万引き家族 映画 パンフレット

そろそろ終わるはず。
次は亜紀。
さて、実はこのキャラクターが自分にとっては一番語りにくい。
まあ、松岡茉優という女優の凄さとか、可愛らしさとか。
あと、JKリフレ店での演技の破壊力とか。
そういう部分での語り口は大量にあるのだけども、このキャラクターが「家族」内でどういう意味合いを持つのかについては、咀嚼しきれていない。
それは、誰もが思う通り、このキャラクターだけが家族の中にあっても常に半歩程外にいるからなんだろう。

その証拠に、亜紀は自分で稼いでいるにも関わらず、お金をこの家には入れないし、画面上でも常にどこか打ち解けきっていないそぶりを見せる。

池松壮亮とのエピソードも、エピソードそれ自体の高さは凄いものの、映画の中では明らかに異質なエピソードだ。
あのエピソードがなくとも、この映画自体は成立する。
その意味では、物語全体のバランスで考えると、このキャラクターは必ずしも、必要な人物というわけではないように思う。
どちらかというと、作劇的には祖母がかけたある”呪い”を描くためのキャラクターであるとすら言えるだろう。

ただ、この半歩外にいるキャラクターがこの「家族」の中にいることによって、画面には、常にある緊張感が漂う構造になっている。
そして、その結果、観客はたとえ「家族」たちが朗らかに笑い合うようなシーンであっても常にある種の歪みを意識させられる。
それを感じさせられることこそが、この亜紀というキャラクターの役割ではないだろうか。

例えば亜紀と治が二人っきりになった時の微妙な感じとか。
あるいは、亜紀が祖母にベタベタに甘える時の、回りの少しひいた感じとか。
あるいはあるいは、先に述べたお金の一見での何気ない会話「あんたも入れなさいよ」とか。
そういう細かいことの積み重ねが、この本人たち曰く「強い絆で結ばれた」家族に、不穏な雰囲気を少しだけ醸し出す。

また、この亜紀だけは、おそらく万引きをしていないというところも指摘しておくべきだろう。
祥太にシャンプーを盗んでくるよう言いつけながらも、自分は手を汚さない。
あるいは、手を汚す場面が映画内には存在しない。
このことは、わりと端的にこのキャラクターの立ち位置を物語っているように思う。

つまり、この亜紀という少女は、自分が序章で書いた家族を成立させているもの・・・「モラル」とか「道徳」みたいなものを初めから共有していない・・・あるいは、共有しきれていないということなのだろう。

この「家族」が崩壊したのは、無論直接的には祥太の成長とか、祖母の死体遺棄だとか、あるいはりんが行方不明者としてマスコミに嗅ぎつけられたことなどなど、無数の原因があったわけだ。

でも、この「家族」の崩壊は、「もし〇〇だったら・・・」では、避けられらなかった類のものだし、おそらく監督もそう描くつもりはなかっただろう。

もし、祥太が駄菓子屋のオヤジの心に気付かなかったにしても、いずれ彼はこの家族から離れただろうし。
もし、祖母があの時死ななくても、いずれは、そうなっていただろうし。
あるいは、もしもりんを拾っていなかったとしても、どこかで彼らの生活は破綻していただろう。
なぜなら、この「家族」は一緒に住んではいても、同じ共同体として生活するには決定的なものがかけていたから。

今回の破綻には、直接的にはいくつもの原因があったにせよ、それがなくても、この結末は避けられなかった。

そして、この映画は、観客にそれを感じさせる必要があったのだと思う。
なぜなら、ここで描いているのは、起承転結という意味での物語ではなくて、今、僕らの世界にある「歪み」だから。
本作は、ここで描かれている事態を「物語」として単純化し、昇華させることを許さない。

そう考えると、で、その歪みを最も体現しているのが、この亜紀というキャラクターなのだということがわかる。

先に自分は、亜紀という人物は昨劇場はあまり必ずしも必要ではないと書いた。
それは、逆に言えば、このキャラクターがいることで、物語としての完成度は下がるということでもある。
でも、物語としての完成度を上げれば上げるほど、そこから失われるリアリティというのもあって。
少なくとも本作に関しては、そのリアリティを失うことは、映画としての命を失うことに等しかったのではないか。

ただ、これはあくまでも「物語」として考えた時、つまりメタな視点で考えた時の彼女の立ち位置の話。
はじめに書いたように、家族の中で、どういう存在だったのかに関してはもう少し論考が必要な気はする。