中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

言われて見ればそうだよなと、腑に落ちた。
てか、腑に落ちるのはわりと早いんだけど、落ちた後も咀嚼に時間がかかってた。
てか、未だ咀嚼中。

まあ、普段あまり読まない類の本なので、なかなかに歯ごたえがあったのは確かで。
格好つけずに言えば、読むのに時間がかかった。
だから、書かれたいることの全てを理解したとは到底言えない感じではある。
それでもこの本を読む前と読んだ後ではちょっとだけ世界が変わった。
いや、変わったんじゃないな。
違う視点でも見られるようになった。
この歳になると違う視座を得られるという機会自体が非常に得難いものなので、大変有意義な読書だった。

以下、自分なりの解釈を簡単に。

現在、この世の中の動詞は「能動態」と「受動態」によって支配されている。
でも、本当にその二つだけが、「態」なの?っていう疑問からスタートする本作。
しかもその疑問が、所謂依存症患者の「話している言葉が違う」という言葉から発するというのが、なんとも生々しい。

つまり、この本が取り上げる「態」の問題はそもそもが非常に生活とか人間の生理に根ざしているのだ。
だからこそ、とかく頭でっかちになりそうなこの手の話なのに、自分のこれまでの経験とつなげて考えることができた。
で、読みながら考えたことを今、生活の中で再検証できる。
この、再検証ってのが新しい視点になっているのだと思う。

さてさて、では、何をもって「話している言葉が違う」と言うのかとうことなんだけども。
自分の理解ではそれは「意思の在り場所」から生ずる違いだ。

普段自分達が使っている言葉が基本的に「〇〇する」という能動態と「〇〇される」という受動態の二種類しかないとして。
受動態に於ける意思は、当然その話者に働きかけた人、英語で言うならby〜で表される人にある。
能動態に於ける意思は当然、その文の主語にある。

だから、例えば「私は酒を飲む」という能動態に於いて、酒を飲むのは、私の意思によるものと解釈されるわけだ。
でも、アルコール依存の人にとって、それは本当に全てその人の意思と言えるのかというのが、本作の問いかけだ。

で、そこからそもそも「意思」とは何か。
あらゆる決定には様々な外的要因がある中で、完全な「意思」なんてものが有り得るのか。
例えばカツアゲにあったとして。
暴力で脅されて金を払った時、その「金を払う」という行為は、行為者の「意思」と言えるのか。
そういう話。

この世界の動詞を「能動態」と「受動態」のみに分けてしまうということは、常にそれらの行為に於ける「意思」の所在をはっきりさせるということなのだと、本書は説く。
その上で、歴史をさかのぼってみれば、本来、能動態と対になっていたのは、「受動態」ではなく「中動態」だったという事実を明らかにしていく。

中動態とは、主語がその行為の結果の内側にある態であり、その対としての能動態は行為の結果が主語の外側に及ぶもの・・・らしい、
古代では、その言語が思考のベースになっていた。
で、受動態ってのはこの中動態から派生したものだと。
例えば殴られるって言葉は受動態だけども、もともとそこに行為者の特定はマストではないわけで。
ただ、殴られた後も痛みという結果が主語には残る。
その意味で受動の前に、まず中動態...主語がその行為の結果の内側にいる態...で表現することができた出来事なのだというわけ。

つまり、もともとは誰の意思でその出来事が起こったのかってことは古代ではそれほど重要視されていなかった。
それどころか、全ての行為にはそれを行うための「意思」があるとされる(そしてそれは往々にして間違いなのだけども)思考は、中世以降に作られていったものであり、そもそも古代ギリシャでは、「意思」を直接指す言葉すらなかったというのだ。

書かれている内容は文法と哲学の歴史を自由自在に飛び回るため、なかなかにややこしい。
でもこうして自分が見ていた「する」「される」の世界が一変していくというのは、かなりスリリングな体験だった。

人間は、当たり前だけども言語を使って思考する。
往々にして僕らは思考があって、それを表現するために言語があると思いがちなのだけども。
実際は逆だ。
まず言語があって、その言語に合わせて思考はアウトプットされる。
だから「くやしい」という言語のない世界だったら「くやしい」という概念が存在しない。
(実際、世界には日本語に翻訳できない言語は数多ある)

その意味で、中動態のない世界では、「意思のない行為」が存在できない。
先のカツアゲの例で言えば、「でも金を払ったのはあなたの意思でしょう」というわりと無茶な「自己責任論」がときにまかり通ってしまう。
カツアゲだと極端だけども、これをアルコール依存だとか、薬物依存に置き換えれば、自己責任という言葉はわりと普通に当てはまる。
そして、そう考えると今の世界の息苦しさの一端が垣間見える。
例えば上司の命令に仕方なく従うこととか、上司の顔色を見て忖度することとか、そういうことだって自分の意思と見なされる。
あるいは家族や友人との関係に於いて、色々な諸条件と擦り合わせて決定されたあらゆる行為だって、実行されて瞬間からは自分の責任だ。

中動態の世界であった太古にさかのぼって見れば、人間はそもそも意思の在り所を「自分」と「他者」と分けることを重要視していなかった。
つまり、太古の社会に於いては、先にあげた例は全て「行為」だけがあったのであり、その行為の主体は明確にされなかったし、される必要はなかった。

意思とは中世以降に人工的に作られていった概念だ。
おそらくは、意思の所在を明確にすることが要請されていったのだろう。
そして、それが完成した瞬間から、人間の思考、あるいは社会に根本的な変化が起こったと考えるのは不自然ではない。

勿論、変化があったからといって、その変化前が正しかったというものでもない。
だから本書を読んだからといって、「意思」を否定して生きていこうと思うわけではない。
少なくとも今は、「意思」が全ての行為にあると、見られる社会だ。
そこでふさわしくない、中動態の言語は淘汰されてしまっている。
だから、自分だけが「意思の所在」と関係なく生きていくということは不可能だろう。

でも、中動態という世界がかつて存在したこと。
あるいは、中動態という考え方があるということ。
それを知ることは、これからの自分の生き方に於いてとても新鮮で、とても重要な視座を与えてくれた。
なんというか、わりといろいろと息苦しくて生き苦しい世の中に於いて、この視座を得ることは、少し風通しがよくなる体験だった。