2008年07月01日

二人暮し

彼女との二人暮しが始まった。

二人で暮らしているのは、僕の職場から近い、ほぼ新築のコーポだ。
二人で暮らすには十分な広さがある。

この部屋を見つけるまでに、いろんな不動産屋をめぐり
苦労して探し当てただけあってほぼ不満はない。

家具をそろえるのも大変だった。
二人の意見が分かれることもあったが、休日のたびにヘトヘトになりながら家具や電化製品をそろえていった。

彼女は毎日、朝食も夕食も作ってくれる。
昼食は会社で外食するので必要ないのだ。

ぐうたらな彼女だが、今のところ料理はがんばっている。
よく実家から惣菜ごともらってきたりしているが、料理も上手だし何の不満もない。
時々、くたびれてリビングで倒れたように寝ているが僕が家事を助けながら二人三脚でやっている。

リビングの隣の部屋には彼女が買った大きな仏壇があるが、普段は閉めているため、タンスにも見えて不自然ではない。

彼女はよく、朝と晩に勤行をしている。
僕は一度もしていない。

最初、彼女の勤行は声が大きいため、僕は
「近所迷惑になるから、声を小さくして。」と注意した。
そしたら、彼女は朝晩の勤行は聞こえないくらいの小さい声でするようになった。
休日に遅く起きて昼前に勤行をするときは声がだんだん大きくなっている。
僕は「なんだかごにょごにょ言ってるなー」という感じでほとんど気にならない。


彼女は、女子部を引退したため、学会活動をすることもほとんどないようだ。月に一度、本部幹部会に行くだけだ。

何度か男子部が訪ねてきたことがあった。
どうでもいい話で時間がとられた。青年なんとかの会合に出ないか誘っていたが、適当にあしらった。次に男子部が来たときは彼女に追い返してもらった。

彼女は聖教新聞も購読している。僕は反対したが、彼女の母親に「ほかの事は何も口出しはしないから、あの子の信仰だけは邪魔しないでほしい。」と懇願された。
その結果、新聞は彼女の負担でとることにした。
新聞が邪魔にならないように、まとめてすぐ捨てられるように新聞用のカバーを買ってそこに整理させている。

二人暮しをするようになって創価関連で気になったのはこれくらいしかない。
思っていたよりずっと平穏な日々だ。

僕は創価を全てを否定するのではなく、彼女の納得できる範囲で妥協させることによって立ち回ってきたように思う。

まだまだこれから何か起こるのかもしれない。
僕が一度、本部幹部会に行くことを拒否したら、ベッドルームでドタバタと不満そうにしていた。

今は新しい生活を毎日精一杯こなすことしかできない。

僕には守るべき家族ができた。
僕は家族にためにこれからも精一杯生きていく。

2008年06月23日

会館挙式

たくさんの方にご心配いただき、申し訳ありません。
近況を中心に記述したいと思います。

その後、順調に進み
彼女と会館挙式を無事あげることができた。

会館挙式について当初の彼女との話では、こちらの参加者は両親のみという話だったが、彼女側は遠方から兄夫婦も参加することになり、
こちらの姉、弟も参加してくれるようお願いしてほしいということになった。
両親は息子のためなら仕方なくでも参加してくれるが、姉、弟となると創価学会の会館挙式に参加というのはハードルが高くなる。

僕は彼女と当初の話と違うという点について、抗議し話し合った。
彼女に悪意はなく、ご家族みんなに祝福されて結婚したいという願望があるだけだった。僕は納得し、姉、弟に参加してもらうようにお願いをした。二人は快諾してくれた。

挙式当日、衣装屋で親族が集まり、写真撮影をした。
お互いの家族が和やかに話し合う様子はなんとも言えず幸せな光景だった。着物姿の彼女は美しかった。

会館へ移動し、挙式を行った。
前日の夜に準備・リハーサルしただけの簡単な式だったが良い挙式ができた。
男子部や女子部のメンバーが会場設営、司会、写真撮影などたくさん助けてくれた。僕はまったく知らない人ばかりなので申し訳なかった。
そして、「後から家に訪問されたら、断りにくいな」と考えていた。

一点、導師という人の題目の長さには、僕の家族は引いていた。
そりゃそうだろう。20分以上、奇妙な南無妙法蓮華経をとなえられたら僕でも引く。
導師は「お二人はこれからますます池田先生の弟子として、活動をしていくことを期待している」とも言っていた。
まあ、僕は予想していたので驚きはなかったが、僕の家族はもちろん引いたようだ。

それ以外はたいへんまともな仏前式といったところだ。
今回は指輪交換もしないようにお願いしていた。

今後、友人と家族以外の親族も招待して挙式・披露宴は別の一般的な式場であげる予定だ。

彼女と入籍も済ませた。
彼女の名字は僕と同じになった。

引越しも済ませて、今は二人で暮らしている。
あわただしい日々だが、間違いなく幸せであることは確かだ。

大きな目標を達成し、二人で暮らすようになって、僕はどこか気が抜けたような不思議な感じがする。
学会の問題とは別に、今まで一人暮らしで、週末しか会えなかった状態から毎日一緒にいるという状況の変化が大きすぎたのだと思う。

二人での生活はまた次の記事で書きたいと思う。

2008年03月11日

精神論と現実

更新がなかなかできずごめんなさい。
たくさんのコメントを見て、考えさせられることが多いです。


近況としては、彼女とは極めて良好な状態が続いている。
土日は毎週彼女と会っている。

寒い時期が続いたのであまりデートらしいことは少なかったが、
クリスマスに温泉旅行に出かけたり、結婚式用のドレスを試着してみたり、
楽しい日々を過ごした。

僕はどちらかというと人前であまりよくしゃべるほうではなく、おとなしいタイプである。
しかし彼女といるときは、何でも話せてしまう。
くだらないことや、どうでもいいことや、おもしろくない冗談でも彼女なら聞いてくれるし彼女も話してくれる。
最近は二人でいるときは笑いが絶えないのだ。

先日、少し暖かくなってきたので二人で植物園に散歩に出かけた。
なにげない自然の中で二人で歩いているだけで幸せをかみしめていた。

「もう春がくるねぇ」

そう話す彼女の表情は幸せに満ちていた。
二人での新生活がもうすぐはじまることも幸せの一因だ。

二人はお互いがかけがえのない人生の伴侶としてふさわしい存在であることを実感している。もう僕の中にあった不安や恐れは限りなく小さいものとなった。
幸せや希望の大きさに比べたら、不安なんて小さなものだ。

結婚後の彼女、そして創価学会について不安が全くないわけではない。
新居に仏壇を運び込まれることになっているし、新居に訪問にくる学会員もあるだろう。しかし、結婚後の学会活動は前回書いたように念を押しているのであまり心配はしていない。

今、二人が感じている幸せや希望は、創価学会の語る絶対的幸福とは質の違うものだ。
その大きな違いは「現実」と「精神論」の違いだろう。

創価学会の語る絶対的幸福は「精神論」そのものだ。現実の状況がどうであれ、自らの精神を「幸福だ」と錯覚させるものだ。「勝利」しか許されず、「絶対」しか認められない。創価学会で信心をすることによって得られる功徳とは「現実」の形を成さない、「精神世界」の幸福だ。

30才を超えて、結婚相手も彼氏もいない創価学会女子部員は「幸福」だろうか?信心ができて幸せなのだろうか。創価学会が原因で別れても幸せなのだろうか。
学会の先輩たちは口をそろえて信心も認めてくれないような相手とはどうせうまくいかない、早く別れて正解だと言う。これは何の責任感も持てない人の発言だ。

精神論」と「現実」を明確に区別して考えるべきだ。

精神論とは「万人の幸福、世界の平和」「勝利、革命、哲学、絶対」などである。これは理想的な言葉で民衆を扇動する目的に使用されるだけの言葉だ。

現実とは「社会、人間関係、時間、金、仕事」などである。

個人が学会活動で得られるものは「功徳、絶対幸福、平和への貢献」など全て形のない精神論であるのに対し、それによって創価学会が得ているものは「財務(納付金)、新聞・雑誌部数、墓苑収入、組織票、権力、無数の労働力」など生臭いほどに極めて現実的なものである。

精神論は人を動かす。
自分が動かされていくうちに他人を動かすようになる。
それが無数に連鎖し、固定化された思考形態へと発展する。

現実に時間を拘束されたり、労働力を強いられたり、出費が発生したり
自分から消費されているものが何であるのかを常に意識しておくべきだ。
そして、現実人間関係を悪化させてしまうものは何なのかを常に考えるべきだ。

破壊された人間関係は決して修復することはできない。
それがどんなにかけがえのないものであったとしても失ったものは取り戻せない。


僕たち二人が感じているものは現実の幸せだ。
僕たちは限られた収入と時間の中で、せいいっぱいの生活を送るだろう。

手を伸ばせば、そこには彼女がいる。
その瞬間訪れるこの感情を幸せというのだろう。

彼女が僕に対して深い愛情を持ってくれていることもわかった。
ずっと一方通行の感情なのかもしれないと思っていた。

彼女へは伝わっていた。

僕の思い。

ずっと悩んでいた苦悩が消えていくのがわかる。

夫婦として、家族としての二人に訪れる障害があることは知っている。
二人なら乗り越えられることも知っている。

二人には愛があるからだ。

2007年12月08日

結婚後の学会活動

もう3ヶ月くらい本幹には参加していない。
題目も上げていない。
すっかり自分が創価学会員であることを忘れてしまいそうな日々である。

それには理由もある。
僕の仕事が忙しく、最近は飛行機での出張が毎週のようにあるからである。
週の半分は出張先のビジネスホテル暮らしなのである。

休日は彼女と過ごすことが多いが、僕が疲れているため無理に本幹には誘わないのだ。誘われても、「行きたくないから、いいや」と断っていた。

しかし、ある日、彼女が彼女の母親に伝えてしまった。
僕が毎月のように本幹に行っていないことを。
彼女の母親は激怒していたそうだ。
僕が彼女の家にあいさつにうかがった時に彼女の父から
「何もしてくれなくていいが、題目と本幹だけは行くようにしてくれ。」
と言われ、
僕は「・・・はい。」とだけ答えたことがあった。

そのことを彼女の母親は持ち出し、「あのとき本幹には行くって言ったのに!」と激怒していたのだ。

僕はすっかりあきれてしまった。
彼女になぜ僕が怒られないといけないのか聞いてみたが
彼女も「あのとき本幹には行くって約束したよね。だから怒ってるのよ。」と言う。

どうやら、学会員にとって本幹に行くことは学会信仰を持っているという証のようなものらしい。僕があまりにも無駄でくだらないと感じる本部幹部会こそが学会員にとては重要なもののようだ。

そして、本幹に参加しない者は信仰から外れていると思われ、学会員としての最低限の責務をはたしていないかのような言われ方をするのだ。

今、彼女の両親に嫌われてしまうと、彼女との結婚に影響してしまう。
そう考えた僕は次回の本幹からなるべく参加することにした。

彼女の母親にも、僕が参加する意思はあることを伝えてもらい、安心したようだ。
彼女との幸福を達成するためには、こういった判断が必要な時がある。


結婚後の彼女との生活に不安を感じていた僕は彼女にいろいろ問いただしてみた。

僕「今はどんな学会活動してるの?」
彼女「女子部の部員を激励したり・・・」

僕「それは義務でやってるの?」
彼女「義務じゃないよ。気になるから。」

僕「そうするようにだれかに指示されてるの?」
彼女「うーん・・・・自分の考えでやってるよ。」

僕「なにか目的があってやってるの?」
彼女「目的・・・しいて言えば元気になってほしいから。」

僕「どれくらいの頻度で行ってるの」
彼女「部員まわりは月に4〜5回かな。座談会は毎週19:00〜20:30くらい。本幹は毎月」

僕「結婚したらどうなるの?」
彼女「今みたいに女子部の責任はなくなるから、それほど行かなくていいと思う。座談会に行くのは老人と仕事が早く終わった人と女子部くらいだから。」

僕「君が仕事やめたら行くっていうんじゃないの?」
彼女「そのときの状況によるね。子供ができたら行けないし、用事があったら行かないよ。」

僕「結婚したらどういう立場になるの?」
彼女「女子部の部長じゃなくなって、婦人部になるから、なってみないとわからないのよ。」

僕「わからないってどういうこと?」
彼女「例えば、地区の担当をお願いされるかも。」

僕「それはお願いされたら、強制的にやらないといけないの?」
彼女「強制じゃないよ。断ることもできる。」

僕「じゃあ、役職をお願いされたら、決断する前に僕に相談してくれる?」
彼女「わかった。役職につくには家族の承諾がいるし。そうするよ。」

ということで、不安だらけだった結婚後の彼女の立場が見えてきた。
いきなりたくさん聞いてしまったので彼女は戸惑っていたが大切なことを聞けた。

僕に不安を持たせないようにかなり、控えめに言っているのかもしれない。
実際は彼女が仕事をやめたら、学会活動ばかりするのかもしれない。
そうならないように、彼女を見守っていきたい。

彼女の学会活動は、彼女自身に聞いても明確な目的が無く、根拠の無い義務感でのみ活動しているように感じる。彼女が学会活動をしたいと言うのなら僕はその目的を明確化し、無意味に上層部の支持に従うことのないように留意していく。


しかし、忘れてはならないことがある。
こうして、彼女を学会活動ができない方向に追い詰めていること。
それは、彼女の精神に多大なストレスを与えているかもしれないこと。

そんな彼女に、安らぎを与えてあげることを忘れてはならない。
今まであたりまえだったことが、急にできなくなることのつらさをわかってあげなくてはならない。
彼女が学会活動で感じてきた充実感や高揚感を超える幸せを与えてあげることが必要だ。

自分だけの価値観を押し付けることをしてはいけない。
何を幸福だと感じるかは人それぞれだ。

二人の幸せのかたちを探し続けること。
それが夫婦としての二人のあるべき姿なのだろう。

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創価学会 

2007年10月07日

思考停止の魔力

思考停止という言葉をご存知だろうか?

一般的に批判的に用いられる言葉である。
そのままの意味だと「考えるのをやめること」である。

我々は日々の生活の中で驚くほど「思考停止」している。

例えばテレビニュースを見ていてキャスターのコメントに納得
してしまった時。
これは、相手の考えに迎合し感心しているだけなのに
自分も同じ考えを持ってしまうと「考えるのをやめている」のである。

同じくキャスターのコメントに納得できず怒りを覚えてしまう時。
これは、相手の考えが自分の考えと違うことを許容
することができない状態。
自分の固定された考えを変化させることができず「考えるのをやめている」のである。

どっちにしても思考停止しかないと思うかもしれないが思考停止してない
状態は存在する。コメントの内容を咀嚼し、そういう考え方もあるという
ことを理解し、新たな自分の考えに吸収させる状態だ。

なぜ我々は思考停止してしまうのだろうか?

思考を停止させてしまうととても楽になる。
自分で新たに考える必要がなくなる。
自分の発言に責任を負う必要がなくなる。
他人の考えを自分の考えであるかのように用いることができる。


しかし、考えるのをやめてしまうということは非常に危険である

自分以外の何かに流されてしまうからである。

我々は「教育」を受けて、何が正しいのか教えられている。
その教育が間違っていたとしたら、正しさの判断基準がすべて崩れてしまう。
一般的な日本の学校であれば大きく間違っていることはないだろうが
どこかの国で「日本人は悪」と教育されたらそれが「正しいこと」に
なってしまい、その人のすべての判断基準になってしまうのだ。

最も危険なのは宗教など特定の組織で行われる教育である。
創価学会であれば、「ご本尊」「題目」「池田先生」こそが大切だと
教育される。幼いころから時間をかけて教育されると、それが思考の根本として植えつけられてしまうのである。

熱心な創価学会員は「学会が正しい」「池田先生が正しい」という思考停止
ポイント
から抜け出すことができないのだ。
そこによりかかっておけば、精神的に楽であり、最終的な責任を学会組織に転嫁することができる。
先生が正しいということにして、それを広めるだけで組織から認められ、
自分自身の責任を放棄したままでいられる。
学会が正しいことの根拠の説明を求められても、決して自分の考えではなく世界で拡大し続けている、多くの実証があるなど学会の書籍に書かれた内容をそのまま言うことしかできないのだ。

これが「考えること」をやめている状態。
まわりのみんなが言うからそうだと思い込んでいる状態。

たとえどんなに正しいことでも、それを理由に考えることをやめてしまうのならそれは思考停止ポイントとなる。

例えば「男女平等」「世界平和」
これは正しいことかもしれない。
しかし、これだけを理由にして自分の考えの正しさをアピールする人は「思考停止」しているのだ。
結局自分以外の何かに流されている状態。自分の新しい考えを生み出すことができていないのだ。

「○○は言われた。」のように
「有名な学者の発言」「肩書き」「表彰」を用いて正しさをアピールし、
自分の考えであるかのように発言する人は、自分の考えに責任をもてない人だ。
そして、そんな人の言葉を鵜呑みにしてしまう人は正しさの判断を全くできていない人だ。

創価学会は思考停止の塊だ。
無数の思考停止ポイントが存在し、学会員がどんな思考ルートを経由しても同じ固定化された結論しか持つことができない教義になっている。

組織が作ったシナリオが末端に流れてゆき、やがて組織票と財務に還元されてゆく。
そして学会員の思考停止が揺るがないように締め付けを行い続ける。

大切なのは「ゼロベース」で考えることだ。
他人や組織から教えられた考えはリセットしすべて捨てるのだ。
そして日々の生活で必要な判断基準を自分の力で見つけ出していく。

決して「絶対」という言葉を使ってはいけない。
使うとしたら、なぜ「絶対」なのかをすべて自分の考えだけで説明しなくてはならない。
もちろん「絶対」でなかった場合は自分ですべての責任を負わなくてはならない。

組織の提供した考えを理由に「絶対」という言葉を使う人は、ただの組織の歯車だ。
組織に利用されるだけの思考停止したロボットだ。


参考リンク
ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。自分の「思考停止ポイント」を発見する
http://www.1101.com/essay/2001-04-04.html

二人の未来

またまた久々の更新になってしまいました。
パソコンが壊れて新しいのを買いなおしました。
心配していただいた方、すみませんでした。

コメントは読ませていただいています。
元気づけられたり、考えさせられたりしています。
いろんな人の考えを聞けるのは大変良いことだと感じています。


では、本題。
最近は休日には、彼女と結婚式場を見学したり、衣装を試着したり
お互いの家にあいさつに行ったりと忙しくも楽しい日々を過ごしている。


この数ヶ月、創価学会に関わることはやはりほとんど無かった。
彼女が僕のマンションから帰るとき「いっしょに題目あげてから、帰る。
と言い出すことはあるが、月に1回程度である。

本部幹部会にもあまり行っていない。
僕が仕事で疲れてたりすると、はっきり「疲れてるから行きたくない
と言い、彼女は僕を責めることもなく、承諾してくれる。

他に青年部の大きな会合もあり、彼女に「私は行くけど、いっしょに行く?
と言われたが、僕は「行きたくないから、いいや」と拒否した。
以前なら彼女に無理矢理に近い形で連れて行かれるパターンであったが
最近は、彼女は僕をあまり会合などに強引に誘わなくなってきた。

彼女は僕を学会の会合に連れて行ったとしても、僕が「学会をすばらしい」と
思う可能性がほとんど無いことを悟ったようだ。

その理由を考えてみる。

ある結婚式場の営業担当が突然彼女の家に訪問に来たことがあった。
僕が彼女の両親にあいさつに行く前だったので、彼女と、彼女の両親は激怒し、
その式場にクレームを入れた。

僕は彼女からその話を聞いて、
僕:「アポなしで人の家におしかけるなんて信じられない非常識だね
彼女:「そうだね。結婚の許可ももらってないうちなのにね
という会話をした。

また、ある日、僕の家に男子部の人が訪問してきた。
選挙に行きました?」「男子部長に報告しました?」という話を一方的に
してきた。僕は「行きましたが、なぜ報告する必要があるのですか?」と
問いただした。その男子部は返事もせずに帰っていった。

僕はアポなしの訪問が納得できないことを彼女に伝えた。
彼女も突然の訪問が非常識であることを感じはじめたようだ。

他にも彼女との会話で、昼食や夕食の時間帯に会合が行われるために
二人でデートしている時の食事の時間が制限されたりすることが苦痛だと
伝えた。一般的な昼食や夕食の時間帯に人を拘束することは非常識だと伝えた。
彼女は「しかたないのよ」としか言うことしかできないが
学会という組織が世間の常識から乖離していることに僕を通して気づかされて
いるのだ。

そういったことが重なり、彼女は僕を学会色に染めることは不可能だと悟ったようだ。
選挙で公明党が惨敗したことは影響してないだろう。

しかし、彼女自身は会合に、部員会に、表彰式に、いろいろ行き続けている。
同時に女子部をやめて、婦人部になる準備をしているようだ。

この先、彼女自身を学会から遠ざけるためには、彼女と一つ屋根の下暮らし、
学会へ行こうとする彼女との話し合い
をするしかないと感じている。

その後、彼女の両親に正式に挨拶に行き、結婚の許可をいただいた。
彼女の父に「学会さえ信じてくれればあとはなんとかなる。」と言われた。

僕は学会とは関係なく彼女を幸せにしてみせる。


近頃は休日は二人でいるのが当たり前になり、お互いが空気のような存在になってきた。
他の誰にも話せないようなことをお互いに話せるようになった。
つらいことがあると彼女は僕にすべて話してくれる。
彼女は僕にはじめて本気で泣く姿を見せた。

二人はもうお互いに欠かすことのできない存在になった。
心が近づくたびに、いままで知らなかったことや本当のお互いの気持ち
がわかってくる。


二人は未来を夢見ている。

友達に祝福され、永遠の愛を誓う時。
二人で一緒に暮らす姿。
僕と彼女にそっくりの子供。
裕福とはいえなくてもささやかで、幸せな時間。


この夢があれば何も怖いものはない。
二人の夢みる未来より大切なものなど何も無い。


二人の夢を阻害するものがあるなら、すべて乗り越えてみせる。

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創価学会 

2007年06月26日

彼女を両親に紹介

またまた久しぶりの更新になってしまいました。
なかなかみなさんのコメントにはお答えできないかもしれませんがのんびりと続けていきたいと思います。

そういえば最近、初めて男子部がうちのマンションにやってきた。
一応玄関まで出たが、玄関口で「題目をあげて、信じれば絶対の信心だから。」など延々をしゃべり続けていた。僕は「近所迷惑なので。」とあまり相手にしなかった。創価学会員にはアポなし訪問など激しく迷惑以外の何ものでもないので、金輪際やめていただきたい。そもそも今度来ても玄関も開けないが。
いくら、自分が正しいと思っていても相手が「迷惑」と感じていれば「迷惑」でしかないのだ。いつかわかる時がくるはずだと、何度も訪問しても、何度も「迷惑」行為をしているだけなのだ。それが現実の結果だ。


さて、話は表題にもどる。
彼女との結婚が決まってから、さらにいろいろなことがあった。
まだまだこれからたくさんのことがあるのだろう。

僕の実家についに彼女を連れて行くことになった。
彼女はわざわざ地元で一番おいしいという店の菓子折りを買ってきてくれた。

うちの両親はとてもにこやかに彼女を受け入れてくれた。
自分の両親と彼女が会話している様子はいつか夢に描いた絵が実現したような感じだった。不思議な光景だ。
僕の大切な人が両親と会話をしている。それだけで嬉しくなる。

うちには犬と猫がいて、家族は皆、動物が大好きである。
彼女も僕の影響でかなり動物が好きになったようだ。
両親と僕たちの会話はほとんどペットや動物の話ばかりしていたような気がする。

でもやはり、結婚の話にもなった。
彼女「挙式は会館で挙げたいんです。」「両親とご家族だけでもいいと思うんですけど・・・」
うちの母「うちは宗教のことはよくわからないので・・・」
彼女「仏式の挙式と同じで、途中で学会のお経をあげるだけなんです。」
うちの母「そうですか。二人の好きなようにしたらいいと思いますよ。親だけであれば参加もできますし。」

という感じでうちの両親は学会の会館挙式を拒否してくれなかった・・・
彼女はうちの両親に拒否されれば会館挙式はなくてもしかたないと言っていたのだが・・・

両親は僕より危機感がないという感じもするが、面倒を起こさず、なるべく僕たちの結婚がうまくいくことを考えてくれたという事なのだ。

うちの両親は二人で客商売をしており、学会の客もたくさんいるし、選挙をお願いされることもあったそうだが、「うちは公明党には入れません。」と一言で済ませるらしい。学会員の扱い方も、受け流し方も、僕よりも遥かにたくさんの経験をしているのだ。普通に接していれば悪い人たちではないことを理解しているのだ。

両親は彼女のことを「しっかりした人」と好感触をもってくれた。
これから家族付き合いをしていく上で非常に良い一歩になった。
両親にとっては何よりも「動物が好きかどうか」が重要なのだが・・・

彼女ははじめて訪れた僕の実家でペットの犬の上にティッシュの箱をのせて遊んでみたり、猫と遊んで爪で引っかかれたりと、動物好き一家の仲間として簡単に受け入れられてしまった。恐るべし彼女の適応能力。


彼女に会館挙式について聞いてみると「指輪の交換」もあるという。
僕は学会の会館で「指輪の交換」だけは絶対にやりたくないと言った。
僕は「指輪の交換」が一生に一度の大切な瞬間だと思っているからだ。
僕はその瞬間を創価学会に囲まれていることが嫌なのだ。

彼女は「わかった。指輪の交換しなくていいか聞いてみる」と言ってくれた。

僕らは会館挙式の後に式場で改めて人前式を行い、そこで指輪の交換をすることにした。挙式が2回もあるなんてなんだかよくわからない感じだが、二人の譲れない意見を尊重するとこうするしかないのである。


最近の僕たちは休日にはいろいろな結婚式場、披露宴会場のウェディングフェアに行きまくっている。ウェディングフェアに行くとプランナーがとても丁寧に接待してくれるので気分が良い。
模擬挙式を見学したり、料理を試食したり、景色の良い会場を見学したり
一生にこの時期しかできない貴重なデートをたくさん楽しんでいる。

最近の彼女は結婚式に対してものすごく積極的で結婚雑誌を買いまくったり、手作りのウェディングアイテムを研究しまくっている。
結婚式は1年くらい先になるのであるが、ものすごい勢いを感じる。

彼女の中で何かがふっきれたような感じがする。
創価学会に対してではなく、僕に対してである。
僕とこれからの生涯をともに生きていく決意を強くもってくれたようだ。

なかなか素直にはなれない彼女だが、そんないじらしい彼女を幸せにしてあげたいと思う。

僕はこれからも彼女を守り続ける。
彼女に降りかかる創価学会の魔力と向き合い、良い方向へ導く。

二人が目指すものは理想論や机上の空論ではない。

二人で穏やかに笑いあう幸せな家庭の姿。
まぎれもない現実の姿である。



2007年05月13日

彼女との近況(4月〜GW)

彼女との結婚が決まってからいろいろなことがあった。

前回の記事で僕は彼女の全てを受け入れると言った。
僕が受け入れるのは彼女である。創価学会ではない。

しかし、ある程度創価学会との接点が増えてしまうことは危惧していた。
この1〜2ヶ月は創価学会との接点はあまりなかったと言えるだろう。

月に一度の本部幹部会には出席した。
出席する前に彼女とカフェで食事をしていたら、彼女が僕との会話に夢中になり開始の時間に遅れてしまった。彼女は「しまった・・・」と言っていたが、僕も間に合わないことに気づいたまま指摘しなかった。

この本部幹部会は金、土、日の昼か夜に1時間程度編集された本部幹部会の映像を見るだけのものである。
メインの池田大作のしゃべりは、ひさびさに聞くと驚くほど退屈であった。
次から次へ繰り出される海外の識者の発言の引用。他者の権威で自分を誇示する。
そして、海外の識者が皆、自分を賛嘆していると言う。
日本人は謙虚、謙遜、反省という概念を美徳とする傾向があるが
その欠片も感じられない。

二人は本部幹部会が終わった後、動物園に出かけて楽しくデートした。

この1〜2ヶ月で彼女から「題目しよう」と言われたのは1回だけであった。
そんなもんでいいのかという感じである。
土日くらいしか一緒にいないのでこの程度なのかもしれない。

彼女と会える回数はあまり変化していない。
土日のどちらかは会えるし、デートの回数は増えたかもしれない。


統一地方選挙では、彼女と期日前投票に出かけた。
彼女は僕に言いにくそうに「公明党の〜さんよろしく」と言ったが、
僕は自分の考えで、ある人に投票した。
誰に投票したかは彼女にも言わないし、言う必要もない。
ここで彼女と争い批判することは得策ではない。
彼女はその時の自分の考えで福祉に貢献する公明党の〜さんが当選すれば
日本が良くなるという思いから勧めているのである。

投票日当日は彼女は一日、仕事があるらしい。
彼女には「投票依頼は間違っているからしてはいけない。」と言っている。
彼女は友達に「選挙にはいこうね」程度の会話をしているらしい。

(統一地方選挙では公明党は全員を当選させてしまった。
学会員の投票力もあるが、公明党の中で当選がギリギリのラインに票を分散させる
組織力の結果であろう。)

創価学会と関わったのはこの程度である。
彼女は会合などには出席しているようであるが、日常生活にはあまり支障がない程度であるようだ。
実際、一緒に住むようにならないとどれくらい活動をしているかは見えにくい面もある。

GWには彼女とブライダルフェアに出かけた。
見学したのはレストランウェディングの模擬挙式、試食会である。

彼女は創価学会の会館での式も考えているが、メインの挙式とは別の日に家族だけでの式を想定しているそうだ。
僕の両親は創価学会には興味はないので、実際には会館での式は挙げることはないかもしれない。
その点は彼女も了解している。

メインとなるのは、ホテル、レストラン、結婚式場などの「人前式」である。
牧師がいなくて、二人と司会の進行で進む形式である。
模擬挙式を見学してみて、普通にいいものだなと感じた。

これからいろんな式場を見てまわって、二人の理想の結婚式を作り上げていくことになる。
楽しくて、少し面倒で、今しか経験できない時間である。

結婚後の新居を考えている時の会話は
彼女「仏壇を置きたい。」
僕「えー邪魔になるよ。」
彼女「どうしても必要なの。」
僕「リビングには邪魔だから、自分の部屋に置いてね。」
という感じである。

二人の会話に遠慮や言いにくいことはほとんど無くなった。

ただ、創価学会のことで批判しようと思えばいくらでもできる場面はあるのだが、批判した場合の結果が悪化することが容易に想像できる場合はしないようにしている。
無駄に相手を傷つける必要は無く、二人の関係を悪化させる必要も無い。

二人の幸せを見つけるためにすべきことをすれば良い。
問題が起こればそれを解決するための最善の策を二人で考えれば良い。

自分の気持ちだけではなく、相手の気持ちを考えていきたいと思う。

2007年03月25日

彼女の全てを受け入れるということ

彼女にプロポーズしてから、彼女とたくさん話し合った。

平日は彼女に会えることは、ほとんどないので
週末しか話し合うことはできない。
平日は携帯メールを何往復もさせているが
メールで深刻な会話をすることはできない。

僕は不安だった。
彼女が僕との別れを選択するのではないかという不安
僕を支配していた。
彼女との別れのシーンばかりを想像していた。

どんなふうに別れるのだろう。

感情をぶちまけて、彼女を責めてしまおうか。
優しく後腐れ無く終わらせてあげようか。

ネガティブな想像ばかりをしていた。
今度別れたら、もうやり直すことはできないだろう。

そして、別れた後のことを考えてみた。

僕には彼女を失うと、何も残らないのだと気づいた。
彼女を愛してから、彼女に振り回され、彼女のために全力で
生きてきた。
僕は彼女を失ったら、生きていく意味が無くなるのではないかと思った。

そして、僕は彼女を失うことなどできないのだと気づいた。
どんなことをしてでも彼女への愛を貫き通すしかないのだ。

僕と彼女は今まで、恋愛の駆け引きの中で、学会を否定したり
機嫌を悪くしてみたり、無口になってみたり、会合に連れ出されたりして
お互いの領域へ相手を引き込もうともがいていたのだろう。

僕は、駆け引きなどもうやめようと思った。
彼女の全てを受け入れようと思った。

今の彼女の中には「創価学会」がある。
僕はこの創価学会も含めて、彼女の全てを受け入れようと思った。
彼女と結婚するには、彼女の「全て」を受け入れる必要があるのだ。

そして、彼女と再び話し合う時がやってきた。

よく彼女の話を聞いてみると、
彼女が「不安」に思っていたことは、僕が学会を否定していたことではなかった・・・
それよりも、僕が不機嫌になること、無口になることを「不安」に思っていたのだ。
言われてみてハッとした。
僕のほうが「創価学会への不安」で頭がいっぱいで、彼氏として彼女を包み込む包容力が欠けていたのだ。

僕は彼女に謝った。「いままで不安にさせて、ごめん。」
「もう、何も心配しなくていいよ。僕はありのままの君を愛してるから。」
彼女も僕に謝った。「私も自分から思ってること伝えてなくて、ごめんなさい。」

彼女は「これなら、きっと大丈夫ね。」と言った。
そして、プロポーズの返事をもらった。

僕は彼女と結婚することになった。

僕はこの時、気持ちを言葉にすることはできなかったが本当に幸せだと思った。
創価学会なんてどうでもよかった。
誰に何を言われてもいいと思った。

彼女とずっと生きていけるなら、それだけでいいと思った。

「これから先は長いけど、ゆっくり進んでいこうね。」
「ずっと、ずっと一緒だよ。」
そんな言葉しか出てこなかった。

これから先、もちろん、創価学会も生活に絡んでくることになる。
僕は彼女に誘われれば会合についていくし、題目もあげる。
今までと何も変わらない。
変わったのは僕が不機嫌になったり、無口になったりしないことだ。

彼女は日常会話の中で冗談まじりで創価学会の話題をするようになった。
僕はそれに思ったことを隠さず返す。よく知らないことを否定したりはしない。
二人の関係は、今までよりずっと健全になったと感じる。

でも、理解できないことや、譲れないことだって必ずある。
それは、彼女の考え、気持ちを聞いてから、諭してあげたり受け入れてあげたりすれば良いのだ。
これからは彼女の中にある創価学会をもっともっと深く知り、どうやって導いていけば良いのか考えることになるだろう。

二人で分け合っていくのは「」だ。
理解していくのはお互いの「」だ。
知識や理論や哲学ではない。

二人の「」が溶け合うことができたのならば、そこには他の何にも流されない安らかな「幸せ」があるのだろう。


彼女と結婚するまではまだ1年くらいは時間がかかるが、なにもあせらず、ゆっくり進んでいきたい。
二人の進む道の先には本当の幸せがあるのだと信じて。

2007年03月04日

結婚への道のり

最近の記事では何度も書いているが、本当に最近は創価学会に関わることがまるでなくなってしまった。彼女から会合に誘われることもないし、聖教新聞を渡されることもないし、題目を一緒にあげようと言い出すこともない。

これは大変良い傾向だと思っていた。
同時に「どうしてだろう?」という疑問も持つようになった。

しかし、僕は彼女と毎週楽しく過ごし、幸せな日々を送ってきた。
僕の誕生日には、彼女から有名なお店のチョコレートケーキを買ってきてくれた。
プレゼントも僕が欲しいと言っていた熊の抱き枕をくれた。
バレンタインデーには、フランス製の高級なワインチョコレートをくれた。

僕は、彼女の誕生日に、彼女の好きな苺ケーキ、年齢と同じ数の花束、彼女がいつも僕の部屋で遊んでいた携帯ゲーム機をプレゼントした。ディナーは二人が大好きな小さなフランス料理屋でフルコースを食べた。

幸せすぎることが不安でもあった。
僕の頭の中には、こんなふうにいつまでも二人で一緒に過ごしたいという気持ちが大きくなっていった。

僕は彼女にプロポーズすることを決心した。

実は、何ヶ月も前から「今日こそはプロポーズしよう」と思っていたのだが
勇気が出なくて言えなかった。
結婚しよう。」たった一言が言えなかった。
言えば何かが起こるような気もしていた。

いざとなると、心臓がバクバクで止まりそうだ。
彼女に告白したときより、遥かに緊張した。
しかし、そろそろケジメをつける時期だ。
僕は止まりそうな心臓を押さえつけながら、その言葉を口にした。

彼女は笑い出し、僕もつられて笑った。
ちょっと引きつった笑いだった。

彼女は答えを口にした。
彼女の答えは「考えさせて欲しい。」だった。

僕は正直、ショックでもあり、予想通りでもあった。
そして、二人で話し合った。

彼女は結婚してから、僕と生活する上で「不安」があったのだ。
それは思い通りに創価学会の活動をさせてもらえるのかという事だった。
彼女がこの「不安」を感じていることを僕も予想していた。
しかし、僕はあえて彼女に創価学会の活動の事を問いただすようなことは
ほとんどしたことがなかった。
彼女も、僕にあえて創価学会の話をしようという気にはならなかったのだと言う。

そりゃそうであろう。創価学会の話をすれば、僕は理路整然とした反撃を返すのだから。そして、創価の話題を出せば、二人は険悪な雰囲気になるのだから。

つまり、お互いに創価学会の話題に蓋をして、触れないように気をつけながら付き合ってきたのだ。だからこそ、僕は彼女と幸せに過ごすことができたのであるが、彼女にしてみれば創価学会の信心が生活の大前提なのだ。

結婚して一緒に生活するとなれば、この創価学会の信心という大前提を避けて通れるはずがないのだ。

僕は彼女に言った。「不安に思うこと全部話して。」
彼女は、僕が彼女を縛りつけ創価の活動を批判し、活動をさせないのではないかという不安を持っていた。僕は、彼女を束縛するつもりはないこと、活動をさせないつもりもないことを伝えた。僕は「例えば、子供が病気の時にまで活動をするの?」と聞いた。彼女は「そんなわけないよ。そんな人も創価学会にはいるけど、それは間違った人だよ。」と言った。僕は少しだけ安心した。

他にもたくさん話をした。
彼女「私から創価学会をとっちゃったら、ただのぐうだら人間だよ。学会の活動があるから、頑張らなきゃって思えるの。」
僕「ぐうたら人間でも僕は好きだよ。学会がなくなったらどうするの?」
彼女「心の中で信仰できるよ。」
僕「今でも心の中だけ信仰していればいいじゃない。」
彼女「それだと我が強くなって教義から離れちゃうよ。」
僕「結局、学会がなくなったらダメになるようなもんなんだ。」

僕「日蓮の排他的な教義は争いの火種になるんじゃない?」
彼女「昔は学会も過激だったらしいの。だけど今はそんなひどいことなんてないよ。」

僕「財務でたくさんのお金を寄付してしまうのは正しいの?破産する人もいるよ。」
彼女「気持ちの問題だから、本当はできない額を寄付しちゃいけないの。」
僕「でも、学会は出せるだけ出せって言うよ。体験発表でも無理して財務したら良いことあったなんてみんなの前で言うよね。」
彼女「額じゃないの、気持ちなの。限度があっても良いと思うけど、できる人はできるだけの額をしちゃうんだ。」

書ききれないくらいの話をしたが、まだまだ僕も彼女も納得することはできなかった。でも今までずっと付き合ってきて、ここまで話ができていなかったことが問題でもあると思った。僕は彼女の気持ちが聞けて少しすっきりした。

二人の頭の中には
創価学会の話題において「どうせこの人には言っても無駄だ。
という思いがあったのだ。それが彼女の不安を増殖させたまま、僕だけが創価学会にかかわりのない日々に幸せを感じていたのだ。

二人のどちらかに「不安」が残ったまま結婚なんてできない。
僕と彼女はこれから会うたびに、もっと不安に思っていること全部話をしようと決めた。一人でいくら悩んでも答えは出ない。二人の事なのだから。

二人で納得するまで話し合って、二人で結論を出していくしかないのだ。
それが悲しい結論だとしても、なし崩しに「不安」を抱えたまま結婚するよりはマシだ。

今回の話し合いで僕が特に注意しなければならないと思ったのは

・感情的にならないこと
・喧嘩にならないこと
・お互いのことを決めつけないこと
・彼女の話が終わるまで全部聞くこと
・自分の考えを押し付けないこと


である。

まず二人の気持ちを「結婚」に向けて固めること。
そのためには結婚してからの「生活」を二人が安心して送るため、お互いの心の中に残っている「不安」を全部洗い出すこと。
それが必要なのだ。

やっと二人の結婚に向けてスタートラインに立つための準備が始められるような気がする。長い道のりになりそうであるが、自分で望んだ道である。
壊すのは容易く、守るのは困難な道である。

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