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話題作。
映画界に限らず、芸術という分野では「恐るべき子ども(アンファン・テリブル)」と呼ばれる存在はわりと渇望されている感じはあって。
数年おきに、そういう若い才能は出てくる。
例えばハーモニー・コリンとかさ。(今何してんのか、よく知らないけども)

で、若い頃はそういうのにいちいち反応していたものだけども、30を越えた辺りから、まあもうどうでもいいかなぁってな感じにはなってきた。

さてさて本作の監督、グザヴィエ・ドランも若干26才の若き才能で、所謂アンファン・テリブルらしい。
で、そういう才気走った監督にありがちなギミック満載の映画だった。
なにせ基本1:1の正方形による画面構成だ。
これだけで、変な映画であることは間違いない。

で、普通の映画なら見ることのできるはずの端々が見られない映画体験というのは、それだけで息苦しくストレスが溜まる。
開始してしばらくは慣れない画面が非常に鬱陶しかった。
でも、そのストレスはそのまま、登場人物達が抱える生きづらさとリンクしているとも言えるわけで。
結果、観客は知らず知らずのうちにシングルマザーとADHDを抱えた息子、それぞれに同調してしまっている。
これはなかなかのやり手だなぁと感心した。

ただまあ、このやり方って下手したら人間ドラマを役者の演技以上に、編集が語ってしまうことになりかねない。
そうなると、嫌味な感じだけが残りそうなものだけども。
そこは、役者陣がきっちり応えている。
特に息子役のアントワーヌ・オリヴィエ・ピロンが素晴らしい。
自らをコントロールできなくて手が付けられないほどに暴れ回る暴力的な一面と、人懐っこく美しい一面を演じ分ける・・・というよりは連続した一つの個性として演じている。
これはなかなかのものじゃなかろうか。
で、彼が「魅力的」に見えてしまうからこそ、彼を育てる母の葛藤にも感情移入できる。
息子は可愛い。
でも息子は厄介。
この二つの間で引き裂かれるような感情は、多分、おそらく、世界中のMOMMY達が、程度の差はあれ感じることなのだろう。
他人の人生を体験できるというのは、まさに映画を見る醍醐味なのであって。
男である自分が、それを体験できただけで、この映画はたいしたものだと思う。

で、あるシーンで、その鬱屈した葛藤が、それこそ画面いっぱいに開放されるのだけども。
そこで流れる曲の選曲もあって、そのカタルシスには、なんというか全身の毛が逆立つような快感があった。
ただただ、その曲の流れる5分間だけは心地いい。
全能感というか、万能感というか。
とにかく、主人公の「今、自分は絶頂期にいる!!!」っていう喜びに、自分の鼓動も早くなる。
このシーンを見ることができただけでも映画館に行った価値はあった。
まあ、振り返って見ると、あまりにも技巧的な感動なので、若干の「してやられた」感はあるのだけども・・・・。

とはいえ、このシーンの絶頂感は、逆に言うと、この後はどうしようもないだろうな・・・という絶望的な気持ちの裏返しでもあるわけで。
そこを堺に映画はまた閉塞していく。
そして、その閉塞感はラストまで解消されることはない。
それどころか、この映画で提示されるほとんどの葛藤は解消されない。
解消されないばかりか、よりひどくなって終わる。
だから、鑑賞後はやたらと悶々としたものが残った。
先に書いた絶頂感のあるシーンが素晴らしかっただけに、見終わった後の悶々としたものは大きく感じられた。

まあ、この辺もアンファン・テリブルならではのバランス感覚なんだろうなぁ。
最終的に映画を観客に委ねないというか、渡さない感じ。
あくまでも自分の映画。
自分の映画だから、単純なハッピーエンドにはしない。
そう簡単に観客に『共感』させないし、『理解』もさせない。
そんな感じはした。

だから、この映画を一番好きなのは監督なんだろう。

で、先にも書いたように、今の自分はそういう才気が走り過ぎた感じは、まぁもういいかなってなモードなのだ。
だから、自分にとってこれは、決して大好きな映画にはならなかった。
でも、ずっと記憶に残る映画にはなった。