発表。人種隔離に反対する姿勢を明確にします。そして、1965年に亡くなるまで積極的に公民権運動に参加し続け、1963年のワシントン大行進でも重要な役割を果たします

ナットは黒人として白人層からも支持された初めての国民的大スターになったと同時に、ある時期までは白人と黒人の板挟みとなって苦しんだということになります。

オスカー・ピーターソンとのエピソード

オスカー・ピーターソン:「ナット・キング・コールを知っているだろう?実は、彼と私は、あまりにもスタイルが似ていたために、お互いに話し合って、私がピアノに専念して、ナットは歌に専念することにしたんだ、それで手打ちをしたんだ。」この話はオスカー・ピーターソン自身が残した言葉とされていますが、十分な信憑性があります。なぜならば、ピーターソンがピアノに合わせて歌う声はとてもナットによく似ており、ともにスインギーな演奏であるため、音楽的には競合したかもしれないからです。聞いてみると本当にそうですね。

最後に、10代から1日あたり3パックのタバコを吸い続けました。1965年、肺ガンであることが判明。左肺の摘出手術を受けますが、2ヶ月後に死去。45歳でした。彼が早世したのは、タバコの吸い過ぎによる肺癌ですが、それはコール節とも言える甘いハスキーボイスを維持するのに喉をつぶす必要があったと本人が語っています。しかし、肺癌に患っても彼の声は変わらず、実際に、日本公演では風邪を引いたにも関わらず、ホールに響くくらいの歌声を出したように、もともとすばらしい喉の持ち主でした。ナット・キング・コールは米国史上最も成功した黒人エンターテイナーでしたが、その人生は大変難しいものでもありました。

彼の娘のひとりナタリーは後にR&B歌手としてデビュー。1992年には亡き父ナットとの時代を超えたデュエット曲"Unforgettable"を大ヒットさせます。
12歳年下の弟、アイク・コールは日本でマンダムのCM・ソング「男の世界」をカヴァーし、また日本語で歌唱した「マイ・ボーイ」と「夜のカレンダー」をリリースした事もありました。

LOVE:シングルも1965年1月にリリースされヒットし、アルバム『L-O-V-E』に収録され、リリースされましたが、これはコールの生前最後のアルバムとなってしまいました。この曲はアメリカの作家のものかとおもいきや、なんと作曲したのはドイツのベルト・ケンプフェルト。作詞はアメリカのミルトン・ガブラー。英語版、日本語版のほかに、イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語のものも録音しています。

日本歌謡界の女王・美空ひばりがジャズを歌った貴重なアルバム。ナット・キング・コールが死去した年に追悼盤として制作。美空ひばりは、ナットを敬愛していたそうです。ひばりはこの10年ほど前からジャズも歌うようになっていました。

人種差別のさなか、本当に人には言えない苦しみが、あったと思います。ナット氏の心の声を、聞きたかったですね。この時代に、生き抜いてきた人々は多かれ少なかれ、その辛酸を嘗めてきています。
成功を手にしたナットにも、アメリカのダークサイドとも言うべき、人種差別の壁で大いに悩むことになったのですね。多忙に加えて彼への誹謗中傷、差別などから心を病み、それで、喫煙の機会が増えたのかもしれません。
素晴らしい歌声でしたね。何か、調べていても心優しさが伝わってくるようでした。

ジャズと言えば、ドラッグに、ハマっていく演奏家が、本当に多いですね。調べていくと、本当に色々分かってきます。あの人が。。。。。全く知らなかった。曲だけは聞いていたけれど。チョット驚きでした。
次回は、このことについて、触れたいと思います。
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1946年には"Nat King Cole Trio"という15分間のラジオ番組を持つことになりますが、この番組は米国史上初の黒人アーティストによる商業番組でした。
そのような中、
白人ファンが急激に増えてきました。しかし、それを面白くないと思う白人至上主義者たちにステージから引きずり降ろされたり、家族で出向いた高級レストランで本人とわかりながら入店を拒否されたりしました。逆に彼の音楽が白人に受けるという理由で、黒人からは「白人に魂を売った」と非難される始末でした。

一方、1940年初頭から、ナットはポップス志向の曲をメインストリームのリスナー向けに発表し始めます。つまり、ジャズのスタイルへのこだわりを捨て、白人リスナー向けの楽曲を録音したということ。作曲/編曲も白人ストリングス・オーケストラをバックにしたものも録音するようになります。
Nat King Cole - Christmas Songs (full album)
1946年にクリスマス・ソングを吹き込むとこれも大ヒット
"Mona Lisa"、"Unforgettable"、そして"Nature Boy"【1948】、"Too Youg"【1951/Us Pop Chart No.1】を放ち、国民的歌手の地位を獲得することになります。

多数の映画やTV番組に出演他のどの黒人アーティストよりも彼の映像が多数遺されているのがその人気の証明となります。ナットは1948年3月28日、歌手のマリア・エリントンと結婚しました。五人の子供。娘は歌手のナタリー・コール弟、アイク・コール(Ike Cole)、フレディ・コール(Freddy Cole)もジャズ・ピアニストや作曲家として活動。フレディの子、ライオネル・コール(Lionel Cole)もキーボード奏者、音楽プロデューサー。
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ナット・キング・コールと夫人マリア・コールの出会いにも面白い逸話があります。彼女は元々デューク・エリントン楽団の専属歌手で、マリア・エリントンの名前で歌っていました。エリントンの伝記を読むと、ある時から毎晩のようにナット・キング・コールがエリントン楽団の演奏を聴きに来るようになったので、いつから俺のバンドが好きになったのかと喜んでいたら、ある日突然専属歌手のマリー・エリントンがいなくなり、その日からナットも姿をみせなくなったといいます。「ナットの関心は俺のバンドではなく彼女だったのかと、なんだかおかしくもあり、ほほえましく思った」とエリントンは回想しています。1950年代以降はジャズからポピュラー界に軸足を移し、テレビにも多く出演し広く大衆的な人気を得るようになり、ヒット曲を量産するようになりました。
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なぜ、軸足を移したのでしょうか?
 一つは経済的理由が挙げられます。独身時はジャズ一本で食えたかもしれませんが、結婚し、5人の子供も授かれば、家族を養わなくてはなりません。今は共働きが主流かもしれませんが、当時の米国でも「男は仕事、女は家庭」という観念が主流でしたので、当然、子供ができれば、マリアが家庭を受け持つことになったと推測できます。
もう一つの理由としては、彼の”声”をそのままジャズ界だけに留まらせたくないとする、社会的な欲求があったのではないでしょうか。


この頃、人種問題に関する闘いは一時的とはいえ棚上げ状態になっていました。それは世界中が反ファシズムという目標の前で一時的に平等な立場になっていたからです。人種差別が再び大きな問題として取り上げられるようになるのは、1950年代になってからになります。

ダウンロード1950年代以降はジャズからポピュラー界に軸足を移し、テレビにも多く出演し広く大衆的な人気を得ました。
その一方で、ジャズ批評家とファンからは辛辣な批判を浴びせられました。ナット・キング・コールは「魂を売り渡した」と「魂」とはジャズ・ミュージシャンとしての魂、そして黒人としての魂、両方を指したものと思われますニコニコと愛想を振りまきながら歌ったルイ・アームストロングに向けられた批判と同質のものと思われます。
この時代黒人の方が誰も同じ思いを味わっていたのです。「ヤツはアンクル・トムを演じてやがる」蔑称としての「アンクル・トム」一方で、作中のトムの従順な態度から、公民権運動以降のアメリカの黒人の間ではこの作品に対する評価が、否定的なものに変化していきました。現在、黒人の間で通常「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な形容を意味します。wikiをどうぞ!アンクル・トムの小屋
今では、考えられない凄まじき状況!でした。今でもくすぶっています。それだけに、この問題は人間の本質をついた問題なのかもしれません。遡れば、奴隷制度、南北戦争まで、深い根がありそうです。いつか調べてみたいです。下の動画を説明してくれているページです。昔、南アフリカの人種差別の状況を読んだことがありましたが、ひどいものでした。


実際のところ、当時米国での黒人の扱いは酷いものでした。トイレは別、バスなどの公共交通機関でも有色人種用の座席は指定されていたそうです。地域によっては白人の利用するレストランに入ることは許されずもし食事が欲しければ裏口にまわりテイクアウトすること方法しかなかったとされています。それは現在では巨匠とされるジャズ・ミュージシャンと言えども例外ではなかったそうです。
アートブレーキのこの動画を見ると、逆にすさまじき人種差別が、窺われます!

ビリー・ホリデイの代表曲「奇妙な果実」【Strange Fruits】とは、私刑で縛り首にされ木に吊る下げられた黒人たちを歌ったもの。彼女の父親も私刑にされたそうです。


”奇妙な果実(きみょうなかじつ、原題:Strange Fruit)奇妙な果実は、ビリー・ホリデイのレパートリーとして有名な、アメリカの人種差別を告発する歌です。題名や歌詞の「奇妙な果実」とは、木にぶら下がる黒人の死体のことです。ビリー・ホリデイは自伝の中で自分も作曲に関わったと主張していますが、実際には作詞者であるルイス・アレンが作曲も1人で行なったことが明らかになっています。「奇妙な果実」は、ニューヨーク市ブロンクス地区のユダヤ人教師エイベル・ミーアポル(ルイス・アレンは、ペンネーム)(によって作詞・作曲された。1930年8月、彼は新聞で二人の黒人が吊るされて死んでいる場面の写真(1930年8月7日米インディアナ州: まだ人種差別が色濃い時代の出来事です。下記しるします。

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アフリカ系アメリカ人のトーマス・シッピーとエイブラハム・スミスは、白人に対して強盗殺人、及び婦女暴行を働いた疑いで、インディアナ州の警察に拘束されていました。その事件を聞きつけた白人の群集が、ハンマーや斧を手に留置所に押しかけ、容疑者2人を拉致。集団リンチを加えた後に、2人の黒人を木につるし上げました。群衆は、縄から首を外そうともがいていたエイブラハム・スミスをいったん地面に下ろし、両腕をへし折った上で再び首吊りにしたといいます。恐ろしいことに、同州の警察官もこの集団リンチに参加していたことに加え、被害者の女性が、後日になって「レイプはされていない」と証言しています。

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この残酷な写真は、作詞家ルイス・アレンに大きな衝撃を与え、人種差別を訴える有名な歌『奇妙な果実』が生まれるきっかけとなりました。歌は、ビリー・ホリデイによって広く知れ渡ることになり、やがて黒人差別反対運動を代表する歌となった。)を見て衝撃を受け、これを題材として一編の詩「苦い果実(Bitter Fruit)」を書き
、「ルイス・アレン」のペンネームで共産党系の機関紙などに発表しました。ミーアポルはアメリカ共産党党員であり、フランク・シナトラのヒット曲を生みだすなど作詞・作曲家ルイス・アレンとして活躍する一方で、ソ連のスパイで死刑になったローゼンバーグ夫妻の遺児を養子として引き取るなど、社会活動も行っていました。教職者組合の集会で彼の妻が歌うようになったことで徐々に知られるようになりました。”
続きます!!
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1930年代半ば、10代でプロのピアニストとして活動を開始したナット
前回触れた、このドラムレス・トリオは、当初予定していたドラマーが現れなかったことから、ドラマー抜きでプレイしたところ思いのほかうまくいったので、ロスで、この編成で活動することになったということです。
彼らは、クラブでの演奏を重ねていきました。1938年に、ラジオに出演して以来、ナット・キング・コール・トリオは人気者になります。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残しました。


ここで重要な点は、彼がジャズ・ピアニストとしてキャリアをスタートした点。そして、当時はビッグ・バンド・ジャズによるスウィング・ジャズ(時代は1930年代がメインで、40年代初頭まで。ベニー・グッドマン(クラリネット)ルイ・アームストロング(トランペット&歌手 ニューオリンズジャズ時代から活躍)グレン・ミラー(トロンボーン)デューク・エリントン(ピアノ)
Stompin' At The Savoy (Benny Goodman Montage) スウィング・ジャズを、一曲!


カウント・ベイシー(ピアノ)等)が主流
だったにも関わらず、ナット・キング・コールは3人編成のトリオとして活動していた点です。このような編成は当時は革命的で、アート・テイタム(ジャズ・ピアニスト。)、オスカー・ピーターソン(ジャズ・ピアニスト。)、アーマッド・ジャマル(ジャズ・ピアニスト 、作曲家、そして教育者。)swing swing swing
ベニーグッドマン :アメリカジャズ界で初めて、黒人白人の区別なくバンドを組んだ人。
時代背景を考えると本当に、凄いことです
ね。ベニーグッドマンを偲んで  

そしてレイ・チャールズら(後で分かったことですが、レイ・チャールズ自身も、ナットのことが好きで、初期には、ナットの声を真似したりしていたそうです。とてもうまかったみたいです)に影響を与えたと考えられています。モダン・ジャズのピアノ・トリオ形式の原型はナットが作ったと言われています。
レイチャールズ


1938年、ハリウッドのSwanee Innというナイトクラブにジャズトリオで出演したとき、当初2週間の契約が6ヶ月に伸びたほどの評判をとり、その大成功に対してベース担当のWesley Princeが冗談交じりにナットをマザーグースの童謡をもじって“Old King Cole(老コール王)”と呼び始めました。この命名がぴったりとはまって、その後彼はナット・キング・コールと呼ばれるようになりました。

1940年代初頭、ナットはヴォーカリストとしても人気を得るようになります。なぜ歌うようになったかについては伝説的なエピソードがあります。「ピアノを演奏するナットに酔っぱらいの客が"Sweet Lorrain"を歌うように強要した」というもの。そして仕方なく試しに歌ってみたら


大評判
に。事実は、はっきりわかりませんが。

しかし、時、人種差別の波が。。。。
大スターになった後も、雇い主や宿泊先のホテルなどで差別されたり、ステージ上で観客にヤジられたりしました。しかし、一度としてそんな差別的な対応に彼は反抗的な態度をとることはなかったといいます。そんな彼の性格を表わす逸話として、「キング」の愛称がついた時の話があります。
 ある夜、やはり彼がナイトクラブで演奏していた時、客の一人がナイトクラブの飾りつけをはずして、彼のために王冠をつくってかぶせたというのです。これは彼がバカにされて、かぶせられたのか?(イエス・キリストの茨の冠のように)本当に敬意を表されたものなのか?それははっきりしません。。。しかし、彼は素直にそうした評価も、受け入れ、そしてそれを自分にとって良い方向へと生かしていったのでした。彼は単にバカ正直だったのか? 本当の心の中は謎のままですが。

Nat King Cole - Sweet Lorraine

一方、ライヴでインスト曲の合間に頻繁にヴォーカル曲を披露しており、その歌声に魅了された観客たちの要望でヴォーカル曲の比重は増えていっていきました。

1943年、ナットは設立されたばかりだったCapitol Recordと契約。その後ナットが連発したヒット曲のおかげでキャピトルは巨大な利益を得、ついにはハリウッドに世界初の円形ビルとなる本社を建設することになります。
このビルの通称は「ナットが建てたビル」【The House That Nat Built】とのこと。この円盤はレコード盤を、棒はレコード針を模していると言われています。

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キャピトルから発表した最初のヒットは"Straighten Up and Fly Right"【1943】。ナットのオリジナルで、彼の父が教会の講話として使用していた黒人民話にヒントを得た内容だったとのこと。
娘 ナタリー・コール "Straighten Up and Fly Right"
なぜ、こんなに売れたのか、歌詞の意味等も調べてみたら、そう疑問を抱く方が結構いました。少しわかったような気がしましたが、よくわかりませんでした
“Straighten up and Fly Right”  歌詞の謎
Natalie Cole - Straighten Up And Fly Right
この曲は500.000枚を超えるセールスを記録し、民話をベースにした曲は幅広い層に受け入れられる可能性があることを証明。ナットは自身をロック・アーティストと考えたことはなかったそうですが、この曲はRock'n'Roll登場を予期した作品として認知されているそうです。

まだまだ続きます。
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