シェイプ・オブ・ウォーター(オリジナル・サウンドトラック)

深夜に鑑賞したせいもあってか、なんだかとても暗い映画を見た印象だった。

女性が、半魚人と恋をする話。

言ってみれば、それだけの話を、異様なまでの作り込みで「大人の寓話」に仕立てる。
この手腕はさすがはギレルモ・デル・トロ監督といったところで。
アカデミー賞をとっただけのことはあると素直に感服した。

で、この異形の者が人間と恋に落ちるっていうプロットは、当然というか必然というか、社会的にのけ者にされてきたモノたちへの愛の讃歌になるわけで。
これって一昔前なら、ティムバートンが担っていた役割だと思う。
シザーハンズとかさ、バットマンとかさ。
でも、まあ今はそれを一手に引き受けているのがデル・トロ監督なんだろうなぁ。
ティムバートンっていう作家性は唯一無二のものだと勝手に思っていたので、まさか、そんなところでも世代交代が起ころうとは・・・・と妙な感慨に浸った。

で、まあオタク男にとって初期のティムバートンっていうのは涙なしに語れない監督なわけで。
当然、その後継者たるギレルモ・デル・トロ監督もオタクには大人気だ。
パシフィックリムが、その地位を確立したんだろうけども、思えば初期の頃からずっとこの監督はマイノリティとしての怪物たちに優しい・・・優しすぎる視線を降り注いでいた。
で、まあ自分もその優しい視線にうっとりしたりはしていたのだ。

ただ、じゃあこの映画が手放しに絶賛かというと、それはなんというか、なかなか難しい問題で。
この映画のおとぎ話としての完成度の高さとか、映画としてのルックの質の高さは認めた上で、この映画の絶望的なまでの閉塞感にはちょっと納得できないものがあった。

というのもそもそもこの映画、怪物と女性の恋の物語ではあるけれども、失礼ながら「美女と野獣」ではないわけだ。
主人公を演じるサリー・ホーキンスは、演技は凄まじいけども決して美人女優ではないし、映画内でもそういう描かれ方はしていない。
しかも、彼女は幼い頃の虐待がもとで声が出せず、限られた人と手話でのみ会話が成立するという存在。
現代でも、障がい者に対する差別というのは根深い問題だ。
まして、この映画の舞台は60年代だ。
彼女に対する差別の目の冷たさは想像を絶するものがあっただろう。

そんな彼女をとりまく仲間達は、ゲイでハゲの同居人に、黒人のおばちゃんと、これまたマイノリティとされる側にいる人たちで。
主人公は、そんな同居人に住居を提供してもらい、黒人のおばちゃんに毎日遅刻をカバーしてもらって生きている。
つまりは、主人公の生活は全てマイノリティ達の”助け合い”によって成立している。

対してこの映画の”悪役”は、マッチョで強権的な白人男性。
つまりは、今現在の政権の支持者と言われる人たちの合わせ鏡みたいな像で。
勿論彼らなりの息苦しさは十分に描かれているとは思うのだけども、つまるところ60年代に於いては圧倒的な多数派なわけだから、そこを切り取ってこの映画はマイノリティーが協力して世界に一矢報いる話と見えなくもない。
実際、その部分がこの映画のエンタメ部分の半分を担保している。

でも、そこをもって、デル・トロ監督のマイノリティへの優しいまなざしの映画・・・とするのはちょっと単純過ぎる気がする。

この映画が本当に描いているのはマイノリティである女性が、それよりもっとマイノリティに属するものに恋をする姿だ。
現実世界では恋に落ちることのなかった(ように見える)女性が、半魚人との恋のようなものにどハマリするっていう構図はなんというか、出口が見えない。
しかも、その恋に落ちる様子は、本当に何のロジックもなく、一方的に恋に落ちていく。
勿論、恋にロジックなんてない。
でも、映画ってのはそこを演出なりなんなりで観客に納得させるから映画なのであって。
本作は、ヒロインが序盤から半魚人への愛を唐突に、一方的に貫いていく。

それは、なんというか「半魚人が好き」なのではなくて、「半魚人も愛せない現実が嫌い」なように見える。
ものすごく穿った見方をすれば、モテない女が、現実逃避、あるいは自己有益感を満たすためにより弱い存在に手を差しのべる・・・・と見えなくもないのだ。

デル・トロ監督にしてみたら、半魚人と人間の恋を成就させるっていうことが悲願だったそうだけども。
その成就の形があのエンディングであること。
そしてその恋の相手が、手話でしか会話ができず、満たされない毎日を送る女性だということ。
そこには「寓話」では片付けられない、変な”リアリティ”がある。
そして、そのリアリティは、見ていて心地のよいものではない。

マイノリティはマイノリティ同士で傷を舐め合っておけよという視線にも見えるし。
あるいは、マイノリティにとって恋とは結局こういうものでしかないという諦念にも見える。
勿論、監督は半魚人に心からの愛を注いでこの映画を作ったのだろう。
ただ、それはデル・トロ自身の、「フリークスへの愛を誰も理解してくれなかった現実」への反撃の狼煙でもあったのではないか。
本作のヒロインが、盲目的に半魚人に共感し、のめり込んでいく姿は、監督のこの映画の制作動機と寸分たがわずに重なって見える。
そう思うと、この映画で描かれる愛が、なんとも出口のない、暗く淋しいものに見えてくる。
だからこそ、映画館を出た僕の足取りはなんだかすこし重かった。

まあ、とはいえ部屋が水で満たされていくラブシーンとか、風で流れる水滴のマジックとか。
あるいは、ヒロインと同居人のタップシーンとか。
いたるところに映画的なマジックは起こっており、見ていて楽しい映画であることは間違いない。
また、本当に息苦しくなってきた今のご時世、映画・・・というか、あらゆるエンタメがちゃんと現実に対してメッセージを送る必要があるっていうのも間違いない。
だから、この映画を否定するつもりはないのだ。
ただ、手放しで肯定するには、自分はちょっと汚れつちまったっていうことなのだろう。