2013年08月06日

規制反対派の 「集団的人権論への反駁」 を批判



最近、本館ブログのコメント欄で集団的人権の話が出ているので、
山口貴士弁護士のブログを参考に、私の見解をエントリしたいと思う。

現在の日本では、表現規制の法律は、個人の人権を侵害する場合のみ
認められるという考え方が主流になっている(らしい)。

個人的法益 - Wikipedia
公共の福祉 一元的内在制約説- Wikipedia

逆に、社会全体の道徳や秩序を保護する目的で、
表現を規制する法律を作ることはできないとされている(らしい)。
道徳的によろしくない、という理由での規制は
憲法違反になってしまう(らしい)。

社会的法益 - Wikipedia

さてそうなると、児童ポルノ法でマンガやアニメなどを規制させたい
規制推進派は、困ることになる。
マンガやアニメの中でいかに児童キャラが性的虐待を受けようと、
道徳的にはけしからんかも知らんが、
特定の個人の人権が侵害されるということは無いから、法制化できない。

そこで持ち出されたのが、「集団的人権」 という概念だ。
どこそこの誰の人権が侵害されている、というのではないが、
マンガやアニメの中で児童のキャラが性的虐待・搾取されることにより、
実在の児童全体の人格が傷つけられる、すなわち人権侵害につながるという論理である。

これは、テレビ番組などで差別用語が使用されることにより、
被差別者や障碍者の人権が傷つけられる、という例えを
用いればよりわかりやすいだろう。
 (そもそもの発祥はフェミニズムに端を発している模様)

私自身、このような理屈で表現規制がされる事については
正直どっちでもいいし興味ないんだが、それを批判する規制反対派の
言い分がどうもおかしい、と感じたので、反論のエントリを立てることにした。
 (コメント欄での回答、という意味も兼ねている)

「集団的人権論」に対する反駁: 弁護士山口貴士大いに語る
      (web 魚拓)

まず山口氏は、集団的人権について、

人権でも何でもなく、自分達が好ましくないものを弾圧する口実として
「人権」概念を用いているだけの屁理屈ですが、
説得力があると誤解してしまう人が出ても困ります。

と批判し、

以下、「女性」を例にとって集団的人権論に対する反駁を行います。
「女性」のところは、「子ども」に置き換えても、大体話は通じます。


と続けているが、
女性の人権とこどもの人権を同列に語れるかどうか、
非常に疑問を感じる。


もっとぶっちゃけて言えば、
女性の人権範囲を恣意的に拡大できないからと言って、
こどもの人権範囲も恣意的に拡大できない、という理屈は
現代日本では通らないのではないか、ということだ。

1980年代、フェミニストたちは、性的表現を 「性の商品化」 と攻撃し、
これらは女性に対する人権侵害であると主張したが、
日本においては一般社会の理解を全く得ることが出来なかった。
しかし、1990年代になって、児童を被写体とした性的表現は人権侵害だ、
という発想が生まれると(輸入されると)、10年もたたずに
児童ポルノ法という形で法制化まで行ってしまった。

女性の 「性の商品化」 は許されるが、
児童の 「性の商品化」 は許されない、
という事になったのだ。


これは、たかだか10年ほどの間に起こった「人権範囲の変化」 である。
すなわち、児童の人権の範囲は、かなり柔軟に拡大解釈が可能であり、
この一例を取ってみても女性の人権と児童の人権を
同列に語ることはできない、という事は明白である。

となると、その後に続く山口氏の批判は
児童の集団的人権にも適用できるか否か大いに疑問、
ということになってしまうのだが、
とりあえず氏の言い分を一つづつ見て行こう。

人権概念の根底にあるのは、自己決定権です。
「集団的な人権」という概念は、自己決定権を基調とする
日本国憲法の人権概念とは相容れないものです。

自己決定権が人権概念の根底にあるのなら、
自己決定権を認められていない児童の人権は、
一体どういう位置づけになるのだろうか?

上述の 「性の商品化」 運動が失敗したのは、
フェミニストたちが女性たちの自己決定権を無視して、
「女性たち自身がどう思おうと、これは女性差別であり、
  人権侵害なのだから、ダメなものはダメ」 とやったため、
男性からはもちろん女性からも 「そんなの私たちの勝手でしょ」
とそっぽを向かれてしまったからである。

しかし、児童の人権に関しては事情が大きく違う。
児童の自己決定権、とくに性的決定権は、
女性と違って最初から認められていないのだ。
「児童たち自身がどう思おうと、これは性的搾取であり、
  人権侵害なのだから、ダメなものはダメ」 と言う理屈が
堂々と通用してしまうという特殊性があるのだ。

したがって、児童の人権に関しては
新しい解釈が必要となるのではないだろうか。


我が国における人権制約の唯一の根拠は、「公共の福祉」ですが、
これは人権と人権が衝突する場合の調整原理です。
「集団的な人権」という概念が認められない以上、
表現の自由と対立する人権が存在しないというべきであり、
「集団的な人権」の「侵害」なるものは、表現の自由を
「法的」に制約すべき根拠とはなりえないというべきです。

これは、上で説明した一元的内在制約説であるが、
これも児童の人権にあてはめて考えた場合、
その原則がそのまま適用されるのか大いに疑問であり、
これはもう 「児童の集団的人権」 という新しい人権が
認められるかどうかという一点にかかっていると言えよう。

女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする
表現の自由の制約を認めることは、
以下の通り、著しく表現の自由を制約する結果を生じせしめますが、
これは、また、この規制を盛り込むのは
『北京宣言行動綱領 第Ⅳ章 戦略目標及び行動』 に
記載されている「表現の自由に矛盾しない範囲」 文言に反し
 (http://www.gender.go.jp/kodo/chapter4-J.html)、
また、日本国憲法第21条に反するものです。


「北京宣言行動」 なるものがどれ程のものか知らないが、
リンクが切れてて確認できないので、キャッシュを拾ってきた。

第4章 戦略目標及び行動

確かにあちこちに 「表現の自由」 に配慮する記述があるが、
全体としてはかなり規制推進派よりの主張であると感じた。

メディア通信において継続的に写し出されてきた
    消極的で屈辱的な女性像は,改められなければならない。
暴力的で屈辱的又はポルノグラフィじみたメディア作品もまた,
    女性及びその社会参加にマイナスの影響を及ぼしている。
メディアで見せつけられる女性差別主義的な紋切り型は
    男女差別であり,本質において品位をおとしめるものであって
    不快である、という考え方を促進すること。
メディアにおけるポルノグラフィ及び女性や子どもへの
    暴力の描写に対し,適切な立法を含め,効果的な施策を講じ,
    又はそのような施策を開始すること。


これって、思いっきり
 集団的人権を是認してないか?


「表現の自由が大事」 程度の事はアグネスだって言ってるわけで、
「表現の自由」 がどう定義されているのかが分からないと、
北京宣言行動を根拠に集団的人権を否定できないと考える。

特定の個人を名宛人としない表現行為には
具体的な被害者がいない以上、
「集団的な人権」が侵害されたか否か、どの程度侵害されたかは、
公権力が恣意的に判断することが可能になります。
謂わば、公権力に表現内容の是非を判断させる自由裁量権を
付与するに等しい結果となります。

こういう文脈でいつも出てくる 「公権力」 って
一体何なんだろうか?
警察?検察?立法府?行政府?一部の悪徳政治家?官僚?
司法含めた三権が揃って妥当だと認めるなら、
それはもうそれで自由にやらしときゃいいんじゃないのか?
何を根拠に自由裁量権を与えるな、などと言っているのだろうか?

「集団的な人権」が侵害されたか否かを
判断するのは誰なのでしょうか?
表現をどのように受け止めるかは、最終的には個々人の問題です。
人の感性がさまざまである以上、ある種の表現について差別的と
受け止める女性もいるでしょうし、
あるいは、問題ないと受け止める女性もいるでしょう。
全ての女性に意見を聞くのでしょうか?

この主張の 「女性」 を 「児童」 に変えるなら、
侵害されたか否かを判断するのは大人社会という事になる。
具体的には、民意の委託を受けた公権力が判断することになる。
全ての、どころかただの一人の児童の意見すら聞く必要はない。
なぜなら、児童は判断能力が未熟とされているので、
何が人権侵害で何がそうでないかの判断がつかないからである。

「集団的な人権」が侵害されたか否かの判断は
公権力が行うことになります。
その際には、規制に反対する当該表現は問題ないと
考える女性の自己決定(意思)は無視される結果になります。

この主張の 「女性」 を 「児童」 に変えるなら、
その通りで別に何の問題もない。

「女性の集団的な人権」という概念を認め、
「女性の集団的な人権」の侵害を根拠とする
表現の自由の制約を認めることは、
非常に安易な「表現狩り」につながりかねず

この主張の 「女性」 を (以下同文)
「安易に狩られてはいけない表現」 ってどのくらいあるんだろうか?
オタクたちはまたどうせ 「あの名作が」 とか、「ジャンルが滅びる」 とか
「全ての表現は後世に残さなければならない」 とか言うんだろうが、
ロリ漫画ごときに、一般人のほとんどはそこまで思い入れないし、
政治的にも芸術的にも価値を認められない即物的エロ描写の一部が
無くなったって何も困らないと考えるだろう。
これもまた、三権が妥当と認めるのであれば、それは妥当なのであり、
「安易」 という形容こそが 「安易」 という謗りを受ける事になる。

差別を論じるためには、差別的な表現を
避けて通ることは出来ないことは言うまでもありません。

児童の場合は差別ではなく、性的搾取や虐待にとって代わるのだが、
別に視覚的なエロ描写に頼らずとも、政治的な主張は十分可能である。

「集団的な人権」という概念を認めてしまうと、
「集団的な人権」の対象となる集団が際限なく広がってしまいます。

児童に限定すればよい。
もちろん、児童と同等の人権解釈を適用することが
妥当と目される集団が出てきた場合も、
民意の委託を受けた三権が適宜判断していけばよい。
社会の同意があるなら、ユダヤだろうとオウムだろうと
特別な人権解釈を付与されても別に不満も起きないだろうし、
そうであるなら際限なく広がって何が悪い?という話になる。

「集団的な人権」に対する侵害を根拠とする
表現の自由に対する法的な制約を認めてしまうと、
特定の「集団」が自らに対する批判を封殺するための手段として、
刑事手続きや訴訟制度を悪用する可能性があります。

悪用っていったい何?と思いきや、

例えば、ある企業ないし団体の構成員が、
自らの所属する集団に対する批判を封殺するために、
個々の構成員が原告となって一斉に全国で
訴訟提起するようなことが考えられます。

集団訴訟ってやっちゃいけない事だったのか。
法に認められた権利だったと思ってたんだが、
これって要するに山口弁護士個人が
「俺は気に入らない」 っていいたいだけとちゃうんかと。



こうやって見てみると、山口弁護士が言ってる事はおかしいが、
それとは別に集団的人権というものが認められるには
まだまだ時間がかかりそうだという事はわかる。

わかるんだが、その障害になりそうなものを考えた場合、
影響力の強い順に 

①民意 ②法制局 ③司法 ④野党 ⑤学者 ⑥規制反対派

って感じになるんだろうか。

マスコミや与党・野党は、民意が支持すればどうでもなりそうだし、
法制局も議員立法なら閣法ほどには突っ込まないらしい。
司法も、いつまで経っても社会法益による表現規制を認めた
チャタレイ裁判の判例を手放さないし、
児ポ法の裁判でも社会法益的に判決だしてるらしいので、
意外とあっさり合憲判断を下すかもしれない。

学者は反対するだろうけど、民意の支持が大きい場合、
声がかき消されてしまわないだろうか?
規制反対派はまあ、おまけだな。大したことはできない。
少なくとも山口弁護士の反駁を大きく超えた理論が必要になるだろう。


■ 参考リンク ■
集団的人権論についてのつぶやき - Togetter






captain_nemo_1982 at 05:30│Comments(6)TrackBack(0)児童ポルノ法関連 

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この記事へのコメント

1. Posted by わらぽん村の名無しさん   2013年08月08日 23:57
ポルノは人権侵害、という主張は認められないからこそ
規制派も、児ポ法で附則なんてものを使ってくる訳で。
連中も、「マンガやアニメの中で児童のキャラが性的虐待・搾取されることにより、
実在の児童全体の人格が傷つけられる、すなわち人権侵害につながる」
という主張が決定打になれないと思ってるんですよ
2. Posted by neko   2013年08月20日 21:59
やはりわからないのが
「マンガのキャラが性的虐待を受ける」→「実在の児童の人格が傷つけられる」
という流れ。
飛躍し過ぎて全く理解できないのですが、
せめてこの中間を埋める説明はないのでしょうか?

>>「児童たち自身がどう思おうと、これは性的搾取であり、
>>人権侵害なのだから、ダメなものはダメ」 と言う理屈が
>>堂々と通用してしまうという特殊性があるのだ。
判断能力が未熟なことによるある程度のパターナリズムは仕方ありませんが、
話しぐらい聞いてやってもいいのではないでしょうか。
子どもの権利条約でも、年齢と成熟度を考慮する必要はありますが
「意見表明権」を認めています。

また、子供の自己決定はたいてい親が代替していると思われますが、
当該表現は問題ないと考える「親」の意思は無視されてしまうのでしょうか?
大人の間でだって「どうでもいい」という意見がほとんどでしょうが。
3. Posted by neko   2013年08月24日 21:03
参考リンクを見てみました。
「創作ポルノが子供の尊厳を傷つける」という考えが主流になれば、
子供に「人権を侵害されていると思わなければならない」
という規範を押し付けることになるのではないですか?
その規範を押し付けることに、はたして正当性はあるのでしょうか?
嫌悪感を覚える人、見たいと思う人、どうでもいいと思う人、
感じ方は人それぞれだと思います。
集団の持つ価値観は一枚岩ではありません。
それは子供であっても、その親であっても変わりはないはずです。
児童ではないポルノには集団的人権は適用されていないのに、どうして子供や親にだけ「一枚岩になる」
ことを強要する必要があるのでしょうか?

4. Posted by neko   2013年08月24日 21:11
「その表現が存在すること自体が嫌だ」と言う人がいれば、
その人には悪いですが、わがままを言ってるようにしか聞こえません。
私はあくまで「見る自由と」「見ない自由」の両方を尊重して
調整にあたるべきだと思います。
規制したところで完全消滅するわけではありませんし、
見てもいないのに勝手に妄想膨らまされても困ります。
見たというのであれば、「見ない自由があるのにどうして見るのか」
ということになりますね。
世の中、気に入らない表現なんて探せばいくらでもあるわけですから、
いちいち気にしていてもしかたがないと思いますよ。
どうしても嫌なのであれば、「表現で対抗する」という手段は残されています。
5. Posted by captain_nemo_1982   2013年10月08日 12:28
返事が遅れて申し訳なかったです。
neko さんへの回答はこちらで行っています。

http://captain-nemo-1982.doorblog.jp/archives/54632753.html
6. Posted by     2014年07月06日 05:07
『ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった』

○○は興味ないから、は理由にならない。
もう少しよく調べてから書いてください

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