callmexのblog

みなさん!こんにちは!もう70近い爺様ですが、日々、いろいろ感じたこと、疑問に思ったこと、不思議なこと、植物や音楽のこと等、音楽を挟みながら、皆さんに紹介できたらと思っております。その時その時の閃きで心に湧いたものを題材にしていこうと思っています。

心の赴くままに、今まで、そっとしておいた好奇心を働かせ、自分の人生を少し、振り返ることが出来たらいいなと思っています。自分の中で沸き起こる疑問を突き詰めていこうと思っています。よろしくお願いいたしますね。

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大塚陶板美術館 
ダウンロード有名な作品がたくさんある中、特に目玉となっているのが・・・
システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)の環境展示
が目玉なのではないかと思います。結婚披露宴、歌舞伎の上演、将棋の対局会場としても使われている「システィーナ・ホール」
ダヴィンチ自身が描いた、この状態の最後の晩餐は、地球上にもう存在しません
修復前、修復後の2枚の原寸サイズの最後の晩餐のレプリカを見れる場所は世界でもここだけ

環境展示としてモネ「大睡蓮」画像モネ 睡蓮

が。池には睡蓮。その中にはモネの「睡蓮」が円形に展示されています。
モネは、同じ題材の絵を、何度も、書いていたことに驚きました。一日という時、更に長い時の流れの中で変化する題材を、描こうとした事が伝わってきます。光による風景の移ろいなのでしょうか。
第二弾、実在するモネの池:
4Kなので、私のpcだと、重たそうです。読み込みしながら、再生といった感じです。

第三弾:実在するモネの池 こっちは軽いです。
モネの池 Monet's pond / 2015 年一躍有名になった岐阜県関市にある池

大塚国際美術館…  

アート君というロボット
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ロボットに自分の顔を認識させると、館内に展示された絵のなかから自分に似た名画の人物を探してくれるというもの。アートを身近に感じるきっかけとして役立っている。
よほどの絵画好きでないのならば、音声ガイド(別料金)や定時のガイドさんと共に回った方が楽しめると思います。
とーっても広いです。全作品を見ようとすると4kmほど歩くことになるとのことです。もうアートウォークラリーだと思ってがっつり1日滞在することをおすすめします
中が広くて、全部見てまわるのにかなり時間がかかります。イベントをしていたり、食事やお茶のできる所もあったりするので、一日中と言っもいいくらい時間を費やすことのできるスポットだと思います。
疲れたらレストランやカフェで一服。
大塚国際美術館…2️⃣ 
 

日本に、海外の絵画が来ても、いつも一杯で、入場制限もあったりでなかなか、馴染めなかったのですが、大塚国際美術館のおかげで、絵画に、とても興味がわきました。
陶板で名画を再現している、というコンセプト上
「ニセモノばかりの美術館」と言えなくもないですが、
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でもね。逆に言えば、ここでお気に入りの画家や作品を見つけて、
それから本物を見に行けばいいのですよ。

好きな画に出遇えたらこれをきっかけに本物を見に行くのも良し、どの画が一番好きかを語り合うのも良し、本物では許されない、ツーショット写真を取ってみるも良し、海外で見た画を前に思い出に浸るも良し、ここならではの色々な楽しみ方ができると思います。
一部作品を除いて触ることもでき、小さなお子様連れでも
受け入れられる雰囲気があります。
海外の美術館はそう簡単に行けない私にとっても世界の有名絵画が間近で原寸大で見られるのは、レプリカとは言え感動します。
遠いですが、足立美術館とともに、是非行きたいです。
大塚国際美術館…3️⃣  

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大塚美術館の誕生秘話
大塚正士 初代館長 

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大塚国際美術館に込められた思い 大塚グループ創立75周年事業として設立された大塚国際美術館。他にも周年事業の構想はあったが、なぜ美術館を選んだのか。ビジネスとはかけ離れた存在である美術館建設には、大塚社長の地元、鳴門に対する想いがあった。   「当初の構想では、大阪本社ビルの改築、広告宣伝館の建設も予定していましたが、バブル崩壊の影響もあり、また、大塚社長の『長年、大塚が徳島県にお世話になったお礼に、75周年事業として地元に恩返しがしたい
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また世界のどこにもなく、いつまでも残るものをつくりたい』という強い想いもあったため、美術館建設だけに絞りました。 この時期、本州と四国を高速道路でつなぐ明石海峡大橋が開通する頃で、鳴門が素通りされないよう、人の流れを止めるダムの役割として美術館を建てれば、観光資源が少ない鳴門に多くの観光客が集まり、にぎわう。大塚社長は、地元鳴門を盛り上げていこうと考えていました」   大塚国際美術館に展示されている作品数は、西洋の絵画を中心に1075点。これは、大塚社長が美術館構想を打ち出した時から言い続けていた、1000点以上の絵画を展示するという強い意志によるものである。大塚国際美術館には、作品以外にもいたるところにこだわりが詰まっている。
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「美術館構想から建設、完成までに数多くの課題が山積みでした特に海外の美術館に美術陶板の技術力の高さを伝え、複製の許可をもらうのにかなりの時間を要したと聞いています。また許可をもらった後も、世界の名画の複製を制作するにあたり、オリジナルを忠実に再現するための現地調査や厳しい検品など、ハ-ドルを乗り越え、気が付けは構想から完成まで10年ぐらいかかっていました。この10年で何回も現地に足を運び、交渉や調査を繰り返したスタッフの努力は並大抵ではありません」
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「また、陶板名画は原画を原寸大で再現したものですが、額はできるだけ現地と同じものを作り、光の当たり具合も現地の環境に合わせて設計しています。この美術館は、構想に携わった人たちの想いやこだわりが随所に詰まっています。
美術館の総工費は、75周年ということで、75億円で計画していました。6名の美術の専門家に依頼して、作品の選定から配置などいろいろ相談しましたが、専門家も今までにないことで夢が膨らみ、あれも展示したい、これも展示したいとなって、最終的に400億円かかりました。ただ、1000点以上の作品はもちろん、美術館すべてに大塚グループの技術が結集しています」
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世界25か国、190以上の美術館が所蔵する至宝の西洋名画1000点以上を、大塚オーミ陶業の特殊技術により、オリジナル作品と同じ大きさに再現し、原画の芸術的価値を日本にいながら体感することができる大塚国際美術館は、大塚グループの技術や想いが詰まったショールームとも言える。美術陶板は、褪色劣化していくオリジナル作品と異なり、2000年以上にわたり、そのままの色を残し、文化財の記録保存にも貢献するものである。今では、陶板名画美術館として、世界中から高い評価を受images (15)けている。

人々の暮らしを支える商品を開発してきた大塚グループにとって、美術陶板は生活に直接関係していない商品ではある。しかし、なかなか見ることのできない西洋の名画を日本で気軽に見られる大塚国際美術館は、美術を通して人々の心を豊かにしている。大塚グループは、これからも人々の生活を支え、心を豊かにする事業に挑戦していく。
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出典MANA-Biz(マナビズ)   次回、最終号です。
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大塚国際美術館…4️⃣ この作品 横10m,縦6m ルーブル美術館の壁の色まで再現地下3階からから地上二階まで 5フロアーに展示 階が上がるほど 扱う時代が新しくなるように作られている 古代の壁画から中世ルネッサンス、バロック、近現代と  全て見て歩くと4km 世界中の美術館巡りが出来る


  

大塚国際美術館…5️⃣ ロープやガラスがない 軽くであれば素手で触れても結構 これだけ近づくことも普通であれば出来ない この作品 開閉式で 現地では特別な日しか見られないが ここではいつでも可能



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モネー  モネについては。再度取り上げてみたいです。
1840年、パリで生まれたが、5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュア(風刺画)を描いて売るほどであったが、18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられた。1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合った

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1865年にサロンに初入選してから、
サロン
フランス: 展覧会のこと。元々ルーヴル宮殿の大サロンで開催されていた芸術アカデミー主催の美術展(サロン・ド・パリ、官展
日本で言えば、文展,帝展,日展など政府が主催した展覧会の総称。)
)を指した。ディドロの「サロン評」は美術評論の始まりといわれる。)への挑戦を続け、
戸外制作戸外制作
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画家が戸外で絵を描いていたのは昔からだが、19世紀中頃のフランスでは、自然光の中で仕事をすることがバルビゾン派

バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。コロー、ミレー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、ディアズ、デュプレ、ドービニーの7人が中心的存在で、「バルビゾンの七星」と呼ばれている。広義にはバルビゾンを訪れたことのあるあらゆる画家を含めてそのように呼ぶこともあり、総勢100人以上に及ぶ。
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続いて印象派にとってはとくに重要な意味
を持つようになったた。しかも、バルビゾン派は仕上げをアトリエで行ったのに対し、印象派になるとすべてを戸外で仕上げる傾向があった。とくに、クロード・モネやカミーユ・ピサロ、ピエール=オーギュスト・ルノワールなどは戸外制作を重視し、戸外の大気と光の中で多くの作品を描いた。これに対し同じ印象派でもエドガー・ドガは、戸外制作には否定的であった
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筆触分割

筆触分割というのは,パレットの上で絵の具を混ぜるのではなく(そうすると色に濁りがでる),原色をそのままキャンパスに色を載せ,隣接部分に本来混ぜようとした色を載せていく手法この手法により,視覚混合が起こる.視覚混合というのは,例えば,隣接した赤と黄色が,離れて見るとオレンジに見える効果.これにより印象派の絵は,離れてみたときにあたかも光を発しているかのように見える.で,印象派はこれらを感覚的に発展させた.
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の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭った。貧乏画家のモネはカミーユと恋に落ち、子供ができてしまいます。養うお金のないモネはセーヌ川に身投げをしますが、死に切れませんでした。父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まりました。1870年、普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡った。この時、画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなった。
クロード・モネ
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 続きは、wikipedia へ。クロード・モネ 
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