これも仕置き、だけどねぇ実はそうじゃ無かったんですって

2018年07月07日

神格化してはならない

昨日 ‘’オウム真理教の死刑囚” の死刑が執行された。


“地下鉄サリン事件” が起きた1995年頃は、それはそれは “オウム真理教問題” で、“メディア” は埋め尽くされていたと言って良い。


東京に住まいする “草香” にとって、“地下鉄サリン事件” は以外と身近で有った。


当日朝、出勤すると「地下鉄に毒ガスが撒かれた!」と、社内は騒然としており、皆テレビを見ていた。


朝起きてテレビを見る習慣が無いので、「何の事やら?SF映画じゃあ有るまいし。」と思ったのが、最初の感想だった。


そして、昼過ぎに遅れて出勤してきた “同僚” が、「毒ガスが撒かれた地下鉄の後ろの地下鉄に乗っていた。その為遅くなった。」と言うではないか!


東京の地下鉄は、朝の出勤時は二・三分置きに出る路線も有る。


“同僚” は、一・二分早ければ “サリンを撒かれた地下鉄” に乗車していたかもしれなかったのだ。


“事件” の瞬間は良く覚えていないらしい。


兎に角、急に地下鉄が止まり、暫くしたら 「直ぐ降りろ!急いで地上に出ろ!」と指示され、パニックにはならなかったが、皆訳も解らずオロオロと階段を駆け上がったそうだ。


そして、“毒ガス” が撒かれた事が知らされ、命に問題は無いが、今着ている服を出来るだけ早く着替えて捨てろと指示されたとか。


“地下鉄と言うトンネル” で繋がっているから、安心するなと言う事らしい。


“同僚” は泣く泣く服を棄てたそうだ。



また、‘’上司の息子さん” が “機動隊” に所属しているとの事で、「今、オウムの事件で、何処に居るのか解らない。連絡も無い。」と言っていた。


そして、ニュースに映る ‘’機動隊” の番号で「あぁ、息子は上九一色村 (オウム真理教の本拠地) に居るのか。」と解ったと話してくれた。 


街を歩けば、奇妙な名前の “選挙ポスター” が目に付き、テーマソングを流して走る “宣伝カー” ともすれ違う。


何とも言えぬ、世紀末な予感を感じさせる中、起きたのが “松本サリン事件” であり “地下鉄サリン事件” であった。



其を思い出させたのが、昨日の “死刑執行” である。


既に、“浅原彰晃こと松本智津夫” から精神的に離れている “死刑囚” がいるらしい。


しかし未だ ‘’帰依” している “死刑囚” が同時に私刑になったなら、その “死刑囚” にとって此ほど嬉しい事は無いだろう。


“殉死” とでも言えば良いのか?


“解脱” する  “指導者” と一緒に死ぬのだから。



そして、多くの “有識者” が、“危惧” している “遺体” の扱い。


“死刑囚の遺体” で、“宗教活動の拡大・資金集め” 等させてはならない。


前世紀の “問題” が、今世紀に目覚めて貰っては困る。


そう、“神格化” してはならない。



“神格化” してはならない、そう “草香” は思う。


多くの命が奪われたのだから。


多くの運命が狂わされたのだから。


多分もっと未来に、「何故、若者がオウム真理教に走ったのか?」その答えが出るだろう。



“社会の歪み” がそうさせたのだろうけど、あの “熱病” の様な ‘’一時期” は何だったのか?


そう多分、百五十年もすれば「そう言う事で有ったか。」と解る日が来るのでは無かろうか?



“時代劇” に付いて書くブログであるゆえ、昔話を思い出した勢いで、何と無く気になっていた “持論” を展開してみたいと思う。



“草香” は、“新選組” が好きである。


え~と、“オウム真理教” の話題の後に “新選組” の話題を出すとはけしからん!とお怒りの方々が多々いらっしゃる事は承知の上で、書かせて頂く。


“鳥羽・伏見の戦い” に敗れ、“甲陽鎮撫隊” を組んで戦に出るも、先に “官軍” に “甲府城” を取られ敗走してきた。


負け戦続きで、“下総流山” に “布陣” するが “官軍” に追い詰められる。

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“近藤勇・土方歳三” 最後の会話

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陣を出る “近藤勇” を慕い見送る若い隊士
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“官軍の陣地” へ向かう “近藤勇” の後ろ姿
以上 : 新選組血風録より


“新選組の生き残り” と “新しく集めた隊士” を “会津” に落ち延びさせる為に、“近藤勇” は “大久保大和” 名乗り “官軍” の軍門に降るのであった。



“官軍” に取って、偽名 “大久保大和” が、“新選組局長 : 近藤勇” である事は承知の事である。


確かに “新選組” には “同士” を多く殺された怨みが有るだろう。


しかしその頃、“近藤勇” は、“新選組” の働きを認められ “幕臣” になっている。


出自は “農民” でも、この時点では “武士” であります。


でも “切腹” と言う選択は無く “板橋宿” の外れで、“斬首刑” なのだ。

そして、何故 “板橋宿” だったのか?


江戸の街には “小塚原・鈴ヶ森” 等刑場は有る。


しかし、“板橋宿” なのだ。


たまたま、“近藤勇の処刑” を見た同郷の人間が、急ぎ足で帰って、日暮れ過ぎに「近藤勇死す!」の報せを届けたと言う。


その日の内にだ、瓦版より遥かに早いと言って良い。





“新選組局長 : 近藤勇の処刑” ともなれば、見物人は多かった事だろう。


‘’宿場” である、“旅人” も多かろう。

東へ北へ、人の口を伝い歩きながら「近藤勇死す!」と言う事実が伝わる。


“新選組” を武士の集団として心の拠り所にしていた “幕臣の残党” に、少なからずダメージを与えたる事が出来れば、投降する者も出てくるかもしれない。


抵抗する者を少なくする効果が幾らか有ると、考えたのでは?と思うのだ。



其よりも何より、“京都” では、今は“官軍” の自分達より強く、自分達の “同士” を切り殺していた “近藤勇”に、“切腹” などさせる気など無かったに違いない。


“罪人” 同様 “斬首” で充分である。


いや、それでも物足りない位だ!


“新選組局長 : 近藤勇” は農民から “幕臣” にまでなった偉い “人物” だなんて、後世に残す訳にはいかない。


“人切り魔” で充分である。


優秀な “尊皇の志士” を切り殺したのだから。


後々の世まで、“新選組局長 : 近藤勇” は、悪名高き人物でなければならない。



それが、“新選組の凶刃” に倒れた “同士” の供養だ。



え~っとぉ、“官軍の上層部の方々” が、まぁ此れ位の事を考えても変じゃありませんよねぇ。




でも、百年経つ前に “新選組” にはファンが出来て始め・・・。


そう、隠す程、露になるその魅力と申しましょうか。





“真剣” に活きていたから、その “生きざま” が “小説・ドラマ・ゲーム” になって、(ま、乙ゲーは何とも・・・) 今を活きている。



幕末、その最中に居た人は、どっちが何やら、何が何だか解らなくて、でも普通に暮らしてた人が多かったと思うのですよ。



そう、あの “時期” の様に。



でも、違う事が一つ。


今は、人の命を奪う事は、どんな事が有っても許されない。



其れさえ忘れなければ、大丈夫。



迷う事は無い。






あぁ、そう言えば、人の命は地球より重いって言った、政治家がいましたっけねぇ。
































caoxiang at 23:25│Comments(0)時代劇 | 時代劇ドラマ

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