【チラシ付き、映画パンフレット】 万引き家族  MANBIKIKAZOKU

そろそろまとめる。
さてさて。
前章でこの映画は起承転結的な「物語」よりも、「歪み」を描くことを優先していると書いた。
しかし、映画である以上、勿論「物語」でもあるわけで。
このりんというキャラクターは、起承転結的な物語として見た場合の、この映画の推進力を担うキャラクターであると言えるだろう。

というのも、この映画は、祥太と治がこの娘を見つけるところから始まる。
そして、この娘が家族に馴染んでいく様子が描かれ、この娘の万引きを止めようとする祥太の行動をきっかけに、この家族が崩壊するところで、終章を迎える。

このようにまとめると、このりんという存在がいなければ、この「家族」はずっとそのままでいられたような気がしてくるかもしれない。

しかし、先にも書いたようにこの「家族」は初めから歪んでいたわけで。
この娘がいてもいなくても、どこかでこの「家族」は破綻していたであろうことは、映画のあちこちで示されている。
で、その歪みを体現しているのが亜紀だということは先述した通り。
その亜紀が体現しているものを言語化するなら、「モラル」だとか「価値観」の共有ができていないということだということを、この長い長い論考の初めに書いた。

その意味で言うと、このりんというキャラクターは、幼いが故にこの歪みには最も無自覚だったキャラクターである。
あるいは、このりんに限って言えば、「モラル」「価値観」といった類のものは、彼女が万引きを自らの意思でしようとした段階で、共有できたとも言える。

ある種の洗脳みたいなものではあったとは言え、りんの眼から見れば、この家族の暮らし方、生き方は正しく映ったのだろう。

はじめはただついていくだけだったりんが、治に教えられて徐々に万引きの仕方を学んでいく姿は、観客である我々から見れば痛々しい。
善悪の判断のできない子どもに、盗みを仕込む姿はおぞましさすら感じる。
でも、それはおそらくりんにとってみれば、例えば風呂場で信代と傷口を見せ合うシーンだとか、亜紀に髪を切ってもらうシーンと同じ、「家族としてのつながり」を深めるという意味を持つシーンでもあるわけで。
少なくとも、万引きを仕込まれる姿の方が、はじめの虐待をする母親のもとにいるよりもいきいきとして見えるし、幸せに見えてしまう。

この辺りの、善と悪の揺らぎというか、単純化を避ける監督の手腕は見事としか言いようがない。

で、りんによりそって見れば見るほど、この映画の結末は一見バッドエンドのように見えてくる。
なぜなら、彼女は最終的にはもとの「家族」のもとに引き戻されたわけだし、そこでは、また虐待が繰り返されるであろうことも示唆されているわけだから。

ラスト、りんがもとのマンションのベランダから外を眺める目は非常に印象的だ。
その目を見て、この先の暗い未来を想像する人もいるようだ。

でも自分はこのエンディングをバッドエンドだとは思わなかった。
なぜなら、りんは信代たちとの出会いを通して、少なくとももとの「家族」とは明らかに異なる世界にふれ、異なる価値観を手に入れたのだから。
そして、母親の「服を買ってあげるから、おいで」という恐ろしい呼びかけをはっきりと拒否することができたのだから。

勿論、あそこで拒否したからといって、りんに対する虐待が止まるわけではないだろう。
でも少なくとも、りんはもう、母親の言いなりになることはない。
そしておそらくはもう、母親とモラルを共有することはない。

先に「モラル」や「価値観」みたいなものが共有できていないと家族は共同体として機能できないと書いた。
ならば、りんは、自分の血のつながった「家族」とは異なる価値観を手に入れたことで本当の「家族」を拒否できるようになったということも言える。
あるいは、もうすでにりんは、もとの家の大人たちとはたもとを分かっているのかもしれない。

最初のシーンでベランダにいたりんは、ベランダにいながらも外すら見ることができず、うつむいている。
でも、ラストシーンでは、自らの意思で外の世界を眺めている。
この違いの示唆するものは大きい。

そして、このラストシーンがあることで、この映画はある種の希望のようなものを最後にかすかに残すことができているのだと思う。
もし、あのベランダのショットがなかったら、この映画って見ていられない程につらい映画になっただろう。
そんなことを思う。