今日紹介する建物は租界のスパイマニアにはたまらない歴史のある建物です。

■重慶アパートメント(重慶公寓)
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photo (2)現在目の前に高速道路が走る大通りである重慶南路と復興中路の交差点に建つ茶色煉瓦の建物はアメリカ人ジャーナリスト アグネス・スメドレー(Agnes Smedley,艾格尼丝·史沫特莱 1892年2月23日 - 1950年5月6日 左写真)が住んでいたアパートです。現在は重慶アパートメント(重慶公寓)と呼ばれています。当時はアベニューデュバイユ(吕班公寓)と呼ばれAスメドレーはここに1929年~1931年まで住んでいました。入り口には表記があります。

茶色煉瓦は上海今も多く残されている材料で代表的な建物は錦江ホテルですが、材料が高価ですので、外国人向けの高級な建物でのみ使用されています。


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エントランスは当時のアールデコの建物によくみられるデザインではありますが、ずっしりとしていて歴史を強く感じ圧倒される思いです。そしてエントランスを抜けると中庭があり、外部とは違った迫力があるように思えます。そしておそらく井戸ではないかと思いますが深く掘られた穴がありました。

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彼女は現在八宝山革命墓地(北京)に眠っていますが、彼女が何者でなぜこの建物が残されているか、この墓地に眠っているかは日本人はほとんど知りませんし名前も知らない人が多いかと思います。しかし日本が日中戦争時に彼女らの人脈が大きな影響を与えていますので、これを機会に紹介いたします。概要はウイキにその断片が書かれています。

『第一次世界大戦においてはインドの英国による植民地支配からの独立運動の活動家として、ドイツ政府からの経済援助を受けながらアメリカ国内で活動し、世界革命論を促進するコミンテルン(第三インターナショナル)のために共に長期間活動し 死去の41年後に起きたソ連崩壊後に、コミンテルンの工作員であったことが判明した。 1930年代の時点においてイギリスの諜報機関は「共産主義者と頻繁に接触するジャーナリスト」としてスメドレーを監視し、1933年5月にイギリス警察が13人の名前を挙げて作成した「上海におけるソ連・スパイリスト」にはスメドレーの名前が記されています。 中国共産党傘下の八路軍に密着した取材などで詳細なレポートを発表。1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった』

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china著書に『中国は抵抗する 八路軍従軍記』『中国紅軍は前進する』など中国共産党軍の従軍記者として主にはアメリカ・ヨーロッパ向け中国のプロパガンダに大きな役割を果たしました。中国の百度には日本のサイトに比べても数倍の面積で紹介しています。

photo取材活動は中国共産党軍内で行われていますから、情報を取るためにアメリカの多くの情報を売っていました。同時にコミンテルンでしたからソ連共産党の指示で動いていたと言えます。そしてスメドレーの手ほどきにより1930年日本で最も有名であり、のちにコミンテルンのスパイとして極刑になったリヒャルド・ゾルゲがこの家に一緒に住んでいたようですし拠点として活動もしていました。そして日本人でありコミンテルンのスパイとしてゾルゲと共に極刑になった尾崎秀実もこの家を何度も訪れています。

このことは著書「赤い諜報員」に3名の出会いや関係が詳しく書かれています(若干意訳)。
『ゾルゲは1930年1月後半にコミンテルンの指示で上海に入りました。アグネスと出会ったのは1930年3月23日、出かける準備をしていた時に今回紹介したこのアパートに突然訪れています。ゾルゲは上海での活動の下地を作るために仲間を探している最中だったので諜報員たちの紹介でここを訪れています。当時の彼女はジャーナリストとして有名でしたし共産主義者でした。出会ったその日にすでに肉体関係となり以降3か月彼女と一緒に生活することになります』

尾崎はゾルゲと知り合う少し前の1929年?ドイツ人の経営する書店「ツアイト・ガイスト」に出入りしていました。尾崎はドイツ語が堪能でしたから日本では手に入らない書籍をこの店で物色していたのですが尾崎はアグネスがこの店に出入りしていることを知っていたので主人に紹介をお願いしていたのです。

当時すでにアメリカ人のジャーナリストとして有名になっていたアグネスを尾崎は情報源として利用したかったのですが、アグネスとしても日本の新聞社の情報を求めていたのでこの紹介は渡りに船でした。そして数日後尾崎と食事をした後、このアパートで肉体関係となりその後アグネスの紹介でゾルゲと運命の出会いをするのです。この出会いが日本の運命を大きく変えていくことになりますがアグネスの夜の生活は有名だったようで朝日新聞の記者仲間では「攻めドレー」とあだ名されていたとのことです。

CIMG2866彼らがここで行き来していたかと思うとマニアの私としらぞくぞくします。この階段の踏板も彼らが削ったわけです。

当時の上海は各国の思惑が交錯する場所でした。イギリスのアヘンを基軸としたアジア植民化計画。大量消費社会に突入し、大量消費地としての利権確保。ソ連の南下計画、共産国家の樹立。ドイツによるユダヤ人の迫害、大量移民流入。その情報を求めコミンテルンのスパイの多くが上海を拠点に動いていました。フランス租界地はフランスの庇護の元中国人マフィアが支配していたことで比較的自由でしたし、意外なことに住民の多くはロシア革命から逃げてきた白ロシア系でしたから、スパイがいてもあまり疑われなかったのでしょう。

彼女は魯迅が死去した時の葬儀委員会としてそうそうたるメンバーと共に名を連ねています。この当時はコミンテルンのスパイだったとは気づかれてはいなかったようですが、今更スパイだったと認めるとメンツが立たないのでしょう。今では中国の英雄として北京の墓地に眠っています。
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アグネススメドレーに関しては著書「回想のスメドレー」の紹介の際にもう少し深入りしようと思います。

その他のスパイは
ビアンカ・タム(イタリアの伯爵令嬢 フランスの情報を国民党に流すスパイ)
スメール(インドマハラジャのプリンセスを自称 日本海軍のスパイ)
キャプテンピッグ(バルト人でマルチ芸人・コミンテルンのスパイから日本のスパイに)
鄭苹如(近衛の息子をハニートラップした女工作員)→まもなく詳細をUPします。
らが有名です。