2018年07月

2018年07月28日

改めて見ると、驚きの 「子連れ狼」

先日来 “時代劇専門チャンネル” では「子連れ狼」の放送が、始まっている。


“草香” も、幼き頃良く見たものであった。


が、改めて見ると、“人の記憶” とは案外あいまいなモノだと思ったのであります。


まず、“オープニング・ソング” が違っていた。


♪しとしとピッチャんしとピッチャん
    しとピッチャん

    (中略)

   ちゃぁんの仕事は、刺客ぞぉなぁ~♪

と、覚えていた。


とても印象的で、「子連れ狼」の “世界観” を現した “歌詞” であると思っていた。


何故 (中略) にしかたと言うと、うろ覚えだからであるorz。


それが、第一話が始まって流れた曲は、


♪ててごとははごと何処で待つ  ことこと
    いっこく橋で待てば良い
  
    迷子になったら何処で待つ
    ててごとははごと何処で待つ (以下略歴)♪

なのだよ。


調べたら “第一部・第二部” が、この “ててご橋” らしいのだ。

“♪しとしとピッチャん” は、“第三部” からなんだとか。


う~ん、すると “ててご橋” を聞いてる筈なのになぁ、覚えて無いんだなぁ。


それだけ、“♪しとしとピッチャん” は、“インパクト” の有る “曲” であったのだなぁと、染々思うのであります。


そして、もっと “インパクト” を再確認したのが、 “大五郎の頭” です。


現代では、“人権問題” になり兼ねない “髪型” をしているんです。


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“かつら” じゃあありません。


“地毛” です。


多分、撮影の度にこの形に “剃った” んだと思うんですけど・・・。


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どう見ても、この形の “かつら” を付けさせてる様には見えませんでしょ。


縛って “髷” にしている “髪の毛” を下ろすと、少しは “剃った所” が隠れるかも知れませんが、それにしたってねぇ。


“西川和孝 (以下 : 敬称略) ” の幼いながらの “役者魂” を見せて貰いましたっ!て感心してしまいます。


今、この様な企画で、子役の頭の毛を剃っちゃうプロデューサーなんて居ないだろうなぁ (笑) 。


まず、子役の親が許さないよね。





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「子を貸し腕貸しつかまつる」と書かれた “旗指物” をなびかせながら、“箱車” を押す “拝一刀 : 萬屋錦之介” 。


“冥府魔道” の “人生” を共に生きる “親子” の “行く末” は、“血” に濡れている。


改めて見ると、本当に救い様の無いドロドロの “人間関係” が繰り広げられている。

ただの “殺し屋の話” と見ていた “草香” は、本当に幼かったと、つくづく思うのですよ。



この世で恐いのは、幽霊でもなく、鬼でもない、それは、“人間” だよ。


そう言って居る様で、「子連れ狼」って怖い話なんだなぁって、ほんの “数話” 見直しただけで、“ぞぉって” している “草香” です。


あぁ、解っちゃいるけど、「 “大五郎”  毬を手に取るんだよ!」と、心の中で叫んでみても、“大五郎” は “胴田貫” の方にハイハイして行くんだよねぇ・・・。


どちらにしても、“行く末” に “幸せ” 等無いのだけれどね。



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“ちゃん” と歩む “道” は、例えどんな “道” でも、泣かずに歩んで行ける。


“大五郎” は、強い子です。


“ちゃん” の息子です。




















 


2018年07月21日

知ると怖い磔に付いて

以前「知ると怖い獄門に付いて」と、“仕置きの怖さ” に付いて書きました。


今回は “磔 (はりつけ) ” に付いて。


「市中引き廻しの上、磔・獄門に処す。」と聞いた様な聞かなかった様な?気がしません?


実は “磔・獄門” って “仕置き” は、無いんです。


“磔” にされたら、そのまま “磔台” に ‘’遺体” を張り付けたまま、“刑場” に三日は晒され続けたそうです。


“獄門” は、“打ち首” になった “囚人” の “首” を、“獄門台” と言う台に乗せて二夜三日晒す事でした。


何と無く “極刑” には、“獄門” が付き物の様な気がして、刷り込まれていたようです。


「市中引き廻しの上、磔」と「市中引き廻しの上、打ち首・獄門」が、正しい表現になるんでしょうね。

“打ち首” は、“牢屋敷内の土壇場” と言う “処刑場” で、“首” を斬られる事で、“江戸の街中” 引き廻された後に、“牢屋敷” に戻って “仕置き” されたようです。

“市中引き廻し” で、死ぬ前に “裟婆の空気” を吸わせて遣ろうと言う、“暖かいお恵みのお心遣い” な訳じゃぁ有りません。

“市中引き廻し” これも “仕置き” の一つです。




さて “時代劇” では、“磔” は二人の “執行人” に因って、左右から “槍” で目の前で刺す振りをした後に “両脇腹” を一突きされて御仕舞いになります。


でも、実際は “二・三十回” は “突き刺され” たんだそうです。


エグいですね。


滅多刺しです。


そして留めに “喉” に “一突き” したんですってよ、奥様。



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今正に “槍刺し” になる瞬間
(女囚で済みません : 悪そうな男の写真が撮れなくて (汗))




此れが、“鈴ヶ森・小塚原” の二つの “刑場” で、“衆人環視” の中、行われていたのです。


当然、処刑される “囚人の家族” も居た事でしょう。



「悪い事をしたらこうなるよ。」と、“見せしめの意味” が有っての “公開刑” なのですから、‘’見物人” は多い程良かったと思いますが、でも、エグいっ!



と、話を戻しましょう。


そう “磔” に成る程の “罪” を犯した “罪人の家族” はどうなるのか?


親の “死” を嘆いてばかりいられない “場合” が、有ったんです。


“死刑” になった “囚人の妻子” が、“遠島” になるからです。

“江戸初期” の頃の話です。

“江戸中期” から、 “主殺し・親殺し” に限って “磔・打ち首の囚人の子” が “遠島” になったとか。


“親” が、自分の知らない間に犯した “犯罪” で、“子供” まで巻き添えで “遠島” になっちゃう、この “理不尽” 。


「子供に迷惑は掛けられぬ!」と、踏み留まらせる為の “仕置き” だったのか?


ま、人を殺そうって瞬間に、そんな事迄は考えませんわな (笑) 。



「たぁ坊!済まん!」と心で叫び、“お店の主” の無体な仕打ちに耐え兼ねて、とうとう出刃包丁を手に、“主” を一突き・・・、してしまった “二番番頭” 。

なんて、居たのか?居なかったのか?、妄想の翼を広げますと、そんな “市井の人々” を思い浮かべてしまいます。


“御武家” では余程の事でなければ、“主殺し” なんて有りませんでしょ。




“親殺し” は、止めておきましょう。

こればっかりは、“人各々” ですもの。

“愛・憎み” 色々です。

“庶民も御武家” も御座いません。


無闇に、玩ぶモノでは有りますまい。




“長谷川平蔵” も言っているでは有りませんか。


「人は良い事をしながら、悪い事もする。そう言うモノだ。」と。


“人間” は、“綺麗事” では語られません。


だから、プツリと切れて、“殺す” のでしょうね。



剣呑剣呑






































 






caoxiang at 23:32|PermalinkComments(0)時代劇 | お仕置き

2018年07月17日

実はそうじゃ無かったんですって

“時代劇専門チャンネル” で “6月3日 : 測量の日” にちなんで、“伊能忠敬の映画・ドラマ” を放送した。


『映画 伊能忠敬ー子午線の夢ー [没後200年 伊能忠敬]』主演 : 加藤剛 (以下 : 敬称略) 

『TV長編 四千万歩の男 ~伊能忠敬~ [没後200年 伊能忠敬]』主演 : 橋爪功


共に2001年の作品である。


先日、‘’加藤剛” の訃報を知り、良い役者さんが又亡くなられたと嘆いたばかりである。


温めていたネタであるが、“加藤剛” に捧げたいと思い今日はこの記事を書く事にする。




さて、“伊能忠敬” と聞いて何と思うか?

学校で習った日本で初めて ‘’正確な日本地図” を作成した “偉人” 。


多くの方々がそう思うと “草香” は、考える。


しかぁし!


‘’前述の二作” を見ると、驚いた!


“伊能忠敬” は最初から、“正確な日本地図” を作成しよう等と考えていなかった。


“伊能忠敬” がしたかった事は、「子午線一度の正確な距離 (歩測に因って実測された) 」を、日本でいや、世界で一番早く導き出したいと言う事だったのである。


数年掛けて “伊能忠敬” が、‘’浅草司天台” から ‘’深川黒江町の自宅” まで歩いて測った ‘’距離” から計算して、漸く導き出した 「子午線一度の距離」。


しかし地球の大きさからすると、サンプルである “距離” が短すぎる。


だから、正しい ‘’距離” とは言えない。


と、師である “先生” に言われた。


もっと長い “南北の距離” を測って、計算しなければ正しい「子午線一度の正確な距離」は出ない。


それならば、“奥羽街道” 等が良いではなかろうか?


今、幕府は “オロシア” に攻められる “蝦夷東側の正確な地図” を求めている。


“幕府” に掛け合い、“蝦夷” に行く許可を得て “奥羽街道” を通り、そのついでに “南北の距離の実測 (歩測) ” をしてしまおう。


それならば、“幕府御用の旗” を押し立てて突き進む事も出来る。


グズグズ言う “幕臣” を、説き伏せて、ようやく “許可” を得た。


だから “蝦夷東側の地図” は、‘’副産物” の様なモノだったのです。


しかし、何だかんだ言う “幕府” から “幾ばくかの金子と何がしかの配慮” を頂いている以上、適当に済ます “伊能忠敬” では無い。


出来上がった “蝦夷東側の地図” は、“伊能忠敬” を「初老 (55歳) の農民上がり」と、小馬鹿にしていた “幕臣” が、目を見張る程の出来上がりであった。


そして、再び「子午線一度の距離」を出す。


しかし、西洋ではもう 「距離」が出ていると “先生” に言われる。



“伊能忠敬” が “蝦夷” に向かうには、“幕府の隠密と疑われたり”、“領内を測るのを妨害されたり” と、“苦労” は絶えなかった。


その “苦労の果て” に出した「子午線一度の距離」それが、すでに西洋では発表されていると知る。


“距離” は ‘’西洋” とほぼ同じ、しかし “最初” に導き出した “人間” にはなれなかった。


ここで、“伊能忠敬” の “目的” が消えた。






さて “伊能忠敬” は、幼い頃から “学問” がしたかったが、貧しくて出来なかった。


“伊能家” に “婿養子” に入ってからも、“学問” を我慢して “家業” に励んだ。


“家付きの妻” が亡くなって、漸く “学問” が出来る様になった。 


“隠居” し “名主” から退いて “深川” に移り住んでから “お栄” と言う女性と付き合い始めた。


“伊能忠敬” は “50歳” を過ぎてから、“第二の人生” を生き生きと暮らしていたのだ


“婿養子時代” に蓄えた “財産” は、“男一人学問三昧の暮らし” をするのに困らない程有った。


ずっと待ちに待った “学問” が出来る様になったのである。


そこで、追い求めたのが「子午線一度の距離」なのであった。








しかし “幕府” は、“目的” を無くした “伊能忠敬” を放っては置かなかった。


此れだけの “測量技術” を持つ人物を、“外様大名” 等に召し抱えられたら大変である。


次々と、彼方此方の “地図” を作成させる。



“測量隊” に “幕臣” が加わり、“測量道具” にも改良が加えられる。


そんな中、ずっと一緒に歩き続けた ‘’息子” を、“測量隊” から外した。




そして “測量” に出ると “何百日” と帰らない日々が続き、“地図作成” は何時終るか解らない。

何時まで待たせるか解らない生活を、終わらせる為に “お栄” とも別れた。






黙々と “伊能忠敬” は歩き続けた。




新しい “目標・日本地図作成” に向かって。



その結果、出来上がった “正確な日本地図” は、“幕臣” を驚かせた。


想像以上の出来上がりであったからである。


此れが外に出てはならないと、“門外不出” 扱いになってしまった。


“江戸城” の奥深くに、隠し仕舞われたのだ。


この “地図” が日の目を見るのは、“シーボルト” が “日本地図” を持ち出そうとした時である。


この “事件” の為に、“伊能忠敬” が確立した “測量術” が跡絶えた。


“地図” 持ち出しに、関わったのではと疑われ “伊能忠敬” の “関係者” が投獄されたからだそうだ。


‘’加藤剛” が演じる “伊能忠敬” の方が、“橋爪功” より “伊能忠敬” のイメージに近いかなぁと思ってみたり、“橋爪功” の方が案外実物に近いかなと思ってみたり。


一歩一歩歩く姿は “加藤剛” の方が好きだなぁ。



然れど、‘’喜怒哀楽” を隠さない “橋爪功” の “伊能忠敬” も又 “人間” らしくて好きだなぁ。



其々に良き “シーン” が有り、二本見て成る程と思う事も有ります。


もし可能なら二本まとめて見て頂きたい。


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“加藤剛 : 版” の “測量” シーン。

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寺の本堂を借りて ‘’地図” の作成中。
横の女性は “お栄 : 加来千香子” 。

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出来上がった “地図” を見詰める “伊能忠敬”




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“橋爪功 : 版” の “測量” シーン。

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青森迄追い掛けて来た “お栄” と “伊能忠敬”

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“蝦夷” を見詰める二人。
‘’お栄 : 高島礼子”








それまでの ‘’西洋が見た日本” は、余りにも不正確であった。

日本が見た “日本” も不正確であった。


其を自分の “足” を頼りに、“正確な地図” を作成した “伊能忠敬” は、“江戸時代の最先端を歩いていた人の一人” だったと思うのですよ。


“地球の大きさや重さ” を知る事が出来るから、「子午線一度の距離」を “測りたい” って、多分あの頃じゃ ‘’ブッ飛んだ人”だった筈。


“隠居生活” を、‘’只の御隠居” で過ごさないで、“大仕事” を成し遂げていなさる。


“長寿大国・日本” に暮らす “草香” 達は、“伊能忠敬” を見習わなければいけませんね。


何も “偉業” を成そうなんて思わなくても、子供の頃遣りたかった事を “始める” のも良いよね。


“無駄飯” 食って、長生きするだけが “人生” じゃ無い。


































2018年07月07日

神格化してはならない

昨日 ‘’オウム真理教の死刑囚” の死刑が執行された。


“地下鉄サリン事件” が起きた1995年頃は、それはそれは “オウム真理教問題” で、“メディア” は埋め尽くされていたと言って良い。


東京に住まいする “草香” にとって、“地下鉄サリン事件” は以外と身近で有った。


当日朝、出勤すると「地下鉄に毒ガスが撒かれた!」と、社内は騒然としており、皆テレビを見ていた。


朝起きてテレビを見る習慣が無いので、「何の事やら?SF映画じゃあ有るまいし。」と思ったのが、最初の感想だった。


そして、昼過ぎに遅れて出勤してきた “同僚” が、「毒ガスが撒かれた地下鉄の後ろの地下鉄に乗っていた。その為遅くなった。」と言うではないか!


東京の地下鉄は、朝の出勤時は二・三分置きに出る路線も有る。


“同僚” は、一・二分早ければ “サリンを撒かれた地下鉄” に乗車していたかもしれなかったのだ。


“事件” の瞬間は良く覚えていないらしい。


兎に角、急に地下鉄が止まり、暫くしたら 「直ぐ降りろ!急いで地上に出ろ!」と指示され、パニックにはならなかったが、皆訳も解らずオロオロと階段を駆け上がったそうだ。


そして、“毒ガス” が撒かれた事が知らされ、命に問題は無いが、今着ている服を出来るだけ早く着替えて捨てろと指示されたとか。


“地下鉄と言うトンネル” で繋がっているから、安心するなと言う事らしい。


“同僚” は泣く泣く服を棄てたそうだ。



また、‘’上司の息子さん” が “機動隊” に所属しているとの事で、「今、オウムの事件で、何処に居るのか解らない。連絡も無い。」と言っていた。


そして、ニュースに映る ‘’機動隊” の番号で「あぁ、息子は上九一色村 (オウム真理教の本拠地) に居るのか。」と解ったと話してくれた。 


街を歩けば、奇妙な名前の “選挙ポスター” が目に付き、テーマソングを流して走る “宣伝カー” ともすれ違う。


何とも言えぬ、世紀末な予感を感じさせる中、起きたのが “松本サリン事件” であり “地下鉄サリン事件” であった。



其を思い出させたのが、昨日の “死刑執行” である。


既に、“浅原彰晃こと松本智津夫” から精神的に離れている “死刑囚” がいるらしい。


しかし未だ ‘’帰依” している “死刑囚” が同時に私刑になったなら、その “死刑囚” にとって此ほど嬉しい事は無いだろう。


“殉死” とでも言えば良いのか?


“解脱” する  “指導者” と一緒に死ぬのだから。



そして、多くの “有識者” が、“危惧” している “遺体” の扱い。


“死刑囚の遺体” で、“宗教活動の拡大・資金集め” 等させてはならない。


前世紀の “問題” が、今世紀に目覚めて貰っては困る。


そう、“神格化” してはならない。



“神格化” してはならない、そう “草香” は思う。


多くの命が奪われたのだから。


多くの運命が狂わされたのだから。


多分もっと未来に、「何故、若者がオウム真理教に走ったのか?」その答えが出るだろう。



“社会の歪み” がそうさせたのだろうけど、あの “熱病” の様な ‘’一時期” は何だったのか?


そう多分、百五十年もすれば「そう言う事で有ったか。」と解る日が来るのでは無かろうか?



“時代劇” に付いて書くブログであるゆえ、昔話を思い出した勢いで、何と無く気になっていた “持論” を展開してみたいと思う。



“草香” は、“新選組” が好きである。


え~と、“オウム真理教” の話題の後に “新選組” の話題を出すとはけしからん!とお怒りの方々が多々いらっしゃる事は承知の上で、書かせて頂く。


“鳥羽・伏見の戦い” に敗れ、“甲陽鎮撫隊” を組んで戦に出るも、先に “官軍” に “甲府城” を取られ敗走してきた。


負け戦続きで、“下総流山” に “布陣” するが “官軍” に追い詰められる。

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“近藤勇・土方歳三” 最後の会話

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陣を出る “近藤勇” を慕い見送る若い隊士
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“官軍の陣地” へ向かう “近藤勇” の後ろ姿
以上 : 新選組血風録より


“新選組の生き残り” と “新しく集めた隊士” を “会津” に落ち延びさせる為に、“近藤勇” は “大久保大和” 名乗り “官軍” の軍門に降るのであった。



“官軍” に取って、偽名 “大久保大和” が、“新選組局長 : 近藤勇” である事は承知の事である。


確かに “新選組” には “同士” を多く殺された怨みが有るだろう。


しかしその頃、“近藤勇” は、“新選組” の働きを認められ “幕臣” になっている。


出自は “農民” でも、この時点では “武士” であります。


でも “切腹” と言う選択は無く “板橋宿” の外れで、“斬首刑” なのだ。

そして、何故 “板橋宿” だったのか?


江戸の街には “小塚原・鈴ヶ森” 等刑場は有る。


しかし、“板橋宿” なのだ。


たまたま、“近藤勇の処刑” を見た同郷の人間が、急ぎ足で帰って、日暮れ過ぎに「近藤勇死す!」の報せを届けたと言う。


その日の内にだ、瓦版より遥かに早いと言って良い。





“新選組局長 : 近藤勇の処刑” ともなれば、見物人は多かった事だろう。


‘’宿場” である、“旅人” も多かろう。

東へ北へ、人の口を伝い歩きながら「近藤勇死す!」と言う事実が伝わる。


“新選組” を武士の集団として心の拠り所にしていた “幕臣の残党” に、少なからずダメージを与えたる事が出来れば、投降する者も出てくるかもしれない。


抵抗する者を少なくする効果が幾らか有ると、考えたのでは?と思うのだ。



其よりも何より、“京都” では、今は“官軍” の自分達より強く、自分達の “同士” を切り殺していた “近藤勇”に、“切腹” などさせる気など無かったに違いない。


“罪人” 同様 “斬首” で充分である。


いや、それでも物足りない位だ!


“新選組局長 : 近藤勇” は農民から “幕臣” にまでなった偉い “人物” だなんて、後世に残す訳にはいかない。


“人切り魔” で充分である。


優秀な “尊皇の志士” を切り殺したのだから。


後々の世まで、“新選組局長 : 近藤勇” は、悪名高き人物でなければならない。



それが、“新選組の凶刃” に倒れた “同士” の供養だ。



え~っとぉ、“官軍の上層部の方々” が、まぁ此れ位の事を考えても変じゃありませんよねぇ。




でも、百年経つ前に “新選組” にはファンが出来て始め・・・。


そう、隠す程、露になるその魅力と申しましょうか。





“真剣” に活きていたから、その “生きざま” が “小説・ドラマ・ゲーム” になって、(ま、乙ゲーは何とも・・・) 今を活きている。



幕末、その最中に居た人は、どっちが何やら、何が何だか解らなくて、でも普通に暮らしてた人が多かったと思うのですよ。



そう、あの “時期” の様に。



でも、違う事が一つ。


今は、人の命を奪う事は、どんな事が有っても許されない。



其れさえ忘れなければ、大丈夫。



迷う事は無い。






あぁ、そう言えば、人の命は地球より重いって言った、政治家がいましたっけねぇ。