よくぞ生きてた、って感すらある小沢健二が
新AL発売にあわせて公式サイトで連載開始。
フリッパーズ>『犬』時代からの残党として
知らせを聞くなりサイトに飛んでいきましたさ。
季刊誌『子どもと童話』に寄稿と聞いていたので
子ども向けかと思いきや、初見の印象は
スーザン・ジョージかアマルティア・センもかくやという
アンチ・グローバリゼーション&資本主義批判。
第1話は、悪意や欲・欺瞞といった灰色の影に阻まれ、奪われ、破壊されて
世界が少しずつバランスを失っていく過程。
そして最後にひとさじの希望。
正直いって、そんなに読みやすい話ではない。
寓話的だったり、突如現実的になったり。
きっと、小沢健二がいま考えていることをそのまま投影したのだろう。
哲学とかそんな難しいことじゃなくって
あたりまえのことが当たり前に流れていく毎日と
そんな当たり前の生活が送れる幸せ。
世界の全てが美しく愛おしくすらある、平穏で満ち足りた日々。
それらが失われつつあることへの憂い。
数年前の広告批評の表紙で、
東大・赤門前に佐藤雅彦とふたり並んだ写真を鮮明に覚えている。それなのに、
どんな話してたっけと記憶をたぐろうとすると、そこはぽっかり穴が開いたまま。
前作『Eclectic』も、私の中であまり印象に残っていなくて
「球体」からの5年間の空白も加えると、ひと世代も経つ計算だ。
あの頃からずっと彼は、幸せについて考えながら
この世界を憂いていたのだろうか。
『うさぎ!』には”連載童話小説”という、耳慣れないタイトルが付されている。
『子どもと昔話』発行人で小沢健二の父でもある小沢俊夫氏によれば
昔話は極端に語る、だが、リアルには語らないのだという。
その意味で、この物語は「昔話」のマナーを逸脱しているともとれる。
しかしグリム童話に代表される昔話には(以前その残酷性だけが過剰反応されたが)
人間の業や本性、人生の教訓をも導き出す社会道徳本という側面もあった。
10年以上前の「小沢健二 2万字インタビュー」を読み返してみても
幼年期にグリム童話のコレクターでもある父親の蔵書を読みふけったことが
その後の「小沢健二」なる人格に多大な影響を与えたことは容易に推測される。
一方で、小沢俊夫氏はこう言う。
”『子どもと昔話』は子どもと昔話を愛する人たちの季刊誌です。”
小沢健二世代といえば昭和50年前後の生まれ。(私の中では)
父となり、母となり、会社と経済と世界を動かす人も増えつつある年代だ。
「うさぎ!」が呼び起こしたかったのは、
世間へのアンチテーゼだとかそんな大げさで声高なメッセージではなく
かつて、きっと今も、小沢健二の音楽を信じる人々とその子どもらと
憂いと希望を共有したかったのではないかと思う。
そして世界に広がった不協和音を、少しずつ調律し直したいのだとも。
新アルバム『Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学』は
全編インストゥルメンタルで、アンビエントな色彩とのこと。
あれだけ言葉を扱う術に長けていた彼が、言葉を廃して
音楽の根源的な力に表現を委ねようとしているのはもちろんのこと、
内的思考から、広く外へと何かを語りかけようとする姿勢も
大きな心境の変化のように感じられる。
”僕たちが居た場所は 遠い遠い光の彼方に
そしていつか全ては優しさの中に消えてゆくんだね“
”遠くから届く宇宙の光 街中で続いてく暮らし”
彼の詞に散りばめられたウキウキとかキラキラは、まるで光の欠片のようだった。
どこか遠くから射し込む光を、魔法の杖を使うかのように散ばせながら、
時折、その光がやってくるよりもさらに遥か彼方を見ているような
悟りというか諦念ともとれるような雰囲気を漂わせることもあって。
光の影にある闇も見える人だからこそ
あんな歌詞が書けるに違いないと思ったことがある。
”立ち止まり 息をする あたたかかな血が流れていく”
”何千の色 町の上を流れる
何十年も時がゆっくりと進む
僕らは歩くよ どこまでも行くよ”
光は、この些細な日常の中からしか生まれてくることを、彼はもう知っている。
いまの小沢健二が紡ぎだす曲たちは、そんな毎日の生活に
空気のようにふわりと寄り添う音楽なのだと期待したい。
そしてこう叫ぶのだ。
”LIFE is coming back!”
++
・・なーんて深読みしてみたけど、
実は父君に頼まれて軽い気持ちで書いただけだったりして。。
それにしても、最近この方筆頭に、周囲が黒うさぎづいてる感じ。
イースターの影響??