北野武と松本人志の違い。
北野武は、「ビートたけし」ではとれない映画を撮ろうとしている。
松本人志は「松本人志」にしかとれない映画を撮ろうとしている。
この違いは、かなり大きいんじゃなかろうか。
つまり、ビートたけしと松本人志の最大の違いは、松本人志は監督をする際も「松本人志」であり続けていることだと言いたい。
で、「しんぼる」っていう映画の評価はともかくとしても、この一点だけで、松本人志の映画への態度は真摯だと僕は思う。
また、その意味で、「北野武」の映画と松本の映画を比べたがるメディアは、やっぱりバカだとしか言い様がない。
北野武だって、「ビートたけし」名義で撮った「みんな〜やってるか?」は賛否両論ぶーぶーだったわけだし。
芸人が芸人として映画を撮るってことの意味は、もう少し考えてもいいんじゃないか。
(余談だけど、例えば同じお笑い畑でもちゃっかり名前を変えた上で自伝を映画にする品川ヒロシはやっぱり汚賢い)
くどいけど、松本が、「松本人志」として映画を撮るということは、芸人という看板を掲げたままカメラを回すということなわけ。
これは、かなりの覚悟と誠意のある行為だと、個人的には思う。
まあ、撮りにくい状況に自分を追い込む自殺行為であることも明白なので、その辺りは、松本人志のM気質って言葉で片付けられてしまうのかもしれないけど。
まして、松本はこれまでの業績から、「今まで誰も見たことのないお笑い映画」っていうものが要求されてしまった。(もしくは自分からそれを公言した)
これを引き受けてるんだから、究極のマゾとしか言い様がない。
「今まで誰も見たことのない映画」っていうのは、言い換えれば「そもそもそれがこれまでの定義通りの『映画』であることは求められていない」ということで。
これは、最初から反則技をすることが期待されているプロレスみたいなもんだ。
で、松本人志が選んだ反則技が「スクリーンに耐え得るコント」を撮るってことだったんだろう。
確かにそれは、松本にしかできない。
できあがった代物はやっぱり、「松本人志」の塊だった。
前作「大日本人」もそうだったけど、今回の「しんぼる」はほんと、ビジュアルバムに入っていてもおかしくないくらいに、松本人志色が強かったと思う。
まあ、その結果として、評価はかなり微妙になったわけだけど。仕方ないよな。
だって映画館に映画を見に行く人は「映画」を見に行く人が大半なわけで。
それに対してこれはどう考えても映画である前に、「芸人松本人志のコント」なんだから。映画館にわざわざ足を運ぶ人や、あるいは映画評論家とは、そもそもニーズが合致していない。
そういう意味では、北野武の映画の評価が高かったのは、そこからビートたけしの匂いがしなかったからっていう側面もあるはず。
どちらも天才であるとしても、ビートたけしという芸人は分裂症気味の多重人格者であり、北野武というペルソナをうまく使いこなせた。
それに対して松本人志は自閉気味の躁鬱(+マゾ)という言い方ができるのかもしれない。どこまでいっても松本人志。わけいってもわけいっても松本人志。
何はともあれ、これからも松本人志は松本人志として映画を撮っていくのだとしたら、いつまでも「誰も見たことのない映画」を求められるだろう。
これは言い換えると「王道の映画」は撮らせてもらえない、もしくは撮れないということだ。ひたすら反則技を探し続けるしかない。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないが、とりあえず、そういう道に自分を追い込んでいく松本人志という芸人は、やっぱりおもしろいよなあとは思う。
追記
北野武は、もともと役者として映画の道をスタートした。
松本人志は映画の批評(?)から映画の道をスタートした。
ってのも、結構でっかい違いかもなあ。
松本が映画批評をしていなかったら、松本自身も、あるいは周囲も松本が「王道」を撮ることにそれほど抵抗はなかった気もする。
で、「しんぼる」っていう映画の評価はともかくとしても、この一点だけで、松本人志の映画への態度は真摯だと僕は思う。
また、その意味で、「北野武」の映画と松本の映画を比べたがるメディアは、やっぱりバカだとしか言い様がない。
北野武だって、「ビートたけし」名義で撮った「みんな〜やってるか?」は賛否両論ぶーぶーだったわけだし。
芸人が芸人として映画を撮るってことの意味は、もう少し考えてもいいんじゃないか。
(余談だけど、例えば同じお笑い畑でもちゃっかり名前を変えた上で自伝を映画にする品川ヒロシはやっぱり汚賢い)
くどいけど、松本が、「松本人志」として映画を撮るということは、芸人という看板を掲げたままカメラを回すということなわけ。
これは、かなりの覚悟と誠意のある行為だと、個人的には思う。
まあ、撮りにくい状況に自分を追い込む自殺行為であることも明白なので、その辺りは、松本人志のM気質って言葉で片付けられてしまうのかもしれないけど。
まして、松本はこれまでの業績から、「今まで誰も見たことのないお笑い映画」っていうものが要求されてしまった。(もしくは自分からそれを公言した)
これを引き受けてるんだから、究極のマゾとしか言い様がない。
「今まで誰も見たことのない映画」っていうのは、言い換えれば「そもそもそれがこれまでの定義通りの『映画』であることは求められていない」ということで。
これは、最初から反則技をすることが期待されているプロレスみたいなもんだ。
で、松本人志が選んだ反則技が「スクリーンに耐え得るコント」を撮るってことだったんだろう。
確かにそれは、松本にしかできない。
できあがった代物はやっぱり、「松本人志」の塊だった。
前作「大日本人」もそうだったけど、今回の「しんぼる」はほんと、ビジュアルバムに入っていてもおかしくないくらいに、松本人志色が強かったと思う。
まあ、その結果として、評価はかなり微妙になったわけだけど。仕方ないよな。
だって映画館に映画を見に行く人は「映画」を見に行く人が大半なわけで。
それに対してこれはどう考えても映画である前に、「芸人松本人志のコント」なんだから。映画館にわざわざ足を運ぶ人や、あるいは映画評論家とは、そもそもニーズが合致していない。
そういう意味では、北野武の映画の評価が高かったのは、そこからビートたけしの匂いがしなかったからっていう側面もあるはず。
どちらも天才であるとしても、ビートたけしという芸人は分裂症気味の多重人格者であり、北野武というペルソナをうまく使いこなせた。
それに対して松本人志は自閉気味の躁鬱(+マゾ)という言い方ができるのかもしれない。どこまでいっても松本人志。わけいってもわけいっても松本人志。
何はともあれ、これからも松本人志は松本人志として映画を撮っていくのだとしたら、いつまでも「誰も見たことのない映画」を求められるだろう。
これは言い換えると「王道の映画」は撮らせてもらえない、もしくは撮れないということだ。ひたすら反則技を探し続けるしかない。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないが、とりあえず、そういう道に自分を追い込んでいく松本人志という芸人は、やっぱりおもしろいよなあとは思う。
追記
北野武は、もともと役者として映画の道をスタートした。
松本人志は映画の批評(?)から映画の道をスタートした。
ってのも、結構でっかい違いかもなあ。
松本が映画批評をしていなかったら、松本自身も、あるいは周囲も松本が「王道」を撮ることにそれほど抵抗はなかった気もする。

ただあっちはDVD収録なのでもとから野性爆弾のファンしか見ない前提ですし、ところどころ映像より音楽が勝ってるんですが、塔婆を貧乏墓と称して振り回して修行する様は野性爆弾にしかできないことだと思います。