今回は明後日UPの本館と共に連続して建築物の紹介をします。同じではありますが題材が違うので別々での紹介となりますが今回は修復された門から。上海総商会の成り立ちなどを紹介いたします。

■上海総商会旧祉(上海总商会)
設計施工はイギリスのゼネコン通和洋行(Atkinson&Dallas Architects and Civil Engineers Ltd)竣工1910年代。施主は1902年設立の商業会議所です。日本で言えば経団連。辛亥革命勃発後,清政府の許可を得ず中国人が自国の商品と列強の商業行為を調整するために設立しました。その後アメリカの顧問を採用し勢力を広げましたが1929年には国民党政府によって解散に追い込まれ上海商業職業学校、上海商会商業補習学校として使用されています。共産党政府によって成立後は電子部品の工場として改修され内部を4層に変えています。当時は写真にあるような入り口上の文字は消されていました。

租界時代外国勢力が強い力を発揮する中、だんだんと力をつけてきたローカル企業達が主張するようになり、そこに清朝を倒した国民党が加わりはちゃめちゃな時代に突入していくのですが、その象徴的な施設と言えます。会長を務めた虞洽卿はマフィアと組み特に存在感がありました。

文献「宋家王朝」にはこのような記述があります。
「上海の資本家たちは”闸北商人志願団(武装組織)を解散せよ””という南京政府(蒋介石)の命令を無視し自分たちの部隊の予算を増額すると宣言した。それに対抗し蒋介石は青幇(マフィア)の暴徒を差し向けてこの建物を襲撃した。この建物は蘇州河の北側にあり租界警察の管轄外であったため守ってくれる機関が無く1929年4月24日、暴徒は門から押し入って建物をひっかきまわして書類や金目の物を略奪し4人の職員を傷つけて病院送りにした。総商会は抗議したが何の足しにもならず、杜月笙の支配下である虞洽卿の元で再編される」
この時代は蒋介石がチンピラを使って中国全土の支配をもくろんでいます。上海ではマフィアのボスと組み(そもそも将自体がこのグループ出身)金持ちを脅してカツアゲしていたわけです。なにか今の香港を見ているような気がします。この当時の権力争いはたいへんで、えげつない記述がそこかしこにあります。日本が中国に進出して残虐行為を。。と言われていますが、そうでもしないと何ともならなかったことも要因としてあります。朝鮮半島と言いここと言い、日本人は手を出してはいけない場所だったと言えるでしょう。

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現在蘇州河の北側に古びた門が残っています。修復には上海で最も力のある華東設計院の修復部門と同済大学設計院が参画しています。



photo (6)photo (2)修復時の様子がWEBに出ていました。かなりの損傷で悲しい状況だったことが見て取れます。改修に掛かった期間は7年間。ということは2011年には朽ち果てた建造物があったということです。遠方に見える高層マンションの近くにこのようなものが放置されていたと思うと、上海の急速発展における時代の栄枯盛衰と貧富の格差の断片が見えるような気がします。入り口上の文字もなかったこともわかります。

右の写真が非常に興味深いですね。普通に見ると、白い壁を修復したら赤レンガの表情になったと見たいところですが逆で、白いモルタルの表面を削ったら元あったの赤いレンガが表れてきたとのことです。これは国民党が没収後、周辺に増築された建物の外壁がモルタルだったこと、ゲート部分が長くなったために一体化させるために壊すのも大変なので表面をモルタルで塗り固めたようです。

門の中には赤いペンキで「无产阶级”、“万岁”」の文字が書かれています。これは文化大革命時に使用されたスローガンで「プロレタリアート万歳」と当時の歴史を残しています。きっと紅衛兵たちが書いたのだと思います。上海で文革の跡はほとんど見ることができませんから貴重な歴史遺産と言えます。

南から進むと(門はくぐれません)門の先にある本館は下のような建物です。現在BVLGARIのブティックホテルとして修復され使用されています。明後日紹介します。

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map (1)map (2)蘇州河のすぐほとり河南路橋のすぐ北側です。