この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

戦争のマンガ。
でも、戦争のマンガである前に、どこかのだれかのくらしのマンガ。
絵というものが、こんなに芳醇な表現手段であったこと。
物語というものが、こんなにも優しいものであったこと。

そんな絵と物語を組み合わせれば、クソみたいな世界でも誰かを笑わせたり、どこかに花を咲かすことができること。

そんな当たり前の事を思い出せた

当たり前のことだけど、芸術も、物語も、「現実」ではない。
本当のことばっかりでもない。
その意味で、それらは、誰かがついた嘘だ。

でも多分、昔からずっと人間は絵や物語という嘘で、この世界のどこかに、だれかに、ほんの少しの光を当ててきたのだ。
たとえ、全人類を救うようなことはできなくても、かすかでささやかな嘘でしか紡げない光がある。
だから、そんな光でも、やっぱり希望と呼ぶのだろう。

マンガっていうジャンルは、芸術であり、物語である。
まあ、映画とか演劇なんかもそうなんだけども、特にマンガは「芸術」と「物語」が共存できるというか、拮抗できるジャンルだと思う。

「この世界の片隅に」はその、マンガのポテンシャルみたいなものにものすごく自覚的なマンガだった。

マンガの絵ってのが物語を語るためにあること、そして物語を語るためならどこまでも自由だってことが、これを読むとよくわかる。
また逆に、マンガの物語ってのが絵に、線で描かれている以上のものを語らせるってこともよくわかる。
絵の奥に何重にも世界が広がっている。

上巻から、あらん限りの実験的な手法(マンガ内マンガとか、時間軸の意図的なずらしとか)が、さらさらさらっとまるで何でもないことのように「サザエさん」みたいな牧歌的な物語に紛れ込んでる。
そのことにまず驚いた。
でも、その妙技が、あまりにも鮮やか且つ、さりげないから、読んでいる間はあんまり気付かない。
でも、読み終えるとどっと疲れた自分がいてた。
多分、このマンガを読むとき僕はいつものマンガを読む時の何倍もの想像力と創造力を駆使していたんだろう。
そりゃあそうだよな。
一話一話に語られている世界の芳醇さの桁が違う。

描かれているのは、普通の生活だ。
戦争中の普通の生活。
もちろん、戦争なんだから、「サザエさん」的な物語はずっと続くわけではない。

下巻に入ると、そこではもう悲惨なことしか起こらない。
可哀想で、読むのをやめたくなる。
でも、語弊を承知で書くが、「おもしろくて」読む手が止められない。

楽しい事なんて起こるはずがない。
悲しい出来事が続く。

なのに、その後には笑いがあり、やさしさがある。
ふりかかる悲惨な現実に潰されず「普通の人間として」生きる人々のしたたかさがあった。
それをやさしく紡いで、奇跡みたいな美しさで作品は終わる。

そりゃあ、戦争が舞台だ。
現実は笑ってられないし、いくら人間がしたたかでも死ぬ人は死ぬ。
多分、ここで描かれているのはほんの上っ面で、内面はもっとどろどろしてたんだろうし、もっともっと地獄だったんだろう。

でも、それでも生き残った人は生きていかなきゃ仕方がない。
だったら、そこに必要なのは「希望」だ。

だからこの作者はある種のファンタジーの技法を駆使して、「芸術」と「物語」の両翼で、極限状態の後でも、笑ってしまえる人間のおかしさと悲しさを描いたのだろう。

極限状態で笑ってしまえるってのははもしかしたら嘘かもしれない。
現実には、極限状態の人間なんて、醜いだけなのかもしれない。
でも、作者はたとえ嘘でも、その醜さの向こうにあるものを描いた。
そのささやかな嘘は、現実への抵抗だと思う。

そのささやかな抵抗が最後数ページの奇跡みたいな美しさに繋がっている。

ある意味で、これは嘘の塊であり、希望の捏造なのだ。
だから、戦争を体験した人に、このマンガがどう映るのかわからない。

でも、戦争を体験していない僕にとって、このマンガで描かれる人間のしたたかさややさしさは、確かに希望だった。

そしてそれは、多分、作中で登場人物達が、架空の物語に感じた希望と同じ種類のもの・・・・つまり、嘘の光だとわかっていても、信じられる希望だったのだとも思う。

何度も繰り返して読み、読み返すたびに、絶望も希望も含めて、世界の芳醇さは増していった。
「戦争がわかった」なんてことは口が裂けても言えないけど、人間のことはちょっとだけわかった気がした。
そんな素晴らしい読書体験。

おすすめ。