今年の森 千年の木――苦沙弥社長の読書ブログ

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マーク・マゾワー『国連と帝国』――植民地で生まれた国連とそのささやかな今日的意義


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マーク・マゾワー『国連と帝国』(20158月:慶應義塾大学出版会)を読んだ。昨年、マゾワーの著作が立て続けに翻訳出版されたもののうちの一冊だが、すべて購入して本棚に並んでいるだけだった。今回やっとそのうちの一冊を手にとった。本著は、イギリス帝国主義の衰退から第一世界大戦と国際連盟の成立、戦間期から国際連盟の成立とその後の変遷までを扱った二〇世紀史である。ウィルソン、ローズヴェルト、チャーチルなど国際連盟や国際連合の設立に尽力した偉人たちはもちろんだが、スマッツやネルーなどがこの歴史にどのように影響を与えてきたかが詳述してある。本著は、南アフリカの政治家であるスマッツと、インドの政治家であるネルーとが、この近代文明の典型的産物であるかのような国際組織にいかに影響を与えたのか、という観点から本著はむしろ記載されているのだ。それは、国際連盟や国際連合は植民地で――イギリス帝国の――誕生した、という新たな切り口を二〇世紀史に提示しているといってもいいだろう。

 

 ヤン・スマッツは、二〇世紀前半に活躍した南アフリカの政治家であり、国連憲章前文の起草者で、国際連盟規約と国連憲章とに署名を残した唯一の人物である。彼の政治家としての生涯のかなりの部分は、この二つの国際組織のために捧げられていたといっても良いのだろう。しかし反面、彼は熱心な人種主義者であった。南アフリカにおいてアパルトヘイトが始まったのは、まさに彼がその国の首相を務めた時代だったのだ。彼は、人類には肌の色の相違において能力に生まれながらの差異があり、その能力に応じた権利を与えることが国家の役割だと考えていた。そして、その差異から生じる文化的慣習の相違による摩擦を避けるためにも、居住地は別々に隔離されていたほうが良いと考えていたのである。その一方で、彼は、基本的人権を尊重する人類の使命について、かの国連憲章前文を起草していたのだが――。

 

 たしかにスマッツの理想はその生涯に現れている。一八七〇年にケープ植民地に生まれてケンブリッジ大学に学んだアフリカーナであった彼は、南アフリカに、本国イギリスさながらの個人の自由を重んじた文明的な生活圏を創出したかったのだ。ボーア戦争終結後の一九一〇年に南アフリカ連邦を成立させると、その後もアフリカーナのための自由主義的国家を南アフリカ植民地に拡大させるために尽力をしている。本著によると、彼は、南アフリカのケープタウンからケニアに至る広大な「大南アフリカ連邦」の設立を願っていた、とのことである。それは、彼にとって、イギリス帝国の、つまりイギリス帝国主義の最終的な形態の構成要素であった。すなわち、ロンドンから広がるイギリスの文明的な自由主義的精神は、世界各地において、自治的な地域共同体を形成し、全体は連邦としてその帝国に組み込まれるのである。それゆえ、彼にとって、この政治的活動は道義的なもの――イギリスの先進的な精神を世界中に拡張するという――であったのだ。

 

《ミルナーのもっと理想主義的で現実を見ない門下生の中には、強力な国家への信念を、「帝国政府」や、後には強力な「世界政府」をも唱導するところまで持ってゆく者もいた。けれどスマッツの観方は国への忠誠心に敏感であり、結局はより効果的であった。スマッツも、イギリスがリーダーシップを発揮するという考えにはまったく同調していた。けれど、スマッツは帝国の構成国が容認される必要を主張していた。そのために、第一次世界大戦中スマッツは、自治領の自治権・自主性がはっきりと容認されることを求めたのだった。帝国の防衛を統一化し、植民地の政治家にもっと肩代わりさせようと、ホワイトホイールは第一世界大戦前からその方向で動いていた。一九〇七年のイギリス帝国会議ではホワイトホールはカナダとオーストラリアを植民地とは呼ばなくなっていたが、一九一〇年には自治領という語はニュージーランド、南アフリカにも適用された。自治領側の観方は当別なものであった。ますます人種的になった入植者政治家連中は結束する必要をよく理解していた。ホワイトホールに疑念を抱きつつも、自治領の政治家たちは独力でやってゆく自信がなかった。たとえば、オーストラリアとニュージーランドはアジア移民の「黄禍」に援助もなしに対抗することはできなかった。

 新たな南アフリカ連邦についていえば、その地域を文明化するというミルナー精神の具現化においてヨーロッパ人の使命にとって最大の脅威は、黒人のナショナリズムではなく、白人間の不協和であった。ブール戦争がその危険を示していたのだが、一九一四年にヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると古傷をまた暴いてしまった。イギリス系住民はイギリスに与して参戦するという政府の決定を支持したが、ほとんどのアフリカーナは支持しなかった。スマッツは何とか国を一つにまとめ続けたが、戦争が高い理想の名の下に行われると示すことによってようやくそれを為し遂げたのだった。昔からの同盟関係とかパワーポリティックスだけでなく、より良い世界、ヨーロッパ文明の優勢をかたちにし維持する世界を創ろうとする道義的な戦いなのだ、と。スマッツにとって、第一次世界大戦は、ヨーロッパ内部の旧来の同盟関係政治がいかにやすやすとヨーロッパの外での文明化の使命を中断させるか、を示すものだった。戦争が終結したら、何らかの新しいかたちの国際的な取り決めがなされなければならなかった。(p38~p40)》

 

 それゆえ、スマッツは、どれほど激しく黒人に対しては人差別主義者として振舞ったとしても、――つまり、黒人を排除した白人による白人のための文明的な自治領の建設を望んでいたとしても――、ヨーロッパは人種的差別を排した統一的なものでなくてはならなかったのである。文明的なヨーロッパの平和統一なしに、黒人が大多数を占めるこの地域でアフリカーナのための自由主義的国家が建設維持されることはあり得なかったのだ。彼が、戦後国際連盟の設立を願って奔走する理由は、ここにある。本著によると、イギリス帝国主義の衰退の中でイギリス本国ではそれでもなお、一国主義的な覇権の維持に対する期待が優勢で、スマッツの主張する集団安全保障の考えは取り入れられなかった、という。それでも彼は、海を渡り、アメリカのウィルソン大統領の知己をうることでこれを達成したのだ。当時のウィルソンには恒久的な平和維持の願望はあったものの、その具体的な実現施策についてはスマッツらの構想を借りるしかなかった。スマッツが、アフリカ大陸の南端で構想した「連邦」――それはイギリス連邦を核としながらも、全世界に及ぶヨーロッパ人の優越的な文明化された自治領の連帯による国際平和という――なくして、国際連盟は生じ得なかったのだ。国際連盟とは、その意味でイギリス帝国の、したがって帝国主義の終末的な形態にほかならなかった。そこにおいて、ヨーロッパはもちろん、アメリカもイギリス帝国――それ自体の凋落は明らかなのだが――と協調して全世界の統治に当たるのである。

 

 付け加えるならば、その後戦間期においてヨーロッパでナチスの伸長が深刻な人種主義的分断をもたらした際も、スマッツは世論を導いてヨーロッパの統一を維持しようというイギリス側について参戦することを決めている。アフリカーナのための「大南アフリカ連邦」を夢見る彼にとって、ヨーロッパの統一、すなわちヨーロッパの平和とは不可欠の条件だったのである。それゆえ、彼は、第二次世界大戦終結時にも、国際連合設立のために尽力したのだ。彼は、世界平和のためには白人の強国が協調して統治に当たる必要があるとの信念から、チャーチルにソ連の大国の拒否権保持という提案を受け入れるように進言し、三大国参加という国際連合の基礎を作り上げたのである。それは、その意味で、もちろん一九世紀の帝国主義の延長にほかならなかった。つまり、国際連合もまた、国際連盟の焼き写しに過ぎなかったのである。それは凋落するイギリス帝国の終末的形態として構想されたものだ。もはやイギリス帝国の衰退は顕著であり、ヨーロッパの強国が――ここにはアメリカばかりではなく、ソ連も加わることになったのだが――協調することなしに、その支配は維持できなかったのである。

 

 

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 したがって、スマッツが国連憲章の前文に、基本的人権尊重という神々しいまでの文章をしたためたところで、それは白人にとっての人権に過ぎなかった。その意味で、スマッツには何ら矛盾はなかったのだ。だが、注意しなければならないのは、彼が起草した前文は若干の修正を経て全会一致で採択されたが、その時すでに、そうした人種主義的限定の枠は外されていたという点である。これが事実として白昼の下に晒されるのに、時間的猶予は全く必要なかった。一九四六年、第一回国連総会で、インドの代表である――したがってイギリス帝国の構成国であるはずの――ネルーが、南アフリカで繰り広げられているインド人に対する差別政策を非難し、国連総会で南アフリカに対する介入を求めたからだ。このことは、スマッツを仰天させたが、事態がここに至れば、結論はもはや見やすいものだったといえるだろう。世論は、そもそも植民地を保有していることが非難に値するとまでいうようなものに膨れ上がったからだ。結果的に、インド代表団の動議は勝利を収めた。国際連合は、この時、もはや白人による国際的な「連邦」の建設というスマッツの道義的な理念を、完全に失ったのである。

 

 その意味で、南アフリカは二度の国連の誕生に貢献したというべきだ。つまり、一度目は、国際連盟の――したがって、イギリス帝国が凋落していくプロセスにおけるヨーロッパ人による世界統治という帝国主義の終末的形態の――構想という点で、二度目は、国際連合の――したがって帝国主義の結果としての反植民地運動への転換の――契機という点で、である。この二つの決定的な意味で、国連は植民地において誕生したと言えるのだ。国連は――もちろんその前身である国際連盟も、また同様だが――、一九世紀の帝国主義なしにはあり得なかった。第一のものは、単純にその延長とさえいえるものだった。しかし、第二のものは、大国による帝国主義の延長として始まりながら、すぐに反転して反植民地運動の拠点となった、というのが本著の見解である。

 

 しかし、本著によれば、このような反転が起こりえたのは、国連に誕生当初から内在した曖昧性によっている。南アフリカに対する決議は言うまでもなく国連による内政干渉にほかならないが、設立当初の国際連合は、本著によれば、国際連盟よりもずっと国内管轄権内の問題に干渉することに慎重だったという。だが、この事情は極めて複雑だ。

 

筆者によると、そもそも国際連盟には、東欧の新小国に対して、それぞれの国がマイノリティを適切に扱っているかについて大国が監視する規則があった。これは、第一世界大戦がバルカン半島におけるマイノリティ問題に端を発したことの反省から取られた措置だが、言うまでもなく、これは大国による小国に対する介入主義にほかならなかったのである。しかし、この介入主義は強制力を伴わなかったがゆえに、ナチズムの登場とともに形骸化し、やがて国際連盟そのものが停止するに至った。それとともに、ヨーロッパでは、――大量の移民や難民が深刻な社会問題となる中で――、法治主義によってユダヤ人問題を解決するのではなく、移送によって、つまり別の土地への隔離によってこの問題を解決しようという世論が優勢となった。法治主義は、ナチズムによるユダヤ人殺戮を、その結果として生じた移民や難民による諸問題を、解決し得なかったからである。したがって、結論から言えば、国際連合が設立された当時、世論はもっぱら、マイノリティ問題の解決を移送による新国民国家の建設という手段に期待しており、人権尊重というような法治主義的解決は軽んじられていたのである。こうした趨勢が、パレスチナにおけるイスラエル建設を帰結したのは、言うまでもない。それゆえ、国連の――したがって、イギリスやアメリカなど大国の――マイノリティ対策とは、人権思想に基づいて介入主義的施策をとることではなく、むしろ該当するマイノリティを分離し、移送して新しい国家を建設させることにあったのだ。こうした大国の論理、言い換えれば帝国主義的施策によって当時はマイノリティ問題の解決は企図されていた。だが、突き詰めて言えば、これは人権の軽視、自然法的な法治主義の軽視を意味する。筆者によれば、一九五〇年代から六〇年代にかけてアフリカで次々と新国家が誕生したのは、国連が人権思想を重視していたからではなく、むしろそれに冷淡だったからなのだ。国連は、ひたすら事務的にその承認手続きをこなし、加盟国は膨大に膨れ上がる結果となった。

 

もちろん、今日となってみれば明白だが、こうした姿勢がマイノリティ問題を解決することはない。ネルーをはじめとしたインド代表団が、南アフリカにおけるインド人を隔離する法案に反対して国連総会で議決を求めたのは、分離によって人種的差別主義を固定化することで問題を解決しようとするのではなく、スマッツが白人に限定しようとした基本的人権をその本来的な意味として回復することによって、マイノリティ問題を解決しようとしたからだ。こうした解決法は、人権を重視する反面で同一民族内における同質性の重要性を軽視しており、感覚的な反発を――文化的な不快感を――招来せざるを得ない。だが、こうした不快感の中で緩やかに同化を推し進めていくしか、マイノリティ問題の解決法はありえないのである。実際、基本的人権の尊重は、国連憲章の冒頭に高らかに謳われている。抜本的な解決法として、国連総会がネルーを支持するのは、今日的観点からすれば当然のことであった。膨大に膨れ上がっていく旧植民地を基盤とした新加盟国を抱えながら、国連は、いずれその設立段階にあった帝国主義的企図を放棄せざるを得なかったと言えるだろう。国連は、設立当初から、そうした二面性、曖昧性を抱えていたのである。ただスマッツにとって残念だったのは、その時の到来がいささか早すぎて、彼自身の存命中であったというだけのことだというべきだった。

 

しかし、ともあれ、重要な問題が残されている。ネルーの意思は、自然法的根拠によるマイノリティ問題の解決という本質的な手法への回帰を見せたとはいえ、筆者が指摘するとおり、この議決は必ずしも厳密に法的な審議によってなされたものとは言い難いかったからだ。というのも、この決議が、国連憲章第一章第二条「国内管轄権内にある事項についての制限条項」に触れる可能性は少なくないからである。前述したように、国連は国際連盟よりもずっと内政干渉に慎重だった。一九四八年に国連は内政干渉を不可避とするジェノサイド条約を採択したが、本著によれば、ユダヤ人法律家ラファエル・レムキンの――ジェノサイドとは彼の造語である――努力にもかかわらず、これも骨抜きにされている、という。国連は、少なくともこうした点においても、曖昧性を抱えていたといえるだろう。

 

 

 

たしかにナチズムによる迫害を逃れてアメリカに亡命したレムキンからしてみれば、国家がその国民の――ユダヤ人のようなマイノリティであっても――人権に対して深刻な侵害行為を行った場合、締結国はこれが国際法上の犯罪であることを確認し、これを防止しし、処罰するというジェノサイド条約は、不可欠のものであったに違いない。もしも、国家が国民の人権に対して深刻な侵害を犯したなら、誰がその国民を守るというのだろうか。基本的人権には、革命権が含まれる。しかし自国民による革命の成就のほかに、そうした国民を救う手立てはないものなのか。こうした条約なしに、そもそもナチズムを防止することができたのか。ジェノサイド条約はこうした素朴な――しかし深刻な――疑問から発生している。

 

だが、一方でたとえば革命権については、それが基本的人権の一つであることについて法律家の間で異論が少ないにもかかわらず、それが明記されている憲法は少ないし、明記すべきだとする憲法学者も多くない。というのも、これを、擾乱や反乱のようなものと区別するためには、革命を実行する――したがってその主体は国民である――憲法制定権力についての明確な定義が不可欠であり、これを憲法に明記することは、翻って国民の人権を守るための国家の体制を規定するという立憲主義のコンセプトに反してしまうおそれが高いからである。それゆえ、革命権ないし憲法制定権力は、それが自然法的には実在するにもかかわらず、憲法には明記されないのである。そして、言うまでもなく、こうした理論的な問題は、ジェノサイド条約にも内在するのだ。

 

こうした理論的な問題がいかに歴史的現実に反映してきたかという点については、つまりこうした内政干渉がどのようなことを帰結してきたかについては、今日では我々はよく知っている。今世紀初頭に発生した――アフガニスタンに対するものであれ、イラクに対するものであれ――人道主義に基づいた武力介入は、悲惨な結末しかもたらしていない。たとえ人道的見地から実施されたはず――当該地域に平和で民主的な政府を築くという――の介入でも、結果的には最も甚大な被害を被っているのは当該地域の住民であり、彼らの人権であることは間違いないのである。ただしここで注目しなければならないのは、この地域の人権に甚大な被害をもたらす帰結となったのは、介入主義が、結果的に、その地域に国家をなくしてしまうこと――つまり国家権力の不在――の結果だという点である。内政干渉の結果、その地域の国家権力が崩壊し、それに代わる強力な国家権力を造成し得ないとき、その地域の住民に甚大な被害をもたらしているのである。

 

このことは、理論的には当然の帰結である。というのも、基本的人権とは、近代国民国家とともにあったからだ。立憲主義によれば、人権を社会的勢力から守るために近代国民国家は建設されたのであり、そのとき個人はそれゆえ社会的勢力という生活基盤を喪失した。このことは、社会的勢力という生活基盤の喪失の代償として、国家が建設され、それによって初めて人権は尊重されるようになった、ということを意味する。したがって、国家のないところに人権はなく、人権のないところに国家はない、というのが立憲主義の、したがって近代国民国家のコンセプトなのである。

 

このことは、歴史的現実としては、無国籍者という究極的な問題において発現する。これを戦間期のヨーロッパにおける人種主義の問題として究明したのは、『全体主義の起源』のアーレントだ。本著における筆者と同様に、彼女が戦間期の移民や難民、そして無国籍者の問題を刻明に追究する中で発見したのは、無国籍者には他国に国籍を移そうにもそもそもその国籍がない、という単純な事実であった。このことは、無国籍者は、いかなる国の法律によっても合法的に救済し得ない、ということを意味する。その意味で、無国籍者問題はマイノリティ問題の極北の位置を占める。それは、いかなる国の法律によっても――憲法によっても、救済できないからだ。無国籍者には、国家がないだけではなく、それゆえ人権がないのだ。この単純な事実が、ナチズムの吹き荒れる戦間期のヨーロッパにおいては夥しいほど発生したのである。

 

無国籍者は、今日では、ミャンマーに居住していたロヒンギャと呼ばれるイスラム教徒の問題として取り沙汰されている。仏教徒が主体であるミャンマーにおいては、ロヒンギャはことあることに差別的取扱いを受けていたとされるが、一九八二年の市民権法によって、正式に国籍が剥奪された。そのため、ロヒンギャの多くは無国籍者であるとされる。国籍を剥奪したミャンマー政府は、インドネシアやマレーシアなど周辺各国を始め、アメリカや日本などから厳しい非難を浴びているが、ロヒンギャはバングラディシュからの不法移民であるとの立場を固持している。現在、ロヒンギャは、ミャンマーでは住むところを奪われて難民化しているものの、バングラディシュ、タイ、マレーシア、インドネシアなど周辺各国はいずれも受入を拒否しているのだ。

 

国家が失われたとき、――あるいは国家権力が喪失したとき、その場所において、住民たちの人権がいかにして守られるべきかという問題は、他にもある。今日のシリアからイラクにかけての広範な地域で発生している事態も、ある意味でこれと同様の事態だ。アメリカの武力攻撃によって――それが本当に人道的見地から実施されたものであるかどうかはかなり疑わしいが――崩壊した現地の政権の後には、イラク住民の人権を尊重するいかなる権力も誕生し得なかったのだ。結果的にISと呼ばれるテロリストがその地域を拠点に活動することとなり、住民の生活基盤は――もちろん彼らの基本的人権も――完全に破壊された。今日、我々が熟知している武力介入の結末とは、こうしたものだ。

 

したがって、マイノリティ問題を解決することは、実際には、ジェノサイド条約のような介入主義的手段によっても困難であると言える。だが反対に、人権の尊重を訴えるために、国際人権裁判所のような機関を創設して法的手段を用いたところで、厳しい内政干渉のほかに、ナチスのような政権に対してどれほど実効性を発揮し得るだろうか。こうした疑問は、国連がジェノサイド条約を議決する際にも繰り返し蒸し返された議論であった。

 

 

 

筆者は、当時の議論について以下のように書いている。

 

《そもそもジェノサイドについての条約を急ごうとする国連総会の判断が、介入主義が新たな国際機構でもけっして消滅していないことを示していた。もっとも、そこで持ち出された介入は、この方面では滅多になく不十分な介入のことだったし、レムキンの仲間の法曹家たちの多くがその価値について覚束ない思いをしている介入だった。一九四七年にジェノサイド条約の第一稿をレムキンと一緒に作成した者のなかにさえ、法によってマイノリティを保護するのは時代遅れだと思っている者がいた。たぶん、集団でなく個人の「人権」に対する世界に現れた関心を利用し、世論形成に頼る方が良いと思ったのだ。この考えが、「世界人権宣言」の背後にあった理論的根拠だった。素晴らしい最近の研究成果に表されているように、一九四八年にはかくて、一方ではレムキン、他方では世界人権宣言起草者の間での剥き出しの衝突が見られた。部分的には、この衝突は、アメリカ合衆国は――上院はすでに外国が内政、とりわけ南部のことに喙を容れるのに神経過敏になっていた――仮にジェノサイド条約のような拘束力のあるものに面と向かうと、将来の人種にとっての盟約をきっと批准しないだろうという起草者たちの懸念から生じていた。(p140p141)》

 

理論的には、レムキンの言い分は重要である。マイノリティの、したがって少数民族の集団の権利とは、狭義の意味での人権――個人の権利――に回収することはできない。というのも、彼らが「ユダヤ」であるのは、彼らが自らの個人の権利としてそう主張しているからではなく、他人によって、すなわちナチスを始めとした政策当局によってそう指定されているからだ。「ユダヤ」という集団であることは、本来は、彼らの個人の権利とは一切関係を持たない。それゆえ、必要であれば、マイノリティは、集団権を根拠として保護対象にするしかないからである。このことは、今日の多くの「イスラム」に関する問題とも同一である。彼らは、通常に生活するイスラム教徒であっても、他人から「イスラム」であると指定されることによって、深刻な人種的差別を受けているからだ。

 

注意しておきたいのだが、マイノリティ問題が、帝国主義がもたらした人種主義的帰結の一つであるというのは、このためである。帝国主義は、その海外侵略において、直接支配しにくい地域の住民たちをつねに何らかの部族と呼び、その首長に統治権を付与することでその地域の支配を進めてきた。多くの場合、その部族の同一性は、血縁でもなければ生活習慣でもなかったのだ。それは、支配者の都合による恣意的な名称に過ぎなかった。だが、列強各国が部族地域を支配していく過程で、部族は同一性を、つまりナショナリティを帯びたものに変質していく。このことは、他の部族と間における人種主義的優越性や劣等性を支配者側が作り出すことによって、あるいは彼らの居住する地域にひそむ自然資源に関する特権を支配者側が付与することによって、形成されてきた。そうした支配施策によってはじめて、部族は帝国主義的支配に適した同一性を、ナショナリズムを形成することができたのである。だが、問題なのは、多くの場合、これらのナショナリズムは、帝国主義的支配の恣意性によっていたため、人種主義的ヒエラルヒーを要素として含んだものであらざるを得ないという点だった、と言える。それが人種的差別主義を帯びているのは、第一にそれら部族が本国の国民と同一資格を持ちえないという点だ。また第二に、他の部族との関係でも、ときには支配者が特定の部族に特権を付与することによって、人種主義的優越性もしくは劣等性が形成されていた。これら多数の部族が、植民地内部に居住していたため、その地域が仮に独立国家となったあとでも、これら人種的差別主義はマイノリティ問題として存続したのである。それゆえ、彼らが強いナショナリズムを帯びれば帯びるほど、この人種主義的問題は顕著になった。

 

したがって、マイノリティ問題の根本には、アイデンティティ(所属)を他人によって強要されること、という問題が潜在しているのである。この問題こそは人種的差別主義という問題とパラレルなのであり、マイノリティ問題の根源である。アイデンティティを強要することは暴力(戦争)を生む、というセンの警告は、恐らくこの根源的問題に対する彼なりの回答だ。「イスラム」というアイデンティティをヨーロッパに居住するごく普通のイスラム教徒に強要することは、テロとの戦争を激化し、問題を解決不能な状況まで落としめてしまう。センは言う。あらゆる個人にとって、アイデンティティは複数ある。理性はその都度アイデンティティを選択できる、と。

 

たしかにマイノリティ問題は、したがって集団権は、個人の権利に還元できない。センが、基本的人権とは別に人間の安全保障という概念を提起するのもこのためだ。人間の安全保障とは、心身障害者や貧困者などの社会的弱者を対象にして、人権という普遍的概念では――つまり法律では――救済し得ない個別的な特殊事案についての対処を要求するものである。だが、この社会的弱者には、他人からアイデンティティを強要されるマイノリティもまた含まれるであろう。たとえば、日々の食事に窮している彼が国民として給食を支給される法的権利を付与されていたとしても、「イスラム」または「黒色人種」であるという理由で支給を拒否されるとしたら、それはもはや一般的な法律では対処しきれないからだ。ジェノサイドの問題は、こうしてセンの言う人間の安全保障の問題として対処される必要がある。だが、注目しなければならないのは、センが望む抜本的解決法とは、レムキンが望んだ介入主義的なものとはやや違っている、という点だ。人間の安全保障は、たしかにときには内政干渉によって達成されるべきかもしれない。その意味で、ジェノサイド条約の意義は全否定されるわけではない。だが、抜本的解決は、センにとって、集団権の保護ではなく、個人の在り方なのだ。個人にとって、アイデンティティは複数あるのであり、必要に応じてそれを選択できる、という考え方がそれである。何よりも、それは他人から強要されるものではないのである

 

 

 

結果的に見れば、マイノリティ問題に関するレムキンの介入主義的解決法は、あまり妥当ではなかった、ということになるのかもしれない。もちろん、人間の安全保障の観点からも、介入主義的施策が必要とされることも少なくない。とくに、現在のように、不確実性とリスクに個人が無防備なまま晒されている時代においては、そうだ。ましてや無国籍者のような社会的弱者に対する措置においては、不可避的な考え方ですらある。だが、人道主義的介入が国家権力を脆弱化し、結果としてその地域の住民をいっそう厳しい現実に突き落としてしまうことが多いことも、紛れのない事実なのだ。国連は、この点についても、甚だ曖昧な行動を選択してきた。実際、南アフリカのアパルトヘイトは熾烈な非難を浴びながらも、それ以上の介入を国連が選択することはなかったし、南アフリカは除名されることもなかったのだ。そして、レムキンに対立した「世界人権宣言」を重視する法律家たちが望んだように、人権思想の普及が、やがて南アフリカからアパルトヘイトを撤廃したのである。

 

本著の最後に筆者が書く通り、国連の歴史は失敗の歴史として理解したほうが真実に近い。イギリス帝国主義が衰退する中でそれを維持しようとした国際連盟は、ほんの僅かな期間しか存続しえず、ナチズムの暴力の前に全くといっていいほど無力であった。国際連合もまた、当初の三大国による平和は数年しか続かず、長い冷戦の時代へと道を譲った。拒否権はたしかに三大国の参加をもたらすには十分だったが、そのために安全保障上の解決策は国連の手から奪われ、安全保障理事会は空転した。だが、安全保障理事会が硬直している間に、国連総会はこれまでの帝国主義戦争の根源をなしてきた人種的差別主義にメスを入れ、反植民地運動の重要な拠点となったのだった。しかしそれとて、国連の行動は曖昧性に満ちたものでしかあり得なかったのである。

 

実際、本著で述べられているように、戦後の安全保障を実現してきたのは、北太平洋条約機構(NATO)のような地域的な集団安全保障条約の存在にほかならなかった。国連は全くと言ってもいいほど無力であったのだ。しかし、それでも国連から脱退する加盟国がなく――インドネシアは一度脱退したが翌年すぐに復帰した――、存続し続けてきたのは、緩い加盟条件ゆえに――それは前述したように人権思想に冷淡であったがゆえに新国家を次々と承認したという理由と、新国家を冷戦のために敵側につかせたくない米ソが次々と承認したという理由によっている――、結果的に、大国と小国の区別なく諸国家・諸民族の声を代弁し、敵味方とに関係なくそれらの代表団と会談の機会を与えてきた、という国連が果たしてきた粘り強い機能のためである。

 

《もっとも、さらに衝撃的なことは、述べられることは概して少ないとはいえ国連がそうした失敗によって枷をかけられてこなかったことだ。これは、国連が、そうでなくても多くを負うている前身の国際連盟と異なる点である。ヨーロッパの講和の取り決めにへその緒でつながっていた国際連盟は、ナチスの勃興とともに消滅した。しかし、第二次世界大戦終結の一九四五年以降のヨーロッパの和解を守る責任を国際連合に負わせることはできなかったし、いずれにせよ、基本的な意味合いからも、ドイツの「分割」が平和の基礎となった。国連憲章に見られる曖昧さと国連内部からの行動主義とが柔軟さと適応性をもたらしたように、国際情勢の只中にいないということが存続をもたらしたのかもしれない。実績として、国際連合は国際連盟の三倍以上の長きにわたって存在し続けてきたのである。国連は、国連憲章からはうかがいしれなかった機能だが平和維持のための機関を通じて、また国際連盟から引き継いだ専門機関を広く拡大することによって、国際社会に介入してきたのである。それら機関の働きだけでは国連を国際的な体制の中心に戻すことはできないとしても、そうしたことがあってこそ、国連は国際政治のいわば生態系として重要な要素となっているのである。大規模な改革は国連の世界情勢における役割を全面的に変質させることを目論んでのことだという最近見られる主張は、よって注意して眺める必要がある。改革にはまっとうな理由がいくつもあるだろう。けれど国連に、国際法、人権の強化、民主主義的価値観などの点で革命を目論むように呼びかけても、おそらく失敗に終わるだろうし、九・一一の後できわめて厳格な反テロ立法を調整するうえで国連が果たした役割が何らかの指標となるなら、失敗に終わるだろうことはむしろ良かったのかもしれない。(p217p218)》

 

 実際、今後においても世界の安全保障上の問題について、国連が大きな役割を占めることはないだろう。国連が、つまり帝国主義の延長としての大国の協調による世界統治が望まれたのは――スマッツが望んだように――、帝国主義戦争による対立を植民地に持ち込まないため、すなわち無関係な地域にそれを拡大させないためであった。だが、今日、そうした植民地、遠隔地はもはやなくなっている。その結果、帝国主義的な覇権争いはテロリズムへと、テロとの戦争へと転化しているのだ。このことは、今日的な意味での帝国主義戦争は、大国の外部における野蛮人の住む大陸においてではなく、いわば内在化して、先進諸国の内部におけるリスクとして存在する、ということを意味する。今日的世界においては、安全保障は、遠隔地における平和や統一を望むものではなく、まさに先進諸国の内部の問題として存在するのだ。このことが、人種的差別主義として同時に存在する問題であることは、指摘するまでもない。その上で注意したいのは、遠隔の他国であれば革命権やジェノサイド条約によってその問題を解決する構想もありえたのだが、そうした他国に対する介入主義的施策によっては、自国内部のテロリズムに対処できるわけではないのは明らかだ、という点だ。それゆえ、今日的な解決策とは、政権を転覆させるような介入主義というよりは、むしろ、人間の安全保障のような――あらゆる個人の権利を尊重するために、特殊な状況に置かれた人びとに対する対処法を個別に検討していくような――細やかな配慮を施しつつ、健全なナショナリズムを各国内に育むことによるのである。

 

これは集団権によってマイノリティを保護するというよりは、個人の権利について人権思想が緩やかに拡大していくのに応じて、マイノリティ問題を解決するというかつてのレムキンとの対立者の考え方と相通じるものがある。極力、内政干渉を排し、むしろ健全な――他人に決してアイデンティティを強要しないような――ナショナリズムを育成することによって、マイノリティ問題を解決していくことを望んでいるからだ。革命権やジェノサイド条約による解決が、基本的人権を背景にした世界市民主義とでもいうべきインターナショナリズムを前提としていたとするならば、この手法は各国々の内部におけるより高度なナショナリズムの醸成――人権思想を導きの糸とした――に期待するものである。このことも、帝国主義戦争が遠隔地における植民地争奪戦という一九世紀的な形態から、先進諸国の内部におけるテロとの戦争へと転化したことに、対応している。

 

 スマッツの希望もレムキンの希望も、今日では過去のものに過ぎないということになるだろう。だが、帝国主義が形態を変えて存続している限り、人種的差別主義に関する諸問題は存続するし、それが平和を――かつての大国による戦争のようなものであれ、今日のテロリズムであれ――脅かす根源であるという事実は現在も変わらない。驚くべきなのは、こうして植民地が地球上から姿を消したあとでも、植民地で誕生した国連という国際組織が、その役割を失わず、むしろ世界情勢の変化に適応してその思想と役割を柔軟に変えてきている、という事実だろう。国連に期待されるのは、もはや世界連邦の樹立による国際平和でもなく、革命や介入主義的干渉による人権保護でもない。ましてやイギリス帝国の終末的形態などでは、さらさらありえない。今日の国連に期待されるのは、小国と大国とにかかわらず国際社会の声を交換しつつ、人間の安全保障とでもいうような細やかな配慮によって、社会的弱者の人権を個別的に擁護していくような――そして、そうしたささやかではあるが本質的な活動を通じて、最終的には、テロリズムの根源である人種的差別主義を撤廃していくような活動なのだ。というのも、こうしたささやかな活動こそが、恒久平和の基礎となっているという事実を、我々は痛切なまでに実感しているからである。




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リンダ・グラットン&アンドリュー・スコット『LIFE SHIFT』――100年ライフが変えてゆく世界システム


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LIFE SHIFT(ライフ・シフト)
LIFE SHIFT(ライフ・シフト) [単行本]

リンダ・グラットン&アンドリュー・スコット『LIFESHIFT』(201611月:東洋経済新報社)を読んだ。副題の「100年時代の人生戦略」の通り、長寿化が進む中で、今後、個人の人生設計がどのように変わっていくかをかなり体系的に表した著作である。体系的にというのは、近頃喧しく取り扱われている高齢者介護、年金や健康格差などの問題にとどまらず、100年に及ぶ生涯を経済的にはもちろん、精神的にも楽しく暮らしていくために不可欠な知識やスキル、仕事上の人間関係、健康、旧来の友人関係や家族、そしてそれらに留まらない幅広い人間関係など無形の資産すべてを取り扱ったものだという点である。とくに、知識やスキル、仕事上の人間関係は生産性資産と呼んでおり、職業上の経済活動に不可欠だというのは見易いところだろう。だが、それにとどまらず、健康、友人や家族――これは活力資産という――、変身資産と呼ばれる異業種にまたがる幅広いに人脈やアイデンティティにも議論の幅を広げ、これらの無形の資産が100年に及ぶ生涯を幸福に送っていくために、いかに相互に関連しあっていくかという点の論述は、極めて魅力的だ。

 

筆者の言うように、今日の議論は、あまりにも老後資金や年金問題など金銭的資産に偏りすぎていて、むしろ、金銭的資産を生み出す潜在的な能力や、それによって成し遂げられる成果に対して無頓着でありすぎている。それが長寿という恩恵に対して、暗く、残忍なまでの心象を与えてしまう原因となっていることは、間違いない。だが、おそらく、筆者が予言しているように、多くの人びとはそうした長寿化という問題に対して、前向きに取り組み、それなりに適切な――したがって、十分とは言えないかもしれないが、それなりに幸福な生活を送ることになる――適応行動を選択していくものなのだ。それが、旧来の制度や習慣に阻まれ、遅々として進まないとしても、そうなのである。そうした個々人の活動を推進していくためにも、本著で言うところの、生産性資産と活力資産、変身資産という無形の資産がいかに金銭的資産と結び付き、我々の幸福な生涯を形成していくかについて理解を深める必要がある。本著はそのための良好な啓蒙書だ。

 

だが、本著を読んだ動機は、実は以上の事柄に留まらない。長寿化という問題は、現行の世界システムの移行期において、甚大な破局を回避しつつも、新たなシステムを準備するという点で――それをより望ましいものにする――、決定的な要点を成している、と考えるためだ。現行の資本主義的な世界システムが、世界中に前近代的な半プロレタリア世帯が乏しくなっていくがゆえに、利潤率の低迷に苦しみ、近い将来に終焉を迎えることは、ほぼ間違いない。だが、利潤率の低下が金融資本の増大をもたらし、それが金融恐慌を招くしかないとするならば、また、激烈な企業間競争が保護主義的政策の結果、国家間競争へと転換し、長期間の大規模な戦争に至るしかないとするならば、その後誕生する世界システムは必ずしも望ましいものとは言えないだろう。そうした甚大な破局はかえって権力を強化し、それを維持するシステムを作り上げるからだ。数百年前、現行の世界経済システムもそうして誕生したのだ。その後も、度重なる危機はあったものの、すべて破局は権力の強化を帰結してきた。リーマン・ショックはもちろん、東日本大震災も例外ではない。破局は、一時的に「ユートピア」(R.ソルニット)を出現させる。だが、準備のないところでは、それはたんなる幻想でしかない。

 

2016930日のブログ「イマニュエル・ウォーラーステイン『入門・世界システム分析』――世界システムの移行と「家族」の役割」で詳述したように、そのためには、甚大な破局を回避しつつ、新たなシステムを準備していく必要がある。そして、そのために最も重要な概念が半プロレタリア世帯――ただし、前近代的なそれではなく、先進諸国において賃労働の副業的家業からの収入を含む世帯としての――における多様な仕事と収入の源泉だったのである。半プロレタリア世帯は、資本制企業への依存度を縮減させつつ「家族」全体の生産性を向上させるという点において、長期低迷に喘ぐ世界資本の負荷を減らしてそれを存命させつつ、資本制企業による労働支配からはまったく自由な形態で日々の仕事を続けることができる。それゆえ、それは結果的に、資本主義の終焉という人類史的事件からも甚大な影響を受けない――というより、そのとき、終焉そのものが甚大な破局を伴わず、静かに終わりを迎えることだろう――、強固な生活基盤となる可能性がある。現在は、そうした多様な日常行動が――それは現行システムに対する中期的適応行動というかたちをとる――垣間見られるようになってきている。こうした自由が――それは機会を選択しうる多様性の能力であり、ケイパビリティである――、世界システムの移行期におけるリスクや不確実性の裏の表現であることも、そのブログでは論じておいた。

 

だが、本著との関連で言うならば、そうした中期的適応行動は、同時に長寿化という問題への適応行動――現段階では、本著で言うように「実験」といったほうが適切かもしれないが――でもあるのである。本著では、資本制企業の労働支配――それは現在の先進諸国では、完全なプロレタリア、すなわち一日8時間で週5日の労働という賃労働制度である――とは異なった形態がたくさん紹介されているが、こうした半プロレタリア的な労働は、すべて長寿化という問題に対して人びとが選択した適応行動だ、と筆者は言っている。筆者によると、二〇世紀後半に「ティーン・エージャー」と呼ばれる世代区分が生まれたように、今日では18歳から30歳の世代の中に、これまでとは違って、結婚もせず、定職にも就かずに生活をしている人びとが多数見られるが、これは今後続く長い100年ライフへの準備行動だというのである。

 

本著では、こうした長寿化への適応行動として、三つのパターンを挙げている。第一のものは、エクスプローラーと呼ばれるもので、いかなる組織に属することもなく、遊びながら――時には世界中を旅しながら――アルバイトのような仕事をすることで様々な経験を積んでいくというものだ。これは、遊びでありながら、同時に自分とは何かというアイデンティティを探すものでもありうるし、時にはもっと合目的的に自分のあるべき姿や知識、能力を磨くものでもありうる。本著では、一九九八年生まれのジェーンが――彼女の世代は、二人に一人はほぼ確実に100歳以上まで生存する――、二〇代の頃ラテン・アメリカを旅しながら屋台で働いた経験など指している。こうした活動は、金銭的資産の形成には結びつきにくいが、幅広いネットワークを構築したり、自分が本当に好きなものやアイデンティティを発見したりするなど、無形の資産の蓄積には大いに効果がある。

 

 第二はインディペンデント・プロデューサーと呼ばれているもので、小規模な企業経営を含む。ただ、これが通常の意味での中小企業と違うのは、雇用を創造したり、事業を継続したりすることよりは、独自のアイデアやソリューションを生み出すことに目的を置いているという点だ。彼らは、そのオリジナリティ溢れるアイデアやソリューションを大企業に提供することで収入を得ている。ジェーンもまた、ラテン・アメリカから帰国したあとでその現地経験を活かして食品企画の企業を興している。こうした小規模企業は、膨大な設備投資や人的投資をして大きな収益を上げるというよりは、企画アイデアの販売そのものを目指しているという意味で、金銭的資産よりは無形の資産形成に優れている、という。ただし、こうした小規模企業が結果的に大手企業に莫大な金額で買収されるということも珍しくなく、とくにIT業界では頻繁だという点は、注目に値するだろう。

 

 第三はポートフォリオ・ワーカーと呼ばれるもので、現在では、大手企業を勇退した元取締役などが、経営コンサルティングとNPO理事を務めるかたわらで、講演活動を全国的に展開している、というような事例が散見される。事業であれ、ボランティアであれ、自己の経験と知識を活かせる仕事を、単発的に幅広く行っていくのだ。本著のおけるジェーンも、壮年期での大手企業における幹部を経験した後、こうした活動で収入を得たいと考えている。ビル・ゲイツのように取締役会長を退いた後でも、こうした活動で莫大な収入を得る例もあるが、しかし、多くの場合、こうした活動もまた、金銭的資産よりも無形の資産を増やすことが多いものだ。

 

 これらの活動はいずれも、資本制企業から独立しつつもそれとの深い関連の中で成立しているという意味で、半プロレタリア的な活動である。しかし、これらの活動は、現在の世界資本主義が長期的な景気低迷期にあるという観点から見れば、資本制企業が固定的な費用となりがちな人件費負担に耐えられず、その業務を外部化したものとも捉えられる。とくにインディペンデント・プロデューサーの業務はそういう側面が明瞭だし、エクスプローラーも今日の若い世代において俗に「フリーター」と呼ばれるものだとも考えられ、やはり若い世代の就職難の――つまり、資本制企業にとっては人件費圧縮の――帰結に過ぎない、とも言いうる。実際、現行の世界経済システムはこれまでのそうしたことを繰り返していたのだ。ときには、それはルンペン・プロレタリアートと呼ばれた季節労働者であり、ときには徴兵の対象となる失業者であった。

 

 しかし、これらがたんに世界資本主義の長期低迷の帰結と呼ぶことができないのは、第一に本著が主張しているとおり、どこまで明確に意識しているかは不明であるものの、長寿化という現在に固有の問題に対する適応行動という側面があることは、否定できないからである。そして、第二の理由は、今日の世界資本主義の危機はシステムの通常運動に収斂するものではなく、必然的にシステムの崩壊を帰結するものだからだ。これまで世界経済システムは、半プロレタリア世帯やルンペン・プロレタリアートを作り、いわばそこからの搾取によって存続してきたが、現在となっては半プロレタリア世帯の占める割合が極端に小さく、搾取しても十分な資本の自己増殖が不可能になったのである。それゆえ、これらの活動は、現行の世界システムに回収されることはないのだ。一九世紀後半にヨーロッパに誕生したルンペン・プロレタリアートは、結果的に、海外植民地に兵隊として駆り出されるか、植民地管理官として駐留するかする人生を送ることになった。これが当時の帝国主義がもたらした帰結であることは言うまでもないが、今日の世界では、先進諸国や新興国の人口に対して植民地になりうるような地域が乏しすぎるのである。そして、最後第三に、これは第一の点とも深く関連しているが、こうした活動に携わる人びとは、高度な教育を受けた人が中心だという点だ。この現象は、前近代的なものでもなければ、前近代への回帰でもなく、むしろ高度な文化的現象と言うべきものである。

 

 

 2

 

 長寿化は、言うまでもなく、我々ひとりひとりに予測不可能性として、つまりリスクや不確実性として立ち現れる。筆者が度々繰り返すように、100年を超える時間に社会や自分、「家族」がどのように変わっていくかなど的確な予測は不可能だ。それゆえ、今後、我々の生涯設計は、従来の教育-仕事-引退という3ステージを基本とするものではなく、複数のステージを組み合わせた複雑なものになる、と筆者は言う。

 

 3ステージの生涯設計がうまくいかなくなる理由は、まずは金銭的資産において明白である。これが、昨今、囂しい政治問題として――年金問題や健康格差の問題として――騒ぎ立てられている当のものである。言うまでもなく、100歳まで生きる人を65歳から公的年金を付与していたのでは、政府が破産してしまうのだ。すると、あとは個人が老後資金として貯蓄しておくしかないわけだが、いずれにせよ、35年間もの老後資金を貯蓄しておくことは事実上不可能であり、したがって引退を先送りして働く――しかも、少なくとも八〇代中頃まで――、という選択肢しか残らなくなる。3ステージ型の生涯においては、仕事に必要な知識やスキルはせいぜい三〇代前半までに蓄積され、それ以降は過酷なマネージャー職で磨り減る一方だったが、それでもなんとか65歳の定年までは持ちこたえることができた。しかし、これを八〇代中頃まで維持することは、言うまでもなく、不可能なのだ。現状であっても、事実上、五〇代には知識とスキルは古びてしまい、閑職に追いやられてしまうというのが通常だろう。こうした生産性資産ばかりではなく、厳しいマネージャー職を持続した結果、友人や家庭など、当人の活力を発揮させるのに不可欠な活力資産も縮減してしまう。いわゆる燃え尽き現象は、避けられないのである。これも実態は、個人差があるとはいえ、八〇代はおろか五〇代でそうした現状に陥りがちだといえるだろう。

 

 要するに、教育―仕事―引退という3ステージ型の生涯設計では、無形の資産についての投資が前半に集中してその後メンテナンスが行えないため、どのように考えても六〇代が――実態的には五〇代であることが多いだろうが――企業労働者としての限界なのだ。言うまでもなく、このことは完全なプロレタリアの限界を示している。

 

 それゆえ、本著においては、今後は、3ステージではなく、複数のステージを経る生涯が通常になっていく、という。たとえば、本著においてモデルとして登場するジェーンは、その生涯で5つのステージを経験する。教育を受けたあとは、前述のようにラテン・アメリカでエクスプローラーとしての活動を行い、帰国後は食品企画の会社を起業してインディペンデント・プロデューサーのステージを経験する。その後、二つの大手企業に幹部職として務めたあと、七〇代に入ってポートフォリオ・ワーカーとして、ラテン・アメリカのストリートチルドレンを支援する国際慈善団体で働いたり、食品小売企業の社外取締役を務めることになる。そして、85歳で引退するのだ。一九九八年生まれの彼女は、恐らくあと二〇年近く生きるだろう。

 

 ここで重要なのは、生涯の前半では仕事をしながらも、無形の資産形成に有利なステージを数多く経験している、ということだ。言うまでもなく、彼女が後に大手企業の幹部社員として厚遇されるのも、この時代の経験と実績があるからだ。彼女は、この大手企業で、これまで不十分だった金銭的資産の蓄積に努めるのである。逆に、彼女が七〇代まで大手企業の幹部職としての激甚な労働に耐えることができたのは、三〇代中頃まで無形の資産に投資を続けたゆえだったと言える。

 

 もちろん筆者が断っているように、こうしたジェーンの生涯は一つのモデルに過ぎない。実際は、もっと多様な組み合わせが人それぞれで実行されるのだ。100年ライフにおいては、こうしたマルチステージの生涯が当たり前になるという筆者の主張は、説得的だ。というのも、100年間もの間に労働市場は激変するからだ。たとえば、今日、AIやロボットによる産業革命が近づいていると言われているが、こうした技術革新によって今日存在する多くの職業はなくなってしまうことが予想されている。こうした労働市場、ひいては産業界の激変はこれまでも当然のようにあったことなのだ。本著でも触れられているように、百年前のアメリカはもちろん、日本でも、農業に従事する人びとは全労働人口の半分以上を占めていたが、今日ではその割合は1%に満たない。3ステージ型の現行の生涯においてすら、そうした産業界の地殻変動は、労働者の知識やスキルを根本的に無価値にしてしまうことが十分にありえたのだが、100年ライフにおいてはそれら無形の資産が当初の価値を持続させることは、ほとんどありえないことになるだろう。たとえ、あったとしても、事前にそれを予測して新たな知識やスキルを習得しないままでいるのは、リスクが高すぎる。100年間もの長期予測は、事実上不可能だと考えるべきだ。

 

 それゆえ、知識やスキルなど生産性資産に限っただけでも、100年ライフがマルチステージ型の生涯に変わっていくのは、ほぼ間違いないだろう。それに加えて、友人や家族など活力資産にも手を加えていかなければそれらは磨り減ってしまうことを考えれば、尚更である。だが、本著で注目しなければならないのは、そうしたマルチステージの生涯を生き抜くために、今後は、人には変身資産とでもいうべき無形の資産がなくてはならない、としている点だ。生産性資産や活力資産だけでは、新たなステージにチャレンジできないのである。新たなステージにチャレンジするためには、現今の仕事で活用している職場での人間関係とは別に、異業種に渡る広範なネットワークがなければならない。そして、そのネットワークを通じて様々な経験を積み、自分がどんなことに向いているのか、自分が何をすべきなのかを知るのだ。本著では、そうしたネットワークと自己認識――つまり、様々なステージを経験しても変わらないものとして持ち続けるアイデンティティ――、そして新しい経験に対して広く開かれた姿勢のことを変身資産と呼んでいる。

 

言うまでもないことだが、変身資産が注目に値するのは、これまでの教育―仕事―引退という3ステージ型の生涯においては、必要のないものとされていたものだからである。このことはしたがって、3ステージ型のこれまでの生涯よりも100年ライフにおいては、無形の資産を蓄積するためにより多くの時間と努力とが必要であることを意味している。3ステージ型の生涯においては、生産性資産と活力資産を蓄積するために、三〇代前半までを費やせば良かった。だが、100年ライフでは、それらが摩耗しないように途中でメンテが必要なばかりではなく、新たに変身資産への投資を行わなければならないのである。本著において、一九七一年生まれのジミーは、四〇代中頃にして3ステージ型の生涯が実現困難であることに気づき、自己投資を始めるのだが、それは知識やスキルに磨きをかける生産性資産への投資ばかりではなく、現在勤めている会社を辞めた後でも、ポートフォリオ・ワーカーとして活躍できるためのグローバルな人脈づくりを含んでいる。そして、それに一〇年もの年月をかけたのだ。ジミーは、若い頃から100歳まで生きることを前提にしていたジェーンと違って、生涯設計を途中で変更することになったため、そうした努力が必要になったのだ。そして、その意味で、これは現在生きている我々の――中壮年に差し掛かった年齢の大多数の人びとの――明瞭な課題でもあるだろう。

 

 最後に本著が想定している100年ライフについて注目すべき点を紹介しておこう。それは「家族」における夫婦間の役割である。本著によれば、仕事におけるステージがマルチ化することに伴って、「家族」における男女の役割分担に変化が現れるのは必然だ。たとえば、ジェーンは、初めに就職した企業から転職をするが、その間収入が落ちたとき、夫ジョルジュが助けている。また、ジミーは妻ジェニーがフルタイムで働きに出たいと言い出した時、家庭内の仕事について役割分担を変更した。つまり、マルチステージ化にともなって、家庭内でも夫婦間での役割分担の変更や交代が行われるのである。筆者は、3ステージ型の生涯においては、家庭では夫婦間で生産面での分業が行われていた――夫は賃労働、妻は家内労働というふうに―が、マルチステージ型では共働きが普通になり、消費面での共有化が「家族」の目的になる、と言っている。100年ライフでは、生涯に占める育児の負担が相対的に軽減するので、妻が仕事をするのが普通になり、その結果、金銭的資産の蓄積が強化されやすい反面として、妻もまた夫と同様に、生産性資産や活力資産、そして変身資産への投資が不可欠になるのである。このことが家庭における夫婦間の役割の柔軟化を必然にしている。それゆえ、おそらく今後はいっそう男女平等が進む、と言っているのである。

 

 

 3

 

 だが、男女平等を始め、こうした社会の変化は容易ではないことは、言うまでもない。こうした労働者のキャリアの変更、家庭内の役割分担の変更に対する執拗な抵抗は、まずはじめに資本制企業において現れるといってよい。このことについて、筆者は次のように書いている。

 

《100年ライフは、人類にとって大きな恩恵だ。長寿化にともいない、人生がマルチステージに再編されれば、誰もが多くの選択肢を手にし、これまでよりずっと柔軟な生き方ができるようになる。仕事と娯楽、キャリアと家庭、お金と健康の二律背反をめぐり、よりよい選択をする道も開ける。しかし、企業にとって、とりわけ人事部門にとっては、すべてが悪夢でしかない。企業は画一性を好む。単純で予測可能性の高いシステムは、運用しやすいからだ。だから、多くの組織が変化に抵抗したとしても不思議ではない。それでも、あらゆる場で実験が始まっており、最終的には、柔軟性と選択肢を求める個人の欲求が、画一性と予測可能性を求める企業の都合を突き崩すだろう。ただし、それまでには長い時間がかかるかも知れない。

 今後は、同世代が一斉行進して人生のステージを進む仕組みに深刻な軋みが生じる。高いスキルをもった優秀な人材の獲得が必須課題の企業は、その変化に対応して方針を改めることが得策だと気づきはじめる。しかし、そういう企業ばかりではない。働き手が望むほどの柔軟性を発揮できる企業は、おそらく一握りにとどまる。その結果、個人と企業の間で激しい戦いが始まるだろう。それは、産業革命の時代に労働時間と労働環境をめぐって戦われた戦いに匹敵するものになる。(p34p35)》

 

 筆者も指摘しているとおり、教育-仕事-引退の3ステージ型の生涯が標準になったのは、工場生産が普及した一八世紀後半から一九世紀前半にかけてのイングランドが嚆矢である。3ステージ型の生涯とは、人類史においてそれ以降の極めて短い期間しかないのだ。これは、はじめに児童労働が工場から排除されることによって、次に女性が家内労働へと専業することによって、実現された新しい制度である。それゆえ、現行の世界経済システムにおいてさえも、それ以前は異なった生涯設計が普通だったので、これが変化していくことがすなわち現行のシステム崩壊につながるとは、即断できないのではないかという意見もあるかも知れない。しかし、重要なのは、たんに生涯設計が変わるということではないのである。ポイントは、無形の資産という見にくく管理しにくい資産が、どの程度生産活動に影響を与えるかという点なのだ。実際、3ステージ型の生涯以前においては、そのほとんどの労働が農業であったと言って良い。そこでは、世帯を、つまり「家族」を最小単位とした労働が行われていたが、たとえそれが夫婦共働きでときには児童や高齢者の労働を含むものだったとしても、地方行政官、徴税請負人や農園経営者からは把握しやすいものだったのだ。農作物が明確で収穫時期がはっきりしていれば、あとは耕地面積から徴税すべき額が容易に算出できたのである。収穫物に対する無形の資産の影響は最小限だったといっていいだろう。

 

 それに対して、本著で想定されているマルチステージ型の生涯においては、無形の資産の影響が大きすぎて、それを国家や資本制企業の立場からは完全に把握することが不可能なのだ。この点がポイントである。筆者が言うように、このような無形の資産を十分に評価して、組織設計や人事設計に生かすことができる企業は――今日であれば、グーグルやアップルのような企業だ――、全体のごく小さな割合に留まるであろう。すなわち、このことが意味しているのは、他の大多数の企業にとって、従業員に備わった無形の資産を評価し、ましてやそれへの投資を促していくことなど出来はしないし、そんなことなど彼らにとってはコストでしかないのだ、という事実である。マルチステージ型の生涯を生きるための準備を――ときにそれは、スキルアップ研修であったり、家庭での介護や育児、地域貢献のボランティア活動、異業種の幅広い人びととの懇親であったりする――、推奨するなど、多くの企業にとってはもってのほかだろう。100年ライフにおけるマルチステージ型の生涯の到来は、資本制企業による労働者支配の限界を、つまり賃労働制度の限界を強く示唆していると言っても過言ではない。

 

 これまでの世界経済システムにおいては、資本制企業が管理しきれない分野――それは、大気や水を含む廃棄物処理や、高齢者や子供に対する対応を指している――はすべて、最終的には国家の責任分野とされてきた。それは、衛生、教育、介護、医療、交通、公園など様々の分野に及ぶ。しかし、これまでの論述の前提となっていることは、少なくとも数十年にも及ぶ老後資金の手当てを政府が行うことはできない、ということだ。とはいえ、先進諸国においては今後も何らかのかたちで公的年金制度は存続するだろうし、教育研修制度――それは子供を対象にしたものばかりではなく、求職者などを対象にしたものを含む――も残存するだろう。否、場合によっては、充実する面すらあるかもしれない。だが、はっきり断言できることは、100年ライフを全うするのに不可欠とされるような無形の資産をすべて把握し、何らかのかたちで給付していく政府などありえないということだ。100年ライフは、資本制企業や国家などによる管理と支配によっては、対処しきれないことは明白なのである。

 

このことが、国家と資本によって支配された現行の世界経済システムを根本から揺るがす大きな事実である。個々の人びとは、最終的には100年間もの生涯の責任を誰に負わせることもできず、自分にしか負わせることができない。だからこそ、筆者が言うように、マルチステージ型の生涯を送りたいという人びとの希望と、資本制企業の人事制度とは大きくぶつかり、それはかつての労働運動を上回るものになる、との予想が生まれてくるのである。かつて一日15時間で週6日働くことが普通だった時代に、それがどれほどの健康障害を引き起こし、改善のための労働運動へとつながったかを想像すれば当然の予想だ。人びとは健康という無形の資産ゆえに戦ったのであり、今後もまた同じく無形の資産のために戦うのである。

 

だが、一方で、このような労働運動は必然だとしても、かつてよりもずっと静かに進んでいく、という可能性も捨てきれない。というのも、現在、否、今後もっと増加していくであろうインディペンデント・プロデューサーやポートフォリオ・ワーカーの所得が、つまり彼らの金銭的資産の蓄積が、それほど悪いものではなくなる可能性があるからだ。

 

確かに、かつて資本制企業は、完全なプロレタリアとして労働者を雇用していく負担に耐えかねて、日雇い労働者や季節労働者などルンペン・プロレタリアートを使うことも少なくなかったし、そうした場合、一様に彼らの収入は少なかった、と言って良い。その意味で、インディペンデント・プロデューサーやポートフォリオ・ワーカーの所得は少なくなる可能性が高いというべきだろう。実際、今日でも、小規模企業経営者や個人事業主の所得平均は、大手企業の幹部社員の平均所得に遠く及ばないのだ。しかし、そこには統計上、いわゆる衰退産業が多く含まれていることに注目すべきだ。今日でも、ITや医療など成長分野に携わる小規模事業経営者や個人事業主の所得は決して低くないと思われるし、将来的にも、こうした市場が拡大することを思えば決して悲観する必要もない。実際に、先進分野や成長分野に携わっている小規模企業経営者や個人事業主の所得は、むしろかなり多いはずだ。そして、今後も、3Dプリンタなどの技術革新が旧来の製造業を襲うならば、むしろそうした分野ですら先進的な成長分野へと変貌する可能性を秘めている。

 

それゆえ、彼らの所得が低くなるとは限らないのは、次の理由によっている。

 

第一に、彼らはフルタイムを拘束されるわけではないので、空いた時間にも必要とされる生活資金を報酬として企業に請求する権利がある。だが、その一方で、企業から見れば、空いた時間まで報酬を支払う義務はないのは明らかだ。それゆえ、ここには調整領域が存するが、これが買う側である資本制企業に有利に働きがちなのは言うまでもない。しかし、第二に注目しなければならないことは、この調整領域が売り手に有利に働くことも少なくない、ということだ。それは情報の非対称性によっている。つまり、小規模企業や個人事業主の納品するアイデアやソリューションを生産するためのコストは、実際には買い手である大企業には分からない、という点である。とくにその成果物がオリジナリティの高いものであればあるほど、生産コスト――その多くは無形の資産を含む人件費だ――は不明瞭になるのである。したがって、その成果物に対する報酬は、オリジナリティという曖昧な基準になりかねない。大企業が、そうした高度な人材を完全なプロレタリアとして仮に雇用した時にかかる人件費は、その無形の資産価値ゆえに曖昧であるほかない。そして第三に、こうした高度な人材を企業は評価できない、という点が挙げられる。資本制企業が賃労働者として継続雇用しておく人材は、むしろ一定以上の無形の資産に対する投資が必要ではないような領域に限られている。それは、本著の記述に従えば、拘束性の高い業務――時間のプレッシャーが厳しく、勤務時間についての自由がなく、スケジュールの変更に対応しなければならず、メンバーと常に一緒にいなければならず、ほかの人に替わってもらえないような業務――である。これらの業務に従事する労働者の報酬は、おしなべて高い。だが、これらの業務は無形の資産に対して十分な投資を行えないような業務であるのだ。それゆえ、これらの業務からオリジナリティ溢れる独創的な成果物が期待できないことは、企業側も熟知している。資本制企業は、社内に同様の高度な人材がいないがゆえに、評価できないのであり、このことが現在でも、たとえば経営コンサルタントの報酬が高い事の理由になっている。こうした諸々の理由から、雇用した労働者に対する報酬よりも、プラスアルファの報酬が外部のインディペンデント・プロデューサーやポートフォリオ・ワーカーには支払われる可能性がある、と言えるのだ。

 

したがって、無形の資産への投資機会――その点は賃労働者よりも圧倒的に有利だ――という点を除いても、つまり金銭的資産の蓄積に限っても、成長分野や先進分野であれば、小規模事業経営者や個人事業主は不利であるとは限らないのである。こうした事情は、多くの人びとをインディペンデント・プロデューサーやポートフォリオ・ワーカーへと、つまり新しいこうした労働形態へと転換させる。かつてのように労働運動が激化しない可能性があるというのは、このためだ。有能で自信のある人びとは賃労働とは別の形態で働くだろうし、またそうでない人であっても、100年ライフが想定する余りにも長い期間を同一の企業で働き続けることは少なくなるだろう。したがって、新しい柔軟な人事制度への変革は、激しい労働運動によってもたらされるというよりは、社外も含めた市場環境との相互作用によって穏やかに進んでいく、という可能性が大きいように思われるのである。

 

 

 

100年ライフにおいては、そのリスクと不確実性について、当事者である個人はもちろん、国家や資本ですら見通して管理できないものになることは間違いない。その結果、国家や資本制企業の支配に変わって、自立した個人が、自分の選択の能力を――それは金銭的資産ばかりではなく、無形の資産によって形成されたケイパビリティを意味する――増進させて、リスクや不確実性に対処していくことのできる柔軟性や多様性を獲得することが重要なポイントになる。だが、注意しなければならないのは、そうした能力は、いわば孤立した一人の個人によって実現可能なものではなく、――そもそも無形の資産の内容には、知識やスキルばかりではなく、同僚、友人や家庭、異業種にわたる広範な人間関係が含まれていた――人的ネットワークによって形成されることが多いという点だ。このうちで、変身資産と呼ばれる異業種にわたるネットワークとアイデンティティの目新しさについては、前に述べた。だが、最後に、ここでは、「家族」というもっとも身近な人的ネットワークが、100年ライフにおいていかに変貌していくかについて確認しておこう。筆者は、高齢化により、父母、子供、孫、曾孫という四世代が同居する家族が出現する、と言っているからだ。

 

《参考になる前例がほとんどないので、世代間の複雑な関わり方を見いだすために、多くの実験が行われる。家族のメンバーの年齢が高くなり、祖父母世代が若々しくなることを受けて、世代間交流の実験が始まるのだ。誰もが最善の振る舞い方を見つけ、社会学者のアンソニー・ギデンズの言葉を借りれば、一人ひとりが日々の行動の指針となる倫理規範を新しく見つけなければならない。家族や親戚の役割を決めるときは、それがとくに重要になる。親戚にお金を貸すべきか、父親はどう振る舞うべきかなど、家族や親戚にどのような役割を負うべきかは、昔は伝統によって決まっていた。たとえば、次のような問題がある。四世代の生活をどのように支えるべきか? 義理の親と義理の息子や娘は、互いにどのような金銭的責任を負うべきなのか?

 家族が多世代で構成されるようになれば、異なる世代が理解を深め合う素晴らしい機会が生まれる。前述したように、工業化がもたらした影響の一つは、人々が年齢ごとの隔離されるようになったことだ。国が一定年齢の子どもを学校に通わせて職場から排除し、一定年齢以上の高齢者に年金の受給権を与えたことにより、年齢による乖離が社会に根づいていった。制度面で年齢による隔離が進むと、居場所も分離されるようになった。異なる世代が同じ場を共有しなくなり、直接対面しなくなったのである。世代間の交流に重要な役割を果たしうる場は、家庭、近所、日常活動の場(仕事や勉強、娯楽、信仰などの場)の三つだが、近所づき合いは年齢層ごとにわかれて実践される場合が多い(たいていは意図されたことではないが、ときには意図的にそうされている場合もある)。子どもオーケストラ、高齢者が対象の活動、高齢者向け観光ツアーなど、日々の活動の多くも年齢別だ。その結果として年齢ごとに別々の文化が形成されている。年齢別の制度が定着しているために、世代の垣根を越えて安定した関係を築くチャンスが狭まっているのだ。異世代が触れ合い、互いのことを知り、私的な知識を共有できる場を見つけることは難しい。もしかすると、多世代同居型の家族がそのような場所になるのかもしれない。(p349p351)》

 

 職業生活以上に、今後の100年ライフが家族構成をどのように変化させるか予想するのは、困難だ。正直なところ、こうした四世代家族が中心になるとは、想像できない。だが、一方で、たとえ少数であってもこうした「家族」が生じてくるのは間違いないし、その影響が、筆者がここで述べているような効果を少なからずもたらすことは、間違いないだろう。こうした複雑な「家族」のメリットは、言うまでもなく、第一に、家計を共有することによって長寿化に不可避的に伴うリスクや不確実性に適切に対処できる可能性があるという点だ。そして、二つ目に、上で筆者が述べているように文化的多様性が醸成される基盤となる、という点も見過ごせないだろう。「家族」とは、そもそも倫理的規範の形成にとって、つまりイデオロギーの形成にとって、不可欠な場所だったのである。「家族」とはそこで様々な価値観がぶつかり合うことによって、統一した倫理的判断を下していく場所である。その闘争のプロセスが、「家族」の内実に社会化と均質化を――つまり、個々のメンバーが、社会から認められる価値へ転換することと、集団で暮らすために不可欠な統一感とを――もたらすことがないならば、「家族」は解体してしまう。おそらく100年ライフにおいては、第一の経済的メリットを享受するために多世代同居型の「家族」という実験が試みられ続けつつも、社会化と均質化を形成することに挫折し、解体するものも多く出現することだろう。しかしその反面で、こうした多世代同居型の「家族」は、経済的であると同時に文化的にも模範的なものとして、人びとに認められる可能性が高いように思われる。

 

 いずれにせよ、文化的多様性を前提にした「家族」におけるイデオロギー闘争は、いかなる価値観をも対等に扱い、その上で解決策を見出していくという姿勢を生み出していくために十分な効果を発揮するものと思われる。そして、その上で注目すべきなのは、このような態度こそ、異業種にわたる広範な人脈やアイデンティティと並んで、新しい経験に対して開かれた姿勢という変身資産として、重要視されるものだった、という点である。つまり、たしかに文化的多様性は相手を互いに排除し合うことに帰結する場合も少なくないが、100年ライフにおいてはそうした排他性よりは、多様性に対して開かれた態度を取ることで予測不可能なリスクと不確実性に対処する能力が重視されるために、そうした不幸な結末は少なくなっていくのではないかと予想できる、ということだ。これまでは、人びとは自分が幸福な暮らしを送っていくにあたって変身資産を重視することはなく、それゆえ新しい経験に対して開かれた姿勢で接することも少なかったとしても、今後はそのような排他的態度はむしろ抑制されていくであろう。筆者は、「家族」ばかりではなく、職場においても今後は多様な年齢層の人びとが交わり合いながら仕事を進めていくようになる、と言っている。これまでは、3ステージ型の生涯に合わせた人事制度だったために、マネージャー会議を開けば同世代の会議になったのだが、今後はそうではない、と。

 

 したがって、筆者が言うような多世代同居型の「家族」は少数派に留まるとしても、多世代が協業する職場への改革や変身資産を蓄積していくための自己修練などの結果として、そうした多様性を享受できる社会へと変質していく可能性は、決して低くはないだろう。もちろん、少数派にとどまるとは言っても、長寿化が家族構成に変化をもたらすことは必定であり、この点も社会の変革に資する理由になる。人びとがどのような家族構成をとり、結婚や相続についてどのような慣習的規則をもつかかということは、「家族システム」(E.トッド)として、政治的イデオロギーを含む社会的価値形成を規定するものなのである。たとえば、外婚制共同体家族をとるロシアや中国、ベトナムは、実際にそうしたモデル的な「家族」の割合が多くはなかったとしても――しかし、そうした「家族」は他の地域では皆無と言って良い――、共産主義国家のイデオロギーをもたらしたのである。それゆえ、ごく小さな割合であっても――絶対数としてはそれなりの数になるはずだ――、そうした多世代同居型の「家族」が誕生することは、その地域におけるイデオロギーや価値の形成に深く影響するというべきだろう。多世代同居型の「家族」が模範的なものとして認められつつも、様々な障害によってそれが実現することが少ない、と人びとに理解されるならば、それは「家族システム」として十分に機能するのである。

 

 もちろん、多世代同居型の「家族」が模範的なものとして機能したとしても、同一の「家族システム」が世界中で普遍的なものになるとは、考えられない。それは、中国やロシアでは外婚制共同体家族の痕跡を、日本やドイツでは権威主義的家族の痕跡を、フランスやスペイン、ラテン・アメリカでは平等主義核家族の痕跡をとどめたものになるであろう。こうした痕跡が、各々の地域における「家族」内でのイデオロギーや価値の形成に深く影響することは免れないのだ。だがしかし、ここで言いたいのは、多様性を受容することについての社会的価値が、変身資産というあらゆる個人が蓄積すべき価値へと内面化することを通じて、普遍的な影響力を持ったものへと変わりうるのではないか、ということだ。つまり、世界中の地域に多様な形態で存在する「家族システム」は、100年ライフにおいては、そのそれぞれが多様性の受容という普遍的価値を帯びたものへと変貌するのではないかということだ。

 

だが、もちろん問題は残っている。その中でも、筆者が指摘するとおり、健康格差の問題は最も深刻で、対処が難しい問題だ。すでに現状でも、所得の多寡が人びとの健康維持のための活動に制約を与えるため、貧困者ほど健康状態が悪く、所得格差が健康格差をももたらしている面が多々見受けられる。また、所得の多寡は、人びとが生産性資産や活力資産、変身資産への投資を行うことにも強い制約として働くことは明白であり、所得の低い人びとが低い知識やスキルと、低い活力とを維持したままで勤務を続けた結果、さらに低所得になっていくという悪循環が生じていくことも、十分に考えられる。そしてそれが、健康格差へと至るなら、筆者が懸念するとおり、100年ライフの恩恵は少数の富裕層のみが享受することになるだろう。こうした社会的格差を維持または放置しようという意思は――もちろん、それは富裕層のものである――、多様性の受容という100年ライフにおいて不可欠となる社会的価値の普遍化を妨げ、かえって長寿化の問題を混乱したものへと導かざるを得ない。少なくとも、今日の先進諸国においては、そうした事態は大きな混乱を生み出すはずだ。こうした事態は――労働運動の激化も同様だが――、甚大な破局へと至り、それを収集するための権力を招来しかねない。そうなれば、将来の新しい世界システムは我々人類にとって不幸なものとなるだろう。だが、そうした意思が悲惨な未来を生み出す可能性は否定できないものの、だが逆に、「家族」が多様性を前提にしたイデオロギー闘争の場となり、多様性の受容が美徳とされる100年ライフにおいては、所得格差や健康格差など、現在の、そして今後の社会においても存続し続けるであろう様々な不均衡や不平等に対して、有効で柔軟な対処法を創出できる社会が構築されるという希望も小さくはないのである。

 

 長寿化とは、資本と国家にとってはもちろん、我々個人にとっても、予測不可能な不確実性とリスクをもたらすものである。だが、不確実性とリスクとは、自由の別称にほかならない。資本と国家はこのリスクと不確実性を前に、国民と労働者とに対する有効な管理と支配を諦めていくしかないだろう。だが、我々個人は、自分自身の生涯を諦めるわけにはいかない。健康はもちろん、知識やスキル、「家族」や職場における人間関係、友人や異業種にわたるネットワークを駆使してリスクと不確実性に対処し、多様な選択肢を保持する自由を獲得するしかないのだ。こうしたケイパビリティがあらゆる人びとに増進していくことは、結果として、100年ライフが多くの人びとに恩恵をもたらす、ということを意味する。そして、言うまでもなく、そこには新しい世界システム――それは多くの人びとに自由と平等をもたらすものだ――という恩恵が含まれているのである。

 



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ジェームズ・スコット『ゾミア』――国家において平等はいかに可能か


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ゾミア―― 脱国家の世界史
ゾミア―― 脱国家の世界史 [単行本]

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ジェームズ・スコット『ゾミア』(20139月:みすず書房)を読んだ。あまりの面白さに、一気呵成という調子だった。トッドが東南アジア諸国の家族構造としてアノミー家族を取り上げて、その政治的イデオロギーとの関係を論じていた箇所がひどく面白かったため、東南アジア関連の著書のうちで未読のまま放置してある本を、ということで手にとったのだが、内容は圧倒的といってもいいほどのものだった。文字を持たない人びと――ゾミアで暮らしてきた人びとは文字を持たない――の歴史は、想像力で補わなければならない点が多いのは当然としても、圧倒的な想像力で議論を積み上げていく本著の面白さは、比類がない。そしてその議論の両義的な深さと広がりは、アノミー家族についてトッドが論じた両義性ともあいまって、読み手の思考を捉えてくるものだった。

 

ゾミアとは、ベトナム中部の丘陵地から西はインド北東部までの東南アジア五ヶ国(ベトナム・カンボジア・ラオス・タイ・ミャンマー)、北は中国南部の四省(雲南・貴州・広西・四川)を含む広大な丘陵地帯の名称で、二五〇万平方キロメートルにおよぶこの辺境地帯には約一億人もの多種多様な少数民族が住んでいる。この国境地帯は、長い間、未開の野蛮な地域とみなされてきた。だがしかし、筆者がこの地域の研究に勤しむようになったのは、文字を持たず、国家に属さず――一部で国家のようなものもあったが、それは短期間の、ごく小規模のものだ――、焼畑の移動耕作と狩猟によって生計をたててきたこの地域の人びとの暮らしが、実は、そうした原始的なものではなく、むしろ意図的に国家の支配を避け、国家から逃れる生活の中で形作られてきた文化なのだと、考え始めたからにほかならない。そのような仮説のもとに、ゾミアの地理的条件はもちろん、多種多様な習俗・信仰・生業など諸々を検討してみると、それらが筆者の想像力の中で次から次へとつながっていき、説得力を持った理論として成立してしまったのである。その意味で、本著は無国家の人びとの歴史である。

 

だが、筆者の想像力の逞しさはともかくとして、思えば、本著は、当たり前のことを、いくつも再認識させてくれる著作だった。たとえば、人類誕生以来、国家の中で人びとが生活を送るようになったのは、むしろ僅かだということ。大部分の無国家の時代があり、定住革命を経てから、国家のもとで暮らす一部の人びとと他の国家のない地域で暮らす人びとの時代が続き、現在はほぼすべての人びとが国家の中で生きていくようになっている。現在、我々が、人間であることと何らかの国家の国民であることは、集合的には必当然的に一致するようになっている。だが、本格的にこうなったのは、筆者が言うように第二次世界大戦後の一九五〇年以降に過ぎないし、欧米や日本のような先進諸国に限定しても、ここ二、三百年のことに過ぎない。日本においても、マタギや山人など、国家の支配の外で暮らす人びとが最近までいたのは周知のことだ。古くは、関東や東北、もちろん北海道は、畿内の朝廷から見れば非支配地域であり、そこに居住する人びとは蝦夷と呼ばれていた。蝦夷がどのような生活を送っていたのかは定かではないが、恐らく国家を持たず――部分的に存在したとしても、それは律令国家のような本格的なものではありえなかっただろう――、文字も持たず、定住農耕で暮らしている人びともいたものの、少なくない人びとが狩猟と移動耕作を生業としていたはずである。我々は、国民である前に人間だったし、むしろそういう時代が人類史の大部分を占めていたのは、当たり前のことである。それゆえ、本著が無国家の歴史だといったところで、それは驚くべきことでも何でもない。それが人類の大部分の歴史なのだ。

 

トッドは、この長い、大部分の歴史を――文字を持たない時代を――「世界の幼少期」と呼んでいた。そして、その「世界の幼少期」は終わりつつある、と。だが、それは無国家の時代が完全に終焉を迎えつつある、ということと同義である。筆者も、そしてトッドも言うように、この傾向は、緩やかではあるが、非可逆的である。我々は、言うまでもなく、今も、そしてこれからも、文字があり、国家のある社会で生きていかなければならない。それはそれでよいし、選択肢としてそれしかない。だが、そのために失われたものは一体何なのか、明確にしておいいてもいいのではないか。それを明確にするような学問を経てはじめて、それを喪失したままにしておいていいのかどうか、人類がそれを選択するのかどうか、判断することができるようになる。本著はそうした学問の最も偉大な成功例である。

 

問題は、そうした人びとがどのように暮らしていたのか、想像力を逞しくしない限り、それは分からないということなのだろう。奈良や京都の朝廷にかんする歴史書はたくさんある。それは記録として残っているために、ある意味で分かりやすい。それに対して、無国家の人びと、たとえば蝦夷について研究した歴史書は極端に少ない。文字を持つか持たないかということが、これほどまでに大きな差となってしまっているのは、むしろ驚くべきことだ。というのも、どちらも同じく人類の歴史の一部であるからだ。想像力を逞しくするという、ただこの一つのことが、――その困難さが、歴史研究家の中にこれほど大きな懸隔を生み出したのである。監訳をした佐藤仁があとがきで書いているとおり、このことも失われつつあることの一つである。氏は書いている。統計の厳密さやビッグデータの利用など、再現可能性や実証ばかりに余念のない近年の学問の中にあって、スコットの著書をぜひ翻訳してみたいと考えた理由はこれである、と。

 

「世界の幼少期」はたしかにまもなく終わるだろう。だが、それによって、失われたものは何なのだろうか。それを明確にしよう。――だが、それはたんなる復古的なロマン主義ではない。なぜなら、彼らも、そして現在生きている我々も同じ人類だからだ。同じ人類である限り、そこには同じ傾向が――人間的自然が、といってもいい――宿っているに違いないのではないか。本著を読み始めてしばらくして、一番初めに感じた強い感情がこれである。

 

 

 

ゾミアは標高三百メートルから四千メートルにも及ぶ高地である。この一体の平野部には、タイやビルマ、ベトナム――北部はもちろん中国――などの国家がいくつも形成されてきたが、ゾミアはこうした国家に属さず、こうした国家から逃れてきた人々が暮らしている、と筆者は言う。いうまでもなく、こうした高地は追っ手から逃れるには好都合なのだ。平地であれば一日に数十キロの行軍も可能だが、山岳地帯ではそういうわけにもいかない。もちろん正確な地図もない。この一体を植民地にしようと考えたイギリス軍やフランス軍はもちろん、それ以前のこの地域の国々も、この地域を征服するどころか通過することすら覚束無いという有様だったのだ。

 

第二次世界大戦前のこうした地域は、土地の広さの割に人口が少なく、人びとは大きな集落を作らず、生活の痕跡を残さずに暮らしていた。狩猟はもちろん、そもそも焼畑移動耕作はその痕跡が残りにくい。森林の片隅に小さな畑を分散しておけば、略奪に合うことはほとんどないし、あったとしても被害は最小限である。ましてや作物がタロイモ、ヤムイモ、キャッサバ、サツマイモ、ジャガイモのような根菜類であれば、部外者にはそれが耕作作物であることすら悟られにくい。しかも貯蔵庫を作る必要がなく、土中に必要時まで保管しておくことが可能である。略奪者は倉庫から持ち出すわけにも行かず、地面を掘り返すしかないのだ。それゆえ、こうした農作物を、筆者は逃避作物と呼んでいる。ゾミアの人びとは、収穫時期の異なった多様な作物を分散して耕作することで、収奪を免れていた。しかも、農地とは別の山に分散して暮らすという有様だったという。

 

こうした暮らしぶりが、平地における国家の臣民の生活とは対照的なものだったことは言うまでもない。国家は、単一作物である米の栽培から生まれてきた、農民たち集団生活だからである。単一作物の大量生産は、疫病の脅威にさらされながらも、膨大な余剰をもたらし、その在庫をめぐって階層分化が進んだことは言うまでもない。国家とは、水田開発や灌漑工事を通じて農業に勤しむ臣民を結束させ、その農作物から税収を得ることで成立するものだ。それは労働の集約化を前提にしているがゆえに、多くの農民たちが狭い地域に居住して集落を作ることによって成立している。それゆえ、田畑は課税しやすいように測量、整理され、徴税対象となる収穫物も可視化されている。

 

しかし、この地域の最大の問題だったのは、人口が、したがって労働力が乏しかったことだ、という。労働力こそが平地国家が最も求めていたものだった。それゆえ、平野部における国家は互いに戦争を繰り返し、その戦争の最大の収穫物は相手国の臣民、つまり奴隷だったという。また、これらの平地国家は、山岳地帯に分け入り、ゾミアに暮らす人びとを――平地国家から見れば、彼らは文明を持たない、蔑むべき野蛮人にすぎなかった――奴隷として連行してきたのだ。したがって、こうした平地国家はすべて奴隷国家だったし、たとえそれが臣民に対するものであっても、その扱いは厳しい搾取をともなう略奪的な強制労働を要求するものだった。それゆえ、平地からは頻繁に山地に逃避する人びとが絶えなかった。農耕生活を営んでいても、夜陰に紛れて逃げ出すし、戦争へと駆り出されればあっという間に逃亡した。それゆえ、当時のこの地域における平地国家は、自爆的とも言えるものだったのである。

 

要するに、ゾミアに暮らす人びとは、こうした自爆的な平地国家から逃れて来た人びとだったのだ。歴史的には、タイやビルマ、ベトナムなどの東南アジアの平地国家による統治ばかりではなく、漢民族が南進してくるにつれて拡大した漢民族による支配を嫌気した人びとが逃避した、という。ゾミアと呼ばれるこの地域が、これほどまでに広大な避難地域となったのは、漢民族の南進という人類史における長期にわたる活動の影響なしには考えられないのである。いずれにせよ、中国はもちろん、タイやビルマ、ベトナムなど平地国家から未開人、野蛮人と蔑まれたこの人びとの出自は、平地だった――それゆえ、文字を持ち、定住耕作の技術を持つ――、と筆者は強調している。つまり、彼らは、もともと野蛮だったわけではなく、国家から逃れるために、文字や稲作などの知識や技術を放棄したのである。未開の生活は、筆者によれば、奴隷として生きることはもちろん、灌漑工事や水田における強制労働、度重なる徴兵などに脅かされる生活を拒否した結果だった。

 

最後に誤解の無いように付け加えておこう。こうした未開の生活は、平地国家との相互関係によって成り立っていた。そこには、頻繁な経済交流、文化交流があったのである。丘陵地帯での生活はもちろん平野での産物を必要としたが、平地国家は、沈水香木、白檀などの木材、糞石、動物の臓器の干物、蜂蜜、胡椒、アヘンなど多種多様な産物を需要していた。これらの品物の交換においても、ゾミアに暮らす人びとが平地国家に依存していたわけではなく、彼らは上流にいて産物をどの支流で運搬するか――したがって、どの下流の平地国家を選択するか――決めることができたため、むしろ強い立場に立っていた、と筆者は主張している。平地国家が好戦的・略奪的ではないならば――ごく短期間だが、間欠的にそうした時期も少なからずあった――、山地の人びとはこれらの産品を持って平地国家で行商を繰り返していた、という。また、ある山地民が別の山地民を平地国家のために奴隷として狩ることも珍しくなかった。前述したように、労働力がこの地域における最も重要な商品だったからである。これとは逆に、ゾミアに暮らす人びとが依存的だったのは、文化交流の面だろう。後から詳しく紹介するが、彼らの信仰は、土着的なアミニズムに、大乗仏教やヒンドゥー教――後にはキリスト教も含まれる――など平地国家における制度的な宗教の強い影響を加えたものだったのである。

 

 

 

ゾミアには、西からはインドの、南からはタイ・ビルマ・ベトナムなどの、北からは中国の支配を逃れてきた人びとが暮らしていたので、その人種は多種多様であった。現在も、数多くの少数民族がこの地域に居住している理由は、ここにある。だが、何よりも興味深いのは、ゾミアに暮らす少数民族のアイデンティティのあり方だ。筆者はこれについて次のように報告している。

 

《植民地官僚や国勢調査員の困惑とかなり違うかたちではあるが、後世のビルマの民族誌家や歴史家もリーチがかつて示した見解を確信し、民族集団の境界線は変化しやすく穴だらけ、人為的なものだとまざまざと痛感することになった。例えば、同じ集団が、呼び手や目的によって、「カレン」「ラワ」「タイ」と異なって分類されることがある。相異なる集団が長いあいだ近接して暮らしていると、お互いが継ぎ目なく混ざりあい、二者間の境界線は恣意的で無意味なものに思われてくる。先に述べたように、ルア/ラワの人々はモン・クメール系言語を話すアミニストの焼畑民であるが、タイ語、水稲耕作、仏教に非常に慣れ親しんでいるので、月曜日にはいかにもルナなのに、翌日の火曜日にはいかにもタイとして振舞うことができる、といっても大袈裟ではない。彼らをひとつの民族的範疇に帰属させる意味はほとんどない。「X」の人々には一定の幅をもった特徴やアイデンティティがあって、それらを状況に応じて使いこなし、演じることができる、と考えたほうが適切だろう。この意味で、民族的アイデンティティとは、演じることができるレパートリーと、その演じられる文脈とを指しているのである。(p257p258)》

 

驚くことだが、ゾミアに居住する人びとは少数民族とは言っても、血縁的には互いに深く混ざり合い、ほとんど区別はできない。したがって、彼らは文字を持たないが、歴史を持たないというよりも、自らの民族の歴史を、その状況に応じて創造していく、という。隣りの山地民族との関係性の中で、あるいは平地国家を作った民族との関係性の中で、その状況ごとによって、過去に複雑に絡まった多種多様な血統の中から有利と思える血縁を選択し、民族の歴史を選択するのだ。歴史や血縁だけではない。言語も複数のものを使いこなし、信仰や習俗もお互いの民族のものが複雑に入り混じっていて、習俗や言語もその場その場において選択する。小集落で分散して暮らすので、その集落の位置関係が彼らの名称になることも多いが、その位置関係もどこそこの上方、とか北側というような相対的なものであるため、同じ民族が複数の呼び名で示される。その上、山地人の生業は狩猟と焼畑で頻繁に住居は移動するのだ。だから、イギリスやフランスの植民地官僚が彼らの戸籍を作ろうにも雲を掴むようだったというのは、このためである。しかし、もちろん、それは彼らにアイデンティティがないということを意味するのではなく、隣り合う民族とのその都度の関係性において決まる相対的な民族性がある、ということなのだ。それはその都度、選択されるアイデンティティであり、民族の歴史である。

 

だが、こうした柔軟なアイデンティティであっても、やがて固定化するプロセスが現れる。それはしかし、国家の関与によって生じるものだ。たとえば、第二次世界大戦後の中国の少数民族保護政策によって、彼らがある特定の少数民族として登録したほうが得策であるということになれば、彼らはそれを選び、固定的な民族となるのである。それがたとえば彼らが居住する地域の自然資源と結びついていることも多い。その自然資源の所有や使用を認められるためには、――つまり彼らがより有利な条件で生活を送ることができるためには、彼らは特定の民族である必要があるからだ。

 

しかしこうした固定化が定着する以前、国家は――帝国は――これらの小集団に首長という資格を持つ者を与え、そして彼らに統治責任を持たせることで対処しようとした。彼らにも焼畑民と狩猟採集民、海域民と山域民など区別は存在したが、ゾミアに限らず、古代ローマ帝国の周縁部、漢民族の帝国の周縁部など国家の支配の届かない一帯にはこうした人々が溢れていたのだ。しかし、こうした区別は、言語や信仰、血縁などと網の目のように交錯しており、その相違はなだらかだったので、これをもって政治的単位とすることはできなかったのである。本著によれば、こうした首長制の導入によってはじめて「部族」が誕生したのだ、という。これらの区分はそれゆえ恣意的なものに過ぎなかったが、その目的は、首長を任命することによって、彼らを首長のもとで集団意識を持った小集団へと、「伝統」を持った比較的安定した集団へと改変し、それによって中央集権的な政治組織へと作り上げることだった。

 

だが、そうした統治者の期待とは裏腹に、恣意的な「部族」が一人歩きして固定的な民族性を形成し始める以前、平等主義的な暮らしに馴染んだ辺境の人々を懐柔することは難しかったに違いない。というのも、ゾミアで暮らす人びとが固執し続けていたのは、つまり国家から逃れるということの意味とは――、この平等主義ということのように思えるからだ。彼らは、平地国家に支配されることをもちろん望まなかったが、彼らは自分たちの小集団の中に階層が生じてそれが固定化することさえも強く拒否していた。他人による支配だけではなく、自分たちの中の上位者による支配も望まなかったのだ。それゆえ、帝国による首長制の導入はなかなかうまく運ばなかったのである。このことについて、筆者は次のような事例を報告している。

 

《英国は、反抗的で扱いにくいチンに怖じ気づいて、「民主的な」チン地域に首長を作り出すことに着手し、その首長に権限を持たせようとした。植民地当局の支援のおかげで、首長は集落で饗宴を気前よく主催する「饗宴社会」をつくりあげ、一般の村人よりも高い地位を得た。だがその反動として、コミュニティを単位とした饗宴を否定し、首長よりも個人の地位を高める私的な響宴の伝統のみを継続する、新しい習俗的なカルトが生まれた。これがポーチンホー信仰で、ザンニア(民主的な部族地域)全体、そしてその行政区域のチン人口四分の一以上の人々に急速に広まった。ここに見られるのと同様に他の多くの事例でも、国家や国家的形態から距離を置く独立した状態には、「経済的な繁栄よりも高い価値がおかれた」ようだ。

…(略)…

 国家は特定の政治的構造をつくらせ、それを通して自らの影響力を行使しようとする。そうした圧力へのもうひとつの対処法は、実体のない首長的権威をつくり、従うふりをすることである。北タイのリスは、まさにそうしているようだ。彼らは低地の当局を喜ばせるために首長を任命する。首長がポチョムキン[政治上の見せかけ]にすぎないのは、富と能力をもった年長の尊敬される男性ではなく、いつも実質的な力をもたない人物が任につくのをみれば明らかである。これと全く同じことが植民地時代のラオスで報告されている。そこでは地元担当の役人と名士のニセ者がそれぞれ必要に応じてでっちあげられたが、実質的には地元に尊敬されている人物たちがニセ役人の振る舞い方を含めて、それまで地元を仕切ってきたのだ! ここでの「逃避型社会構造」とは、国家を回避するためにつくられた社会的発明であるというよりは、念入りに仕組まれた階層に守られた、既存の平等主義的な社会構造であった。(p213)》

 

 

 4

 

 ここでは後者の事例が特に興味深い。これは、首長制を導入しようという植民地当局に対して、ほとんどふざけているかのような対策だ。筆者は、別著『弱者の武器』では、暴動や一揆ではなく、逃散・放火・怠惰というような抵抗のあり方を報告して、レジスタンス研究と呼ばれる分野を創出した、というがここで注目するべきなのは、ストライキなどの組織的抵抗――それゆえ、そこには首長ないし代表者がいる――ではなく、個人個人が何の脈絡もなく行うように見えながら、緩やかな組織力を発揮していくような、ごく日常的な抵抗のあり方なのだ。それはまるで子供じみていて、学級崩壊というワードさえ彷彿とさせる。だが、まさにゾミアにおいても行われていたレジスタンスとは、そういうものだったのである。

 

そうした自然発生的な不服従には代表者がいない、という点も注目に値する。帝国側がつねに首長を求めていたように、代表者とは集権的政治の道具であり、レジスタンス側にとっては敗北の始まりなのである。一九世紀に始まった労働運動が二〇世紀に入って変質したのは、はじめは職場改善を求める職人たちのアナーキーな運動として始まったものが、戦時体制下において、安定的な供給体制を確立する必要から、組織的な要求を――したがって、賃金体系や評価基準の確立を――求めるものへと徐々に変わっていった点に求められる。だが、そこにおいても、産業別の横断的な――とくにアメリカでは――労働組合へと組織が大規模化し、代表者を通じた政治的交渉へとその運動が変貌した点は見逃せないだろう。今日でも、様々な争点を持つ社会運動が――それは地球環境であり、フェミニズムであり、同性愛婚であり、反核武装であり、様々なものだ――組織化を目指しているが、それらが代表者を持つようになったとき、その運動は変質していくだろう。これに対して、ゾミアにおいては、子供じみた、無邪気ともいえる不服従が一般的だったのだろう。そしてそれこそが、帝国の――国家の――行政官僚を悩ませたものだった。

 

もうひとつ、ゾミアの人びとの幼稚ともいえる不服従の例を挙げよう。平地国家の間では、労働力を略奪するための戦争が頻繁に行われており、多くの臣民が――かれらの多くは平野において水稲耕作で生計を立てる農民である――貴重な男性労働力を強制的に徴用されたのは、前述の通りだ。だが、彼らのほとんどは徴兵されても、実際に戦地に赴く行軍の最中に山地へ逃避し、どれほど上官が逃げないように懇願しても、その逃散はやまなかった、と筆者は言っている。これほど士気の上がらない軍隊がまともな戦争をやるわけもなく、生命を失ったり傷を負ったりするものは少なかった、という。ましてや、目的は、捕虜を奴隷として持ち帰ることだったのだから尚更だ。これもまた、必ずしも組織的とは言えないような自然発生的な不服従が、ゾミアにおいて一般的だった例である。

 

いずれにせよ、ゾミアの山地民は、組織的な運動というよりも個人主義的でアナーキーな活動が得意だというのは、トッドによるアノミー家族――本著には山地民の家族構造についての記述は少ないが――のイデオロギー的特質と符合する。だが、ここで注目したいのは、その執拗なまでの平等主義的要求が、たんに特殊な家族構造に起因する要求であるということを超えて、宗教的な普遍性を帯びていた、という点だ。

 

本著によると、ゾミアに暮らす人びとは、その土着のアミニズムと仏教やヒンドゥー教、キリスト教などが混合した宗教的多様性にもかかわらず、一様に千年王国運動の人気が高く、国家支配に対する大規模な反乱は――それは断続的に出現するもので、最大のものは太平天国の乱であったという――必ず千年王国の到来を告げる預言者によって導かれたものだった、という。フモンという少数民族は、預言者に率いられて漢民族に対して執拗な抵抗運動を繰り返しインドシナ半島へと敗退した後もフランスやシャムに対して反乱を繰り返した。また、カレンの反乱の多くはビルマに対するものだったが、これは千年王国カルトが中心となったものであった。これらはすべて、――これらの反乱の理由としては、不作や貧困などその時々に様々なものを含んでいたが――国家の階層的支配に対する嫌気という側面があったと筆者は主張している。

 

そればかりではない。注目するべきなのは、これら千年王国運動は、外部国家の支配に対するだけではなく、自分たちの集落に階層性が生じること、つまり国家が芽生えてくることへの抵抗としてもあった。たとえば、先に引用した箇所で、チンに植民地当局が首長制を導入しようとした際に、その反動として生じたような千年王国信仰である。同様の例は、カチンにおいても村長が専制化した時に出現したという。これらの信仰は、すべての人びとが誰の支配も受けることなく、平等な立場で集団生活を送っていくことを願ったものである。千年王国運動は、日常的な不服従が、非日常的な局面で、ときには死に物狂いの抵抗を見せるときの姿なのだ。おそらく、そうした非日常的な局面には様々な危険がつきまとうため、頼りになる預言者を彼らは必要としたのだろう。

 

だが、本著をこうして読み進めていくうちに、脳裏に浮かんで離れなくなったのは、実はアーレントの『全体主義の起原』における無国籍者の記述にほかならない。この見事な論述は、第二次世界大戦に至るヨーロッパにおいて生じたと言われる多数の無国籍者の様子を報告したもので、無国籍者には国家がないゆえに人権がないということの悲惨さをこの上もなく痛烈に伝えたものだ。ヨーロッパが生み出した国民国家、立憲国家という創造物は、既存勢力から人権を守るために国家を作り出した、というものだが、そうした国家が地球上を覆うようになってからというもの、無国家の状態では、したがって無国籍者には人権と呼べるものがなくなってしまったのだ。

 

これに対して、ゾミアの山地民は、無国家の状態において、否、無国家の状態であったからこそ平等主義を貫徹することができた。外部の国家が階層性を導入しようものなら、彼らはまず逃避して別の土地に新しい集落を作ったし、まだ時には千年王国を夢見て戦った。しかし、アーレントが告げていることは、国家が世界を覆うようになった現代において、我々の選択肢はもはや後者しか、つまり国家の中でその支配構造を変革することによって平等主義を実現するしかない、ということを示している。そして、その核となる思想が人権主義だということだ。もはやゾミアの山地民が執拗なまでに追求した平等主義はどこにもないが、それは人権主義を貫くことによってのみ実現出来るのだろう、ということだ。人間的自然として、本著を読んでいく中で再発見したものはこのことである。そして、このことの、人類史における要求の強さ、迫力である。



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