ミステリを読む時に、犯人探しをしながら読む人ってどれくらいいるのだろうか?
そして、そういう人の正解率ってどれくらいなのだろうか?
あるいは、そういった人たちにとって、どれくらいの正解率のミステリが、良作と呼ばれるのだろうか?
ある前衛彫刻家の遺作をめぐる長編ミステリー。
事件のきっかけは、そのさいごの作品となった、娘をモデルにした石膏像。
そこから、何物かが首だけを切り取ったことから、物語が動き出す・・・
うーん。

首のない石膏像とは、なんとミステリ的なガジェットだろう・・・と期待しまくりで読んだ本作。

ラストまで読み終えた時、僕の中に残ったのは、謎が解けた快感よりも、本格ミステリというジャンルの緩やかな終演を感じさせられた寂寥だった。

そもそもミステリとは、その論理性にもかかわらず、ものすごく大きなファンタジーを背負わされたジャンルである。
そのファンタジーとは、謎とか、事件とかではなく、もっと単純なこと。

つまり、この世の謎には、全てロジックでできた屋台骨がある、という妄想。
あるいは、作中に示される手がかりが、すべて事件の解決に絡んでくる、という奇跡だ。

ここでは、事件に関係のない手がかりは提示されないし、鑑識はミスをしない。
目撃者は勘違いをしないし、思い違いもしない。
読者に提示されるのは、純粋に、謎解きに必要な手がかりだけである。
実際の事件においては、むしろ関係のない手がかりの方が、警察の頭を悩ませるのではないだろうか。よくわからないけど。

まあ、なんにしても、とかく不条理な事件、なんの理屈も通用しない不幸で溢れている現実世界に暮らす人間にとって、すべての謎は、ロジックで解き明かせる、というファンタジーは、一服の清涼飲料水のような意味を持つ。
その意味で、本格ミステリとは、まさに現代において渇望されるジャンルであるといえるかもしれない。

ただ、本作においては、そういった意味でのミステリ的ファンタジーがあまりにも無邪気に肯定されているため、かえって読んでいてものめりこめなかった。
逆に言うと、そういった、「ミステリ」的な論理的なものを追求するあまり、それ以外の、読者が「小説」に欲する要素を足蹴にしているような印象をうけた。
小説って、ロジックだけじゃ成り立たないからねえ。
(むしろ、ロジックからはみ出した部分にこそ、みたいな面もあるし・・・)

そういう意味で、小説から、ミステリを切り離しにかかっているような印象を受けた。
で、それは、僕の思っていた本格のイメージとは少しズレを感じさせるものだったのだ。

個人的に、例えば綾辻行人や、京極夏彦、山口雅也といった作家達は本格ミステリという看板をかかげることで、小説というジャンルを広げていってる印象を持っている。
「小説」というジャンルで出来ることを大きくしていっていると思うのだ。

そういう流れと、この法月綸太郎という人は、本質的には全然違うのではないか。
ミステリと、それまでの小説とはまったくの別物なのだという認識を読者に強制してくる。
がちがちの論理の固まり。例えるなら、数式のような無駄のなさ・・・。

ただ、それって結構、八方ふさがりの孤島のようなジャンルを作る行為な気がするんだけどなぁ・・・・
だって、それって突き詰めると、小学校によくある「ミステリクイズ」とか、ああいった類のものに集束される気がするし・・・

そうなってくると、それをわざわざ長編小説として読む意味はどこにあるんだろう??


というわけで、純粋に「犯人当て」を楽しめる人にはおもしろいミステリだと思う。
どれくらいの人が、正解できるのかはわからないけど、とりあえず、どの伏線も、無駄なく回収されているから、納得はできるんじゃないかなぁ・・・