何かこのブログは塔マニアっぽくなってきましたが、恐らく高層建築の意識があるためかと勝手に思いつつ、そういう声には耳を傾けず今日も気になる塔をめぐってみようかと思います。今日の塔は松江地区にある佘山の山麓にあります。山頂には
「佘山天主堂」山頂に建つ租界時代の天主教会 上海近郊の小高い山々の伝説 EP167
がある上海きってのリゾート地。耳は傾けませんが塔は傾いているような気がする不思議な建築物です。
秀道者塔
別名 月影塔 建設 北宋太平興国年间976~983年 最高位29m 煉瓦+木造 平面八角形 7層 楼閣様式 台座基礎には大きな庇が付いています。塔の基部の周りには廊下があり、塔本体の各階には南北に小さな門があります。何千年にもわたる風雨の後でも、構造体はしっかりしています。しかし長い間荒廃し元の塔のはしごが破壊され、塔の軒と塔の座は存在しなくなってしまいました。1997年に松江区によって補修が開始され1998年12月に今の状態になりました。
建築様式的には花塔と呼ばれるタイプに属します。塔の半分が巨大な花束のように複雑な花飾りで飾られているのが特徴です。この種の塔は宋、遼、金の時代に形成され、元王朝以降ほとんど姿を消しました。中国に現存するこの様式の塔の総数はわずか10棟強です。
名前にはどうやら2つの説があるようです。一つ目は当時、山中には潮音庵と呼ばれた庵がありました。 庵には「秀」と呼ばれた僧がいて 彼は塔の建設に参加し、塔が建てられた後に自分自身に火をつけてしまったためこの名前が付けられたという説。もう一つは、 少林寺の僧侶佘山が敵を殺したという伝説です。 明代の嘉靖時代には、沿岸部に倭寇(日本人海賊と言っている)があり、松江県の多くが犠牲になりました。山にはお寺や仏塔がいくつかあり、山の中腹に「佘寺」と呼ばれる寺院がありました。海賊の攻撃に抵抗するために彼は山東省から目空、智囊、天池、玉田などの百人以上の武装僧侶を特別に招待し敵と戦い何度も勝利します。 地元の人々はその功績を記念して、山の頂上に骨を埋め、その上に秀道者塔という名前の石の塔を建てたということです。修道者みたいでかっこいい名前ではあります。
この伝説には疑問点と興味深い点があります。
少林寺の僧侶です。少林拳がこの時代にあったのか、そもそも実在していて、寺の用心棒として機能したのかです。
調べてみると知らなかったことが出てきました。ウイキペディアから。
『少林寺拳法とは、嵩山少林寺の門派の一つである、北少林義和門拳第21代正統継承者の宗道臣(本名:中野理男)が、敗戦後にGHQ占領下の日本で創始した新興武道である。また、中国嵩山少林寺の古拳法から基礎拳法を再構成したものであるため、中国武術のひとつである現代の少林拳と関係性はないと考えている人もいるが、清王朝中期以後から近代中国の戦乱により、嵩山少林寺の古拳法の技が多く失われたが、しかし、現代の中国少林拳も日本で知られている少林寺拳法も嵩山少林寺の古拳法から伝承され派生したもので、肉体の鍛錬に加え精神修行の基本考えは同じで、武術の面において同じ嵩山少林寺の分枝であるとの考えは妥当である。日本では少林拳と少林寺拳法が混同されるが、無関係である。少林寺拳法は義和拳・梅花拳・白蓮拳等を継承して今日までに至っているとされる』
用心棒を雇った理由は倭寇からの襲来とのことです。この記述はとても興味深い。まずは倭寇が日本人なのか匪賊(盗賊やチンピラ集団)だったかの区別が当時どうやってできたのかがわからない。倭=日本ですからそうしたいのはわからなくはないのですが、倭寇よりも匪賊の方が日常は厄介だったはずです。それを当時まだなかった少林寺拳法が粉砕!。いくら日本憎しと言ってもかなり無理がある由来です。信じるかは自分次第と言うことなのでしょう。
補足になりますが倭寇が来たわけですからこの周辺は海だった可能性があったわけです。実は今は内陸に見えるこの場所は海でこれは色々な資料からも間違いが無いことです。少なくとも水路が交易で重要で、網の目状に張り巡らされていたのですから、船で襲ってきても不思議ではありませんし山中には潮音庵と呼ばれた庵があったわけですから、潮の音=海岸線 としたらこの名前はしっくりきます。
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中国の塔は由来が面白いですね。日本と同じように仏教の経典が保管されていると思いきや、同じように見えて全く違う由来があり、この塔は鎮魂慰霊塔であったわけです。
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後に紹介しますが、上海の西の郊外青浦にある万寿塔、青龍寺の塔はまた違った由来があります。
そして佘山の古代寺院と丘陵地帯の村の家は、元王朝、清王朝初期、太平天国の乱で3回破壊されました。それ以降清王朝中期から後期にかけて、佘山は不毛の丘となってしまっていました。なぜかというと、山の木を燃料に使ってしまうから中国の低層の山の多くははげ山になってしまったからです。
清朝末期、カトリック教会が山の頂上と南側の斜面を購入したとき、塔はすでに老朽化していたとのことです。上の写真↑↑↑
このエリアに行くのは市の中心部から意外と時間がかかります。最寄りは佘山駅ですのでわかりやすいですし、駅からバスやタクシーも頻繁に走っていますので、観光に行くのも楽しいものです。町中の喧騒を離れゆっくりすることをお勧めますね。
入山料が30元くらいとられるのでそのつもりで訪れてください。
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秀道者塔
別名 月影塔 建設 北宋太平興国年间976~983年 最高位29m 煉瓦+木造 平面八角形 7層 楼閣様式 台座基礎には大きな庇が付いています。塔の基部の周りには廊下があり、塔本体の各階には南北に小さな門があります。何千年にもわたる風雨の後でも、構造体はしっかりしています。しかし長い間荒廃し元の塔のはしごが破壊され、塔の軒と塔の座は存在しなくなってしまいました。1997年に松江区によって補修が開始され1998年12月に今の状態になりました。
建築様式的には花塔と呼ばれるタイプに属します。塔の半分が巨大な花束のように複雑な花飾りで飾られているのが特徴です。この種の塔は宋、遼、金の時代に形成され、元王朝以降ほとんど姿を消しました。中国に現存するこの様式の塔の総数はわずか10棟強です。
名前にはどうやら2つの説があるようです。一つ目は当時、山中には潮音庵と呼ばれた庵がありました。 庵には「秀」と呼ばれた僧がいて 彼は塔の建設に参加し、塔が建てられた後に自分自身に火をつけてしまったためこの名前が付けられたという説。もう一つは、 少林寺の僧侶佘山が敵を殺したという伝説です。 明代の嘉靖時代には、沿岸部に倭寇(日本人海賊と言っている)があり、松江県の多くが犠牲になりました。山にはお寺や仏塔がいくつかあり、山の中腹に「佘寺」と呼ばれる寺院がありました。海賊の攻撃に抵抗するために彼は山東省から目空、智囊、天池、玉田などの百人以上の武装僧侶を特別に招待し敵と戦い何度も勝利します。 地元の人々はその功績を記念して、山の頂上に骨を埋め、その上に秀道者塔という名前の石の塔を建てたということです。修道者みたいでかっこいい名前ではあります。
この伝説には疑問点と興味深い点があります。
少林寺の僧侶です。少林拳がこの時代にあったのか、そもそも実在していて、寺の用心棒として機能したのかです。
調べてみると知らなかったことが出てきました。ウイキペディアから。
『少林寺拳法とは、嵩山少林寺の門派の一つである、北少林義和門拳第21代正統継承者の宗道臣(本名:中野理男)が、敗戦後にGHQ占領下の日本で創始した新興武道である。また、中国嵩山少林寺の古拳法から基礎拳法を再構成したものであるため、中国武術のひとつである現代の少林拳と関係性はないと考えている人もいるが、清王朝中期以後から近代中国の戦乱により、嵩山少林寺の古拳法の技が多く失われたが、しかし、現代の中国少林拳も日本で知られている少林寺拳法も嵩山少林寺の古拳法から伝承され派生したもので、肉体の鍛錬に加え精神修行の基本考えは同じで、武術の面において同じ嵩山少林寺の分枝であるとの考えは妥当である。日本では少林拳と少林寺拳法が混同されるが、無関係である。少林寺拳法は義和拳・梅花拳・白蓮拳等を継承して今日までに至っているとされる』
用心棒を雇った理由は倭寇からの襲来とのことです。この記述はとても興味深い。まずは倭寇が日本人なのか匪賊(盗賊やチンピラ集団)だったかの区別が当時どうやってできたのかがわからない。倭=日本ですからそうしたいのはわからなくはないのですが、倭寇よりも匪賊の方が日常は厄介だったはずです。それを当時まだなかった少林寺拳法が粉砕!。いくら日本憎しと言ってもかなり無理がある由来です。信じるかは自分次第と言うことなのでしょう。
補足になりますが倭寇が来たわけですからこの周辺は海だった可能性があったわけです。実は今は内陸に見えるこの場所は海でこれは色々な資料からも間違いが無いことです。少なくとも水路が交易で重要で、網の目状に張り巡らされていたのですから、船で襲ってきても不思議ではありませんし山中には潮音庵と呼ばれた庵があったわけですから、潮の音=海岸線 としたらこの名前はしっくりきます。
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清朝末期、カトリック教会が山の頂上と南側の斜面を購入したとき、塔はすでに老朽化していたとのことです。上の写真↑↑↑
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入山料が30元くらいとられるのでそのつもりで訪れてください。
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