万引き家族【映画小説化作品】

鑑賞後、奥さんにどうだった?と問われて出た答えは「もし自分が今学生だったら、この映画について卒論書く」だった。
つまりはそれくらいに語り甲斐のある映画で、それくらいに語る要素が多いということだ。 ものすごく好きな映画というわけではない。
むしろ、積極的に2回目を鑑賞しようとは思わない類の映画だ。
なぜならこれほどまでに感情がゆさぶれた映画体験は久しぶり・・・邦画(実写)だと初めてだったからで。
後述するけど、ある場面では感情が爆発・・・というよりも暴発して、泣けて泣けて仕方なくなってしまい、そのコントロールの効かなさに、自分がどうにかなってしまったのではないかと慄いた。
見終わった後は当然動けなくなり、しばらく放心。 で、もう大丈夫かなと思って、一端劇場を出たらまた涙が溢れるので、感情を抑えるために仕方なくトイレに篭った。
そんなみっともない映画体験。

その感情の暴発を、なんとか言語化しないと、自分の中の何かが腐ってしまうような、そんな恐怖感に苛まれている。

というわけで以下、感想。ネタバレ全開。 まずは総論。その後、登場人物一人一人について書いていくつもり。

この映画を批判する人の論って「ありもしない貧しさを海外に向けてアピールした」だの「万引きを肯定するのか」だのといった言いがかり、あるいは「あれは貧乏ではない。本当の貧しさとは・・・」みたいな清貧の思想(笑)だと理解している。
勿論、映画の見方は自由だし、どんな感想を持ってもいい。
でも思うに、こういった批判ってのは、この映画を「貧しさ故に万引きを続ける家族」の見世物として観察しているが故の誤解だ。
で、そういった誤解を重ねる人は、なんというか今の現実世界だって「誤解」しているのではないかと感じる。
なぜならば、それって、本作に描かれることが、自分には関係のない対岸の火事だという誤解でもあるからだ。
で、おそらくは、そういった誤解は今の社会を分断している。

ただ、逆にこの映画を「血は繋がっていないけど心は繋がっている家族の絆ムービー」として礼賛する声もあって。
これはこれでなかなかに誤解しているように思う。
勿論、そう捉える見方もあっていいとは思うけど、その見方をすると物語の意味がわからなくなるところは多いだろう。
そして、その「わからなさに蓋をする態度」もまた、この映画に関する分断を助長している。

なぜそんなことが起こるのか。
それは、本作で描かれてしまった現実が、結局のところ誰にとっても居心地の悪いものだったからだと考える。
今回はそれを徹底的に論じたい。

結論から書くと、この映画は貧乏描写が主軸ではい。
貧乏描写はあくまでもこの映画のディティールであり、世界観の一部だ。
本作は、監督自身がインタビューで語っているように「家族とは何か」という是枝監督がこれまで一貫してこだわってきた問題意識に対する一つの結論である。

さてさて、その結論とは何かということなんだけども。

自分がこの映画から強烈に感じたことは、家族を結びつけているものは「血」でも「絆」でもないということで、もっと踏み込んで言えばそもそも家族だからって人間は誰も結びついてなんかいないということだった。

結びついてはいないのだけども、ある種の共同体として一緒に生活を続けている「状態」・・・・それこそを家族と呼ぶのだろう。

劇中で二度、川を下る船が登場人物の前を横切る印象的なカットが挟まれるのだけども、あの舟が象徴的だ。
家族とは、同じ船に乗っているクルーだ。
ただ、それだけ。
そして、その船に穴があけば、家族は破綻する。

では、その船とはなんなのかという話になるのだけども。
自分は、それは「正義」とか「道徳」とかあるいは「モラル」といった類のものなのだと考える。
・・・価値観とは少し違う。
もっと根底の「それだけは人間としてやったらおしまいだよね。」というライン。
それを共有している時は、家族は共同体として機能するし、それが共有できなくなった時は、一緒に生活なんてできない。

そういう視点で捉えると、この映画で描かれた彼ら六人は、家族を描いているようでいて、実は一度も家族として成立していないことがわかる。
これは、擬似家族もののようであって、実は擬似家族にすらなれなかった人たちの映画なのだ。

これまでだって擬似家族ものは数多く作られてきた。
で、凡百の擬似家族ものでは「血縁なんて関係ない。一緒に暮らしていて、そこに絆があればそれは家族だ。」みたいな短絡的でわかりやすい結論に至る。
また、そういう作品って、大抵何か社会的な大きな力で、その家族が解体されることになり、それに対してみんなて徹底的に抗戦する、みたいな流れがスタンダード。
まあ、よくある話だ。
本作がそれらと一線を画するのは、そこで暮らす子どもが一度もこの生活を「家族」だと認定しないところにある。
主人公の一人である少年祥太は初めから最期まで一度も「お父さん」「お母さん」と呼ばない。
二人は・・・特に父親ははっきりと「お父ちゃんと呼べよ〜」と迫っているにも関わらず、祥太はお父さんとは呼ばないし、呼べない。
勿論、この六人の生活が家族生活のように見える瞬間は多々あるのだ。
でも、それを何度経験しても、祥太は、二人のことを「お父さん」「お母さん」と呼べない。

終盤、家族が解体された後、リリーフランキーが演じる父親役治と最後に過ごした夜の後、祥太が告白するのは「自分は警察にわざと捕まった」という告白である。
この告白において、家族の解体のきっかけは外部からの強い力ではなく、内部からの亀裂だったのだということがはっきりと示される。

あるいは、これも終盤のエピソード。 安藤サクラ演じる母親信代は修に「私たちではだめなんだよ」と、治を差し置いて祥太に自分たちが祥太をさらった場所や、本当の両親が乗っていた車の車種を教える。
これも、また自分の意思で、似非家族を解体する瞬間である。

そう考えると、この映画は一時的に家族ごっこを演じていた6人が、最終的には家族ではいられないことを自覚してしまう瞬間を切り取った映画だいうことは明白だ。

あるいは、自分達が家族ではないってことは自覚してはいなかったかもしれない。 でも、彼らはずっとわかってはいた。
わかっていながらも見ないふりをし続けていたのだ。

では、なぜ彼らは家族ではいられないとわかっていたのか。
あるいは、なぜ見ないふりを続けることができなかったのか。
その鍵は、劇中で何度も登場する絵本「スイミー」が示している。
続く!