セッション(字幕版)

話題に乗り遅れること数年で、やっと鑑賞。
ただ、ネットでなんぼでも過去の評を読めてしまう最近の時間感覚だと、これだけ周回遅れにも関わらず、それがそんなに気にならない。
いいのか、悪いのか・・・・・・・。

ただまあ、こっちが周回遅れになっている間にも時間は流れている。
時間が流れると、当然状況も変わるわけで。
状況が変われば見方もそれに影響を受ける。
特に今回は、今見ることで明らかにまた違う印象の映画になっている。

というのも、この鬼教師VS生徒っていう構図は今だとどう考えても日大のあの事件を連想せざるを得ないからで。
まあ、なんというかそういう意味でわりと後味の悪い映画ではある。

勿論本作は最終的な決着は日大のアレとは大きく違うわけだけども。
結局のところここで描かれているのは教師と生徒という関係の歪さなわけで。
それを極端にカリカチュアライズして描いたのが本作で。
それを更に上回ってきたのが日大のアレと。
まあ、そういうことだろう。

じゃあ、その歪さってなんだろうってことなんだけども。
つまるところ、教師と生徒をつないでいる権力の構造は、生徒が教師の力量に対して尊敬を抱いているというわけではないというところに尽きるだろう。
例えばベストキッドのミヤギ師匠とか、ドラゴンボールの亀仙人とか、バケモノの子の役所広司とか、まあなんでもいいんだけども所謂「師匠」と呼ばれる役割と、その弟子の関係は、基本的に弟子が師匠を尊敬(歪な尊敬もあるけども)していることで成り立つ。
だから、弟子は自分で師匠を選ぶ自由がある。
その尊敬が崩れれば、師匠を離れる自由だってあるし、師匠もいつまでも弟子が自分の基にいるなんてハナから期待していない。
で、そういう関係を基盤として、例えば師匠の身の回りの世話なんかをするという代価を払うことでその技術を習得させてもらう。
だから、教える側と教えられる側ではあるけども、そこに権力の構造はない。
それが「師匠と弟子」だ。

対して教師と生徒の関係は、基本的に尊敬をベースにはしていない。
そりゃあ中には尊敬できるような素晴らしい教師もいるだろうけども、基本的に生徒は教師を選べないのだから、尊敬できない人にあたる場合だって多々ある。
また、教師と生徒の関係をつないでいるのは、その教師の技能でもない。
勿論、凄い技能を持つ教師も勿論いるのだろうけども、そういうのはごく稀な例だろう。
例えば本作では鬼教師フレッチャーは、主人公にドラムを教えるという構図ではあるが、その実一度も自分ではドラムを叩かない。

では、何が教師と生徒をつなぐのかといえば、それは教師がその生徒の将来を握っているという一点だろう。
フレッチャーに認められれば、音楽会で演奏できる。
音楽会で演奏できれば、それは将来の自分の仕事につながる。
だからこそ、生徒はフレッチャーに逆らえない。

日大のアレだってそうで。
あの監督がアメフトの技術をどれだけ持っているかは知らないけども、あの監督と生徒をつないでいるのは、その技術ではなくて、監督が試合に出す、出さないを決定できるというその一点だろう。
だからこそ、誰も監督には逆らえない。

技術の継承という、本来なら弟子と師匠的な関係のもとで行われていくはずのものが、レギュラーに入れるか入れないかの決定権を介した権力構造の元で行われるところに、歪みが生じる。
で、権力は人間を歪ませ、人間関係を歪ませる。

本作が不快なのは、その歪みが誇張されているとはいえ、ばっちりカメラに映っているからであり、そして、その歪みを一種のエンタメとして消費しようとしているからだ。
ドラムを叩く主人公をビンタし、そのリズムは速い過ぎるのか遅過ぎるのか、どちらだ??と怒鳴りつけながら問いかけるフレッチャーの姿は恐ろしい。
観客は、その恐ろしさを一種ホラー映画的に消費する。
怖い教師だなぁと、あんなの本当にいたら嫌だよねえと笑う。

でも、あの恐ろしさの本質は、その答えを教師しかしらないというところにある。
リズムが速すぎるのか、遅すぎるのか、あるいは最適なリズムとはどのスピードなのか。
その決定権は教師が握っている。
なんなら、その生徒が正解か、不正解か、だけではなく、「どれくらいビンタされたら正解にするのか」まで、全て、その密室をコントロールする権利を教師は持っている。
生徒は、密室で、客観的な最適解のない問いかけを浴びせかけられる。

で、この「どう答えたらこれ以上怒られずに済むのかわからないまま、ただひたすら叱責される」という経験は多かれ少なかれみんな持っているのではないだろうか。
教師と生徒という関係は勿論、上司と部下、上下関係のある取引先。
あらゆる権力構造の中に、この「決定権」を巡る歪みは生じる。
そう考えると、フレッチャーという存在は決してリアリティのないものではない。
勿論誇張はされている。
でもああいう場面は、僕らの生活の至るところでチロチロと赤い舌を出して、口を開けている。
だから、怖いのだ。

セッションはラストで、主人公が狂気にも似た演奏への執着と、権力への反発から、演奏によってフレッチャーと対等の目線まで上り詰める。
そこに一種のカタルシスがないわけではない。
ただ、昨今の権力の歪み・・・というか権力を持つ側の横暴を見ていると、正直、そういう一種の根性論で権力構造を乗り越えるというストーリーに薄っぺらさを感じてしまったのもまた事実だ。
それができるなら、こんなに生きにくい世の中になってないよ。

勿論映画なんだから、薄っぺらくても、カタルシスがあればいいというのも一理ある。
映画くらい夢を見させてくれよってのもわかる。
でも、もうそういう夢なんか見ていられないくらいの状況がいろんなところで噴出している。

映画をはじめとして、創作物というのは、消費される時代、状況によってその意味を変えていく。
その意味で、なんというかもう、僕らは無邪気にこの映画を楽しめないタームに突入してしまっているのではないかという気がしている。