当ブログ始まって以来初の続きもの(笑)
自分でもちょっと驚いてます。

というわけで、今回は実質の主人公、祥太に焦点を当てて語る。

是枝監督が、ドキュメンタリー畑出身であることが色濃く出てくるのが子役の使い方だというのはよく言われる話だ。
特に本作は、映画の中で、この主人公祥太がむくむく成長していく。
そして、その肉体的な成長と、劇中で描かれる内面の成長がぴったりと符号しているところが、本作に劇映画でありながら異様な生々しさを付与しているように感じる。

さて、その祥太なのだけども。
序盤は、本当に幼い顔つきで、まさに「子ども!!!」という感じのあどけない表情を浮かべている。
で、その表情のまま、リリーフランキーこと治の考え方や言動に何の違和感もなく、あとをついてまわる犬のようについてまわり、一緒に仲良く万引きを繰り返す。

ただ、そんな関係でありながらも、彼が治を「お父さん」と呼べないのは、彼らがこの段階から既に倫理観を共有できていないからだ。

わりと最初の場面で、祥太は「学校は一人で勉強のできない奴がいくところだ。」と自分に言い聞かせるようにつぶやく。
おそらくそれは、治の受け売りなのだろう。
でも、それをどこかで飲み込みきれていないことは、何どもそれをつぶやく表情から逆に浮かぶ上がる。

そんな彼が、学校の象徴、あるいは「一人で勉強すること」の象徴としてよく読んでいるのが先に挙げた「スイミー」だ。

スイミーは、小学校2年生の教材であり、レオレオニの有名すぎるにも程がある作品の一つである。
内容は至ってシンプルで、小さい魚たちが黒い魚スイミーを中心にまとまり、団結して大きな魚の振りをすることで身を守るという話。
まあ、言ってしまえば「弱いものでも、知恵と工夫を用いて力を合わせれば強い相手をやっつけられる!!」という小学校的な道徳的価値観を示唆する話だ。
翔太はこの弱いものが力を合わせて、強いものに対抗するというところに、自分の家族を重ねていたのかもしれない。
それはある意味で祥太の拠であり、その思考を歪めることで万引きという犯罪を自分の中で正当化していたわけだ。

ところが、祥太が「スイミーについて知っているか?」と治に問いかける場面で、治はあっさりと「知らない」と答えてしまう。
それどころか、両手をバクバクと大きく動かしながら大きな魚(つまりスイミーでの悪役)を演じ、たべちゃうぞ〜と翔太を追いかけて遊ぶ。
もちろん、このシーンは親子の楽しいじゃれあいのシーンとしても見ることができるだろう。
でもその一方で、この時点で既にこの二人が、ある種の価値観を共有できていないことが示されている。
また、治という父親役が、子どもの求める道徳的な価値観、モラルのようなものに対して答えられていないことも露呈する。
その後も翔太がスイミーを音読する場面が出てくるが、そこでも治をはじめとする祥太のまわりの大人は、スイミーで語られる物語について、何も応えることができない。

その一方で、祥太にモラルを教えるのは柄本明演じる駄菓子屋のオヤジだ。
彼は、祥太からいつも万引きをされている被害者なわけだが、後半、その彼が祥太の万引きを見逃していたことが明らかになる。
それどころか、彼に「妹にはさせるなよ。」という言葉をかける。
この言葉が、祥太を大きく揺さぶることになる。
つまり、これまで信じてきたものが根底から覆されるのだ。
そして、その言葉を最後に柄本は劇中からは退場する。

その駄菓子屋の親父からの言葉を受けてからの場面で、祥太は安藤さくらが演じる母親に「どうして万引きをするのか」と問いかける。
父親役であるはずの治は「店にあるものはまだ誰のものでもないから盗ってもいい」と答えたらしいが、祥太は既にその答えでは納得できないのだろう。
そんな祥太の必死の問いかけに、信代は「店がつぶれなければいいんじゃない?」と答えてお茶を濁す。
つまり、大人たちは自分に都合のいいロジックで祥太と「この家のモラル」を共有しようと迫るのだ。

祥太にとって、柄本明の店が潰れる後半の展開はショックだっただろう。
(忌中の張り紙がしてあったのだから、本当は潰れたわけではなく、柄本明が亡くなったのだろうが、祥太は漢字が読めないから、そのことが理解できず、潰れたと認識する。)
そして、そこから「妹にはさせるなよ」という「モラル」が祥太を苦しめることになる。

なぜなら、この妹に積極的に盗みを教えるのは父親であるはずの治なのだから。

治の言う倫理も、一定の筋はあった。
「りんにも、役割があったほうが居やすいだろ。」という理屈は、悪党のよく言うロジックだ。
どれだけ自分勝手な論理でも、納得できるうちは、それを飲み込んでいられる。
でも、それよりも圧倒的に正しい・・・というよりもこの場合は「優しい」論理を、駄菓子屋のオヤジから提示されたことで、祥太は治のロジックを素直に肯定できなくなる。
そして、このモラルというか、道徳というか、とにかくそういう類のものを共有できないことが、終盤の祥太の行動につながるのだろう。

終盤、祥太が止めたにも関わらず、りんは祥太の真似をしてスーパーで万引きを図る。
そして、それを逃がすために・・・あるいは止めるために?祥太は店内をひっくり返し、派手にみかんを盗って逃亡を図る。
ここで祥太を動かすのは、妹にはさせたくないという、治とは異なる道徳感だろう。
ただ、それと同時に迷いもあったはずだ。
なぜなら、捕まったら最期、これまでの生活が破綻することも祥太にはわかっていたはずだから。

だからこそ、あの飛び降りシーンの長回しは圧巻で。
あの画面に収められた異様な緊張感からは、遠目のカメラでありながら、追い詰められた祥太の鼓動まで聞こえるような気がした。
それはおそらく祥太の感じる恐怖であり、迷いの音だ。
これまでの生活が終わるかもしれないという恐怖、そして覚悟。
それと同時に、心のどこかにあった、このままこの生活を続けてもいいのかという迷い。

保護された後、治達が自分を見捨てて逃げようとしていたことを知る。
この時のショックは計り知れない。
なぜなら自分は、妹を庇うために大芝居を打ったのだから。
あるいは、妹を庇うためにこれまでの生活を捨てる覚悟をしたのだから。
祥太にしてみたら、自分の行動と真逆の行動を治たちは選んだことになる。

そして、それは祥太にとって、この疑似家族が幻想に過ぎなかったということをちゃんと理解するに余りある出来事だった。

ただ、繰り返しになるけども、このことは最初からわかってはいたことなのだ。
あの時、例え妹を逃すことに成功していたとしても、遅かれ早かれこの破綻は必ず訪れた。
そのことが観客だってわかるから、終盤の池脇千鶴たちの「正しい」言い草が、それでも単なる大きな力の象徴には聞こえない。
そこに、それなりの理を認める。認めさせられる。
だからこそ安藤さくらこと信代は、彼女たちの言葉に涙を流すのだ。

ってことで第3章は信代で。
まだまだ続くよー。