万引き家族 映画 パンフレット

しつこく書く。

さてさて。
何はともあれリリーフランキーだ。
とにかく、イラストレーターだったはずの人が、今や日本を代表すると言っても過言ではない役者になっているって事実を、自分は今だ受け入れることができない。
いや、別にリリーフランキーが嫌いだとか、リリーフランキーが役者ではないとか、そういう話ではなくて、ただただ純粋に、この人の出自を考えるとクラクラしてくるという話。

だからこそ、この人はどの映画にいても違和感がある。
いつ見ても、なんだか浮いて見えるのだ。

にも関わらず、同時に、どんな映画にもこの人はすーっと馴染んでしまっているという面もあって。
違和感はあるのに、画面には馴染んでいる。
そういう不可思議な存在感。
妖怪で言うならぬらりひょん。
これこそが、リリーフランキーという「役者」の魅力なのだろう。

さてさて。
この、浮いているのに馴染んでいるっていう不思議な空気感は、本作で特に顕著だ。
この治という「父親」は、とにかく情けない。
ただ、その情けなさの一因は、なんといっても「主体性のなさ」だ。

自らの意思を持ってこの生活を選んだ信代と違って、この男がこの生活に流れ着いたことには主体的な選択はない。
おそらくは信代と一緒に行動しているうちにこうなったのだろう。
この、なんとなくこうなってた感じと、リリーフランキーのぬらりひょん感は異様に相性がいい。

治の主体性の希薄さは、信代の前の旦那を埋めたことや、今回祖母を埋めるに至った経緯に、この男の意思はなく、決定権は全て信代が握っていることからも示される。
ただ、それは決して治が信代に支配されているとか、そういうことではないだろう。
そうではなくて、この男はいつも誰かに決定してもらいたいのだ。
子どもをさらったことも、死体を遺棄することも、最終的には信代からのGoサインがないと決定できない。

ただ、この男には情はある。それも人一倍。
だからこそ、虐待を受け、ベランダで泣くりんを見捨てることはできなかったのだし、車の中で放っておかれた祥太を助けたのだ。(祥太の件は、ウソかもしれないけども)
さらに言えば、そもそも情が深いからこそ、ずっと信代と一緒にいるのだろう。

この、『自分の行為に責任は取れないけれども、情には厚い』あるいは、『情には厚いが一人では何も決められない。』というキャラクターは、一言で言うならば「幼稚」だ。

優しいけれど、責任感はない。
これほど始末に負えない大人はいない。
てか、一緒に働きたくない。

でも、この家族が維持されるためには、この男の幼稚性は不可欠だったように思う。
いい加減さ、だらしなさ。
これらは勿論、悪徳である。
ただ、ある種の人々にとって、あるいはある場合においては、そういったいい加減さは、免罪符になり得る。
「仕方がない」「しょうがない」「〇〇が悪い」「自分たちは被害者だ」「自分たちは悪くない」
勿論、論理的には一切免罪符にはなっていない。
でも、論理的に破綻していようがいまいが、それは免罪符としては機能する。
というか、そもそも、免罪符という存在が、論理を必要としない。
そういう意味で、治が中心にいたことがこの家族は成立させていたといっても過言ではないだろう。

我々観客だって、この家族の在り方がおかしいことは重々承知した上で、それでもこの男がいることで、この家族を許してしまう・・・というか愛してしまう場面は多々あった。
そのあたりは、リリーフランキーという怪人の面目躍如だよなぁと思う。

個人的には、治が外でサッカーに興じる親子の声を聞いて、自分もやおらビニール袋でリフティングの練習を始めるシーンの、あまりにも短絡的な姿は愛おしかった。
で、そのリフティングのあまりのできてなさに笑いつつ、泣けてしまった。
この、何もできない男は、それでも息子に認められたかったし、息子とずっと暮らしたかったのだ。

ただ、この息子に対する短絡的な承認欲求が息子に万引きを教えるというわりと最低な行為にも繋がっているわけで。
そう考えると、リフティングのシーンだって、決して微笑ましいだけのシーンではないだろう。
この辺りの善悪の塩梅こそが、この映画の真骨頂だと思う。

物語の終盤、治は祥太に「これからはお父ちゃんじゃなくて、おじさんにもどるわ」と伝える。それも、ひどく悲痛な顔で。
でも、本作で祥太は一度も治をお父ちゃんとは呼んでいないわけで。
それに対してツッコミを入れられない祥太の姿も含めて、このシーンの間抜けさは、とんでもない。
間抜け過ぎて笑えない。
幼稚な男の末路として、むしろ悲惨ですらある。
ただ、もしかしたら治はお父ちゃんと呼ばれていると思い込んでいたのかもしれない。
そう妄想することだけが、生き甲斐だったのかもしれない。
そうやって妄想と現実を混同することは、幼稚な男の特権でもあるから。

というわけで。
かなりとっちらかった内容になっちゃったけど、とりあえず書いておきたいことは、この映画を語る上では、「幼稚」であるということが、かなり大きなキーワードになるということだ。
そして、この映画を語ることは同時に今の日本を語ることでもあると僕は信じる。
つまりは・・・
まあ、あとは言わずもがなですね。