callmexのblog

みなさん!こんにちは!もう70近い爺様ですが、日々、いろいろ感じたこと、疑問に思ったこと、不思議なこと、植物や音楽のこと等、音楽を挟みながら、皆さんに紹介できたらと思っております。その時その時の閃きで心に湧いたものを題材にしていこうと思っています。

カテゴリ: PROJECT X


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PROJECT X
瀬戸大橋の建設 私が惚れた男「杉田秀夫」1
動画から文字起こし!

https://www.youtube.com/watch…
瀬戸大橋の建設に人生をかけた杉田秀男氏
昭和30年に、連絡船沈没、修学旅行生100人の死亡者
建設に際しては、潮の流れは、風速70mに近い
さらに、潮の流れの速さ、複雑な地形で、難事業。 
images (1)全長9.4k 5つの島をつなぎ、。鉄道もとおる 
世界最大。 乗客の半分が、修学旅行生であった紫雲丸
橋は念願であった。
杉田秀夫氏は 15年後 橋の建設と調査。 国鉄をやめ退路を断って 公団へ
橋の土台、基礎 55m、15階建てのビル、海の霞が関ビルと言われた。 現場に到着次第、 潜水服に着替え海へ。
そんな杉田氏であった。自分の目で見るのが技術者の信念 
紫雲丸 の引き上げに携わった飯島氏。杉田氏に依頼される。
しかし、オイルショックで工事延期。
images (5)


PROJECT X
瀬戸大橋の建設 私が惚れた男「杉田秀夫」2


それまでは徹夜徹夜の連続。この時間を無駄にできない。  海底調査再開 軟弱な堆積層の除去  ダイナマイト。
家族を何よりも大事にしていた。 危険な仕事のため家族を思って20万の給料のうち7万を、保険!  長女 小児ぜんそく 毎朝体力をつけるため、一緒にジョッギング
自転車通勤 40分道のりをトレーニングのため。
自転車通勤の方も増えた。 潜水面免許を取る方も増えた。
自分が先頭に立って、命令的な言動はない
とても慕われていた。
images (2)
ダイナマイト爆発で多くの魚が死んだ。
漁師にすべてのデーターを公開する
火薬の量、死んだ魚の数も。細かく報告。
漁師に胸ぐらをつかまれる
500回の説明会。 終えるのは深夜になった

飯島さん 一度に大量のダイナマイトでなく、少量のダイナマイトを連続で 爆発させた。  被害は少なかった。 戦艦陸奥の時 船体に穴を開ける時の経験から。
実験してみると ほとんど魚に影響がなかった。
連れが倒れる
胃がん

53年 工事の再開を決定。 
常に前向き 沈んだ顔を見たことがない。
images5000人をこす作業員。
仕事が終わると病院へ。
毎晩添い寝した。 痛みを訴える妻をさすり、 マットを敷き、朝には家へ帰り。3人の子どもたちの食事を作って
半年間。
 そうして、悲しいことに、クリスマスイブに 34で。。初めて現場を休んだ。
ひしひしと伝わってきます。素晴らしい方でしたね。情熱の人だった。   

PROJECT X
瀬戸大橋の建設 私が惚れた男「杉田秀夫」3


橋台 その下55mのケーソン 堆積層35m その下岩盤 1cm 傾いただけで橋がかけられなくなる 
海中爆破決行 35mの堆積層が除去される
世界最大のケーソン 重さ2万トン 海の霞が関ビルといわれたケーソン。 12隻の船で6時間かけてそのケーソンを 運ぶ
ケーソンを沈めるため
6日間 水を注入 しかしケーソンが傾く
杉田氏がまっさきに飛び込む
ケーソンと岩盤の間に 大量の砂が入り50cmも傾いた
ケーソンは巨大すぎて再度持ち上げることは不可能 
周りの砂を取り除けば、そのことによって、真下の砂が取り除けないか  (飯島さんの経験から)
船が砂浜に打ち上げられている時、船の両側の砂を取り除くとimages (3)
船の重量で砂がはみ出してくるという経験。

ケーソンは微動だにしなかったが、10日後 そして一ヶ月後やっと、 水平になる
述べ900万人 昭和63年 
飯島さん 人間って偉大なもんだなと思った
最後にライトアップした時本当によくできたなと思う 家庭のことは一切触れなかった
情熱 男が惚れる男 人を使うということより皆とともに 娘さんをなくされた篠塚さんも 瀬戸大橋を渡った
飯島さん、今、橋が見えるところに引っ越し 絵を描いている
男で一つで3人の娘を育てた杉田氏!
ダウンロード橋を造る経験が人より余計にあったからと言って、人生の価値とは全く別のこと偉大なる人生とはどんな人生を言うのか、それは非常に難しい問題
瀬戸大橋を造るより遥かにむずかしい問題です。

なにか深い、哲学的な言葉。。。。
62歳でなくなる
瀬戸大橋と家族を守るという大仕事を成し遂げた。
奥さん! ご主人が ばってくれたよ。


道路、鉄道。6つの橋で島々を結ぶ 推進50m 霞が関ビルを上回る ケーソン 中にコンクリ 
1万8千トン 準備に三年 海底爆破 125トン ウルトラバケット 海底の土砂等を取り除く  硬い岩盤まで掘り進む 海底50mの岩盤を表面を削って 平らに 海底にもぐって 岩盤が 
巨大な基礎 を支えられるか 潜って調べていく ケーソン仲に水を入れる ケーソンの現在位置を
を測量し ロープを引きながら 目標位置へ ケーソンをクレーン船でつり ケーソンを波静かなときを狙って 海底へ下ろす この時許された誤差はわずか50cm 最終的には誤差15cm 据え付け成功 100年もつ目標 
 

ケーブルを支える塔の制作  許された誤差は サランラップと同じ 精密機械を作るように精密に
作られていきます 塔の一番下には底板 と言われる 分厚い鋼鉄の板を 鏡のように滑らかに磨かれる 底の表面も底板と同じように磨き上げらます 底板の据え付け 
海峡に吊橋を支える巨人たち そそりたつ 塔は鋼でできているので 柔軟性があり ケーブルを支えるだけでなく台風,地震などに対応 吊橋の命と言われるケーブルの製作 直径 5mm たった一本で3トンを支える それを127本集めて 束にするそれおwリールに巻き現場でケーブルを作る  橋桁などのすべての荷重を支えている その為 正確に 張り渡さねばならない その束はアンカレッジという コンクリの中へ 一本ずつ固定され 夜を待つ 鋼鉄は温度の変化によって 伸縮するその為温度の安定している夜にレーザ光線を使って たるみ具合を調整 正確な位置が決まると固定 どの束も同じたるみに貼られていく 束は271本 
 


風速53mに耐えられるはずの端が 15mの風で崩壊 建設20年前から 対策を研究 風と取り組むその焦点は橋桁 屋外の実験施設  この結果 風通しが良いたわみにくい 補剛桁 分厚い鋼鉄の板を組み合わせて作られている 列車が通過した時 荷重実験 驚くほど早い時期から裂けていた割れ目は溶接したところから始まっていた  切断してみると直径数ミリの 小さな空洞 これは応接のときにまわりにあった汚れや水分が 水素や、酸素などの気泡となって閉じ込められたもの。ブローホール が1.5mm を超えると 鋼鉄はそこが裂けやすくなる 学者たちを工場に招き ブローホールを除くための丹念な努力が始まりました 水分を 除くため電気で前もって 熱して 技術者は汚れを持ち込まないように。靴にオーバーシューズを履かせるなど 最新の注意を払う 溶接部はよく磨き汚れを落として 作業を行います このような作業 を伴うため 一日に 出来る柱はわずか一本  新しく開発した計測器で ブロ-ホールや傷を探ります こうして1.5mm以上のブローホールを一掃 補剛桁 瀬戸へ 格子状の部材 風の通り道 上下左右に 風を通す 一度の変化で2cm 朝と夕では20cm 近く違う 桁の端にはこのような伸び縮みに対応できる仕組みが 鉄道緩衝桁とともに動くレール 道路面も前後に動けるようになっている 
 


風 速60m 風だと 風下に7m たわむ温度50度から零下十度 120cm伸び縮みに対応 
工事が開始してから9年目の夏 昭和63年)1月列車走行試験 橋の力を確かめる 列車の重さはおよそ1000トン 列車の動きに答えていく 橋は試験列車をしっかりと支えました 橋は生きている 列車が走ると それに対応して 自己調整する 伸縮 工事が開始してkら10年
 
凄いですね。それぞれの分野で、先端の技術を駆使しながら、また研究開発しながら、出来上がってきた。人間ってやはりすっごいです。10年かかっている。いや、研究も入れると、20年。一人ひとりの方々の力の結集が、この橋の完成でした。黒部ダムも然り、瀬戸大橋も然り、考えられぬようなことを成し遂げてきた人間。考えると、本当に、すっごいですね

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黒四ダム建設工事  8   遡って1から、順番に、見てくださいね!
音楽を聞きながら
北の国から 02 五郎のテーマ(パンフルートヴァージョン)


昭和38年6月 黒四ダムは完成した  着工から7年の工期は 守られた そこには決して笑わない大マムシ、中村の笑顔があった 中村は部下全員に深々と頭を下げて回った  開通した時、本当に嬉しそうに笑っていましいた  「それはね。ダムの完成したときより 最後の水のゲートを入れてね。黒部川を止めたときのほうがうれしいですね。最後、川を留めてしまうのですから。 これはダム屋にとっては一番嬉しいときですね」素人には完成したときと考えてしまうのですが そうじゃないんですダウンロード (3)ね 動画は ゲートが降りて川をせき止めるところ  若い人が俺についてくるという自信はあったのですか それはねーー  自信とかそういうもんではないわね。やらなければイカンと言うことで、みんなにもやかましく言うし、みんなもやってくれなきゃいかんと思って.。。それで 時期も良かったんじゃないですかね
終戦の苦しみも みんな感じておったときですからね。だから日本のために復興と  そうかもしれない時期もあったきっと
 ブル運転手の岩井さん
この経験が、あそこでやれたから、他でやれんことはないという思えるようになった
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中村氏にとって黒四ダムは人生にとって どんな存在でした?  それは黒四ダムは 一番苦しい時 です 
最後の言葉が聞き取れませんでした
黒四ダムが完成した昭和38年  関西電力本社の前に そこには黒部の谷を走ったタイヤやキャタピラ、そして過酷の自然と闘った男たちの足跡が写し取られている
鈴木医師は3人の娘に恵まれた 今は二人の孫にも恵まれた
ダム工事が、開いた道路によって今では年間100万人の人々が訪れている
中村氏は70歳まで現場の指揮を取った  7年の工事で 
171名の方が
中村氏も、部下51名を失った 
ご冥福をお祈りいたします。作業に関わった方々ありがとうございました。images (24)
トロッコ電車は、黒部ダムを造るため、その人員、資材を運ぶために作られた トロッコ電車について、調べては見たのですが、あまり載っていませんでした。images (17)
こうして、日本の近代化が、はかられてきた。働く人たち、そして家族の皆さんの多くの悲しみや、苦労。忘れてしまいがちな自分も、何処かに留めておきたいです。犠牲者の方々のご冥福を心からお祈りしたいです。
今回は最多時間、8時間程かかりました。でも、書くことによって、自分にはいっぱい得ることがありました。ありがとうございました。下の露天風呂にでも入っていただきたかったな !。。。

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黒四ダム建設工事  7
音楽を聞きながら、黒部の谷に届きますように!

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Amazing Grace New - David Döring - Panföte, Panflut


ダムの本体工事が間近に迫り 昭和32年4月 50人の越冬隊は 山を降りた 代わって 中村が 1000人お男たちを伴ってきた  動画で見るととても軽装 靴にしろ、着るものにせよ 長靴 足指、足が、 冷えてくる みなさんも経験があると思いますが きっと冷たかったし 今のような防寒着もなかったし
その頃岩井部隊は再び、山に戻っていた  ブルでソリを引き、急斜面を滑り、降りた 大型機械などの建設機械を運び始めたのである 
ダム屋の誇りをかけた7年の工期  4月18日なだれが襲った 到着して間もない5人が飲み込まれた  工事監督の松田氏は 目前で見た 全員で 掘り起こしたが  5人のうちの一人がなくなっkurobe-mapた  中村氏は掛ける言葉がなかった  二週間後、今度は大町トンネルで 大きな出水がおきた  長野側から1.7km掘り進んだ地点で 冷たい水がとめどなく流れ 工事は5ヶ月間 一歩も進まなかった  この時の皆さんの思いは。。。。4月ですから 水はそれこそ冷たかったでしょう  山肌を削り取る巨大な削岩機だけは、トンネルでしか運びこむことはできなかった  出水事故は大きな痛手となっていた  発破しなければ、工期には絶対間に合わないと同僚が迫った   中村氏は迷った  と言うのは以前発破の事故で同僚25人を失っていたからだ 複雑だよね
しかし、他に方法はなかった 7ヶ月遅れて 大町トンネルが開通 昭和33年2月  真っ先に運ばれたのは、ダイナマイトなどの火薬だった トラック20台分、80トン ダム建設では前例のないおおきな発破であった
中村氏は、夜明け前から現場を回り、目を光らせたimages (19)
気が抜けたものを見つけるたびにこっぴどく怒鳴りつけた  命に関わってくるから 
昭和33年6月20日  発破血行の日  2000人の男たちが食い入る様に見つめた  
なだれのように崩れ落ちる 20秒 黒部川が 堰止まった  山肌は巨大な削岩機で、数カ月かけて整地したような感じであった  工期の遅れを取り戻し、ダム本体の工事にこぎつけた  2000人の男たちの 歓喜が黒部の谷にこだました

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黒四ダム建設工事  6
音楽を聞きながら
Somewhere Over The Rainbow | Songs | Tommy Emmanuel

https://www.youtube.com/watch?v=0cHeNscKZN0
嬉しそうに話をする茂子さん(鈴木医師の奥さん) 岩井たち10人のブル部隊はもう少しの所まで来ていた 輸送路を必死に切り開いていた
中村氏は、富山に作られた建設本部にこもり、越冬隊やブル部隊と連絡を取り合った 中村氏は名古屋の家族と別居することを決めていた  それが越冬隊に対する一つのけじめであった 自分が休んでおいて「おまえら仕事をせいとは」言えませんから 家族に対して、「別居生活で悪かったなあ」と思っています と涙ぐみながら話す 12月中旬、雪崩を恐れ工事を中断した その少し前、信じたくない知らせが届いた 肺浸潤   妊娠中絶は避けられない  茂子よ。丈夫でいてくれ  事情を聞いた越冬隊員たちは 「ヘリを呼ぶから」といったが。。。3月までは約束だから  途中で切り上げ、帰るということは。思い浮かばなかった  越冬隊の伊賀さんが。富山本部の打合わせのため下山することになった その伊賀に精一杯の気持ちを込め  たつ前の贈り物を託した それは自分の手のぬくもimages (4)りであった 鈴木氏は伊賀の手を握って、そのぬくもりを伝えた 伊賀はその手がどこにも触れないように 下山した 帰り、このぬくもりを主人にに渡してと 伊賀氏に頼んだ 本人じゃなかったから、寂しかったんですけれどと奥様 あっつい  もう一組、富山に下山した仲間がいた ブル部隊の10人の若者たちであった 
100日ぶりの下山であった  中村氏は一言だけしか言えなかった 「臭いから早く、風呂に入れ」
そう言えばお風呂はどうしていたのだろうか おそらく、体を拭くぐらいだったかもしれない。きっと
中村氏 あの冒険を今やれと言ってもできませんね 
立山2450m地点  ブル部隊の岩井さん  
5月だったけれど 雪がだいぶ残っている ブル部隊はこの傾斜20度 ブルの大きさは、普通見られる3から4倍 相当大きなブルだった 斜面で滑り始めたら止まらない最後にはどこかにぶつかってしまう 運転手はもちろん飛ばされてしまう  怖いですね 10時過ぎた頃になる表面が溶けてくる それで後ろ向きで滑っていく もう操作はできない やらん方がいい  雪道を登ること一時間半 2700m 一ノ越に着く images (13)
当時岩井さんたちの弁当は おにぎりにとろろを付けたもの 口に入れようとすると口の周りについてしまう
お茶がない、そんな贅沢なものはない その代わり、雪を口にいれたそうです よくがんばれましたね 若かったんですね  若いからがんばれたんです 
 
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黒四ダム建設工事  5
動く展望台・立山ロープウェイから紅葉を眺める 4k撮影
背景で音楽聞けます。


中村氏がダムを訪れる  怖かったですよー  「できるとかできないとか結果は一切考えませんでした。無我です。あとは真っ白です。 突撃です」すっごいさりげないけれど、重たく、深い言葉です。本当に, いかに一つのことに集中していたのかがわかります。 こうした時、何か大きなことを成し遂げられるのでしょう 昭和31年11月 50人お越冬隊の暮らしが始まった s12-32トンネルの迎えぼり工事(反対方向から掘り進めること)は24時間制で、二交替。   大変な労働時間です。厳冬期の工事は前例がなかった 零下20℃  中村氏はこれまで100人近い部下の死と遭遇してきた  越冬する五ヶ月の間、一人も犠牲者を出すまいと誓った 中村氏は 医師の鈴木氏を、越冬隊に呼んだ  
28歳 越冬下5ヶ月間を日記に書き止めた 11月14日 黒部の山奥に本格的な冬 一面の銀世界   零下20度の世界 考えられない 宿舎の隙間から、雪と風が吹き込んだ 囲炉裏以外 温めるものはなかった 
布団もうっすい.着るものも 大したものではない  
工事現場では、身を切るような氷水が吹きだした 
すっごい冷たい水 過酷すぎる環境 多くは風邪で寝込み
pro1Photo1

けが人も相次いだ  過酷な冬は食事にも影響を与えた 地面の下の野菜も凍りついて使えなくなった 鈴木医師はこの事態に困り果てた  生野菜がないとこんなに、食欲が落ちるもんだと感じた
缶詰も今のものと比べると 匂いが酷かった
匂いを嗅いだだけで食欲が落ちた 閉ざされた環境の中で 精神の変調をきたすものが増えていた わかる気がします 鈴木医師も大変だったと思います 一人の屈強な若者が訪ねてきた 
信じられないことを言った
 こころボソくなって、「夜は、傍らで寝てほしい」と涙ぐんでいた なんとも言えないです  作業員全員の体重が落ち込んだ
親身になってくれる鈴木医師 兄貴と慕われていた 感謝を込めて
越冬隊委員たちが鈴木に便宜を図ったものがあった 無線電話であった 緊急の業務以外では使えない 一ヶ月に一回 妻と話せた 
結婚して半年の新婚であった
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