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前回の続き!
食文化の違いは受け入れるべき?

日本では江戸時代まで全ての肉食がほとんど行われておらず、明治以降、西欧から肉食が広がりました。同時に「犬=ペット」という概念も伝わり、犬食は一般化しませんでした。

意外と知られていませんが、日本には中国から犬肉が輸入されています。これらの犬肉は国内のチャイナ・タウンやコリア・タウンで主に中国・朝鮮系の人々に食べられているそうです。
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日本も欧米から鯨食で批判を受けていますが、日本人にとって食べるということは命を「いただく」という神聖な行為です。僅かな鯨油(鯨油(げいゆ)とは、クジラ目の動物から採取された油のこと。灯火用の燃料油、ろうそく原料、機械用潤滑油、皮革用洗剤、マーガリン原料など多様な用途がありました。欧米において、過去に行われた捕鯨の重要かつ最大の目的は、食用としての鯨肉確保ではなく、鯨肉から採れる鯨油の採取でした。)
日本では江戸時代まで、肉食がほとんど行われておらず、明治以降、西欧から肉食が広がりました。同時に「犬=ペット」という概念も伝わり、犬食は一般化しませんでした。

意外と知られていませんが、日本には中国から犬肉が輸入されています。これらの犬肉は国内のチャイナ・タウンやコリア・タウンで主に中国・朝鮮系の人々に食べられているそうです。

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祭りの廃止を訴える動物保護団体
西北政法大学動物保護法研究センター、中国小動物保護協会など約20の団体は共同で「玉林の夏至ライチ犬肉祭の取り締りに関する緊急呼びかけ」と題した声明を発表。
伝統か倫理観か—中国
犬肉をめぐる違法な売買や悪徳業者の存在を指摘し、更には犬肉の検査・検疫が厳格に行われていないとして、現地政府に「犬肉祭りの断固廃止」を呼びかけた。

食するだけでなく、皮も使われる!
ちょっとひどい映像もあるので、嫌な方はおやめ下さい!

現地からは「伝統を守れ」という声も
中国国内のみならず、海外からも非難の声が高まっている「犬肉祭り」だが、現地からは伝統文化を守ろうという声も上がっている。
売り手は「犬肉を売ってはいけないとは聞いていない。こんなに長く続いてきた習慣が途絶えるなんて、あり得ない」と話す。
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2011年には浙江省の犬肉祭りが中止に
中国政府は、同国東部の浙江省金華市で毎年10月に行われる伝統行事「犬肉祭り」の開催を禁止しました。犬を殺して食肉にする同行事は約600年続いていたが、残酷だとの批判を受けて中止になったようです。

副市長「時間をかけて対応」
玉林市の副市長は「政府が犬肉を食べることを完全に禁止あるいは取り締まるための法的根拠がない。数百万人の生活習慣に関わる問題であるため、時間をかけて対応する必要がある」と話している。
こういうことが有るから、余計わからなくなる!
とてもむずかしい問題だと思います。そもそも、人間は殺生の上に、生きながらえているという大前提を、その都度、心して置かねばならないと思います。この観点から、一人ひとりが、「命を頂いている」ということを、自分も含め、心がけないと解決しないのではと思います。改めて自分も、再認識されました。批判は簡単ですが。。。。 
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大谷大学ホームページより
あらゆる命あるものの「命を奪う」ことを「殺生」といい、仏教の戒律の中では最大の罪として、最も強く禁じてきた。また同時に仏教は、人間が生きる為には、他のもののいのちをもらわなければ生きていけないという自覚に立って、この最大の罪を人間の根本的な問題としても考えてきている。
 親鸞は「殺生」が最大の罪とされていることを、「殺し続けて生きる」、いや、「殺さなくては生きられない」<人間の事実>をほとけが知らせんとするものだ、と理解する。すなわちそれは、「殺生」を「最大の罪」として示すことによって、我々にいのちに対する「かなしみ」や「いたみ」の感覚を要求し、<人間の事実>への目覚めを促すのだと解釈する。
 ところが、現在私たちは「命を奪っている」ことを実感しているだろうか。たとえば、牛肉を食べても牛の命を感覚することはないし、野菜ともなると全くといっていいほど命を感じることはないが命を奪っていることに違いは無い。
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このように、命を奪わなければ生きられない<人間の事実>に無感覚であることが今最も大きな問題ではないか。
また、「戦争」こそ最大の「殺生」であるが、私たちはこのことをリアルに感じ取れなくなっている。子供を殺された母親の泣き叫ぶ姿がテレビにうつし出されても、「大量破壊兵器から世界を守る」とか、「独裁から解放する」などという言葉を聞くと、この戦争には正当な理由があるという思いにとらわれ、無感覚になってしまう。
「いのち」への感覚の鈍化は我々一人一人が「お互いのいのちのつながり」を見失ってしまっていることによるのではないか。<人間の事実>を再確認し、いのちへの「かなしみ」や「いたみ」の感覚の重要さを認識し、今一度いのちに無感覚な世界を問い直してみてはどうだろう。
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