2008年03月
2008年03月11日
精神論と現実
更新がなかなかできずごめんなさい。
たくさんのコメントを見て、考えさせられることが多いです。
近況としては、彼女とは極めて良好な状態が続いている。
土日は毎週彼女と会っている。
寒い時期が続いたのであまりデートらしいことは少なかったが、
クリスマスに温泉旅行に出かけたり、結婚式用のドレスを試着してみたり、
楽しい日々を過ごした。
僕はどちらかというと人前であまりよくしゃべるほうではなく、おとなしいタイプである。
しかし彼女といるときは、何でも話せてしまう。
くだらないことや、どうでもいいことや、おもしろくない冗談でも彼女なら聞いてくれるし彼女も話してくれる。
最近は二人でいるときは笑いが絶えないのだ。
先日、少し暖かくなってきたので二人で植物園に散歩に出かけた。
なにげない自然の中で二人で歩いているだけで幸せをかみしめていた。
「もう春がくるねぇ」
そう話す彼女の表情は幸せに満ちていた。
二人での新生活がもうすぐはじまることも幸せの一因だ。
二人はお互いがかけがえのない人生の伴侶としてふさわしい存在であることを実感している。もう僕の中にあった不安や恐れは限りなく小さいものとなった。
幸せや希望の大きさに比べたら、不安なんて小さなものだ。
結婚後の彼女、そして創価学会について不安が全くないわけではない。
新居に仏壇を運び込まれることになっているし、新居に訪問にくる学会員もあるだろう。しかし、結婚後の学会活動は前回書いたように念を押しているのであまり心配はしていない。
今、二人が感じている幸せや希望は、創価学会の語る絶対的幸福とは質の違うものだ。
その大きな違いは「現実」と「精神論」の違いだろう。
創価学会の語る絶対的幸福は「精神論」そのものだ。現実の状況がどうであれ、自らの精神を「幸福だ」と錯覚させるものだ。「勝利」しか許されず、「絶対」しか認められない。創価学会で信心をすることによって得られる功徳とは「現実」の形を成さない、「精神世界」の幸福だ。
30才を超えて、結婚相手も彼氏もいない創価学会女子部員は「幸福」だろうか?信心ができて幸せなのだろうか。創価学会が原因で別れても幸せなのだろうか。
学会の先輩たちは口をそろえて信心も認めてくれないような相手とはどうせうまくいかない、早く別れて正解だと言う。これは何の責任感も持てない人の発言だ。
「精神論」と「現実」を明確に区別して考えるべきだ。
精神論とは「万人の幸福、世界の平和」「勝利、革命、哲学、絶対」などである。これは理想的な言葉で民衆を扇動する目的に使用されるだけの言葉だ。
現実とは「社会、人間関係、時間、金、仕事」などである。
個人が学会活動で得られるものは「功徳、絶対幸福、平和への貢献」など全て形のない精神論であるのに対し、それによって創価学会が得ているものは「財務(納付金)、新聞・雑誌部数、墓苑収入、組織票、権力、無数の労働力」など生臭いほどに極めて現実的なものである。
精神論は人を動かす。
自分が動かされていくうちに他人を動かすようになる。
それが無数に連鎖し、固定化された思考形態へと発展する。
現実に時間を拘束されたり、労働力を強いられたり、出費が発生したり
自分から消費されているものが何であるのかを常に意識しておくべきだ。
そして、現実の人間関係を悪化させてしまうものは何なのかを常に考えるべきだ。
破壊された人間関係は決して修復することはできない。
それがどんなにかけがえのないものであったとしても失ったものは取り戻せない。
僕たち二人が感じているものは現実の幸せだ。
僕たちは限られた収入と時間の中で、せいいっぱいの生活を送るだろう。
手を伸ばせば、そこには彼女がいる。
その瞬間訪れるこの感情を幸せというのだろう。
彼女が僕に対して深い愛情を持ってくれていることもわかった。
ずっと一方通行の感情なのかもしれないと思っていた。
彼女へは伝わっていた。
僕の思い。
ずっと悩んでいた苦悩が消えていくのがわかる。
夫婦として、家族としての二人に訪れる障害があることは知っている。
二人なら乗り越えられることも知っている。
二人には愛があるからだ。
たくさんのコメントを見て、考えさせられることが多いです。
近況としては、彼女とは極めて良好な状態が続いている。
土日は毎週彼女と会っている。
寒い時期が続いたのであまりデートらしいことは少なかったが、
クリスマスに温泉旅行に出かけたり、結婚式用のドレスを試着してみたり、
楽しい日々を過ごした。
僕はどちらかというと人前であまりよくしゃべるほうではなく、おとなしいタイプである。
しかし彼女といるときは、何でも話せてしまう。
くだらないことや、どうでもいいことや、おもしろくない冗談でも彼女なら聞いてくれるし彼女も話してくれる。
最近は二人でいるときは笑いが絶えないのだ。
先日、少し暖かくなってきたので二人で植物園に散歩に出かけた。
なにげない自然の中で二人で歩いているだけで幸せをかみしめていた。
「もう春がくるねぇ」
そう話す彼女の表情は幸せに満ちていた。
二人での新生活がもうすぐはじまることも幸せの一因だ。
二人はお互いがかけがえのない人生の伴侶としてふさわしい存在であることを実感している。もう僕の中にあった不安や恐れは限りなく小さいものとなった。
幸せや希望の大きさに比べたら、不安なんて小さなものだ。
結婚後の彼女、そして創価学会について不安が全くないわけではない。
新居に仏壇を運び込まれることになっているし、新居に訪問にくる学会員もあるだろう。しかし、結婚後の学会活動は前回書いたように念を押しているのであまり心配はしていない。
今、二人が感じている幸せや希望は、創価学会の語る絶対的幸福とは質の違うものだ。
その大きな違いは「現実」と「精神論」の違いだろう。
創価学会の語る絶対的幸福は「精神論」そのものだ。現実の状況がどうであれ、自らの精神を「幸福だ」と錯覚させるものだ。「勝利」しか許されず、「絶対」しか認められない。創価学会で信心をすることによって得られる功徳とは「現実」の形を成さない、「精神世界」の幸福だ。
30才を超えて、結婚相手も彼氏もいない創価学会女子部員は「幸福」だろうか?信心ができて幸せなのだろうか。創価学会が原因で別れても幸せなのだろうか。
学会の先輩たちは口をそろえて信心も認めてくれないような相手とはどうせうまくいかない、早く別れて正解だと言う。これは何の責任感も持てない人の発言だ。
「精神論」と「現実」を明確に区別して考えるべきだ。
精神論とは「万人の幸福、世界の平和」「勝利、革命、哲学、絶対」などである。これは理想的な言葉で民衆を扇動する目的に使用されるだけの言葉だ。
現実とは「社会、人間関係、時間、金、仕事」などである。
個人が学会活動で得られるものは「功徳、絶対幸福、平和への貢献」など全て形のない精神論であるのに対し、それによって創価学会が得ているものは「財務(納付金)、新聞・雑誌部数、墓苑収入、組織票、権力、無数の労働力」など生臭いほどに極めて現実的なものである。
精神論は人を動かす。
自分が動かされていくうちに他人を動かすようになる。
それが無数に連鎖し、固定化された思考形態へと発展する。
現実に時間を拘束されたり、労働力を強いられたり、出費が発生したり
自分から消費されているものが何であるのかを常に意識しておくべきだ。
そして、現実の人間関係を悪化させてしまうものは何なのかを常に考えるべきだ。
破壊された人間関係は決して修復することはできない。
それがどんなにかけがえのないものであったとしても失ったものは取り戻せない。
僕たち二人が感じているものは現実の幸せだ。
僕たちは限られた収入と時間の中で、せいいっぱいの生活を送るだろう。
手を伸ばせば、そこには彼女がいる。
その瞬間訪れるこの感情を幸せというのだろう。
彼女が僕に対して深い愛情を持ってくれていることもわかった。
ずっと一方通行の感情なのかもしれないと思っていた。
彼女へは伝わっていた。
僕の思い。
ずっと悩んでいた苦悩が消えていくのがわかる。
夫婦として、家族としての二人に訪れる障害があることは知っている。
二人なら乗り越えられることも知っている。
二人には愛があるからだ。